学位論文要旨



No 123717
著者(漢字) 井上,真理子
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,マリコ
標題(和) 網膜細胞分化における機能的分子の解析
標題(洋)
報告番号 123717
報告番号 甲23717
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3056号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森本,幾夫
 東京大学 教授 井上,純一郎
 東京大学 准教授 内丸,薫
 東京大学 教授 宮園,浩平
 東京大学 特任准教授 河崎,洋志
内容要旨 要旨を表示する

<緒言>

高齢化社会を迎え、加齢に伴って進行する疾病に起因する中途失明は増加傾向にあり、眼の機能維持、再生は重要な社会的課題となっている。失明や視力低下を来たす疾患には、視細胞の変性や消失が直接の原因であるものがあり、その治療法の一つとして視細胞移植が検討されてきた。しかし、移植する細胞の種類、供給源など明らかにすべき問題は多く、臨床への応用の道はいまだ遠い。

脊椎動物の神経網膜は7種類の細胞が形成する3層構造から成る。外顆粒層に存在する2種類の視細胞、桿体と錐体は、視覚情報を最初に受容する極めて重要な細胞である。7種類の異なる細胞はすべて、共通の多能性網膜前駆細胞から、一連の順序に従って発生し、転写因子などの内因性要素と外因性シグナルがその制御に関与していると考えられているが、いまだ不明の点も多い。私は、視細胞の再生を最終目標として、視細胞の発生制御メカニズムの解明のため、2つのアプローチにより研究を行った。

1つ目は、視細胞特異的に発現する表面マーカーの同定を目的とした研究である。幹細胞あるいは細胞移植による再生の研究は、血液学が大きくリードしているが、この進展には細胞表面抗原による細胞の分化系列の決定と、それによる特定の血液細胞亜集団の単離、精製が可能であることが大きく寄与していると考えられる。それに対して、これまでに報告されてきた視細胞特異的な分子はすべて細胞内に局在するものであり、7種類の網膜細胞の中から視細胞のみを生きたまま選別することを困難にしていた。私の所属する研究グループでは、フローサイトメトリーを用いて発生期マウス網膜に発現するCD抗原の探索を行ってきたが、その中で、CD73は、出生前後に発現し始め、その後、発生経過に伴って発現細胞数が増加、成体では網膜細胞の90%以上に発現していた。これは、桿体の発生と、時期、数ともに類似したパターンであることから、CD73が桿体特異的に発現するとの仮説をたて解析を進めた。

2つ目は、錐体の分化に関与する核内受容体の同定を目的に行った研究である。私の所属する研究グループでは、発生期網膜における核内受容体の発現を免疫染色によって網羅的に解析してきた。その中で、Chicken ovalbumin upstream promoter transcription factors (COUP-TFs)では、相同性の高い2つのhomolog、COUP-TF I、COUP-TF IIが、それぞれ、胎生期網膜の腹側、背側に強く発現する傾向を認めた。これは錐体の感光色素であるSオプシン、Mオプシンの分布とそれぞれ類似していることから、COUP-TFsが錐体の分化、さらにはオプシンの発現に関与しているとの仮説をたてた。

<方法と材料>

生後1日目のマウス網膜細胞からCD73陽性細胞と陰性細胞とを分離・培養し、成熟した桿体に含まれる感光色素であるロドプシンに対する抗体を用いた蛍光免疫染色によって、CD73発現細胞の、桿体への分化を検討した。さらに、RT-PCRを用いて、発生過程の桿体におけるCD73の発現を、桿体の分化に寄与する既知の分子と比較した。発生期網膜におけるCD73の役割と、CD73の発現に対する転写因子の影響は、マウス網膜体外器官培養系にレトロウイルスベクターを用いた強制発現にて解析した。アデノシンの作用は、その存在下で網膜を体外培養して検討した。

マウス網膜におけるCOUP-TFsの時間的空間的発現パターンは、蛍光免疫染色にて解析した。次に、その役割の解析のため、マウス網膜体外器官培養系にレトロウイルスベクターを用いてCOUP-TFsの強制発現を行った。COUP-TFsによる制御機構を解析するため、Y79 retinoblastoma細胞にCOUP-TFsを強制発現し、内因性のNrlの発現をRT-PCRで検討した。

