学位論文要旨



No 123632
著者(漢字) 向井,和隆
著者(英字)
著者(カナ) ムカイ,カズタカ
標題(和) サラブレッドにおける運動負荷時の酸素運搬系機能に関する研究
標題(洋)
報告番号 123632
報告番号 甲23632
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3336号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 教授 小野,憲一郎
 東京大学 准教授 西原,眞杉
 東京大学 准教授 桑原,正貴
内容要旨 要旨を表示する

1. 序論

サラブレッドは徹底した血統管理のもと,選抜育種と近親交配を併用し,速く走ることを目的として300年以上改良を加えられてきた。他の動物と比べて,サラブレッドの酸素運搬系の能力には多くの特徴があるが,そのうちのいくつかは安静時にはみられない。脾臓からの多量の赤血球動員,動脈血酸素分圧・酸素飽和度の低下,運動刺激に対する心拍数(HR)や酸素摂取量(VO2)などの呼吸循環器系の迅速な反応などは運動負荷時においてはじめて確認されるため,運動負荷時に実験を行うことの意義は大きい。さらに、ウォームアップ,トレーニングやディトレーニングといった変化を与えることによって,サラブレッドの酸素運搬系機能の特性を引き出せる可能性が高まることが推察される。本研究の目的は,まずレースにおける最大運動時のサラブレッドの運動生理学的特徴やレースおよびトレーニング前に実施しているウォームアップの生理学的強度を明らかにし,様々な運動強度・運動時間のウォームアップや,トレーニングおよびディトレーニングが高強度運動負荷時のサラブレッドの酸素運搬系機能に与える影響を示すことである。これらのことはサラブレッドのトレーニング,ディトレーニングおよびウォームアップを呼吸循環系機能の面から構築していくにあたって重要なものと考えられる。

2. サラブレッドの運動生理学的負荷に関する模擬レースを用いた検討

実際のレース中にサラブレッドがどのような生理状態にあるのか,およびレース前のウォームアップ強度を知るために,23頭のサラブレッドを用いて中山競馬場においてダート1200 mの模擬レースを実施し,レース前後およびレース中の心拍数と,レース終了10分後の血中乳酸濃度を測定した。馬場に入場してウォームアップ運動をしているときの心拍数は最大で194.0 ± 2.0 beat/minに達し,それはレース中の最大心拍数の91.1 ± 0.8% に相当した。レース後の血中乳酸濃度は22.5± 0.6 mmol/lと高値を示していることから、レース中は活動筋において解糖系からもエネルギーが供給されていたことが示唆された。また,レース開始後,極めて迅速に心拍数がピーク値まで達していることを考えると,レースのような超最大運動時において,より適切なウォームアップを実施して酸素運搬系の反応速度を促進することは非常に重要であることが示唆された。

3. サラブレッドのトレーニング時における心拍数から推測されるウォームアップ強度

サラブレッドが日常行っているトレーニングの前には,どのような運動強度のウォームアップを実施しているのかを調べるために,現役競走馬20頭のトレーニング時にハートレートモニターを装着し,心拍数の測定を行った。その結果,トレーニング前に実施しているウォームアップ中の平均心拍数は147.4 ± 2.0 beat/minであった。今回サンプリングに協力していただいた調教師はウォームアップにおいて常にキャンターを行っていたが,速歩のみを行う調教師もおり,そのような場合のウォームアップメニューでは今回の結果より低い心拍数になっていた可能性も示唆される。一方,レース前のウォームアップにおける心拍数は前章で述べたように194.0 ± 2.0 beat/minであり,レース前とトレーニング前とで異なる運動強度のウォームアップを行っていることが分かった。

