学位論文要旨



No 123643
著者(漢字) 大内,靖夫
著者(英字)
著者(カナ) オオウチ,ヤスオ
標題(和) 網膜幹細胞未分化性維持の分子機構の解明
標題(洋) Analysis of the molecular mechanism to maintain the undifferentiated state of the retinal stem cells
報告番号 123643
報告番号 甲23643
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2982号
研究科 医学系研究科
専攻 分子細胞生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三品,昌美
 東京大学 教授 栗原,裕基
 東京大学 教授 井上,純一郎
 東京大学 教授 真鍋,俊也
 東京大学 准教授 中田,隆夫
内容要旨 要旨を表示する

<要旨>

1.背景

網膜幹細胞は魚類などの下等脊椎動物では成体においても網膜辺縁部に存在し生涯を通じて増殖し細胞を補充しつづけることが知られているが、哺乳類ではこのような細胞は存在せず、哺乳類成体においても幹細胞を維持しうる細胞内シグナル、転写制御といった分子基盤の解明は発生学、幹細胞学の観点から一つの重要課題とされている。一方近年、哺乳類成体毛様体組織の細胞がNeurosphere法にて培養することにより、網膜幹細胞様の性質を示すことがRetrospectiveな解析から明らかになり網膜幹細胞の供給源として期待されているが、いまだマーカーも不明であり、細胞表面抗原を用いたProspectiveな同定とその幹細胞性を示す細胞の起源の解明が待たれている。

本研究では以上の課題を明らかにするため、網膜幹細胞の未分化性に関する(1)細胞内シグナル、(2)転写制御、(3)細胞表面抗原に着目し研究を行った。

1.細胞内シグナルの解析

網膜幹細胞、前駆細胞におけるWntシグナルの機能解析

近年、様々な幹細胞の未分化性維持因子として報告されているWntシグナル伝達経路に着目し哺乳類網膜前駆細胞における機能を明らかにすることを目的とし、マウス網膜体外培養系、Cre-LoxPシステムを用いたトランスジェニックマウスの系を用いてWntシグナルを活性、不活性化し解析を行った。

マウス胎生17日目、網膜体外培養系にレトロウイルスベクターを用いて前駆細胞特異的にWntシグナルに関る変異体を導入し細胞の形態、増殖、分化、網膜内での局在について解析した。その結果、後期網膜前駆細胞の解析系であるマウス網膜対外培養系におけるWntシグナルの活性化は網膜前駆細胞の増殖、細胞分化系譜に影響を与えず神経突起の伸長つまり細胞形態の成熟を阻害した。一方、Wntシグナルの抑制は神経突起の伸展を促進した。また同様の結果はPC12細胞を用いたNGF依存性の神経突起の伸長モデルにおいても認められ、神経突起の伸展に必要とされるMAPKの活性化には影響を与えず神経突起の制御を行っていることが示唆された。

次により初期に存在する網膜前駆細胞におけるin vivoでの役割を明らかにするため、Cre-LoxPシステムを用いWntシグナル伝達経路の主要な構成分子であるβ-cateninを網膜前駆細胞特異的に活性化、不活性化し解析を行った。

その結果、初期網膜前駆細胞におけるWntシグナルの活性化、不活性化ではそれぞれWntシグナルを活性、不活性化した辺縁部において細胞の凝集塊、層構造の乱れが見られた。

また辺縁部未熟網膜前駆細胞のマーカーであるSSEA-1の発現細胞がそれぞれ増幅、減少した。しかし、Wntシグナルの活性化によりその後分化マーカーの発現が認められなくなるものの、前駆細胞の増殖は促進されなかった。またWntシグナルを不活性化した場合においても前駆細胞の増殖には大きな影響は認められなかった。

以上の結果からWntシグナル伝達経路はマウス網膜前駆、幹細胞において細胞増殖に影響を与えず細胞の形態的成熟、細胞運命の決定といった細胞分化過程を抑制していることが示唆された。

次に当教室で作成したDNA Microarrayのデータベースを用いてこのWntシグナルによって制御を受けるSSEA-1陽性の辺縁部未熟網膜前駆細胞の遺伝子発現強度を解析し、SSEA-1陽性細胞およびWntシグナルの網膜前駆細胞における機能について考察を試みた。

その結果、SSEA-1陽性細胞ではリガンドの発現強度はかなり低いものの、Wntシグナルの受容体、Targets遺伝子、Negative feedback分子の発現が中心部前駆細胞に比べ増強していた。このことからSSEA-1陽性の辺縁部未熟網膜前駆細胞はWnt受容細胞でありWntシグナルを受容すると同時にNegative feedbackによりシグナルを遮断する辺縁部に短期間存在する未熟な前駆細胞分画であると推測できる。

