学位論文要旨



No 123742
著者(漢字) 森屋,淳子
著者(英字)
著者(カナ) モリヤ,ジュンコ
標題(和) 神経性食欲不振症女性患者における血漿アグーチ関連蛋白の治療反応性
標題(洋)
報告番号 123742
報告番号 甲23742
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3081号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 門脇,孝
 東京大学 教授 藤田,敏郎
 東京大学 教授 五十嵐,隆
 東京大学 准教授 秋下,雅弘
 東京大学 講師 笠井,清登
内容要旨 要旨を表示する

神経性食欲不振症 (AN)の臨床において、患者と共有できる客観的指標を定めることは、治療を円滑に進めていく上で重要である。しかしながら、現在治療評価として使われている指標は、主観的なものが多く、客観的指標の一つである体重も、浮腫や測定前の水分摂取などにより評価判定が難しいケースも多い。また、この体重増加そのものが、AN患者にとっては治療効果として受容しにくいものであるという問題も存在している。一方、摂食行動や体重調節に関して、近年leptinをはじめとして摂食やエネルギー代謝調節にかかわる物質が数多く同定されてきており、体重以外の客観的な指標として摂食調節ペプチドが注目されている。

中枢のメラノコルチン-4受容体 (MC4R)は中枢におけるleptinの作用部位として注目されており、MC関連ペプチドとしては、摂食促進作用を持つアグーチ関連蛋白 (AGRP)や、摂食抑制作用を持つα-メラニン凝集色素刺激ホルモン (α-MSH) が知られている。AGRPは主に視床下部弓状核より産生され、MC3ならびにMC4Rのagonistであるα-MSHと競合して作用するantagonistであり、MC4Rのinverse agonistとしても作用する。視床下部のAGRPはげっ歯類において食事摂取ならびに体重を調節することが知られており、げっ歯類ならびにヒトの血漿中にも存在することが報告されている。げっ歯類では、絶食やleptin欠乏により血漿AGRPの発現が促進する。また、ヒトにおいても、絶食により血漿AGRP値が上昇し、食事摂取にて低下すること、leptin末梢投与で絶食によるAGRP上昇作用が抑制されることが報告されており、血漿AGRPと摂食調節との関連が示唆されている。

また、肥満者において血漿AGRP値、血漿α-MSH値が非肥満者に比して上昇することから、代謝疾患の病態との関連も考えられている。ANにおいても、AGRP遺伝子のSNPs (G760A)が、ANと関連しているとの報告や、ANの最低BMI、重症度と関連しているとの報告もあり、AGRPがANの病因に関連している可能性も示唆される。しかしながら、今までにANにおいて、血漿AGRP値や血漿α-MSH値を評価した報告はない。

そのため、本研究では、摂食関連ペプチドが摂食障害治療における治療評価判定マーカーとして使用できる可能性の検討を行うことを目的とし、まずAN女性患者と健常女性を対象に、MC関連ペプチドがANにおいて変化しているかどうかを横断的に検討し、次に、横断研究の結果を受けて、末梢にて測定可能であり治療判定のマーカーとして有益であると予想される摂食関連ペプチドを、縦断的に測定し、治療効果との関連を検討することを目的とした。

[横断研究]

AN患者 (18名)(年齢、23.5±7.1歳;body mass index (BMI) 14.2 ± 1.8 kg/m2)、健常者 (17名)(年齢、25.8 ± 3.9歳;BMI 20.2 ± 1.6 kg/m2)を対象として、早朝空腹時採血を行い、MC受容体に関連したホルモンであるAGRP、α-MSHと leptinの血中濃度をELISA法を用いて測定した。その結果、AN群では、Control群に比べ、血漿AGRP値は有意に上昇 (148.0 ± 41.9 vs. 112.2 ± 19.6 pg/ml, p < 0.01)しており、血漿leptin値は有意に低下 (13.5 ± 7.3 vs. 92.1 ± 61.1 ng/ml, p < 0.001) していた (表1)。また、血漿AGRP値と血漿leptin値 (r = -0.41, p < 0.01)、血漿AGRP値とBMI (r = -0.40, p < 0.05)は全体において有意な負の相関が認められた。α-MSH値との間には各群間の有意差や他のペプチドとの相関は認められなかった。ANにおける血漿AGRP値上昇のメカニズムは不明であるが、ANの低栄養状態からくる血漿leptinの欠乏と関連があると推測された。また、血漿AGRP値と血漿leptin値に負の相関が認められており、中枢性もしくは末梢性に互いに関連している可能性が示唆された。

[縦断研究]

