学位論文要旨



No 123726
著者(漢字) 古賀,道子
著者(英字)
著者(カナ) コガ,ミチコ
標題(和) 日本人集団におけるヒト免疫不全ウイルスのエスケープ変異とウイルスの増殖・病態に関する研究
標題(洋)
報告番号 123726
報告番号 甲23726
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3065号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 徳永,勝士
 東京大学 教授 野本,明男
 東京大学 教授 山本,一彦
 東京大学 教授 高橋,孝喜
 東京大学 教授 俣野,哲朗
内容要旨 要旨を表示する

1型ヒト免疫不全ウイルス(Human immunodeficiency virus type1:HIV-1、本要旨ではHIVと表記する)は、ヒトに後天性免疫不全症候群(Acquired immune deficiency syndrome:ADS)を引き起こす原因ウイルスである。HIVは主に、CD4陽性Tリンパ球とマクロファージ系の細胞に感染し、感染後1~2週間にウイルス血症となり、発熱などの急性感染症状を呈する。mv特異的な細胞傷害性Tリンパ球(cytotxic T lymphocyte: CTL)が速やかに出現し、その増加と共に血中ウイルス量は減少するが、ウイルスは完全に排除されず無症候期へと移行する。この時期に血中HIVRNA量は個々人で比較的安定し(セットポイントとよぶ)、セットポイントは予後を規定する重要なパラメーターであり、その値が低いとAIDS発症が遅いといわれている。HIVのコントロールにはCTLが重要であり、CTLは主要組織適合抗原複合体(ヒトはヒト白血球抗原(human leukocyte antigen: HLA))class I分子によって提示されている抗原ペプチド(エピトープ)をHLA class I/ペプチド複合体の形で認識する。HLAは多様性に富み、各々提示できるペプチドが異なる。又、HIVは一本鎖RNAをゲノムとして持つレトロウイルスで、複製エラー頻度が高く(約1/104塩基)、1回の複製で平均1箇所の変異が入りうる。1目に約1×10(10)個のウイルス粒子が産生され、HIVは感染個体内で種々の変異をもつ多様なウイルス集団として準種(quasispecies)を形成していく。一方、感染個体の一時点をとってみると、良好な増殖フィットネスを持つウイルスが準種の中で優位となる。さらに、宿主の自然免疫、獲得免疫などにより、強い選択圧を受けながらHIVは増殖する。

宿主側の要因で、田Vの病態進行に大きな影響を与えるものにHLA-classI分子がある。日本人がHLA-A24(以下A24)を有する割合は6~7割(欧米は1割前後)に及び、日本人は1つのHLAに偏った集団群といえる。Nef領域138番目のアミノ酸から始まるNef138-10(RYPLTFGWCF)がA24に提示されるエピトープの1つであるが、2004年に、当研究室では、Nefl38-10(-IT2F)(TREPLTFGWCF)という変異HIVが流行していることを報告した。これは、CTLの攻撃から逃れるエスケープ変異と推測されている。即ち、現在の日本では、高いA24保有率の集団の中で特定のエスケープ変異体が流行している状態である。従って、このHIV変異体が病態進行に影響を及ぼす可能性が考えられたため、実際の患者におけるHIVRNA量を解析し、病態進行に与える影響を解析することを目的とした。

東京大学医科学研究所附属病院に通院し、2006年9月の時点でHLA-AB型が判明しているHIV感染者391人を対象とした。当研究所のガイドラインに従って対象者からインフォームドコンセントを得た。日本でHIV感染者が始めて確認されたのは1983年であり、米国より輸入された血液製剤を介して感染した血友病感染者であった。しかし、その後の国内でのHIVの感染経路は大きく変化し、現在は国内での性感染が主流となっている。まず、約20年前にA24抗原の保有者が少ない米国で流行したHIVに感染した血友病群と2000年以降にA24抗原の保有者が多い日本国内で流行しているHIVに感染した性感染群で比較し解析した。無症候期の1時点をセットポイントの代わりに用い、未治療でADS発症のない感染者群(CD4>100)に対象を絞ったため、血友病群ではA24抗原の有無に関わらず、HIV-RNA量が低い傾向になった(Mann-WhitenyUtest,p<0.0001)。血友病群の感染時期はおおよそ1980年前後であり、当院初診が1995年以降の集団の為、この頃まで無治療であった群は進行の遅い部分集団の可能性があり、本解析ではA24の影響は断定できないと考えられた。

