学位論文要旨



No 123655
著者(漢字) 眞部,寛之
著者(英字)
著者(カナ) マナベ,ヒロユキ
標題(和) 行動状態依存的に起こる呼吸パターンと嗅皮質・海馬の情報処理モードの協調的変化
標題(洋) Behavioral state-dependent coordinated change in the respiration pattern and the signal processing mode in olfactory cortex and hippocampus
報告番号 123655
報告番号 甲23655
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2994号
研究科 医学系研究科
専攻 機能生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三品,昌美
 東京大学 教授 飯野,正光
 東京大学 教授 真鍋,俊也
 東京大学 准教授 小西,清貴
 東京大学 特任准教授 河崎,洋志
内容要旨 要旨を表示する

我々の脳内には、睡眠覚醒状態などのbehavioral stateに対応した情報処理モードが存在し、この情報処理モードはそれぞれの脳領野の局所脳波に反映されると考えられている。例えば海馬において、探索行動時には大脳新皮質から海馬へと情報が流れるモードであると考えられているが、このとき海馬の局所脳波はθ波(4~12Hz)が観測される。また徐波睡眠時、海馬に蓄えられていた情報が大脳新皮質へと移行するモードであると考えられているが、海馬局所脳波は放線層での鋭波と、それと同時に起こるCA1細胞層でのリップル振動を散発的に伴う不規則な波が観測される。また、覚醒休息時や摂食・飲水時には、海馬局所脳波はθ波と、鋭波/リップル振動を伴う不規則な波が交互に現れる。しかし、これまで、嗅皮質でbehavioral stateの変化に伴う情報処理モードの変化があるかどうか知られていなかった。

本研究のPart 1では、嗅皮質がbehavioral stateの変化に伴って情報処理モードを変化させているかどうか、また、behavioral stateの変化に伴って起こる情報処理モードの変化が、脳の多くの領域で協調して起こる変化なのかどうかを検証するために、自由行動下ラットから嗅皮質局所脳波、海馬局所脳波、大脳新皮質局所脳波、呼吸リズムを同時に記録できる系を開発した。このラットから持続的に局所脳波を記録することにより、嗅皮質局所脳波がbehavioral stateの変化に伴って変化するかどうか、また、behavioral stateに伴う嗅皮質局所脳波の変化が、behavioral stateの変化に伴って起こる海馬局所脳波、呼吸パターンの変化と協調的に起こるかどうかを調べた。

各behavioral stateにおいて、嗅皮質局所脳波、海馬局所脳波、呼吸リズムはそれぞれ特徴的なパターンを示した(図1)。探索行動時、ラットは頻繁にsniffingを行い、このとき、呼吸リズムはθ頻度(平均6Hz)であった。海馬局所脳波はθ波を示し、嗅皮質局所脳波は呼吸リズムに同調したパターンが見られた。覚醒休息時、浅睡眠時には、ラットは主にゆっくり安定した呼吸パターンを示し、時々sniffingや深呼吸を起こした。覚醒休息時、嗅皮質局所脳波は呼吸に同調したパターンを示し、浅睡眠時には呼吸リズムとは独立した徐波が現れた。海馬局所脳波はθ波と鋭波/リップル振動を含む不規則な波が相互排他的に見られた。徐波睡眠時、ラットは安定した約1.2 Hzの呼吸が見られた。海馬局所脳波は鋭波/リップル振動を含む不規則な波となり、嗅皮質局所脳波は呼吸リズムとは独立した徐波となった。REM睡眠時、ラットは主にゆっくりした呼吸を示したが、不規則で、時として呼吸パターンが判別できないほど弱い呼吸になることもあった。海馬局所脳波はθ波を示し、嗅皮質局所脳波は大部分θ波を示した。以上の結果より、嗅皮質局所脳パターンはbehavioral stateの変化に伴って変化し、海馬局所脳波パターンのbehavioral stateに伴う変化、呼吸パターンのbehavioral stateに伴う変化と協調して変化することが示された。このことは、嗅皮質の情報処理モードが、behavioral stateの変化に伴って変化することを示唆するとともに、behavioral stateの変化に伴って、脳の多くの領域で情報処理モードが協調して変化することを示唆している。

覚醒休息時と浅睡眠時、海馬局所脳波はθ波と鋭波/リップル振動を含む不規則な波が相互排他的に起こることが知られている。この脳波の変化は数秒単位で起こる非常に早い変化であった。この同一behavioral state内で起こる脳波パターンの非常に短時間での変化は、海馬内でのみ起こる情報処理モードの変化を示しているのであろうか?それとも、脳の複数の領域で協調して起こるグローバルな情報処理モードの変化を反映しているのであろうか?

