学位論文要旨



No 123625
著者(漢字) 遠藤,能史
著者(英字)
著者(カナ) エンドウ,ヨシフミ
標題(和) 犬の悪性黒色腫における紡錘体形成チェックポイント機能に関する研究
標題(洋) Study on the spindle checkpoint in canine malignant melanoma
報告番号 123625
報告番号 甲23625
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3329号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 教授 辻本,元
 東京大学 教授 中山,裕之
 東京大学 教授 西村,亮平
 東京大学 准教授 望月,学
内容要旨 要旨を表示する

異常な染色体数(異数性)や特定の染色体の欠失、染色体の増幅などの染色体不安定性はヒトの多くの腫瘍で認められる。これらの染色体の変化により、癌抑制遺伝子のヘテロ接合性の消失や、癌遺伝子の増幅が生じる。染色体不安定性は正常細胞が癌化し、転移・浸潤能を獲得して悪性化していく過程に深く関与していると考えられている。

染色体不安定性の中でも特に染色体異数性はほとんど全ての腫瘍において認められる。異数性は分裂期における染色体の不均衡な分配によって生じる。紡錘体形成チェックポイントは分裂期において、全染色体の正確な紡錘糸との結合などの染色体の均等な分配の準備が整うまで細胞周期を分裂期に停止させる機構である。紡錘体形成チェックポイントの異常は異数性を誘導し、発癌に寄与することが示され、またいくつかの腫瘍において、このチェックポイントの異常が認められている。

犬の悪性黒色腫は非常に悪性度の高く、特に口腔内に発生した症例では高い局所浸潤能と転移能を示す。手術を含む積極的な治療にも関わらず、ほとんどの症例が1年以内に死亡する。我々の研究室ではすでに4種の悪性黒色腫細胞株を樹立しているが、その全てが異数性であり、そのうち2株は正常染色体数から非常にかけ離れた細胞株であった。ヒトの腫瘍において悪性度の高い腫瘍や末期の腫瘍は染色体不安定性や異数性の程度が増加することが示されている。このことから犬の悪性黒色腫の発生、浸潤・転移においても染色体不安定性が強く関与すると考えられる。

そこで本研究では異数性の原因の一つである紡錘体形成チェックポイント機構に着目し、その異常をもたらす分子機構についてこれらの犬の悪性黒色腫細胞株を用い、一連の研究を行った。

第1章 犬悪性黒色腫細胞株における紡錘体形成チェックポイントの評価

本章では、異数性を示す4つの犬悪性黒色腫細胞株における紡錘体形成チェックポイント機能について評価した。微小管阻害剤は微小管の重合、脱重合を阻害し、紡錘体形成チェックポイントを活性化させ、細胞周期をM期に停止させる。紡錘体形成チェックポイントの損傷した細胞は、微小管阻害剤処理下において細胞周期が分裂期で停止せず、G1/S期へと進行することや染色体早期分離が認められる。そこで悪性黒色腫4株の微小管阻害剤による細胞周期の分裂期停止能について、非同調、同調培養下で評価した。

非同調培養下において、3株(CMeC1、KMeC、LMeC)は、微小管阻害剤処理後、時間の経過とともに、分裂指数(生存している細胞中の分裂期細胞の割合)の上昇が認められた。この反応は正常な紡錘体形成チェックポイントを有するHela細胞と類似していた。一方、1株(CMeC2)では他の3株と比較して分裂指数の上昇が低下していた。CMeC2株における分裂期停止細胞の減少は、単に細胞増殖の差によって生じた可能性があったため、4株をチミジンにてG1/S1期に同調し、通常培地下において全ての同調細胞が分裂期を通過する時間(one cycle time)の間、微小管阻害剤処理し、分裂期細胞の蓄積を比較した。

その結果、DNA量による細胞周期の分析では全ての細胞株がG2/M期の細胞集団であることを示した。One cycle time内に全ての同調細胞が分裂期を通過することから、全ての細胞株が分裂期に停止していると考えられた。しかし、形態学的分析ではCMeC2株の分裂期細胞(round-up)は他の細胞株と比較して減少を示し、蛋白レベルの解析においても、CMeC2株における分裂期マーカーの発現は他の細胞株と比較して低下していた。従って、CMeC2株は他の細胞株と比較して微小管阻害剤処理による分裂期細胞の蓄積が低下していることが示された。さらに、CMeC2株は、他の細胞株と比較して染色体早期分離を示す細胞が多く認められたことから、CMeC2株は他の細胞株と比較し、微小管阻害剤処理にも関わらず多くの細胞が分裂期を通過していることが示された。これらの結果から、CMeC2株は他の細胞株と比較して紡錘体形成チェックポイント機能が低下していることが示唆された。

