学位論文要旨



No 123631
著者(漢字) 千葉,秀一
著者(英字)
著者(カナ) チバ,シュウイチ
標題(和) 性ステロイドの中枢作用におけるグラニュリンの役割に関する研究
標題(洋)
報告番号 123631
報告番号 甲23631
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3335号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 准教授 武内,ゆかり
 東京大学 准教授 山内,啓太郎
内容要旨 要旨を表示する

第一章 序論

哺乳類の性腺で合成される性ステロイドは,発生段階の脳に作用して性分化を誘導し,性成熟後の脳に作用して雌雄それぞれの性的役割を発揮させる.前者は形成作用と呼ばれ,神経細胞の増殖や分化に関わる不可逆的な過程であり,後者は活性作用と呼ばれる神経細胞の興奮制御を介した可逆的な作用である.さらに,近年性ステロイド,中でもエストロジェンが認知,記憶など脳の高次機能の維持や虚血性脳疾患からの回復に重要な役割を果たしていることが明らかになりつつあり,この作用は保護作用と呼ばれている.閉経を迎える女性に対する性ステロイドの補充療法が認知機能の改善やうつなどの気分障害に対する効果が認められることから,性ステロイドの保護作用には現在強い関心が寄せられている.このような治療の有効性に関する知見が精力的に集められており,性ステロイドの中枢作用の作用機序に関する体系的な学術的基盤が強く求められている.

筆者らの研究室ではこのような性ステロイドの中枢作用の分子機構を研究する過程で,ラットの脳の性分化期に視床下部において性ステロイドにより発現が誘導される遺伝子としてグラニュリン (Grn) 遺伝子を同定し,脳の雄型化に関与する遺伝子であることを示唆した.さらに,Grnノックアウト(KO)マウスを作出し,その表現型を解析した結果,雄型性行動の低下や攻撃行動の上昇など雄型行動の変化が観察されている. 性ステロイドの形成作用と保護作用には,ともに神経細胞の増殖,分化や細胞死の制御が関与することから両者に共通する作用機構の存在が想定され,Grnが形成作用のみならず保護作用にも関与している可能性が考えられる.本研究は,ラットおよびGrn KOマウスを実験モデルとして,性ステロイドの形成作用および保護作用におけるGrnの役割の解明を目的としたものである.

第二章エストロジェンの神経新生促進作用におけるグラニュリンの役割

海馬歯状回では成体においても神経前駆細胞の増殖と神経細胞への分化が生じており,これが記憶などの海馬機能に関与していることが示唆されている.エストロジェンはこの海馬歯状回における細胞増殖を促進することが知られている. このようなエストロジェンの作用は細胞増殖を促進するような成長因子により仲介されている可能性が考えられ,そのような成長因子の候補として,エストロジェンにより発現上昇することが知られているGrn, インスリン様成長因子(IGF)-Iおよび脳由来神経栄養因子(BDNF)を想定した. 本章では, 3ヶ月齢の卵巣摘出ラットを用いて,安息香酸エストラジオール(EB)投与4時間後の海馬歯状回において,増殖細胞マーカーとして投与したブロモデオキシウリジン(BrdU)を取り込んだ細胞数が増加していることを確認した.また,リアルタイムRT-PCR法により各成長因子の遺伝子発現量を検討した結果,EB投与4時間後の海馬ではGrn前駆体のmRNA量が増加していたが,IGF-IやBDNFの発現量は変化しなかった.一方, 12ヶ月齢のラットではエストロジェンの神経新生およびGrn遺伝子発現に対する促進作用はともに見られなかった.次に,3ヶ月齢の雌ラット海馬由来の神経前駆細胞をニューロスフェア法を用いて培養し,神経前駆細胞の増殖に対するエストロジェンの作用を検討した.その結果,エストラジオール添加24時間後の神経前駆細胞数は,培養液中のエストラジオール濃度依存的に増加していた. また,エストラジオールによる細胞増殖促進作用は,培養液中へのGrn前駆体に対する抗体の添加により低下した.これらの結果から,エストロジェンは海馬歯状回の神経前駆細胞に作用してGrnの発現を誘導すること,さらに分泌されたGrnが神経前駆細胞の増殖を促進することが示唆されたが,このようなエストロジェンの作用は加齢により低下すると考えられた.

第三章 成体海馬の神経新生および機能維持におけるグラニュリンの役割

本章では,Grn KOマウスを用いて成体海馬の神経新生に対するGrnの作用をさらに検討した. 7週齢の雄Grn KOマウスへのBrdUの投与後,海馬歯状回においてBrdU標識された細胞数は予想に反して野生型(WT)よりもKOマウスで有意に多く,他の増殖細胞マーカーであるKi67を用いた解析でも同様の傾向が見られた.さらに,BrdU投与21日後において, 成熟ニューロンマーカーであるNeuNを発現する新生ニューロン数がKOマウスにおいて増加していた. Grnには共通の前駆体タンパク質からプロセシングにより形成される数種の分子種が存在し,それらの分子種のうち上皮細胞の増殖を促進させるものと抑制させるものの両方の存在が知られている. 海馬歯状回における細胞増殖に対するGrnの作用が第二章と本章では異なっていたが, その原因として,雄マウスにおけるアンドロジェンの存在などの内分泌環境の違いが細胞増殖を抑制する分子種のGrnを分泌させた可能性が考えられた.

