学位論文要旨



No 123629
著者(漢字) 下鶴,倫人
著者(英字)
著者(カナ) シモヅル,ミチト
標題(和) スナネズミにおける社会性の獲得様式に関する研究
標題(洋)
報告番号 123629
報告番号 甲23629
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3333号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 西原,真杉
 東京大学 准教授 桑原,正貴
 東京大学 准教授 山内,啓太郎
 東京大学 准教授 武内,ゆかり
内容要旨 要旨を表示する

群れを形成して生活を営む動物種にとって、群内他個体との間に社会的な関係を構築することが生存、繁殖を営む上で重要である。しかしながら個体は生まれながらにして種に特徴的な社会生活を営むための"社会性"を身につけているわけではなく、親の世話や同腹個体もしくは同群他個体との社会的な経験を通じて社会的能力を獲得するものと考えられる。発達過程における社会的経験の欠如は個体の社会性の低下を引き起こし、動物の飼育や繁殖を行う上で大きな障害となると思われる。またヒトにおいても社会性の欠如を主症状とする精神疾患の発症が、幼少期や思春期に受ける社会的ストレスの存在に起因する傾向があることが知られている。個体の社会性はたとえ動物種が異なっても、個体の行動特性の一面として共通するものであると考えられ、齧歯類をモデル動物として用いて社会性の獲得様式を調べることは、上記の問題の原因や治療法の解明に応用しうる有用な研究となることが期待できる。

本研究はスナネズミを研究モデルとして用い、群飼育下における個体間の社会的関係の形成様式を調べるとともに、社会性の獲得様式に及ぼす生育環境の影響を調べることを目的とした。スナネズミは高い社会性を有する種であり、イヌやヒトと類似した社会形態を有することから、このような動物に外挿しうる有用な実験動物モデルとなることが期待できる。本論文は以下の通り6章から構成されている。

第一章は総合緒言であり、社会性の定義およびスナネズミを用いて社会性の獲得様式を研究することの意義について解説し、本研究の目的を述べた。

第二章は、幼若期より同居して育成した2個体のオススナネズミの間に社会的序列が形成されるか否かを検討した。2個体間にはメスとの性行動において明らかな活性の差が存在することがわかり、繁殖機会を巡る優先順位が存在していることが示唆された。性行動試験において2個体の間に繁殖機会を巡る激しい闘争行動は認められなかったことから、この優先関係は攻撃的な社会的相互作用により形成されたものではないと考えられる。また性行動において高い活性を示した個体は、マーキング行動においても高い頻度を示した。マーキング行動は、多くの動物種において優位個体が頻繁に行う行動であることから、性行動における活性とマーキング行動における活性との間に正の相関関係が認められたことは、2個体の間に社会的序列が形成されていることを示唆するものである。一方、推測された社会的順位と身体的機能および内分泌機能との間には関連性が認められなかった。以上のことから、オススナネズミでは幼若期からの同居により、攻撃性の違いに起因することなく、社会的序列(繁殖機会を巡る優先順位)が形成されることが示唆された。

過去の研究では、離乳後から単独で飼育されたオス個体間には激しい闘争行動により序列が形成され、敗者となった劣位個体に重度のストレスが負荷されることが示されているが、この報告は第二章の結果と大きく食い違うものである。このことは両研究における個体の飼育方法の違い(単独飼育または群飼育)に起因すると考えられる。そこで第三章では、離乳後より3頭で飼育する個体と社会的隔離条件下で飼育する個体(単独飼育群)の行動発達様式を比較することで、離乳後の社会的隔離操作がオススナネズミの行動発達や内分泌機能に与える影響を検討した。社会的隔離操作は個体の糞中テストステロン濃度および糞中コルチコステロン濃度に影響を及ぼさなかったが、行動面では他個体への匂い嗅ぎ行動の増加、攻撃性の上昇、親和的行動の減少、社会的不安傾向の上昇といった変化を引き起こし、単独飼育群において社会性に障害が生じることが明らかとなった。さらに2個体を網越しで飼育し、他個体より嗅覚、視覚といった感覚刺激を得ることは可能なものの、遊び行動などの直接的な社会経験を得ることができないという群(網越し飼育群)を新たに作製し、同群の社会行動の発達様式を追跡することで社会的隔離操作による行動変化を引き起こす要因について検討した。この結果、網越し飼育群では他個体への匂い嗅ぎ行動の増加、社会的不安傾向の上昇といった変化は認められたものの、攻撃性の上昇は観察されなかった。このことから、社会的隔離操作により生じる行動変容は、異なる二要因によって引き起こされることが示唆された。他個体への匂い嗅ぎ行動の増加、社会的不安傾向の上昇という行動変化は、社会的隔離操作を受け単独で飼育されたことにより、遊び行動などの他個体との直接的な社会経験を得ることができなかったことに起因すると考えられた。一方、攻撃性の上昇は、他個体から受ける嗅覚、視覚などの感覚刺激が欠如したことによって引き起こされるものであることが示唆された。