<結果>

I) CD73に関する研究

生後1日目のCD73陽性細胞はロドプシンを発現していないが、9日目では大多数のCD73陽性細胞で発現を認めた。また、眼球切片の免疫染色では、CD73は桿体の発生部位に一致して、ロドプシンよりも早期から発現していた。さらに、生後1日目のマウス網膜から単離したCD73陽性細胞は、in vitroにおいて、陰性細胞より早い時間経過で視細胞分化を遂げたため、CD73は視細胞とその前駆細胞を早期からマークすると予想された。

そこで、次に、分化過程の桿体におけるCD73発現時期の解析のため、桿体分化における重要な転写因子であるCrx、Nrlと、CD73の発現時期を比較した。CD73はCrxよりも遅く、Nrlよりも早期に発現してくることがわかり、また、Crxを強制発現すると、CD73陽性細胞が増加した。以上より、桿体へと分化する細胞のなかで、CD73はCrxの下流に位置することが示唆された。

次に、視細胞分化におけるCD73の機能を検討した。CD73はecto-5'-nucleotidaseとも呼ばれ、細胞外AMPをアデノシンに変換する酵素である。発生期網膜細胞でアデノシン受容体の遺伝子発現を認めたことから、アデノシンが網膜に作用すると考えた。胎生期マウス網膜体外培養系にCD73を強制発現しても層構造や各細胞の数に変化は認めなかったが、アデノシンを添加して培養すると、1週間前後でロドプシン陽性細胞の有意な増加を認めた。しかしながら、さらに培養を継続すると差を認めなくなったことから、アデノシンは細胞の運命変化を伴わずに桿体の成熟のスピードを促進させたことが示唆された。

<視細胞分化におけるCD73の発現>

II)COUP-TFsに関する研究

マウス網膜におけるCOUP-TF Iの発現は、胎生期には網膜全体に広く認められたが腹側に強い傾向を示し、出生後には内顆粒層と神経節細胞層への集積を認めた。COUP-TF IIは胎生期から成体まで背側網膜で広く発現、腹側では内顆粒層と神経節細胞層の一部の細胞でのみ強く発現していた。細胞特異的なマーカーとの共染色から、COUP-TF I、IIともに、腹側、背側に関わらず、アマクリン細胞での強い発現を認めた。

網膜体外器官培養系にCOUP-TF I、IIをそれぞれ強制発現させたところ、アマクリン細胞と錐体の増加、双極細胞とミューラーグリア、桿体の減少を認めた。特に、COUP-TF IIの強制発現では、増加した錐体の大部分がMオプシン陽性であった。網膜各層ごとの細胞分布や、細胞増殖、細胞死には影響を認めず、COUP-TFsの強制発現は、内顆粒層細胞をアマクリン細胞に、外顆粒層細胞を錐体に、運命転換したことが示唆された。その機序として、他の細胞への分化に必須な遺伝子をCOUP-TFsが抑制した可能性を考えた。

アマクリン細胞の増加に関しては、アマクリン細胞以外の細胞の発生に必須であることが示されているPax6に着目し、COUP-TFsがその機能を抑制してアマクリン以外の内顆粒層細胞への分化を妨げたとの仮説をたてた。COUP-TF IもしくはIIとともにPax6を強制発現させたところ、アマクリン細胞はコントロールよりも増加傾向にあったが、その増加はCOUP-TFs単独の強制発現よりも有意に小さかった。さらに、Pax6単独強制発現、COUP-TFsとPax6の共発現のいずれの場合にも、ウイルス感染細胞の、内顆粒層で増加、外顆粒層で減少を認めたが、COUP-TFsとPax6の共発現による変化は、Pax6単独での変化より有意に小さかった。以上より、COUP-TFsがPax6に対して抑制的に作用したと考えられた。