本研究から、sniffing中や深呼吸の吸気において、sniffing前後のゆっくりした呼吸や深呼吸の無呼吸時に比べてリップル振動の出現が有意に抑えられることがわかった(図2)。リップル振動は鋭波と同時に起こり、海馬局所脳波がθ波を示すときには見られない。よって、ゆっくりした呼吸からsniffingや深呼吸の吸気に切り替わると、それに同調して海馬局所脳波が鋭波/リップル振動を含む不規則な脳波からθ波に変化すると考えられ、海馬局所脳波の数秒単位で起こる変化が呼吸パターンの変化と同調して起こることが示唆された。すなわち、海馬局所脳波の数秒単位で起こる変化は複数の脳領域が同調して起こるグローバルな変化であることが示唆された。

無麻酔下動物の徐波睡眠時やウレタン麻酔下slow-wave state時、大脳新皮質脳波は徐波を示すことが知られている。近年の研究と本研究により、大脳旧皮質である嗅皮質の局所脳波も徐波睡眠時やウレタン麻酔下slow-wave stateで徐波を示すことがわかった。この嗅皮質局所脳波で見られる徐波は大脳新皮質を起源とする徐波が伝播してきたものであるのか?それとも、大脳新皮質徐波の起源とは独立した起源を持つのか?本研究のPart2では、これら2つの可能性を検証した。

徐波睡眠時、嗅皮質局所脳波は約1 Hzの徐波が観察された。この徐波は呼吸リズムとは独立していた。よって、徐波睡眠時に見られる嗅皮質徐波は末梢からの入力とは独立していることがわかった。また、ウレタン麻酔下slow-wave stateにおいて、大脳新皮質脳波の徐波に同調し呼吸リズムに同調しない徐波が嗅皮質局所脳波で観察されるが、筆者は、まれにではあるが、大脳新皮質脳波が徐波を示さないfast-wave stateであるにもかかわらず、嗅皮質局所脳波が徐波を示す現象を発見した(図3)。このことは、嗅皮質徐波は大脳新皮質を起源とする徐波とは独立した起源を持つことを示唆する。次に、大脳新皮質脳波が徐波を示さないにもかかわらず嗅皮質局所脳波で徐波が見られる現象が無麻酔下ラットでも観察されるかどうか検討した。覚醒休息時、嗅皮質局所脳波は呼吸によってもたらされる、末梢からの入力による約1Hzの徐波が観察される。この徐波は、呼吸リズムに同調しない徐波と周波数帯が似ているので、この呼吸に依存する徐波を取り除くために両側嗅球除去ラットを作成し、自由行動下覚醒時に嗅皮質局所脳波で呼吸に依存しない徐波が見られるかどうか検討した。

覚醒休息時、両側嗅球除去ラット嗅皮質局所脳波は、呼吸リズムに同調しない徐波(0.5~1 Hz)が観察された。このとき、大脳新皮質脳波では徐波は観察されなかった(図4)。

以上の結果より、嗅皮質徐波は大脳新皮質を起源とする徐波とは独立した起源を持つことが示唆された。大脳新皮質徐波の起源は大脳新皮質内に豊富に存在する興奮性反回回路の同期的な活動によると考えられており、嗅皮質もまた興奮性反回回路の発達した領域であるので、嗅皮質徐波は嗅皮質を起源とする可能性がある。

まれにではあるが、大脳新皮質脳波が徐波を示さないfast-wave stateにもかかわらず、嗅皮質局所脳波は徐波を示す場合があった(赤線部)。Resp; 呼吸リズム、OC-EEG;嗅皮質局所脳波、HP;海馬局所脳波、NC-EEG;大脳新皮質脳波。

両側嗅球除去ラット嗅皮質局所脳波は覚醒中(大脳新皮質脳波が徐波を示さないstate)に徐波を示した。また、この徐波は呼吸リズムとは独立していた。Resp; 呼吸リズム、HP;海馬局所脳波、OC-L-I;左嗅皮質I層局所脳波、OC-L-III;左嗅皮質III層局所脳波、OC-R-I;右嗅皮質I層局所脳波、OC-R-III;右嗅皮質III層局所脳波、NC-EEG;大脳新皮質脳波。

図1) 各Behavioral stateにおける呼吸、海馬局所脳波、嗅皮質局所脳波、大脳新皮質脳波

Resp;呼吸リズム、HP;海馬局所脳波、Ripple;海馬リップル振動、OC-I;嗅皮質I層局所脳波、OC-III;嗅皮質III層局所脳波、NC-EEG;大脳新皮質脳波。矢印はsniffingを示す。

図2) sniffing時、深呼吸の吸気時、リップル振動の発生が抑制される。Sniffing中のリップル振動発生頻度が、sniffing前後2秒間に比べ優位に減少した(A、B)。また、深呼吸の吸気におけるリップル振動発生頻度が、深呼吸後に続く無呼吸時に比べ優位に減少した(C、D)。Resp;呼吸リズム、HP;海馬局所脳波、Ripple;海馬リップル振動。

