学位論文要旨



No 123688
著者(漢字) 加藤,紘之
著者(英字)
著者(カナ) カトウ,ヒロユキ
標題(和) 電位依存性カルシウムチャネルの活性化による非Hebb型長期増強の誘導
標題(洋)
報告番号 123688
報告番号 甲23688
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3027号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三品,昌美
 東京大学 教授 岡部,繁男
 東京大学 教授 狩野,方伸
 東京大学 准教授 河崎,洋志
 東京大学 准教授 尾藤,晴彦
内容要旨 要旨を表示する

我々の脳にいかにして情報が蓄積されるのかを解明することは、神経科学における重要な課題のひとつである。個体における記憶・学習の分子的基盤は神経細胞間のシナプス伝達効率の可塑性であると考えられている。こうした神経回路の可塑性が有する特性として20世紀前半に予測された仮説に、Hebbの法則がある。これは「2つの神経細胞が同時に発火したならばその細胞間の神経伝達は強化される」というシナプス前/後細胞の協働性と、「神経伝達の強化はシナプスごとに独立しており、同じ細胞上のシナプスでも互いに影響は及ぼさない」という入力特異性の2つの性質として記述されており、このような性質を持つ可塑性のことをHebb型の可塑性と呼ぶ。現在までに、Hebb型の可塑性は哺乳類の中枢神経系のさまざまな領域で観察されており、Hebbの法則は個体における記憶・学習の中心的な原理として位置付けられてきた。

シナプス伝達の長期可塑性には、長期増強 (long-term potentiation, LTP) と長期抑圧 (long-term depression, LTD) が存在する。LTPの誘導機構には未だ解明されていない部分が多いが、これまでの多くの報告からカルシウムイオンの必要性が示唆されてきた。カルシウムイオンはリン酸化酵素や脱リン酸化酵素の活性化を介して、神経伝達物質受容体や転写因子の調節、さらにはシナプスの形態変化を引き起こすことによりLTPを誘導すると考えられている。

細胞へのカルシウムイオンの流入経路としては、主にNMDA受容体、電位依存性カルシウムチャネル (voltage-dependent calcium channel, VDCC)、細胞内小器官からの流出という3つの経路が知られている。これらの経路の中で最もよく調べられているものがNMDA受容体である。NMDA受容体は、シナプス前細胞から放出されたグルタミン酸の結合と、シナプス後細胞の脱分極の両者が同時に起こったときにカルシウムの流入を引き起こす。こうした性質により、NMDA受容体からのカルシウム流入はLTPにおけるシナプス前/後細胞の協働性と入力特異性を説明することが容易であるため、Hebbの法則の分子的基盤として広く受け入れられてきた。

一方、NMDA受容体と比較してVDCCや細胞内小器官からのカルシウムイオンがLTPに有する役割は十分な検討を受けてこなかった。VDCCのLTPへの関与については、支持する報告と否定する報告の双方が存在し、意見の一致が得られていない。さらに、関与を支持する報告においても、VDCCからのカルシウムイオン流入だけでなく、シナプス前細胞から放出される因子が必要である可能性が論じられてきた。しかし、仮にVDCCからのカルシウムイオンだけでLTPが誘導されるならば、活動電位の発生により十分にVDCCが活性化した細胞においては、入力の有無に関わらず細胞上の広範なシナプスにLTPが誘導される可能性がある。このようなLTPが実際に存在するならば、Hebbの法則に従わない新たな可塑性の原理となることが期待される。

本研究においては、成体マウスの海馬CA1領域錐体細胞を標本として用い、VDCCから流入するカルシウムイオンによりLTPを誘導する実験手法を検討した。その結果、パッチクランプ法を用いて細胞を電位固定し、細胞体を脱分極させるパルスを間隔をあけて繰り返し与えることにより、シナプス前細胞からの入力線維を刺激することなくLTPが誘導されることを見出した。

このLTPの分子機構を検討するため薬理学的な実験を行なった。最初に、L型VDCCの阻害剤であるnifedipineの存在下で実験を行なったところLTPの誘導が抑制された。この結果から、脱分極パルスを用いたLTPの誘導にはL型VDCCから流入するカルシウムイオンが必要であることが示された。次に、LTPの細胞内機構を検討するためCaMKII阻害剤であるKN-93の存在下で実験を行なったところ、LTPの減弱が観察された。この結果から、VDCC依存的LTP (以下、VDCC-LTP) の誘導には、CaMKIIの活性化が必要であることが明らかとなった。また、シナプス前細胞から放出されるグルタミン酸の必要性を検討するために、NMDA受容体の阻害剤であるD-APVと代謝型グルタミン酸受容体の阻害剤であるMPEPを投与して実験を行なった。その結果、阻害剤の存在下でもLTPが誘導されたことから、NMDA受容体や代謝型グルタミン酸受容体の活性化はVDCC-LTPには必要ないことが示唆された。