桿体から錐体への運命転換に関しては、桿体特異的に発現する既知の遺伝子のなかで、もっとも上流に位置するNrlに着目した。Y79 retinoblastoma細胞は内因性のNrlを発現しているが、この細胞にCOUP-TFsを強制発現すると、NrlのmRNA発現低下を認め、網膜体外器官培養系でのCOUP-TFs強制発現の結果を支持する結果となった。さらに、Nrl遺伝子のプロモーター上流領域1.2Kbを用いたレポーターアッセイでは、COUP-TFsによるNrl遺伝子プロモーターの活性抑制が認められ、この領域を介した転写制御が示された。

<考察>

表面抗原であるCD73が桿体の分化過程早期から発現することを見出し、これにより桿体前駆細胞を単離、濃縮できることを初めて示した。分化途上にある視細胞が単離可能となれば、その分化メカニズムの研究のみならず移植にも有用であると考える。特に、近年、視細胞への分化過程にある前駆細胞を移植すると、その後の生着が良好であるとの報告があり、移植による視細胞再生に応用可能な発見であると考える。さらに、CD73の触媒産物であるアデノシンに関する発見は、アデノシンを用いてex vivoでの視細胞分化の効率やスピードの向上を促進できる可能性が示唆された。

COUP-TFsについては、発生期網膜においてユニークで特徴的な発現パターンを呈することを示し、COUP-TFsが錐体とアマクリン細胞の分化に関与することを示した。その機序としては、COUP-TFsによる、Nrlの発現とPax6の機能に対する抑制的作用を介していることが示唆された。また、COUP-TF IIはMオプシンの発現にも関与している可能性が考えられる。今後、錐体発生に関与する既報の他の分子との関連を解析していくことで、錐体の分化メカニズムのさらなる解明に貢献するものと考える。

<最後に>

本研究では2種類の視細胞に関して、今後のさらなる網膜発生制御メカニズムの解明と、視細胞移植に繋がる新しい知見を得ることが出来たと考える。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、網膜再生への応用を最終目標として、視覚機能において重要な役割を果たしている網膜視細胞の発生制御メカニズムを解析したものであり、下記の結果を得ている。

1. フローサイトメトリーを用いて、発生期マウス網膜細胞に発現する表面抗原をスクリーニング的に解析し、CD73の発現開始時期や発現細胞数の変化が、桿体の発生に類似することを見出した。成熟した桿体に含まれる感光色素であるロドプシンは、生後1日目のCD73陽性細胞では発現していないが、9日目では大多数で発現を認めた。マウス眼球凍結切片の免疫染色では、CD73が桿体の発生部位に一致して、ロドプシンよりも早期から発現していた。さらに、生後1日目のマウス網膜から単離したCD73陽性細胞はin vitroにおいて陰性細胞より早いタイムコースで桿体へと分化を遂げた。以上より、CD73が、桿体において分化過程の早期から発現していることが示された。

2.桿体のlineageにおけるCD73の発現時期の検討のため、生後1日目のマウス網膜細胞から、CD73陽性細胞と陰性細胞とを分離し、桿体分化に関与する転写因子のmRNA発現を比較した。網膜前駆細胞や早期の視細胞に発現する分子はCD73陰性細胞に強く発現していたが、CrxはCD73陽性、陰性の両方にほぼ同等に発現し、より後期の桿体に発現するNrlとロドプシンはCD73陽性細胞でのみ発現が見られた。さらに、これらの分子の発現の時間的推移を検討したところ、CD73の発現開始はCrxよりも後期で、Nrlよりも早期であった。以上より、桿体のlineageにおいて、CD73はCrxとNrlの間に位置することが示された。また、マウス未分化網膜の体外器官培養系にレトロウイルスを用いて、Nrl、Crxをそれぞれ強制発現させたところ、Crxの強制発現でのみCD73陽性細胞の増加を認め、CD73がCrxの下流にあることが示された。