図3) ウレタン麻酔下において、大脳新皮質脳波が徐波を示さないにもかかわらず、嗅皮質局所脳波が徐波を示す例

図4) 両側嗅球除去ラットの覚醒時に見られる呼吸リズムとは独立した嗅皮質徐波

審査要旨 要旨を表示する

我々の脳内では、覚醒・睡眠などのbehavioral stateに対応した情報処理モードが存在し、複数の脳領域がbehavioral stateの変化に伴って協調的に情報処理モードを変化させていると考えられている。また、この変化は各脳領域の局所脳波に反映されると考えられている。本研究のPart1では、これまで知られていなかった、嗅皮質におけるbehavioral stateに依存した情報処理モードが存在するのかどうか、また、他の脳領域と協調的に変化するかどうかを検証することを目的とした。

自由行動下ラットの嗅皮質、海馬から持続的に局所脳波を、また、呼吸リズムを同時に測定できる系を開発し下記の結果を得た。

1.嗅皮質局所脳波は動物のbehavioral stateに依存して変化することがわかった。すなわち、覚醒時、嗅皮質局所脳波は呼吸リズムと同調し、浅睡眠時や徐波睡眠時には呼吸リズムとは独立した徐波が見られた。また、REM睡眠時は呼吸とは同調しないシータ波が見られた。

2.behavioral stateの変化に伴って局所脳波が変化することがよく知られている海馬では先行研究と同様の結果となった。また、呼吸リズムもbehavioral stateの変化に伴って変化することがわかった。すなわち、覚醒探索時には主にsniffingを起こし、非常に速い呼吸パターンとなった。覚醒休息時、浅睡眠時にはゆっくりした呼吸が主になるが時々速い呼吸パターンとなった。徐波睡眠時はゆっくり安定した呼吸パターンとなり、REM睡眠時はゆっくりだが不安定な呼吸パターンとなった。よって、嗅皮質局所脳波、海馬局所脳波、呼吸パターンはbehavioral stateの変化に伴って変化し、その変化は協調的に起こることがわかった。

3.覚醒休息時または浅睡眠時、海馬局所脳波はシータ波モードとsharp waves/ripplesを含むイレギュラーな波モードとが数秒単位で切り替わることが知られている。この変化と呼吸パターンの変化が対応していることを発見した。すなわち、呼吸パターンがゆっくりした呼吸からsniffingや深呼吸の吸気になると海馬局所脳波はシータ波を示し、ripple出現頻度が減少することがわかった。このことは、同一behavioral stateにおいても脳内の複数の領域で協調した、数秒以内という非常に短い時間での情報処理モードの変化が起こることを示唆するものである。

徐波睡眠時、大脳新皮質では大脳新皮質を起源とする1Hz以下の徐波が観察される。本研究のPart2では、嗅皮質で起こる呼吸とは独立した徐波に着目し、嗅皮質徐波は大脳新皮質を起源とする徐波が伝播してきたものなのか、それとも、大脳新皮質徐波とは独立した起源を持つのか、の2つの可能性について検討し、下記の結論を得た。

1.ウレタン麻酔下では、大脳新皮質脳波は覚醒時と類似した低振幅速波を示すfast-wave stateと、徐波睡眠時と類似した高振幅徐波を示すslow-wave stateとが交互に現れる。嗅皮質局所脳波はfast-wave stateでは呼吸に同調した脳波となるが、slow-wave stateでは呼吸とは独立した徐波となる。今回私は、まれにではあるが、大脳新皮質脳波がfast-wave stateを示すにもかかわらず嗅皮質脳波が徐波となる現象を発見した。このことは、嗅皮質徐波の起源が大脳新皮質徐波の起源とは独立していることを示唆する。

2.嗅覚の1次中枢である嗅球を除去し、呼吸によってもたらされる末梢からの入力を遮断したラットを作成すると、覚醒下にも関わらず嗅皮質において徐波が観察された。この徐波は呼吸リズムとは独立していた。この結果は、嗅皮質徐波の起源が大脳新皮質徐波の起源とは独立していることを示唆するものである。

以上、本論文は嗅皮質でbehavioral stateの変化に伴って嗅皮質局所脳波が変化すること、またこの変化は海馬局所脳波、呼吸リズムのbehavioral stateの変化に伴う変化と協調して起こることを示した。また、同一behavioral stateにおいても数秒以内という短時間に、脳内の複数の領域で協調して情報処理モードが変化することを示唆する結果を得た。さらに、嗅皮質徐波の起源は大脳新皮質徐波の起源とは独立していることを示唆する結果を得た。これらの結果は、今までほとんど知られていなかった、嗅皮質における情報処理機構の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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