次に, 神経新生の関与が示唆されている海馬の機能, すなわち空間学習に対するGrnの役割を検討した.Morris式水迷路を用いた空間学習試験では,6ヶ月齢のKOマウスにおけるプラットホームへの到達時間が短い傾向が見られ,探索試験の結果も良い傾向が見られた. ところが,18ヶ月齢のKOマウスでは到達時間の有意な延長が見られた.さらに,新奇環境下の自発行動をオープンフィールド試験によって解析したところ,KOマウスにおいて新奇環境下の不安傾向が増大していることが示唆され,この点については第四章にて詳細に検討することにした.以上のことより,Grn KOマウスでは細胞の増殖や生存が促進されることによって新生神経細胞数が増加しており,これを反映して空間学習能力が高い傾向にあると考えられた.しかし,18ヶ月齢のGrn KOマウスでは空間学習能力の低下が見られ,老齢期の脳の高次機能の維持にGrnが関与していることが示唆された.最近,Grn前駆体タンパク質をコードする遺伝子の変異が老齢期のヒトで見られる前頭側頭型認知症の原因として報告された.このことは,Grnが種を越えて老齢期のニューロンの生存や機能の維持に重要な役割を果たしていることを示唆している.

第四章 新奇環境に対する不安傾向の性分化におけるグラニュリンの役割

性ステロイドによる周生期の脳の性分化は性的二型を示す行動の発現に影響を及ぼすことが知られている.第三章ではGrn KOマウスにおいて新奇環境下の不安傾向が増大していることを見出したが,不安傾向には性差が存在することが知られている.本章では不安傾向に関する性分化の機序を検討することにより,周生期の脳におけるGrnの役割を検討した.実験には7週齢のWTおよびKOマウスの雌雄を用い,オープンフィールド試験および高架式十字迷路試験によって新奇環境下の不安傾向を評価した.その結果,WTマウスにおいて雄は雌と比較すると不安傾向が低いという性差の存在が示された.一方,KOマウスにおける雄の不安傾向はWTの雄より高く, 雌とほぼ同じレベルであった.また,高架式十字迷路試験による解析でも同様の傾向が見られた.次に,このような不安傾向の性差に関与していると考えられる性的二型を示す神経核の発達について検討した.青斑核は不安様行動への関与が示唆されており,ラットにおいては雄よりも雌においてその体積が大きいことが知られている.青斑核の体積は,WTマウスでは雄に比べて雌の方が大きい傾向が見られ,KOマウスでは雌雄のWTマウスよりも有意に大きく,かつ性差も認められなかった.一方,同じく不安傾向への関与が知られる室傍核では,性および遺伝子型間に体積の差は認められなかった.以上の結果から,Grnは青斑核の発達を抑制することで形態学的な性差を形成し,この形態学的な性差が不安傾向の性差発現の基盤となっていることが示唆された.

次に,不安傾向に対する成熟期におけるアンドロジェンの影響を検討するために,5週齢で精巣摘出したマウスとその後6~7週齢にテストステロンを充填したシリコンチューブを皮下に留置したマウスについて不安傾向の解析を行った.しかし,WTおよびKOマウスのいずれにおいても,精巣摘出やテストステロンの補充は不安傾向に対して影響を与えなかった.さらに,不安傾向の性分化に対する周生期のアンドロジェンの影響を検討するために,生後1日および3日にプロピオン酸テストステロン(TP)を皮下に投与した雌マウスについて不安傾向の解析を行った.溶媒投与群およびTP投与群のWTマウスと比較して,TP投与群のKOマウスの不安傾向は高かった.このことから不安傾向の性分化において,Grnの存在によりTPの不安傾向増大作用が抑制されることが示唆された.

第五章 総括

以上の研究により, 性ステロイドにより誘導されたGrnは,神経前駆細胞の増殖や分裂を終えた神経細胞の生存を調節することにより性的二型核や海馬の形成に関与し,それらの機能に影響していることが考えられた.このようなGrnの作用は,成体海馬におけるエストロジェンの神経保護作用のみならず,周生期における性ステロイドによる脳の性分化においても共通して働いていると考えられた.性ステロイドがGrnを介して脳に形態学的な可塑性を付与することは,周生期においては性に特徴的な行動の発達を促進することで社会的な役割に自らを適合させ,成体においては環境の変化に対して巧みに対応することで自らの生存率を高めることに寄与し,これらが最終的に繁殖成功率を高めることに貢献するからではないかと考えられた.