4. 短時間のウォームアップがサラブレッドの酸素運搬系機能に与える影響

レースの時に行われている短時間のウォームアップが酸素運搬系機能にどのような効果を与えているのか調べたため、サラブレッド11頭を用いて実験を行った。3種類のウォームアップ(NoWU, なし; MoWU, 70% VO2max 60秒; HiWU, 115% VO2max 60秒)を負荷した後,115% VO2maxの速度でオールアウトまで全力疾走させ,酸素運搬系指標を測定した。その結果,1)スプリント運動中を通じて,NoWUに比べHiWUおよびMoWUのVO2は有意に高かった。2)スプリント運動の最初の60秒間における乳酸蓄積速度(Mlactate)はNoWUに比べHiWUおよびMoWUは有意に低かった。3)スプリント運動60秒時の心拍出量(Q)はプロトコル間で差がなかったが,NoWUに比べHiWUでは動静脈酸素含量較差(CaO2-CvO2)が有意に高く,これは主に静脈血中の酸素飽和度と酸素分圧が低かったことによるものである。以上の結果から,HiWUとMoWUにおいてVO2のピーク値が増加し,最初の1分間におけるMlactateが減少していることから,ウォームアップによって無酸素エネルギーより有酸素エネルギーが多く利用されるようになることが示唆された。オールアウトまでの走行時間はMoWUでNoWUより長かったが,MoWUとHiWUとの間には有意な差は認められなかった。

5. 運動強度の低いウォームアップがサラブレッドの酸素運搬系機能に与える影響

第4章での結果から、トレーニング前には比較的強度の低いウォームアップをある程度長い時間行っていることが明らかになった。このような実情を踏まえて比較的運動強度が低く,運動時間の長いウォームアップがスプリント運動中の酸素運搬系指標に与える影響をサラブレッド5頭を用いて検討した。運動距離を一定にした3種類のウォームアップ(LoWU, 30% VO2max 400秒; MoWU, 60% VO2max 200秒; HiWU, 100% VO2max 120秒)を負荷した後,115% VO2maxの速度でオールアウトまで全力疾走させた。その結果,1)VO2,二酸化炭素排出量(VCO2),走行時間,Q,1回拍出量(SV),CaO2-CvO2などの有力な酸素運搬系機能やパフォーマンスを示す指標においてウォームアップ間に有意な差はほとんどなかった。2)スプリント運動中を通じてHiWUの血液温はLoWUより有意に高かった。3)スプリント運動の30秒時において,HiWUのVO2はLoWUに比べて高い傾向にあった(p=0.09)。スプリント運動開始60秒間において,HiWUのHRはLoWUおよびMoWUより有意に高かった。4)スプリント運動の最初の30秒間において,HiWUの呼吸商(RQ)はLoWUおよびMoWUより有意に低く,60秒後においてもHiWUはLoWUより有意に低値を示した。運動開始60秒間におけるMlactateには有意差があった(HiWU<MoWU<LoWU)。以上の結果から,VO2,VCO2,走行時間,Q,SV,CaO2-CvO2など多くの項目においてはプロトコル間の差はほとんどなく,運動時間が長いウォームアップでは比較的低い強度でも酸素運搬系機能およびパフォーマンスに対する効果を期待できることが示唆された。この原因としては、前章の実験と比べてプロトコル間の血液温差が減少し、Q10 effectも減少していたことや、高強度ウォームアップにおいて、組織での酸素解離を促進する要因が少なかったことが挙げられる。しかし,運動強度の異なるプロトコル間に全く変化がないわけではなく,運動初期のHR,RQ,Mlactate (0-60 s)にはウォームアップ間に有意差があり,運動強度が強いほど有酸素性エネルギー供給が優位になる可能性が示唆された。

6. トレーニングやディトレーニングがサラブレッドの酸素運搬系機能に及ぼす影響

トレーニングによって有酸素能力にどのような変化が現れるかを明らかにし,ついでトレーニングを休止した際に有酸素能力がどの程度変わるかを明らかにするためにサラブレッド6頭を用いて実験を行った。まず,慣習的な騎乗トレーニングを6ヶ月間実施し、その後,騎乗トレーニングを中止して,放牧地への1日8時間の放牧を10週間続けた。実験時期はトレーニング前後(PRE, TR)およびディトレーニング後(DT)とした。第4,5章のウォームアップ実験で得られた結果を考慮して設定したウォームアップ運動をsteady-state運動試験前に実施し,その後,各馬のVO2maxを引き出す速度でオールアウトまで全力疾走させ,運動中の酸素運搬系指標を測定した。その結果,PREと比べてTRでは体重あたりおよびwhole-bodyベース両方のVO2max,Q,SVが増加した。TRと比べるとDTでは体重あたりのVO2(max),Q,SVはすべて減少した。しかし,TRからDTにかけて体重が8.3%減少したため,whole-bodyベースではすべての指標においてTRとDTで有意差はなかった。今回の結果から,トレーニングとディトレーニングにおける有酸素能力の変化にはSVとCaO2-CvO2が深く関わっていることや、10週間の放牧における自発運動はトレーニングされたサラブレッドのVO(2max),Q,SVを維持するには十分であることが示唆された。

