学位論文要旨



No 123642
著者(漢字) 井原,裕一朗
著者(英字)
著者(カナ) イハラ,ユウイチロウ
標題(和) 細胞外pH感知性G蛋白質共役型受容体TDAG8の癌の進展における機能解析
標題(洋)
報告番号 123642
報告番号 甲23642
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2481号
研究科 医学系研究科
専攻 分子細胞生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 飯野,正光
 東京大学 教授 児玉,龍彦
 東京大学 教授 黒川,峰夫
 東京大学 准教授 神野,茂樹
 東京大学 講師 大石,展也
内容要旨 要旨を表示する

Gタンパク質共役型受容体(以下、GPCR)は全受容体数の約80%を占め、酵母、昆虫から人に至るまで普遍的に存在している。チロシンキナーゼ経路などと並んで生体内で重要な経路であり、その多くは疾患の発症や進展にも大きく関与している。GPCRのリガンドは多岐に渡り、カテコールアミンなどのアミン、ペプチドホルモン、プロスタノイド、リゾホスファチジン酸(LPA)といった脂質メディエーターなどがある。細胞膜表面上に存在するGPCRは経口摂取可能な低分子化合物製剤の標的分子となる可能性が高く、創薬上のメリットも大きい。実際GPCRは医薬品の研究対象として非常に重要な存在であり、臨床薬の50%以上は一つ以上のGPCRに作用する低分子のアゴニストかアンタゴニストである。これらの薬剤の売上高も全医薬品売上高のかなりを占めている。加えて、GPCRは発現臓器分布が特異的である場合が少なくないので、このような場合は副作用の少ない効率的な治療標的として期待できると考えられている。このような観点からGPCRのより詳細な生理機能解析は、様々な疾患の原因追及や創薬研究の進展において非常に重要な位置を占めると考えられる。そこで私は本学博士課程でGPCRの生理機能解析を行うことにした。

TDAG8(T cell death-associated gene 8, GPR65)はT細胞のアポトーシスの際に発現が上昇する遺伝子として発見された。その後、細胞外pHの低下に応じて活性化されcAMPを産生し、さらにRhoを活性化してストレスファイバー生成を促進することが当研究室の石井らなどによって明らかにされ、現在ではOGR1、GPR4、G2Aと共に細胞外pH感知性GPCRファミリーを形成している。TDAG8のmRNAはヒトでは脾臓、胸腺、血球などに発現が高い。しかしながらこれらの組織以外にも癌細胞において発現の増加が報告されている。また、遺伝子チップを用いた遺伝子発現プロファイルのデータベースであるGNF SymAtlas (http://symatlas.gnf.org/SymAtlas/) によると肺癌細胞やメラノーマなどの腫瘍細胞において高発現している。NCBI GEO Profile も腎癌や神経膠芽種においてTDAG8の発現が上昇していることを示しており、TDAG8の発現上昇が癌の悪性化に関わっている可能性が示唆される。

悪性腫瘍内部が酸性であることは昔からよく知られている。これは癌細胞の増殖はしばしば血管から離れた部位でも進行することで低酸素状態となり、乳酸などが蓄積するためであると言われている。従って悪性腫瘍内部及びその周辺領域が酸性化することによりTDAG8が活性化されることが予想される。これらの知見から、私は癌モデルとして一般的なマウスへの癌細胞の尾静脈注射実験及び皮下注射モデルにより、TDAG8と癌の関連を調べることにした。

マウス癌モデルに適している細胞であるC57BL/6Jマウス肺癌細胞であるLewis Lung Carcinoma(LLC)細胞を用いてに遺伝子を導入し、セルソーターシステムを用いてTDAG8のポリクローナル安定発現細胞株をとして樹立した。この細胞をC57BL/6Jマウスに尾静脈注入し、19日後に肺組織を観察した。コントロール群と比較してTDAG8安定発現細胞を注入したマウスでは肺における結節は数、大きさ共に増加していた。また肺の湿重量及び乾燥重量にも有意な差が見られた。更に肺組織のパラフィン切片のヘマトキシリン - エオジン染色により、TDAG8安定発現細胞を注入したマウスにおいて肺内部の腫瘍形成も促進していることが分かった。さらに致死率も有意に高かった。癌の進行におけるTDAG8のより幅広い関与を調べるために、皮下にTDAG8安定発現細胞を注入したマウスでもコントロール細胞群と比較して腫瘍形成が有意に促進された。

このようにLLC細胞にTDAG8を過剰発現させると肺への転移及び皮下における腫瘍形成が増悪化した。上で述べたようにTDAG8は細胞外pH感知性受容体である。従って腫瘍の形成に伴う周辺環境の酸性化がTDAG8を活性化し、発現細胞に何らかの影響を与えていると考えられる。そこでLLC細胞をin vitroで酸性刺激し、様々なシグナル解析を行うことにした。

