学位論文要旨



No 123627
著者(漢字) 川口,友浩
著者(英字)
著者(カナ) カワグチ,トモヒロ
標題(和) 低酸素環境適応における神経性調節の役割に関する研究
標題(洋)
報告番号 123627
報告番号 甲23627
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3331号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 尾崎,博
 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 准教授 桑原,正貴
 東京大学 准教授 堀,正敏
内容要旨 要旨を表示する

酸素はいうまでもなく好気的呼吸を行う生体においては生命維持のために必要不可欠な環境因子である。酸素の不足は死につながるため、生体は低酸素になると神経系・呼吸循環系・代謝系などの全身機能に変化を起こすことで生命維持を試みる。とくに自律神経系調節の変化は低酸素曝露下における生体反応として重要なものであり、低酸素適応の中心的役割を担うものと考えられている。

従来より、低酸素に対する自律神経系調節は主に化学受容器を介した交感神経活動の亢進によるとされ、短時間の急性低酸素曝露や1週間以上の長期低酸素曝露における呼吸循環器機能調節において重要な役割を担っていると言われている。しかしながら急性期から慢性期への移行期も含めて、循環機能調節における自律神経系機能の役割については不明な部分が多く残されている。そこで、本研究では、無麻酔無拘束のラットに対して長時間の低酸素曝露を行い、曝露期間中の自律神経系機能の時間的推移を明らかにすることで低酸素環境に対する自律神経系を中心にした適応機序の解明を試みた。

第2章 長時間の低酸素曝露における心拍数、血圧ならびに自律神経系の変化

10%の常圧低酸素曝露による循環系と自律神経系機能の経時的変化を明らかにするために、血圧記録用テレメーター送信機を体内に埋め込んだラットを用いて3週間の低酸素連続曝露を行った。低酸素曝露の開始後約2時間目より約24時間目までの間、心拍数と血圧の急激で顕著な低下が認められた。これらの反応には心拍変動HF成分の増加を伴っていたことから、副交感神経系活動の亢進が重要な役割を果たしていることが示唆された。曝露2~4日目にかけては心拍数および血圧はほぼ曝露前の状態に戻った。この回復には血圧変動LF成分(BP-LF)および心拍変動LF成分とHF成分の比(LF/HF)の増加を伴っていたことから、交感神経系活動の亢進が関与していることが示唆された。また、曝露7~21日といった慢性期の状態では、暗期の副交感神経機能の亢進により暗期における心拍数が減少することで心拍数の日内変動の振幅が小さくなることが明らかになった。なお、右心肥大や赤血球数の増加などの慢性低酸素曝露による変化が4日間の低酸素曝露よりみられた。

第3章 低酸素環境適応における自律神経系調節の役割

第2章において曝露1日目には副交感神経系活動の亢進が、曝露2~4日目にかけては交感神経活動の亢進が観察されたことから、第3章においては生体の低酸素に対する急性反応から適応反応がみられる曝露7日間における自律神経調節の役割について詳細な検討を加えた。本研究では、低酸素適応機構における迷走神経および交感神経の影響をβ-アドレナリン受容体(β-AR)および ムスカリン受容体(MR)影響に対する作動薬および遮断薬の影響を意識下および麻酔下において検討を加えた。プロプラノロール投与によって低酸素曝露開始後15分の急性の心拍数増加と曝露後30時間以降の心拍数の回復及び維持が抑制されたことから、この時期における心拍調節は交感神経活動の亢進によって起きていることが示唆された。また、麻酔下において心拍数の低下はアトロピン投与および迷走神経切断によって抑制されたことから、この心拍数の低下にはMRを介した副交感神経活動の亢進が関与していることが示唆された。体温および活動量にプロプラノロールおよびアトロピン投与の影響がみられなかったことから体温調節および行動の変化におけるβ-ARや MRの関与は小さいことが示唆された。意識下の実験において、アトロピン投与によって曝露42時間以降の血圧が上昇したことから、低酸素曝露による血圧調節にはMRを介する血管弛緩作用が働いていることが考えられた。7日間の低酸素曝露によって、2日間暴露に比べて心臓におけるイソプロテレノール投与によるβ-AR刺激に対する反応性の低下とアセチルコリン投与によるMR刺激に対する反応性の増加がみられたことから心筋において受容体レベルでの自律神経系調節に変化が起きていることが示唆された。これらのことから、低酸素適応における自律神経系による生体反応の調節は一律なものではなく、その曝露時間の経過に伴って交感神経活動と副交感神経活動のバランスが逐次変化しながら進行することが明らかとなった。