次に、2000年以降に感染が判明し、セットポイントが算出(HIV-RNA量のセットポイントは、未治療で、ある時点を中心に2ヶ月以上間隔が開き、かつHIVRNA量で5倍以内の3時点でのHIV-RNA量平均値を採用した。)され、日本国内で性感染した対象群を作製した。この対象群(n=97人)を、欧米のデータで比較的予後が良いといわれるHLA.B51(以下B51、日本人・欧米人共に1~2割が保有する)の有無で解析するとB51抗原を保有する感染者のセットポイントは非保有感染者よりも低いことがわかった(同解析p=0.0239)。つまり、日本人集団でもB51抗原を保有する感染者は非保有感染者より予後が良い可能性があるといえる。しかし、日本人の6~7割が陽性で、CTLエスケープ変異HIVが流行しているA24抗原では、その有無でセットポイントに差はなかった(同解析p=0.3946)。A24抗原を含んだハプロタイプでの解析では、日本人に頻度の高い2つのハプロタイプ(A*2402-B*5201-Cw*1202-DRBI*1502、A*2402-B*0702-Cw*0702-DRB1*0101)で試みたが、有意差は無かった。

以上よりセットポイントを用いた解析から、A24抗原が高頻度の集団で、A24拘束性のエスケープ変異HIVが流行している2000年以降でもA24抗原はその予後にあまり影響せず、病態進行にニュートラルなHLAである可能性が高いと考えられた。

又、当研究室で、A24陰性感染者の体内で、Nefl38-10(-1T2F)をもつHIVは血中から減少し少なくとも5年以上要するものの消失しており、野生型エピトープを持つHIVが主要なウイルスとなったこと(復帰変異)が示された。このエスケープ変異HIVは感染個体で増殖しにくく、ウイルスの増殖能が低いため、A24の拘束性の無い個体では増殖能にすぐれていた元の配列へと復帰変異が起こったと推測された。

そこで、このNefl38-10を持つHIVとNefl38-10(-1T2F)を持つHIVでは、ウイルス自身の増殖能に差異があるのではないかと考え確認することにした。

HIV SF2株のNef138-10部分をNefl38-10(-1T2F)に変異させたHIV(SF2(-1T2F))を作製し、Nef138-10(wt)を持つHIV(SF2(wt))との増殖能を比較した。まず、各々作成したHIVをPMI細胞(T細胞系)にMOI0.0007で、末梢血単核球にMOI0.0001で単独感染させたが、共に増殖能に差は見られなかった。微妙な増殖能を検出するために、2種類の異なったHIVを競合感染させ、その比の推移を時系列でみることで、増殖能の微妙な差を検出するよう計画した。SF2(wt)とSF2(-1T2F)をPM1細胞にMOI0.001で感染させ、2:8,8:2の比で混合、培養を開始し、3~4目おきに上清を新しいPM1細胞に再感染させた。上清中のp24量の時系列変化を追い、HIVがPM1細胞に感染し、増殖し続けていることが確認された。4、8週間後の上清中のHIV Nefl38-10のシークエンス解析を20クローンずつ施行し、その割合の経時変化をみた。観察期間を8週にのばしても、その比は変わらず増殖能の差は検出できなかった。

1塩基変異部位をnef以外のRT領域(polの一部)にもつSF2(M184V)を作製し、SF2(wt)との増殖能を比較した。Ml84Vは、逆転写酵素阻害剤を使用中の薬剤耐性変異としてよく知られており、野生型より増殖能の低いことが知られている。その実験からも、採用した田V株の複製能が低く、変化を検出するのにより時間がかかった可能性が示唆された。加えて、注目したエピトープが、nef部位での変異であり、臨床的にも、in vivoでみられるnef部位の復帰変異は他の構造遺伝子部位より時間がかかっている(nef:5年以上、gag:2~4年)。そのため、より増殖能の差を検出しにくかったといえる。さらに、Nefは、in vivoでは他の細胞との相互作用が知られており、T細胞単独に感染させる実験系では、結果が出しにくかった可能性もある。

以上より、A24抗原の有無でセットポイントに差はみられなかった。すなわち、日本人感染者にエスケープ変異が流行している可能性を示唆した報告はあるが、2000年以降に感染が明らかになった感染者においてもA24抗原は予後を悪化させていない。In vivoでは減衰が極めて遅い変異であるという事実はあるが、in vitroの増殖実験もこれを支持しているものと考える。CTLによる選択圧、エスケープ変異の出現と選択、エスケープ変異の社会的流行、以上の事実があってもHLA-A24抗原が進行を早める方向に働いていない理由の1つとして、増殖能が野生型と変異体でほとんど変わらないことが考えられた。