3.CD73はecto-5'-nucleotidaseとも呼ばれ、細胞外AMPをアデノシンに変換する働きを持つことから、発生期網膜細胞におけるアデノシン受容体遺伝子発現を検討した。A1、A2a、A2bの3種類のアデノシン受容体が、特に出生後早期にCD73陽性細胞に発現することを示した。胎生期マウス網膜体外培養系を用いて、CD73を強制発現、もしくはKnock-downしたが、層構造や各種細胞の数に変化は認めなかった。そこで、その触媒産物であるアデノシンを添加して網膜を体外培養したところ、1週間前後で有意なロドプシン陽性細胞の増加を認めた。しかしながら、さらに培養を継続すると差は認められなくなった。さらに、アデノシンA1受容体のアゴニストである2-chloro-N6-cyclopentyl adenosine(CCPA)を添加して培養したところ、同様の現象を認めた。以上より、アデノシンは、A1受容体を介して、細胞の運命変化を伴わずに桿体の成熟のスピードを促進することが示唆された。

4.Chicken ovalbumin upstream promoter transcription factors (COUP-TFs)の時間的空間的発現パターンを、マウス眼球凍結切片の免疫染色にて詳細に解析した。COUP-TF Iは胎生期には網膜全体に広く発現するが腹側に強い傾向を示し、出生後には内顆粒層と神経節細胞層への集積を認めた。COUP-TF IIは胎生期から成体まで背側網膜で広く発現、腹側では内顆粒層と神経節細胞層の一部の細胞でのみ強く発現していた。それぞれの網膜細胞に特異的なマーカーとの共染色を行い、COUP-TF I、IIともに、腹側、背側にかかわらず、アマクリン細胞での強い発現が示され、特に腹側のCOUP-TF IIは、glycinergicアマクリンで発現することを示した。

5.マウス網膜体外器官培養法にレトロウイルスを用いてCOUP-TF I、IIをそれぞれ強制発現させ、免疫染色とフローサイトメトリーにて、ウイルス感染細胞でのアマクリン細胞と錐体の増加と、双極細胞とミューラーグリア、桿体の減少を示した。網膜各層ごとの細胞分布や、細胞増殖、細胞死には影響を認めず、COUP-TFsの強制発現は、内顆粒層細胞をアマクリン細胞に、外顆粒層細胞を錐体に、運命転換したと考えられた。とくに、COUP-TF IIの強制発現で増加した錐体の大多数がMオプシンを発現していた。

6. COUP-TF IもしくはIIとともにPax6を強制発現させたところ、アマクリン細胞の数は、コントロールよりも増加傾向にあったが、その増加はCOUP-TFs単独の強制発現よりも有意に小さかった。また、このウイルス感染細胞は、内顆粒層で増加、外顆粒層で減少していた。Pax6単独の強制発現でも同様の細胞分布の変化が報告されているが、COUP-TFsとPax6の共発現における変化は、Pax6単独での変化より有意に小さかった。以上より、COUP-TFsがPax6の機能を抑制する可能性が示唆された。

7. Y79 retinoblastoma細胞は内因性のNrlを発現しているが、この細胞にCOUP-TFsを強制発現したところ、mRNAレベルでのNrl発現低下を認め、網膜体外培養系でのCOUP-TFsの強制発現結果を支持する結果が得られた。また、Y79細胞にマウスNrl遺伝子のプロモーター上流領域1.2Kbを用いたレポーターアッセイでは、COUP-TFsによってNrl遺伝子プロモーターの活性が抑制されることを示した。

以上より、表面抗原であるCD73が分化過程早期から桿体に発現することを見出し、これにより桿体前駆細胞を単離、濃縮できることを初めて示した。分化途上にある桿体が単離可能となれば、その分化メカニズムの研究のみならず、移植による視細胞再生にも応用可能であると考えられる。また、発生期網膜におけるCOUP-TFsの特徴的な発現パターンを解析し、COUP-TFsが錐体とアマクリン細胞の分化に促進的に働くことを示した。さらに、その機序として、Nrlの発現とPax6の機能に対するCOUP-TFsの抑制的作用を示唆する結果も得ており、今後、錐体発生に関与する既報の他の分子との関連を解析していくことで、錐体の分化メカニズムのさらなる解明に貢献するものと考える。

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