第4章 低酸素環境適応における末梢化学受容器の役割

第3章において低酸素曝露2時間目以降にみられる心拍数の減少は副交感神経活動の亢進によって、また急性期・慢性期における心拍数の増加や維持には交感神経活動の亢進が関与していることが示唆された。これらの自律神経調節の一部には末梢化学受容器からの入力が密接に関係していることが推測される。そこで、第4章では、低酸素適応機構における末梢化学受容器の影響を頸動脈洞・大動脈神経切除術(SAD)を施した動物を用いて検討を行った。その結果、SADによって曝露後より12時間までの心拍数の減少および体温の低下の反応は深く長いものとなった。この反応にSADによる血圧の変化に影響はみられなかったが、活動量・HF成分のpeak frequency (HFF)の低下と心拍変動LF成分 (LF)・HF・LF/HFの増加の増大がともに起こっていた。これらのことから、この反応には呼吸数の減少と副交感神経機能の亢進の増大が関与していることが示唆された。また、麻酔下の実験では、低酸素曝露においてSADによって呼吸数の増加が抑制された。これらのことから、低酸素環境における末梢化学受容器からの刺激は、心拍数・体温の低下の際に、それに対抗して心拍数・体温を維持しようという働きをしていることが示唆された。またSADによる曝露初期における呼吸数の減少が低酸素曝露における低代謝を増加させ生体機能の抑制に関与している可能性も考えられる。SADによって、曝露24時間以降において交感神経系機能の亢進を伴わない心拍数の増大および維持がみられた。このことから末梢化学受容器からの低酸素刺激は低酸素適応における心拍調節の基準値を決定することに関与しているのかもしれない。これらのことから、低酸素適応機構における末梢化学受容器を介した神経調節は曝露初期の反応だけでなく、適応期においても影響を及ぼすことが明らかになった。

第5章 キナクリンが低酸素環境適応へ及ぼす影響

キナクリンは様々な薬理活性を有するが、還流心における虚血再還流障害においてそのホスホリパーゼA2の抑制やカルシウムチャネル遮断による心機能抑制作用が心臓に対して保護的に作用することが知られている。そこで、全身低酸素における呼吸循環機能調節にキナクリンが及ぼす影響を検討した。キナクリン(5mg/kg/day)を慢性的に投与し、テレメトリー法を用いて意識下における循環機能・自律神経系機能の変化を観察した。仮説とは異なり、心拍数の低下が増強された。このとき血圧の変化に影響はみられなかったが、活動量・BP-LF・HFFの低下とLF・HF・LF/HFの増大がともに起こっていた。この際に心拍数とHFFの変化率に正の相関がみられた。これらの反応は第4章で観察されたSADを施したラットにおける反応と類似しているために、キナクリンが末梢化学受容器の働きを抑制していることが原因ではないかと疑われた。そこで、麻酔下において低酸素曝露による呼吸数・心拍数の変化を測定したところ、キナクリンの投与によって低酸素曝露による呼吸数の増加は抑制されることがわかった。この際の呼吸数・心拍数の変化は第4章におけるSADを施した動物の反応に酷似していた。過去の文献においてキナクリンのhypoxia inducible factor-1 (HIF-1)の活性に対して抑制作用を有すること、末梢化学受容器の酸素感受性には(HIF-1)の活性が関与していることが報告されているため、この作用はキナクリンのHIF-1抑制作用によって、末梢化学受容器の活性を抑制しているためではないかと推測された。今回の結果から全身的低酸素において、キナクリンは心臓に対する直接作用を上回って、末梢化学受容器を介した神経調節による心機能調節が行われていることが明らかになった。

以上のことから、低酸素曝露における急性期から適応までの間には、以下に述べる神経系調節が働いていることが明らかになった。

1)10%低酸素長期曝露では交感神経活動が亢進し、呼吸循環機能が活性化した状態が続くことによって適応に至るわけではなく、交感神経活動が減退し、循環機能が抑制された状態を経過した後に交感神経活動が再び活性化し、それに伴い循環機能が回復した後に適応に至る。

2)低酸素曝露直後の心拍数の減少に副交感神経活動の亢進が関与しており、同時に交感神経活動が減退している。

3)低酸素曝露における末梢化学受容器からの中枢への入力は、交感神経の亢進を促すことで交感神経活動の抑制を最小限に抑えることや呼吸機能の低下による酸素消費量の減少あるいは代謝量の減少を抑制することで、低酸素曝露による心拍数の減少、体温および活動量の低下に対して抑制的に働いている。

4)SAD処置下では、低酸素曝露による心拍数減少からの回復後の交感神経機能亢進が認められなかったにもかかわらず、心拍数が高い状態が続いた。このことは曝露開始直後の抑制期における末梢化学受容器からの情報の入力と情報処理がその後の適応に至る過程での調節機構の働きを決定しているものと考えられた。したがって、低酸素曝露開始後の抑制期が低酸素適応へのターニングポイントとして重要であると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