第2章紡錘体形成チェックポイント異常の分子機構の検索

紡錘体形成チェックポイントは動原体が感知する紡錘糸の接触や張力といった物理的シグナルを変換・増幅し、姉妹染色分体の解離の時期を制御する負のフィードバック調節系である。紡錘体形成チェックポイントのシグナル伝達には様々な分子が関与することが示されている。本章では第1章で認められたCMeC2細胞株の紡錘体形成チェックポイント異常の分子機構をタンパクレベルで検討した。

はじめに、非同調培養下の細胞から蛋白を抽出し、様々な紡錘体形成チェックポイント関連蛋白の発現をウエスタンブロット法にて分析し、細胞株間で比較した。CENP-EはCMeC2株で発現低下が認められ、MPS1、AuroraBはCMeC2株で発現の上昇が認められた。これら3つの蛋白は細胞周期依存的に発現量、リン酸化が変化し、分裂期にどちらもピークに達することが知られている。

そこで変化の認められた蛋白の分裂期における発現量、リン酸化を検討するために微小管阻害剤処理後、mitotic shake-off法にて分裂期の細胞を回収し、ウエスタンブロット法にて検討した。その結果、CMeC2株におけるMPS1のリン酸化が他の細胞株と比較して低下していることが認められた。G1/S期に同調した細胞をone cycle time微小管阻害剤処理した細胞においても同様の結果が得られた。

次に、MPS1は分裂期の初期に動原体に局在し、紡錘体形成チェックポイントをコントロールすることが知られているため、4株におけるMPS1の動原体の局在を調べた。その結果、全ての細胞において動原体の局在が認められた。この結果はMPS1のリン酸化は動原体局在に影響しないという過去の報告と一致した。一方で、MPS1のリン酸化は紡錘体形成チェックポイント関連蛋白の一つであるBubR1の動原体局在に関与する報告もあるため、BubR1の局在に関しても調べた。しかしながら、全ての細胞株において分裂期の初期にBubR1の動原体が認められ、過去の報告と一致しなかった。以上の結果から、CMeC2株で認められた紡錘体形成チェックポイントの異常は、MPS1の活性化機構が関与していることが示唆された。

第3章犬のMPS1遺伝子の犬悪性黒色腫細胞株における変異

MPS1キナーゼはセリン、スレオニン、チロシンキナーゼであり、紡錘体形成チェックポイントにおいて重要な役割を果たす。分裂期にMPS1キナーゼ活性は上昇し、他の紡錘体形成チェックポイント関連因子の動原体局在やリン酸化に寄与し、チェックポイントを活性化させる。MPS1キナーゼのリン酸化に関してはin vitroにおいて自己リン酸化を引き起こすことが示されている。本章では、第2章で認められた紡錘体形成チェックポイントの異常を有するCMeC2株のMPS1キナーゼの低リン酸化の分子機構を分析するため、MPS1遺伝子の変異について検討した。

犬のMPS1遺伝子の塩基配列をもとに、ヒトで報告されているリン酸化部位、キナーゼドメインを全て含むように5組のプライマーペアを設定し、ダイレクトシークエンス法を用いてその変異の解析を行った。

その結果、CMeC2株において2ヶ所の点突然変異が認められた。しかしながらKMeC株においても2ヶ所の点突然変異が認められた。またCMeC2株で認められた変異はMPS1キナーゼの動原体局在に重要な領域であり、リン酸化部位やキナーゼドメインにおいて変異は認められなかった。従って、CMeC2株で認められたMPS1キナーゼの不活性化においてMPS1遺伝子の変異は関連性のないことが示唆された。

犬の悪性黒色腫において、腫瘍の発生や浸潤・転移の分子機構に関して様々な研究が行われているが、未だ不明な点が多い。本研究において認められたMPS1キナーゼの不活性化による紡錘体形成チェックポイントの異常は、犬の悪性黒色腫の進行過程における染色体不安定性の関与を示唆する新しい知見であると考えられる。紡錘体形成チェックポイントは獣医領域においてもよく利用される微小管阻害剤の感受性とも関連性があり、今後臨床サンプルにおける紡錘体形成チェックポイントの評価系を確立することが重要であると考えられる。しかし、臨床サンプルにおいて紡錘体形成チェックポイントを評価することは非常に困難であるため、MPS1キナーゼの不活性化はこのチェックポイント異常の一つの指標となると考えられる。

MPS1キナーゼの活性化機構に関する哺乳動物細胞の報告はほとんどない。アフリカツメガエルの卵抽出液を用いた報告においては、MPS1キナーゼの活性化は自己リン酸化よりも、MAPキナーゼなどの他のキナーゼによるリン酸化が重要であると述べられている。従って、今後MPS1キナーゼの活性化に関与するMAPキナーゼを含めた様々なキナーゼ蛋白を検索していくことは、まだ完全に解明されていない紡錘体形成チェックポイント機構の解明につながると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