第四章では、社会的隔離操作を負荷する時期による影響の差異を調べるとともに、幼若期における短期間の社会的隔離体験が個体の行動を永続的に変化しうるかどうかを検討した。離乳後、もしくは性成熟後に社会的隔離操作を負荷する群を作製し、隔離操作が社会行動様式に及ぼす影響を比較したところ、負荷開始時期に関わらず共通して認められる行動変化(他個体への匂い嗅ぎ行動の増加、社会的不安傾向の上昇など)が存在する一方で、負荷時期により攻撃行動や親和的行動の発達変化が異なることが示された。特に攻撃性の上昇については、離乳後から性成熟期にかけた若齢期の方が、性成熟後に比べて社会的隔離操作による攻撃性の上昇に及ぼす影響が顕著に大きくなることが示された。また、離乳後2週間の隔離操作を受け、その後2頭飼育に戻されるという再社会化を受けると、個体の攻撃性の上昇は抑制されるものの、2頭飼育群に比べると依然として高い攻撃性を保ち続けることが示された。これらのことから、離乳後の幼若期は社会的隔離操作の影響に対し高い感受性を有し、社会性を獲得する上で重要な時期であることが示唆された。

第五章では、社会的隔離操作が個体の脳機能に及ぼす影響を検討した。社会的隔離操作により海馬におけるセロトニン受容体1AのmRNA発現量が増加し、前頭前野においてセロトニン受容体1BのmRNA発現量が減少する傾向が認められた。セロトニン神経系は攻撃行動や不安行動の制御に深く関わっていることから、本実験で認められたセロトニン受容体遺伝子発現量の変化が、社会的隔離操作誘導性の行動変化と強く関連していることが示唆された。一方、社会的隔離操作の神経栄養因子発現に及ぼす影響を調べたが、社会的隔離操作による海馬などでのBDNF, NGFの発現量の変化は認められなかった。このことから、BDNFやNGF以外の因子が隔離操作誘導性の行動変化に関わっていることが示唆された。

第六章では、総合考察を行った。本研究の結果より、(1)離乳後より同居したオス個体間には攻撃性の違いに起因することなく、繁殖機会を巡る序列関係が形成されること、(2)離乳後より社会的に隔離されて生育すると、攻撃性の上昇や親和行動の減少、社会的不安傾向の上昇といった行動変化が生じ、個体の社会性の障害が認められること、(3)社会的隔離操作による攻撃性の上昇は、他個体から受ける感覚刺激が欠如したことに起因すること、(4)離乳後の社会的隔離操作は個体に不可逆的な行動学的影響を及ぼし、また隔離操作の影響は、性成熟後に比べ若齢期において顕著に大きいこと、(5)離乳後の社会的隔離操作は、個体のセロトニン神経系の変容をもたらすこと、が明らかとなった。

離乳後の社会的環境が、個体の社会性の獲得様式に大きな影響を及ぼすという、本研究により得られた知見は、他の動物種においても外挿しうるものと思われ、家畜や飼育管理動物における飼育環境や福祉の改善、伴侶動物における問題行動の予防や治療方法、ヒトにおける精神疾患の病態発生機構の解明や向精神薬の開発など、臨床学的な分野への応用が期待できる。今後は、社会的隔離操作が脳機能の発達に与える影響について、もしくは若齢期における他個体との社会的相互作用がいかに神経回路の成熟を促すかという点について、より詳細に調べる必要があると思われる。