7. 総括および結論

本研究では以上のように,レースにおける最大運動時のサラブレッドの運動生理学的特徴やレースおよびトレーニング前に実施しているウォームアップの生理学的強度を明らかにし,様々な運動強度および運動時間のウォームアップ,トレーニングおよびディトレーニングが高強度運動負荷時のサラブレッドの酸素運搬系機能に与える影響を示すことができた。これらのことはサラブレッドのウォームアップ,トレーニングおよびディトレーニングの構築について,呼吸循環系機能の面から具体的な提言を与えるものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

【背景】運動調教(トレーニング)を受けたサラブレッドは、運動能力の指標である最大酸素摂取量がヒトのアスリートのおよそ2倍であることからもわかるように極めて秀でた有酸素運動能力をもつ動物である。サラブレッドは生まれながらにして高い有酸素運動能力を有しているが、トレーニングを受けることによってその能力はさらに高まる。競走馬としてのサラブレッドは本来備えている運動能力に加えて、日々のトレーニングが重要であるが、十分なトレーニング効果を発揮するためにはトレーニング前のウォームアップが必須であり、またその方法が重要である。同様に、レース時においてもレースの直前にウォームアップを行うことで競走能力を最大限に高めるように努めている。

【目的】本研究では、サラブレッドの運動能力におけるウォームアップの意義を明らかにするために、レース時やトレッドミル運動負荷時の有酸素系、無酸素系の生理学的指標の変化を明らかにするとともに、日常行われるトレーニングやレースの直前に行われるウォームアップならびに放牧下でのトレーニング(デイトレーニング)に関して、その実施状況と酸素運搬系機能への生理学的効果に関する基礎研究を行った。

【結果】

本研究ではまず,実際のレース時にサラブレッドの心拍数を測定することによって,ウォームアップ時の生理学的運動強度およびレース中の酸素運搬系機能の応答を明らかにしている。ついで,通常のトレーニング時に現役競走馬の心拍数を測定することによって,トレーニング前のウォームアップ強度を推測した。この2つの実験により,レースとトレーニングとでは、それぞれ異なる強度と運動時間のウォームアップを実施していることを示唆している。

次にレース時のような短時間高強度のウォームアップが運動負荷時のサラブレッドの酸素運搬系機能に与える影響を調べた結果,より運動強度の高いウォームアップによって作動筋での酸素放出が促進され,無酸素性エネルギーよりも有酸素性エネルギーをより利用するようになったことを明らかにした。さらに通常のトレーニング前に実施しているような低強度で運動時間の長いウォームアップがサラブレッドの酸素運搬系機能に与える影響を検討した結果,いくつかの指標でウォームアップ強度が高いとエネルギー供給が有酸素的になる傾向はみられたが,多くの有力な酸素運搬系指標においてはウォームアップ強度の差は認められず,比較的低い強度でも酸素運搬系機能およびパフォーマンスに対する効果を期待できることを示した。最後に第4,5章で得られた結果からトレッドミル運動負荷試験前のウォームアップ運動を設定し,トレーニングとディトレーニングがサラブレッドの酸素運搬系機能に及ぼす影響を検討している。その結果,トレーニングとディトレーニングにおける有酸素能力の変化には一回拍出量(SV)と動静脈酸素含量格差(CaO2-CvO2)が関わっていることや,10週間の放牧における自発運動は6ヶ月間騎乗トレーニングされたサラブレッドのVO2max,Q,SVを維持するには十分である可能性を示唆している。

本研究では以上のように,レースにおける最大運動時のサラブレッドの運動生理学的特徴やレースおよびトレーニング前に実施しているウォームアップの生理学的強度を明らかにし,様々な運動強度および運動時間のウォームアップ,トレーニングおよびディトレーニングが高強度運動負荷時のサラブレッドの酸素運搬系機能に与える影響を示すことができた。これらのことはサラブレッドのウォームアップ,トレーニングおよびディトレーニングの構築について,呼吸循環系機能の面から具体的な提言を与えるものと考えられる。

以上を要するに、本研究はサラブレッドの高い運動能力を支えている酸素運搬系の特徴を明らかにするとともに、サラブレッドにおけるウォームアップの運動科学的意義を明らかにしたものであり、成果は学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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