また、Wntシグナル伝達経路のTargets遺伝子として癌関連遺伝子として知られるCyclinD1,c-myc,NPM1,Enc1,id2といった遺伝子発現が上昇していた。中でも、NPM1,Enc1,id2といった分子は、NPM1欠損マウスは眼球が形成されないことが報告されているもののこれまで網膜において研究されていなく、癌細胞において細胞増殖促進、分化抑制といった様々な機能を持つことが報告されていることから、これらの分子がSSEA-1陽性網膜前駆細胞の未熟性に何らかの関与している可能性が考えられる。

2.転写制御の解析

Chx10遺伝子における進化的に保存された網膜前駆細胞特異的発現制御領域及びその上流因子の同定

Chx10および魚類における相同遺伝子Vsx2は進化的に保存された神経網膜前駆細胞を維持するのに重要な遺伝子であり、Chx10および相同遺伝子の変異により小眼球になることが様々な種で報告されている。本研究では前駆細胞の未分化性の維持に関与する転写制御の一旦の解明を目的とし、このChx10遺伝子の進化的に保存された網膜前駆細胞特異的発現制御領域を同定すると同時に上流因子の探索を行った。

その結果、Chx10遺伝子における進化的保存された網膜前駆細胞特異的遺伝子発現制御領域としてCNS1をBioinfomaticsによる解析にて推定し、ゼブラフィッシュ、マウスにおけるGFPレポーター遺伝子の発現解析により同定した。さらにこの同定した領域における網膜前駆細胞での発現に必要モチーフの解析をゼブラフィッシュを用いて行い、同定したモチーフに対するタンパク質の結合をEMSA法にて確認した。続いてこのモチーフに対する結合タンパク質を同定するため、磁気ビーズを用いてこのモチーフに結合するタンパク質を精製しプロテオミクス解析にて解析を行った。その結果、上流因子の候補としてNPM1、Fblを同定した。これらのゼブラフィッシュにおける相同遺伝子の発現を解析した結果、発生初期においてはユビキタスに発現するものの、その後、網膜前駆細胞、網膜辺縁部の網膜幹細胞にて強く発現することが見られた。またNPM1遺伝子欠損マウスは眼球が形成されないこと、Fbl遺伝子欠損マウスは発生初期における細胞増殖が抑制され致死になることが報告され細胞増殖に重要な機能を持っていることから、これらの分子の網膜前駆細胞の維持への関与が示唆された。

3.細胞表面抗原の解析

細胞表面抗原を用いた毛様体由来網膜幹細胞の同定

近年、哺乳類成体における網膜幹細胞の供給源として注目がされている毛様体における毛様体由来網膜幹細胞のProspectiveな同定を目指し、成体マウス毛様体及び、Neurosphere法にて増幅した毛様体由来網膜幹細胞の凝集塊に共通して発現する細胞表面抗原としてCD133に着目した。FACSおよび免疫染色などの解析からこのCD133陽性細胞は成体マウス毛様体の先端部に存在する若干の色素顆粒をもった希少な細胞集団であることがわかった。このことからCD133陽性細胞は毛様体色素上皮細胞の一部の細胞であり、この細胞表面が毛様体由来網膜幹細胞の起源の解明につながることが期待できる。

4.総括

以上の結果により、哺乳類網膜幹細胞の未分化性の維持においてWntシグナルの活性化は細胞増殖の促進には寄与せず、網膜幹細胞、前駆細胞の細胞の形態的成熟、細胞運命の決定といった分化過程において抑制的働いていることが示唆され、NPM1,id2,Enc1といった癌の悪性化に関連するWntシグナルターゲット遺伝子の発現を介していることが考えられる。

また、網膜幹細胞の未分化性維持において幹細胞の増殖に重要な機能をすることが知られているChx10遺伝子の網膜幹細胞、前駆細胞特異的な転写制御は、魚類、哺乳類間で保存されたCNS1エンハンサーによって制御されており、NPM1、Fblといった分子がこの領域結合タンパク質として同定された。これらの分子が網膜幹細胞におけるChx10遺伝子の転写制御に寄与している可能性が示唆された。