審査要旨 要旨を表示する

哺乳類において、ある個体は他個体との社会的経験を通じて、種に特徴的な "社会的"行動様式を発達させると考えられている。発達過程における社会的経験の欠如は社会性の低下を引き起こし、群れなどの社会的単位内での生活上、様々な障害をもたらすと推測される。このため個体が社会性を獲得するプロセスには興味が持たれる。本研究はスナネズミを研究モデルとして用い、群飼育下における個体間の社会的関係の形成様式を調べるとともに、社会性の獲得様式に及ぼす生育環境の影響を明らかにすることを目的としている。まず第一章において本研究の背景と目的が論じられた後、第二章から第五章までは本研究で実施された各実験について記述され、最後の第六章において本研究で得られた結果をもとに総合考察が行われた。

第二章では、幼若期より同居して育成した2個体の雄スナネズミの間に社会的序列関係が形成されるか否かが検討された。2個体間には性行動活性の明らかな差異が存在したが、個体間に激しい闘争行動は認められず、繁殖機会を巡る優先関係は、攻撃的な社会的相互作用により形成されるのではないことが示された。また性行動において高い活性を示した個体は、優位性行動の一つであるマーキング行動においても高い活性を有していたことから、2個体の間に社会的序列関係が形成されていることが示唆された。以上のことから、オス個体間には、攻撃性とは無関係に社会的序列(繁殖機会を巡る優先順位)が形成されることが示されたが、このような親和的関係の構築には、幼若期より同居して育成されることの必要性が推察された。

第三章では、離乳後より3頭で群飼育される個体と社会的隔離条件下で単独飼育される個体の行動発達様式を比較することで、離乳後の社会的隔離操作が雄スナネズミの行動発達に与える影響が検討された。社会的隔離操作は、他個体への匂い嗅ぎ行動の増加、攻撃性の上昇、親和的行動の減少、社会的不安傾向の上昇といった様々な行動学的変化を引き起こし、社会性の獲得を障害することが明瞭に示された。また単独飼育ながら他個体からの感覚刺激を得られる条件下で飼育された個体においては、他個体への匂い嗅ぎ行動の増加、社会的不安傾向の上昇といった変化は認められたものの、攻撃性の上昇は観察されなかった。このことから、社会性欠落の主症状である攻撃性の上昇は、他個体から受ける嗅覚、視覚などの感覚刺激が欠如したことによって引き起こされることが示唆された。

第四章では、発達過程における隔離操作の影響の差異が検討された。離乳後もしくは性成熟後における社会的隔離操の影響が比較された結果、負荷開始時期に関わらず共通して認められる行動変化(他個体への匂い嗅ぎ行動の増加、社会的不安傾向の上昇など)が存在する一方で、攻撃性の顕著な上昇は若齢期にのみ認められるなど、隔離操作の負荷時期により攻撃行動や親和的行動の発達変化が異なることが示された。また離乳後2週間の隔離操作を受け、その後2頭飼育に戻されるという再社会化操作を受けると、攻撃性の上昇は抑制されるものの、2頭飼育群に比べると依然として高い攻撃性の維持されることが示された。これらのことから、離乳後の幼若期は、社会的隔離操作の影響に対し高い感受性を有し社会性を獲得する上で重要な時期であることが示唆された。

第五章では、社会的隔離操作が脳機能に及ぼす影響が検討された。社会的隔離操作により海馬におけるセロトニン受容体1AのmRNA発現量が増加し、前頭前野においてセロトニン受容体1BのmRNA発現量が減少する傾向が認められた。セロトニン神経系は攻撃行動や不安行動の制御に深く関わっていることから、本実験で認められたセロトニン受容体遺伝子発現量の変化が、社会的隔離操作誘導性の行動変化と強く関連していることが示唆された。

以上、本研究により、(1)離乳後より同居した雄個体間には攻撃性の違いに起因することなく繁殖機会を巡る序列関係が形成されること、(2)離乳後より社会的に隔離されて生育すると社会性の障害が認められること、(3)社会的隔離操作による攻撃性の上昇は他個体から受ける感覚刺激の欠如に起因すること、(4)隔離操作の影響は性成熟後に比べ若齢期においてより顕著に発現すること、(5)離乳後の社会的隔離操作はセロトニン神経系の変容をもたらしうること、などが明らかとなった。本研究の成果は、若齢期における社会的経験が個体の社会性獲得を左右するメカニズムを理解する上で重要な知見であり、学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は申請者に対し博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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