審査要旨 要旨を表示する

哺乳類の性腺で合成される性ステロイドは,発生段階の脳に作用して性分化を誘導し,性成熟後の脳に作用して雌雄それぞれの性的役割を発揮させる.前者は形成作用と呼ばれ,後者は活性作用と呼ばれている.さらに,近年性ステロイドが脳の高次機能の維持や虚血性脳疾患からの回復に重要な役割を果たしていることが明らかになりつつあり,この作用は保護作用と呼ばれている.申請者らの研究室ではラットの脳の性分化期に視床下部において性ステロイドにより発現が誘導される遺伝子としてグラニュリン (Grn) 遺伝子が同定され,脳の雄型化に関与する遺伝子であることが示唆されている.本研究は,性ステロイドの形成作用および保護作用におけるGrnの役割の解明を目的としたものである.

第1章で研究の背景や目的が述べられた後,第2章ではエストロジェンの神経新生促進作用におけるグラニュリンの役割が検討されている.本章ではまず, 3ヶ月齢の卵巣摘出ラットを用いて,エストラジオール投与後の海馬歯状回において,ブロモデオキシウリジン(BrdU)を取り込んだ細胞数が増加していることを確認した.また,Grn,インスリン様成長因子および脳由来神経栄養因子の遺伝子発現量を検討した結果,Grn前駆体のmRNA量のみが増加していた.一方, 12ヶ月齢のラットではエストロジェンの神経新生およびGrn遺伝子発現に対する促進作用はともに見られなかった.次に,神経前駆細胞を培養し,その増殖に対するエストロジェンの作用を検討した結果,神経前駆細胞数は培養液中のエストラジオール濃度依存的に増加していた. また,この細胞増殖促進作用は培養液中へのGrn前駆体に対する抗体の添加により低下した.これらの結果から,エストロジェンは海馬歯状回の神経前駆細胞に作用してGrnの発現を誘導すること,さらに分泌されたGrnが神経前駆細胞の増殖を促進することが示唆されたが,このようなエストロジェンの作用は加齢により低下すると考えられた.

第3章では,Grnノックアウト(KO)マウスを用いて成体海馬の神経新生に対するGrnの作用をさらに検討した. 7週齢の雄Grn KOマウスへのBrdUの投与後,海馬歯状回においてBrdU標識された細胞数は野生型(WT)よりもKOマウスで有意に多かった.海馬歯状回における細胞増殖に対するGrnの作用が第2章と本章では異なっていたが,その原因として,雄マウスにおけるアンドロジェンの存在などの内分泌環境の違いが細胞増殖を抑制する分子種のGrnを分泌させた可能性が考えられた. 次に,Morris式水迷路を用いた空間学習試験では,6ヶ月齢のKOマウスにおけるプラットホームへの到達時間が短い傾向が見られたが,18ヶ月齢のKOマウスでは有意な延長が見られた.以上より,Grn KOマウスでは細胞の増殖や生存が促進されることによって新生神経細胞数が増加しており,空間学習能力が高い傾向にあると考えられた.しかし,18ヶ月齢のGrn KOマウスでは空間学習能力の低下が見られ,老齢期の脳の高次機能の維持にGrnが関与していることが示唆された.

第4章では不安傾向に関する性分化の機序を検討することにより,周生期の脳におけるGrnの役割を検討した.その結果,WTマウスにおいて雄は雌と比較すると不安傾向が低いという性差の存在が示された.一方,KOマウスにおける雄の不安傾向はWTの雄より高く, 雌とほぼ同じレベルであった.次に,このような不安傾向の性差に関与していると考えられる性的二型を示す神経核の発達について検討した.青斑核は不安様行動への関与が示唆されており,ラットにおいては雄よりも雌においてその体積が大きいことが知られている.青斑核の体積は,WTマウスでは雄に比べて雌の方が大きい傾向が見られ,KOマウスでは雌雄のWTマウスよりも有意に大きく,かつ性差も認められなかった.以上の結果から,Grnは青斑核の発達を抑制することで形態学的な性差を形成し,この形態学的な性差が不安傾向の性差発現の基盤となっていることが示唆された.

以上の研究により,性ステロイドにより誘導されたGrnは,神経前駆細胞の増殖や分裂を終えた神経細胞の生存を調節することにより性的二型核や海馬の形成に関与し,それらの機能に影響していることが考えられた.このようなGrnの作用は,成体海馬におけるエストロジェンの神経保護作用のみならず,周生期における性ステロイドによる脳の性分化においても共通して働いていると考えられた.本研究は性ステロイドの新しい作用機序を解明し,さらに老齢期の脳機能の維持における性ステロイドの有効性を示すもので,学術上,応用上貢献するところが少なくない.よって審査員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものとして認めた.

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