次に、VDCC-LTPがHebbの法則を満たさないLTPであるのかを検討した。最初に、その入力特異性について詳細に検討するために、シナプス前細胞からの入力線維を刺激することなく観察される自発的シナプス後電流 (spontaneous excitatory post-synaptic current, sEPSC) の解析を行なった。その結果、脱分極パルスを与えた後ではsEPSCの振幅の増大が観察された。この結果は、VDCC-LTPが、入力の有無にかかわらず細胞上の広範なシナプスで誘導されることを示唆している。比較のために、ペアリングプロトコルを用いてNMDA受容体依存的LTP (以下、NMDA-LTP) を誘導して、その入力特異性を検討した。その結果、NMDA-LTPにおいては、入力を与えたシナプスだけで増強が誘導され、sEPSCの振幅には変化が無いことが確認された。この実験から、これまで広く研究されてきたNMDA-LTPとは異なり、VDCC-LTPは入力特異性を持たないことが明らかとなった。次に、シナプス前/後細胞の協働性について検討するため、電位依存性ナトリウムチャネルの阻害剤であるTTXを投与し、その条件で観察される微小シナプス後電流 (miniature excitatory post-synaptic current, mEPSC) の解析を行なった。その結果、TTXによってシナプス前細胞の発火を阻害した条件下でも、脱分極パルスによりmEPSCのLTPが誘導された。従って、VDCC-LTPの誘導にはシナプス前細胞の発火は必要ないことが明らかとなった。以上の結果からVDCC-LTPは、入力特異性、シナプス前/後細胞の協働性というHebbの法則の性質をいずれも持たないことが明らかとなった。さらに、VDCC-LTPについて、細胞上におけるシナプスの位置がLTPに影響を与えるかどうかを検討するため、mEPSCをrise timeにより分類し、LTPの大きさとの相関を検討した。その結果、rise timeの短いmEPSC分画ほど、脱分極パルス後の増強が大きいことが判明した。この結果は、細胞体に近いシナプスほど脱分極パルスによるLTPが誘導されやすいことを示唆するものである。

以上の結果は、VDCCからのカルシウムイオンの流入だけでLTPの誘導には十分であることを明らかにするとともに、入力特異性とシナプス前/後細胞の協働性を満たさないLTPが条件によっては誘導可能であることを示すものである。これは、記憶・学習の中心的な原理と考えられてきたHebbの法則に従わない、新たな可塑性の存在を支持するものである。このような可塑性の発見は、神経細胞のネットワークがいかにして情報を蓄えるかという理論に対して新たな原理を提供するとともに、われわれの脳の中で起こっている、記憶の形成という複雑な機構に関する理解を深めることにつながると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、記憶・学習の分子的基盤であると考えられているシナプス伝達の可塑性において、電位依存性カルシウムチャネル (VDCC) が持つ役割を明らかにすることを目的として実験を行なった。試料としては成体マウスの海馬スライスを用い、電気生理学および薬理学の手法により、下記のような結果を得ている。

1.海馬CA1領域の錐体細胞に対して、電位固定法によりシナプス後細胞を脱分極させるパルスを繰り返し与えた。パルスの条件を検討した結果、適切なプロトコルを用いることによりシナプス伝達の長期増強が誘導されることを見出した。

2.脱分極パルスを用いた長期増強は、L型VDCCに対する阻害剤によって抑制された。この結果は、脱分極により電位依存性カルシウムチャネルが活性化し、そこからのカルシウムイオンの流入により長期増強が誘導されたことを示唆している。

3.脱分極パルスを用いた長期増強は、CaMKIIに対する阻害剤により減弱した。この結果から、カルシウムイオンの流入による細胞内のCaMKIIの活性化が、長期増強の誘導において少なくとも経路の一部を担っていることが明らかとなった。これは、VDCC依存的長期増強が、NMDA受容体依存的長期増強と共通の経路を使用していることを示唆している。

4.spontaneous EPSCおよびminiature EPSCの解析から、脱分極パルスを用いた長期増強は入力特異性を持たず、シナプス前細胞の発火がなくとも誘導されうることが明らかとなった。これは、NMDA受容体依存的な長期増強とは大きく異なる性質である。この結果は、VDCC依存的長期増強が、記憶・学習の原理と考えられてきたHebbの法則を満たさない可塑性であることを示している。

5.miniature EPSCのkineticsの解析から、脱分極パルスによる増強の程度は、細胞体に近いシナプスほど大きいことが明らかとなった。

以上、本論文はマウスの海馬スライスにおいて、電位依存性カルシウムチャネルの活性化によりシナプス伝達の長期増強が誘導可能であることを明らかとした。これは、Hebbの法則に従わない長期増強が生体内に存在する可能性を示すものである。この研究は、記憶・学習の分子メカニズムの解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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