まず、酸性条件でのLLC細胞の増殖能を評価するため、細胞を種々のpHの培地で2日間培養し、細胞数を計測した。中性条件(pH = 7.4)に比べ、酸性条件(pH = 6.4)では細胞の増殖はある程度抑制されるものの、TDAG8安定発現細胞はコントロール細胞よりも有意に増殖能が高かった。また、生細胞と死細胞の割合及びアポトーシスの有無を調べるため、細胞をpH 6.4で48時間培養後Annexin VとPIで染色し、フローサイトメトリーによる解析を行った。TDAG8安定発現細胞はコントロール細胞と比べて高い生存率を示したことから、TDAG8の発現は酸性条件下での増殖及び生存を促進していることが明らかになった。TDAG8安定発現細胞の酸性条件における増殖能の維持はチミジン取り込み実験及びMTTアッセイによっても確認された。次に、この酸性条件下における増殖能の維持にどのシグナル経路が関与しているかを調べるために、様々なキナーゼ阻害剤を用いたMTTアッセイを行った。その結果、PKA, MEK1/2の阻害剤であるH89, U0126で細胞を処理した場合、酸性条件でのTDAG8安定発現細胞の細胞増殖能の大部分は消失した。一方で、それぞれPI3K, Akt, mTORの働きを阻害するLY294002, Akt inhibitor V及びラパマイシンによる細胞活性抑制効果はTDAG8安定発現細胞、コントロール細胞共に同程度であったことから、これらのキナーゼは酸性条件下でのTDAG8シグナル経路ではそれほど大きな役割は果たしていないと考えられる。続いてリン酸化ERKをウエスタンブロット法により観察したところ、コントロール細胞では酸性条件でリン酸化ERKレベルの減少が見られたが、TDAG8発現細胞では中性条件とほぼ同レベルであった。さらに、H89は酸性条件でのリン酸化ERKレベルを劇的に下げることも明らかになった。PKAはRafアイソフォーム(B-Raf)の有無によりERKシグナル経路を活性化もしくは抑制することが知られている。すなわち、PKAはB-Rafを発現しない細胞ではRap1を活性化することによりRasによるRaf-1の活性化を抑制し、結果としてERKのリン酸化を阻害する。一方B-Rafを発現する細胞ではPKAはRap1を介してB-Rafを活性化しその結果ERKのリン酸化が促進される。そこでPCR法を用いたところ、LLC細胞はB-Rafを発現していることが分かった。以上の結果からTDAG8は酸性条件におけるLLC細胞の生存・増殖を促進すること、そのシグナルはPKA及びERK依存的であることが示唆された。

癌細胞内のシグナル経路が活性化されることにより、様々な遺伝子の発現が上昇し、悪性化を促すことが知られている。そこで、TDAG8発現及びコントロールLLC細胞を酸性条件で培養し、定量的RT-PCR法によって種々の遺伝子の発現変動を解析した。iNOS, CXCL12, VEGF, MMP9, EREGのmRNAレベルは刺激前後で変化はなかったのに対して、Cox-2, mPGES, MMP2のmRNA発現誘導はコントロール細胞と較べて有意に促進された。実際にLLC細胞投与マウスの肺組織を回収しCox-2のmRNAレベルを比較したところ、TDAG8安定発現細胞投与マウスではコントロール細胞投与マウスと比較して有意に高かった。また、肺組織に含まれる脂質を質量分析計で解析した結果、TDAG8安定発現細胞投与マウスはコントロール細胞投与マウスと比べて有意に多いPGE2、PGI2を含んでいることも明らかになった。しかしながら、Cox-2選択的阻害剤NS398とPGE2を用いたMTT実験の結果からCox-2およびPGE2はLLC細胞の酸性条件における増殖促進には直接関与していないと考えられる。

血管新生の促進因子である転写因子HIF1αは低酸素下で誘導され、VEGF, アンジオポエチン2(Ang-2)などの血管新生因子の発現を促進する。この過程におけるTDAG8の関与を調べるため、LLC細胞を低酸素模倣モデルで用いられるデスフェロキサミン(DFO)存在下で培養し、定量的 PCRによる遺伝子変動解析を行った。しかし、HIFα, VEGF, Ang-2のいずれもコントロールと較べて有意な には関与していないことが示唆された。

これまで観測された現象がGPCRの過剰発現に伴う非特異的な現象によるものではなくTDAG8の機能を介していることを示すために、TDAG8の機能欠損変異体を作製した。これらの変異体安定発現細胞は、酸性刺激に対するcAMP産生およびチミジン取り込み実験から、pH感知機能の大部分が損失していた。これらの変異体安定発現LLC細胞、コントロール細胞、野生型TDAG8安定発現細胞をマウスに尾静脈注射し、肺の解析を行った。その結果、変異体発現細胞投与群は野生型TDAG8安定発現細胞投与群と比較して腫瘍形成が大幅に減少した。