染色体不安定性はヒトの多くの腫瘍で認められ、その悪性化に深く関与していると考えられている。染色体不安定性の中でも、分裂期における染色体の不均衡な分配によって生じる異数性は非常に多くの腫瘍において認められる。紡錘体形成チェックポイントは分裂期において、全染色体の均等な分配を監視するシグナル伝達機構であり、その異常は異数性を誘導する。最近、いくつかの腫瘍において、このチェックポイントの異常が報告されており、それと悪性度との関連が注目されている。

犬の悪性黒色腫は非常に悪性度が高く、積極的な治療にも関わらず、ほとんどの症例が1年以内に死亡する。我々の研究室ではすでに4種の犬の悪性黒色腫細胞株を樹立しているが、その全てが異数性を示す。ヒトの腫瘍において悪性度の高い腫瘍や末期の腫瘍は染色体不安定性や異数性の程度が増加することが示されており、犬の悪性黒色腫の悪性度に関しても染色体不安定性が強く関与すると考えられる。

そこで本研究では異数性の原因の一つである紡錘体形成チェックポイント機構に着目し、その異常をもたらす分子機構について、これらの犬の悪性黒色腫細胞株を用い、以下に示す一連の研究が行われた。

まず、これらの4つの犬悪性黒色腫細胞株における紡錘体形成チェックポイント機能について評価した。細胞分裂を同期化していない、非同調培養下における悪性黒色腫4株において、細胞分裂を止める作用のある微小管阻害剤による細胞周期の分裂期停止能は、3株(CMeC1、KMeC、LMeC)において正常な紡錘体形成チェックポイントを有するHela細胞と類似していた。一方、1株(CMeC2)では他の3株と比較して分裂指数が低下しており、紡錘体形成チェックポイント異常が疑われた。CMeC2株における分裂期停止細胞の減少は、単に細胞増殖率の差によって生じた可能性があったため、G1/S1期に同調した細胞を用いて、全ての同調細胞が分裂期を通過する時間(one cycle time)の間、微小管阻害剤処理し、分裂期細胞の蓄積を比較した。その結果、DNA量からは明確な差異がみられなかったものの、形態学的にはCMeC2株の分裂期細胞(round-up)は他の細胞株と比較して減少し、分裂期マーカーの解析においても、他の細胞株と比較して低下していた。さらに、CMeC2株は、染色体早期分離を示す細胞が多く認められたことから、CMeC2株は紡錘体形成チェックポイント機能が低下していることが示唆された。

紡錘体形成チェックポイントのシグナル伝達には様々な分子が関与することが示されている。そこで第3章では、CMeC2細胞株の紡錘体形成チェックポイント異常の分子機構をタンパクレベルで検討した。紡錘体形成チェックポイント関連因子の発現や活性化は細胞周期に依存して変化し、特に分裂期において最大となる。そこでこれらの因子の発現量、リン酸化を非同調培養細胞、分裂期細胞、同調細胞の3つの培養条件にて評価した。

その結果、CMeC2株において、紡錘体形成チェックポイント機能と関連する因子であるMps1とBubR1のリン酸化が、他の細胞株と比較して低下していることが認められた。Mps1の活性はリン酸化によって調節され、BubR1のリン酸化は活性型Mps1により調節されると考えられている。従って、CMeC2株で認められた紡錘体形成チェックポイントの異常は、Mps1の活性化機構が関与していることが示唆された。

自己リン酸化はMps1の活性化調節に重要であると考えられる。そこで第4章では、CMeC2株のMPS1キナーゼの活性異常の分子機構を分析するため、MPS1遺伝子の変異について検討した。しかしながら、リン酸化部位や自己リン酸化に重要なキナーゼドメインにおいて変異は認められなかった。従って、CMeC2株で認められたMPS1キナーゼの不活性化においてMps1遺伝子の変異は関連性のないことが示唆された。

以上、従来報告のなかった犬の腫瘍におけるMps1の活性異常を伴う紡錘体形成チェックポイントの異常は、獣医学領域における初めて報告であり、頻度は必ずしも高いとは言えないが、犬の悪性黒色腫の異数性の原因の1つであると考えられた。今後、染色体不安定性と悪性黒色腫の進行の関連性を解明するために、他の細胞株における異数性の原因やMps1活性化異常の原因を追究する必要性があると考えられた。

以上要するに、本研究は、従来十分な検討がなされていなかった、小動物の悪性腫瘍と染色体異数性との関連を、紡錘体形成チェックポイントの機能から解析したものであり、この分野の研究に貢献するところは少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(獣医学)の論文として価値あるものと認めた。

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