一方、網膜幹細胞の未分化性の維持において、成体毛様体組織からNeurosphere法にて作成しされる毛様体由来網膜幹細胞は細胞表面抗原としてCD133を発現しており、毛様体においては毛様体色素上皮の一部の細胞においてCD133の発現が認められたことから、網膜幹細胞が成体毛様体組織で維持されているのではなく、一部の上皮細胞がtransdifferentiationすることで幹細胞性を獲得する可能性が考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は網膜幹細胞の未分化性維持の分子機構の解明を目的とし、網膜幹細胞の未分化性に関する(1)細胞内シグナル(網膜幹細胞、前駆細胞におけるWntシグナルの機能解析)、(2)転写制御(Chx10遺伝子における進化的に保存された網膜前駆細胞特異的発現制御領域及びその上流因子の同定)、(3)細胞表面抗原(細胞表面抗原を用いた毛様体由来網膜幹細胞の同定)に着目し研究を試みたものであり、下記の結果を得ている。

(1)細胞内シグナル(網膜幹細胞、前駆細胞におけるWntシグナルの機能解析)

(i)胎生17日目マウス網膜体外培養系を用いた後期網膜前駆細胞における機能解析

1.胎生17日目マウス網膜体外培養系にレトロウイルスベクターを用いて前駆細胞特異的にWntシグナルに関る変異体を遺伝子導入しβ一cateninの下流シグナルの活性化、抑制実験を行い、細胞形態、増殖、分化系譜について解析を行った結果、β一cateninの下流シグナルの活性化、不活性化により細胞の増殖、分化系譜には変化は見られないものの活性化により神経突起の伸長が阻害された。

2.神経突起伸長モデル系としPCI2細胞にWntシグナルに関る変異体を遺伝子導入しβ-cateninの下流シグナルの活性化、抑制した状態におけるNGF依存性の神経突起の伸長を解析した結果、β一cateninの下流シグナルの活性化、不活性化により神経突起の伸長がそれぞれ有意に阻害、促進された。

3.PC12細胞における神経突起の伸長にはMAPKシグナル伝達経路の活性化が必要であることから、PC12細胞においてMAPKの活性化により発現が上昇することが知られているcfos、elk-1遺伝子のプロモーターの活性を一過性のルシフェラーゼレポーター遺伝子を用いて解析を行った。その結果、恒常的活性化型Mekの遺伝子導入によるこれらのレポーター遺伝子の活性化に対し、恒常的活性化型Lefの遺伝子導入は影響を与えなかった。

4.一部の神経細胞において神経突起の伸展にはMAPKシグナル伝達経路の活性化が必要なことが報告されていることから、網膜発生過程におけるMAPKの活性化およびその機能解析をMEK阻害剤、MAPKシグナル伝達経路の変異体を用いて行ったが細胞の増殖、分化系譜、神経突起の伸長に影響を及ぼさなかった。

(ii)Cre-LoxPシステムを用いた網膜幹細胞、初期前駆細胞における機能解析

5.初期に存在する網膜幹細胞、初期前駆細胞におけるin vivoでの役割を明らかにするため、Cre-LoxPシステムを用いWntシグナル伝達経路の主要な構成分子であるβ-cateninをPax6 α-Creマウスを用い網膜前駆細胞特異的に活性化、不活性化し網膜の形態にっいて解析を行った。その結果、初期網膜前駆細胞におけるβ-cateninの活性化、不活性化ではそれぞれβ-cateninを活性、不活性化した辺縁部において細胞の凝集塊、層構造の乱れが見られた。

6.β-cateninの活性化、不活性化マウス網膜における各種網膜細胞のマーカー、細胞増殖について解析を行った。その結果、辺縁部未熟網膜前駆細胞のマーカーであるSSEA-1の発現がβ-cateninの活性化、不活性化によりそれぞれ増幅、減少した。一方、β-cateninの活性化により各種網膜細胞分化マーカーの発現が認められなくなるものの、前駆細胞の増殖は促進されなかった。またβ-cateninを不活性化した場合においても前駆細胞の増殖には大きな影響は認められなかった。

(iii)DNAMicroarrayを用いたSSEA-1陽性の辺縁部未熟網膜前駆細胞におけるWntシグナル関連遺伝子の遺伝子発現強度の解析

7.DNA Microarrayを用いSSEA-1陽性の辺縁部未熟網膜前駆細胞、c-kit陽性中心部網膜前駆細胞におけるWntシグナル関連遺伝子の遺伝子発現強度の解析を解析しSSEA-1陽性細胞において有意な発現の変化が認められる遺伝子を解析した。その結果、SSEA-1陽性の辺縁部未熟網膜前駆細胞においてはリガンドの発現強度はかなり低いものの、Wntシグナルの受容体、Targets遺伝子、Negativefeedback分子の発現が中心部前駆細胞に比べ増強していた。このことからSSEA-1陽性の辺縁部未熟網膜前駆細胞はWnt受容細胞でありWntシグナルを受容すると同時にNegativefeedbackによりシグナルを遮断する辺縁部に短期間存在する未熟な前駆細胞分画であると推測できる。また、WntシグナルのTargets遺伝子として癌関連遺伝としてよく知られているCyclinD1,c-myc,NPM1,Enc1,id2といった遺伝子の発現が上昇していた。