以上の結果から今回の現象はTDAG8のpH感知機能に起因するものであること、cAMPの上昇を介して酸性条件での増殖能が保持されることを強く示唆していると考えられる。TDAG8の生体での機能は従来ほとんど明らかにされておらず、本研究により癌細胞増殖との関連が初めて明らかとされた。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は細胞外pH感知性G蛋白質共役型受容体T-cell death-associated gene 8 (TDAG8)の腫瘍亢進における役割を明らかにするため、TDAG8安定発現マウス肺ガン細胞(LLC細胞)を用いてin vitro, in vivoの解析を行ったものであり、下記の結果を得ている。

1. リポフェクション法により遺伝子を導入し、セルソーティングシステムにより精製したTDAG8安定発現LLC細胞はコントロール細胞と比較して細胞外pH感知性を示し、酸性刺激に応じてcAMPを産生した。

2. TDAG8安定発現LLC細胞もしくはコントロール細胞をC57BL/6Jマウスの尾静脈に注射し、肺における腫瘍形成を観察したところ、コントロール細胞投与マウスと比較してTDAG8安定発現LLC細胞を注射したマウスでは腫瘍形成が著しく亢進され た。また、致死率においても有意な差があることが示された。

3. 皮下注射によるモデルにおいても同様にTDAG8は腫瘍形成を有意に促進した。

4. 酸性条件下での細胞数測定・チミジン取り込み・MTT実験の結果から、TDAG8は酸性条件における細胞増殖の維持に寄与していることが明らかになった。

5. キナーゼ阻害剤を用いたMTT実験から、TDAG8安定発現LLC細胞の酸性条件下での増殖維持は主にPKAおよびERK依存的であることが明らかになった。続いて、リン酸化ERKレベルをウエスタンブロット法により観察したところ、コントロール細胞では酸性条件でリン酸化ERKの減少が見られたのに対して、TDAG8安定発現細胞では中性条件とほぼ同レベルに維持されていた。また、PKA阻害剤H89を培地に添加することにより、TDAG8安定発現細胞の酸性条件下でのリン酸化ERKレベルは劇的に減少したことから、PKAはERKの上流に位置することが示唆された。PKAはB-Raf存在細胞ではERKを活性化することが知られている。PCRによりLLC細胞ではB-RafはmRNAレベルで発現していることが明らかになった。

6.TDAG8安定発現及びコントロールLLC細胞を酸性条件で培養し、mRNAを回収した後に定量的PCR法によって種々の遺伝子の発現変動を解析した。その結果、酸性条件でTDAG8安定発現細胞におけるCox-2, mPGES, MMP2のmRNA発現誘導はコントロール細胞と較べて有意に促進されることが示された。一方で、iNOS, MMP9, EREG, VEGFの発現量はTDAG8の発現の有無に左右されなかった。続いてTDAG8安定発現細胞及びコントロール細胞を尾静脈投与し、19日後に肺からtotal RNAを精製した。逆転写後にreal time PCR法でCox-2とβ-actinの発現量を調べたところ、β-actinには大きな差がなかったのに対して、Cox-2の発現はTDAG8安定発現細胞投与マウスの方が有意に多かった。また、同様に肺から脂質を抽出し、質量分析による定量を行ったところ、PGE2, PGI2の含有量はTDAG8安定発現細胞投与マウスにおいて有意に高かった。しかしながら、Cox-2選択的阻害剤NS398とPGE2を用いたMTT実験の結果からCox-2およびPGE2はLLC細胞の酸性条件における増殖促進には直接関与していないと考えられた。

7.これまで観測された現象がGPCRの過剰発現に伴う非特異的な現象によるものではなくTDAG8の機能を介していることを示すために、TDAG8の機能欠損変異体を作製した。これらの変異体安定発現細胞では、酸性刺激に対するcAMP産生およびチミジン取り込み実験から、pH感知機能の大部分が損失していた。これらの変異体安定発現LLC細胞、コントロール細胞、野生型TDAG8安定発現細胞をマウスに尾静脈注射し、肺の解析を行った。その結果、変異体発現細胞投与群は野生型TDAG8安定発現細胞投与群と比較して腫瘍形成が大幅に減少したことから、今回観測された腫瘍増殖現象はTDAG8の細胞外pH感知性を介して起きたものであると考えられた。

以上、本論文はマウス肺ガン細胞(LLC細胞)に過剰発現したTDAG8は主にPKA, ERK依存的に腫瘍増殖を促進し、腫瘍形成を亢進することを明らかにした。TDAG8の生体での機能は従来ほとんど明らかにされておらず、本研究によりガン細胞増殖との関連が初めて明らかとされ、これらの知見は腫瘍増殖メカニズムの解明に重要な貢献をなすと考えられるため、学位の授与に値するものと考えられる。

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