本研究では、HLA-class I抗原によっては抗原の保有率はHIV感染症の病態進行に関係がないことを始めて明らかにした。民族差(HLA頻度の差)があってもHIV感染症の予後は変わらない可能性がある。今後はCTLを利用した治療ワクチンの開発などでエスケープ変異体の増殖能をより低下させることができれば、病態進行をむしろ遅延させることができ新たな治療法の開発に結びつくと考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

HIV感染症ではHLA-class Iが病態進行に関与することが知られており、又、感染者の無症候期の血漿中HIV-RNA量(セットポイント)は予後を規定することも知られている。A24抗原を有する割合は、欧米人が1割前後で日本人は6割から7割と高く、我々日本人集団は1つのHLAに偏った集団群といえる。さらに、日本人集団にはA24に拘束されるCTLエピトープ部位(nef138-10)に変異をもつHIV(nef138-10(-1T2F)をもつエスケープ変異体)が流行していることが報告されている。本研究では、患者のセットポイントを解析することでこのHIV変異体が日本人感染者の病態を悪化させるか検討したものであり、下記の結果を得ている。

1.東京大学医科学研究所附属病院に通院歴のあるHIV感染者391人を対象にした。約20年前にA24抗原の保有者が少ない米国で流行したHIVに感染した血友病群と2000年以降にA24抗原の保有者が多い日本国内で流行しているHIVに感染している性感染群で無症候期の1時点のHIVRNA量を比べ、流行しているエスケープ変異体の影響を解析した。血友病群ではA24抗原の有無に関わらず、HIVRNA量が低いことが示された(Mann-Whiteny Utest,p<0.0001)。対象を未治療者に絞ったため、血友病群の感染時期は1980年前後であり、当院初診が1995年以降の集団の為、この頃まで無治療であった群は進行の遅い部分集団の可能性があり、本解析ではA24の影響は断定できないと考えられた。

2.次に、エスケープ変異体が流行している2000年以降にHIV抗体が陽性となった感染者の中で、97人でセットポイント(無症候期の3時点でのHIVRNA量平均値)を算出した。彼らのセットポイントを、欧米で比較的予後が良いといわれるB51抗原(日本人、欧米人共に1~2割が保有する)の有無で解析したところ、B51抗原を保有する感染者のセットポイントは非保有感染者よりも低いことが示された(同解析p=0.0239)。これにより、日本人集団でもB51抗原を保有する感染者は非保有感染者より予後が良い可能性が示唆された。

3.同じ対象群のセットポイントを、A24抗原の有無で解析したところ、差は認められなかった(同解析p=0.3946)。A24抗原を含んだハプロタイプでの解析では、日本人に頻度の高い2つのハプロタイプ(A*2402-B*5201-Cw*1202-DRB1-1502、A*2402-B*0702-Cw*0702-DRB1*0101)で試みたが、有意差は無かった。これにより、A24抗原が高頻度の集団で、A24に拘束されるエスケープ変異体が流行している2000年以降でもA24抗原はその予後に影響せず、欧米と同様な病態進行にニュートラルなHLAであると考えられた。

4.さらに、このエスケープ変異体はA24抗原非保有者体内では野生体へ置き換わる変異(復帰変異)がみられ、CTLの影響がない状態では野生体より増殖能が低いと考えられ、SF2株のnef138-10(-1T2F)をもつHIVと野生型HIVを作製し、T細胞株であるPM1細胞へ単独感染させたが、増殖能に差はみられなかった。微妙な増殖能を検出するために、2種類のHIVを競合感染させ、その比の推移を時系列でみたが、本実験系では増殖能の差を明らかには出来なかった。薬剤耐性変異で、増殖能の低いM184Vを有するHIVを作製し、野生体との競合感染を試みたところ差がみられ、本実験系の有用性が示された。これらの結果から、nef部位での変異は、感染個体内での復帰変異にかかる時間も長く、増殖能の差がでにくいと考えられた。

以上、本論文では、A24抗原の保有率の高い日本人集団でA24に拘束されるエスケープ変異体が増加しているにもかかわらず、A24抗原は予後に影響せず、欧米と同様の病態進行にニュートラルなHLAであることを示した。つまり、HLA-class I抗原によっては抗原の保有率はHIV進化による病態進行に関係がないことを初めて明らかにした。この理由として、変異体の増殖能が野生型と比べ大きく低下していないことが考えられた。本研究は、CTLを利用したワクチン開発を始め、HIVの効果的な治療戦略を考える際に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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