(2)転写制御(Chx10遺伝子における進化的に保存された網膜前駆細胞特異的発現制御領域及びその上流因子の同定)

8.Chx10遺伝子における進化的保存された網膜前駆細胞特異的遺伝子発現制御領域CNS1をBioinfomaticsを用いたゲノムの保存性解析にて推定し、ゼブラフィッシュ、マウスにおけるGFPレポーター遺伝子の発現機能解析により同定した。またゼブラフィッシュを用いたCNS1領域における網膜前駆細胞特異的な発現に必要なモチーフを解析からMotifII、MotifIIIを同定した。

9.同定したMotifII、MotifIIIのDNA断片に対するタンパク質の結合をEMSA法にて確認した結果、複数のタンパク質の結合が認められた。また、このモチーフ結合タンパク質を磁気ビーズにて精製しSDS-PAGEにて解析した結果、複数のタンパク質の結合が認められ、MALDI-TOF/TOF-MASSにて解析した結果NPM1、Fb1などのタンパク質を同定した。

10.同定したNPM1、Fb1遺伝子のゼブラフィッシュにおける相同遺伝子の発現をデーターベースを用いて解析した結果、発生初期においてはユビキタスに発現するものの、その後、網膜前駆細胞、網膜辺縁部の網膜幹細胞にて強く限局した発現することが見られた。一方、マウス網膜発生過程における発現をRT-PCRにて解析した結果、どちらの遺伝子も発生と共に発現が減弱し、NPM1に関しては成体網膜においても発現が認められうることがわかった。またNPM1の発現を免疫染色にて解析した結果、発生初期の網膜前駆細胞において核内に限局した発現を示し、発生と共にその核内に限局した発現が辺縁部に限局してくることが認められた。

(3)細胞表面抗原(細胞表面抗原を用いた毛様体由来網膜幹細胞の同定)

11.成体マウス毛様体組織をDispase I,Trypsinにて乖離しFlow cytometryを用いてCD133,CDI38,SSEA-1の発現解析を行った結果、CDI33,SSEA-1陽性細胞の存在が認められた。一方、成体マウス毛様体からNeurosphere法にて作成した毛様体由来網膜幹細胞の凝集塊においてはCD133の発現が認められた。

12.CDI33のマウス網膜発生段階での発現を解析した結果、胎生14日目においてにてapical側の前駆細胞において発現が認められ、生後20日目においては視細胞の外節部分において発現が認められた。一方、毛様体においては発生段階では顕著な発現は見られず、生後20日目において若干の細胞で陽性細胞が確認された。

13.成体マウス毛様体における発現を解析した結果、毛様体先端部の内部においてその発現が認められた。一方、毛様体組織を乖離し染色を行った結果、CD133陽性細胞は若干の色素顆粒をもった細胞で認められた。透過型電子顕微鏡にてこの毛様体先端部の微細形態を確認した結果、特に神経前駆細胞様の細胞は確認されず、色素顆粒の少ない毛様体色素上皮細胞が存在していた。

以上、本論文は網膜幹細胞の未分化性に関する(1)細胞内シグナル、(2)転写制御、(3)細胞表面抗原に着目した3つのアプローチの解析から、未分化性維持に寄与する細胞内シグナルとして哺乳類網膜幹細胞、前駆細胞におけるWntシグナルの活性化は細胞の増殖には寄与せず、細胞の形態的成熟、細胞運命の決定といった分化過程に抑制的に働いていることを明らかにした。

また、未分化性に関与する転写制御解析としてChx10遺伝子の進化的に保存された網膜幹細胞、前駆細胞特異的発現制御領域発現制御領域を同定し、その上流因子の候補としてNPM1,Fb1を同定した。一方、毛様体由来網膜幹細胞の細胞表面抗原の解析からCD133を同定し、毛様体色素上皮細胞の一部がtransdifferentiationにより幹細胞性を獲得する可能性があることを明らかにした。

本研究はこれまで未知に等しかった、網膜幹細胞の未分化性維持におけるWntシグナルの機能、Chx10遺伝子の転写制御、また毛様体由来網膜幹細胞の起源の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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