生体は一定の低酸素環境下におかれても生存することが可能な適応能力を有している。低酸素下で一体どのような生理的調節がなされているかについては、古くから関心がもたれ多くの研究がなされてきた。しかしながら、それらの研究の多くは短時間の低酸素曝露実験であり、低酸素曝露初期の生体反応しか明らかにされていず、適応に至る全過程を無麻酔下で長期間の観察を行った実験はきわめて乏しく、適応過程で重要な役割を演じると考えられる自律神経機能の変化については詳細な点が明らかにされていない。本研究では、酸素濃度が10%(1気圧下でPbO2=76mmHg)の低酸素環境にラットを自由行動下で長期間にわたって曝露し、心拍、血圧、体温、行動量の持続的観察にもとづいて低酸素適応における自律神経性調節の全体像を明らかにするために行われた。

第1章では既存の研究から明らかになっている生体の低酸素受容とそれに対する神経性調節機構について概説している。

第2章では、血圧記録用テレメーター送信機を体内に埋め込んだラットを用いて3週間の低酸素連続曝露を行った。その結果、低酸素曝露の開始後約2時間目より約24時間目までの間、心拍数と血圧の急激で顕著な低下が認められる抑制期の存在が明らかになった。これらの反応には副交感神経系活動の亢進が重要な役割を果たしていることが示唆された。曝露2~4日目にかけては心拍数および血圧はほぼ曝露前の状態に戻った。また、曝露7~21日といった慢性期の状態では、暗期の副交感神経機能の亢進により暗期における心拍数が減少することで心拍数の日内変動の振幅が小さくなることなどが明らかになった。以上の成績から曝露開始後7日間、特に最初の4日間に循環系および自律神経系において低酸素適応に向けたダイナミックな変化が生じることがを明らかにしている。

第3章では、低酸素環境適応における自律神経系による遠心性神経調節の役割を明らかにするために、βアドレナリン受容体 (β-AR) およびムスカリン受容体 (MR) に対する作動薬および遮断薬の影響を、低酸素曝露直後の短時間(30分)およびより長時間の7日間曝露において、意識下および麻酔下において検討した。さらに、麻酔下における急性低酸素曝露に対する頸部迷走神経および交感神経の遠心性活動の変化についても電気生理学的方法により検討した。その結果、低酸素曝露直後の15分までの期間では、propranolol投与によって急性低酸素曝露による心拍数の増加が抑制された。また曝露後30時間以降の心拍数の回復及び維持が抑制された。以上の結果から、急性期、亢進期および適応期における心拍調節は交感神経活動の亢進によって起きていることが示唆された。

第4章では、低酸素適応機構における末梢化学受容器からの求心性入力の影響を明らかにするために、頸動脈洞・大動脈神経切除術(SAD)を施した動物に意識下7日間もしくは麻酔下40分間の低酸素曝露を行い心拍数、体温および呼吸数の変化を観察した。その結果、SADによって、曝露後開始後12時間までの心拍数および体温の低下反応はより深く持続が長いものとなり、呼吸数の増加の低下と副交感神経機能の亢進の増大が同時にみられた。以上の成績から、低酸素曝露における循環系を中心にした適応には、末梢化学受容器からの求心性入力が重要な役割を担っており、この働きは曝露初期のみならず、適応期においても影響を及ぼすことが明らかになった。

第5章では、低酸素曝露下のラットにQuinacrineを慢性的に投与した際の循環系への影響を観察した。Quinacrineは虚血性低酸素状態に置かれた心臓の心筋組織に対して保護作用を有することが知られている。本研究結果では、Quinacrineは低酸素による心拍抑制作用に対して、保護的ではなく、むしろ抑制作用を増強する働きがみられた。またQuinacrineの慢性投与における低酸素曝露に対するこれらの反応は、意識下の実験および麻酔下の実験のいずれにおいても第4章で得られたSADラットにおける反応と類似していた。この働きはQuinacrineの還流心で報告されているPLA2抑制やカルシウムチャネル遮断の効果による作用よりも、PLC抑制やHIF-1抑制といった末梢化学受容器の活性化を抑制することによる神経性調節に対する作用が大きいものと考えられた。

第6章では、これまでの実験結果をふまえ、低酸素環境への慢性的曝露に対する生体の適応反応を主に自律神経系調節の観点から明らかにし、その生理学的意義について考察している。

以上を要するに、本研究はこれまで知られていなかった急性期から慢性期への移行過程をも含む低酸素適応過程の生体調節機能の主要な部分を明らかにしたものであり、本成果は学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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