横断研究により、血漿AGRP値は血漿leptin値とともにANにおける栄養状態を反映している可能性が考えられた。そこで、縦断研究として、AN入院患者11名(制限型 9名;むちゃ食い/排出型 2名)(年齢22.3 ± 7.1歳)を対象に、早朝空腹時採血、Bioelectrical Impedance Analysis法による体脂肪率測定、呼気ガス分析法による安静時エネルギー消費量(REE)測定を一週間ごとに行った。AGRP、leptinの血中濃度をELISA法にて測定し、体重含めた体組成、REEの変化の関連を解析した。入院日数は48.5日 ± 19.9日 (25日~83日)であり、治療の前後で、BMI (kg/m2)は14.1 ± 1.7から15.4 ± 1.7へ有意に上昇した (p < 0.01)。体脂肪量 (FM)(kg)は3.4 ± 3.6から4.2 ± 3.5へ有意に上昇し (p < 0.05)、除脂肪量 (kg)は32.2 ± 3.8から33.7 ± 3.3へ有意に上昇した (p < 0.05)。また、血漿AGRP値 (pg/ml)は173.6 ± 94.0から133.6 ± 67.1へと有意に低下し(p < 0.01)、血漿leptin値 (ng/ml)は0.76 ± 0.98から1.77 ± 2.56へと有意に上昇した (p < 0.01) (表2)。一方、BMIと血漿AGRP値の変化には有意な負の関連 (F (1,53) = 30.1, p < 0.001)があり 、BMIと血漿leptin値の変化には有意な正の関連 (F (1,53) = 10.2, p = 0.002)が認められた。また、血漿AGRP値の変化と血漿leptin値の変化には有意な負の関連が認められた(F (1,53) = 20.2, p < 0.001)。また、治療の前後で、FMあたりのleptinの分泌量の指標 (leptin/FM比)は有意差が認められなかった (p = 0.72) が、FMあたりのAGRPの分泌量の指標 (AGRP/FM比)は1048.4 ± 1971.5から229.7 ± 434.9へと有意に低下した (p < 0.01) (表2)。過去の研究でも、leptin/FM比はAN患者、肥満者、健常者で有意差が認められなかったとの報告があり、血漿leptin値は栄養状態によって変化するものの、脂肪組織からのleptinの分泌量は病態に関係なく一定である可能性が示唆される。

また、治療の前後でREE (kcal/day)は825.1 ± 151.8から948.7 ± 168.5へと有意に増加 (p < 0.05)した (表2)が、REEの増加には血漿AGRP値の低下 (F (1,32)=7.1, p < 0.05)ならびに血漿leptin値の上昇 (F (1,32) = 10.8, p < 0.01)が有意に関連していることが明らかとなった。また、AGRPとleptinはREEに対して独立して関連がある、すなわちAGRPはleptinの下流にある と考えられているが、leptinの影響を除外してもREEと関連があることが示された。このことより、血漿中のAGRPはleptinとは異なった機序で変化している可能性があると考えられた。

このことより、本研究における治療前後でのREEの上昇の機序の一つとして、体重増加すなわち栄養状態の改善に伴って、摂食・エネルギー代謝調節因子の一つであるAGRPならびにleptinにフィードバックがかかり、血漿AGRP値が低下ならびに血漿leptin値が上昇し、その結果、自律神経系、特に交感神経活動の亢進したことによる可能性が考えられた。

なお、本研究においては、AGRPの治療指標としての可能性やleptinやBMIとの優劣を示すことはできなかった。しかしながら、leptinやBMIのみでなくAGRPを測定する意義として以下の二点を考えた。一つ目は、leptinが脂肪量を反映した指標と考えられるのに対し、AGRPはより総合的な栄養状態の指標となる可能性がある点である。すなわち、脳内のAGRPはleptin以外にも膵臓から分泌されるinsulinや胃から分泌されるghrelinの影響も受けるため、血漿のAGRP値が脳内のAGRP値を反映している場合には、脂肪量以外にも血糖や消化管機能の状態も併せた総合的な栄養状態の指標となる可能性がある。二つ目は、leptinは摂食抑制作用があるのに対し、AGRPは摂食促進作用があるため、低栄養状態のため上昇していた食欲促進物質(AGRP)が治療によって低下していくことは、食欲抑制物質(leptin)が増加していくことよりも、AN患者にフィードバックしやすく、また体重や体脂肪量の増加よりも受容しやすい指標となる可能性があることである。

横断研究ならびに縦断研究より、末梢のAGRP値はANにおいて上昇しており、治療経過においてBMIやleptinの変化とともにdynamicに変化していることを明らかにした。ANの客観的な治療指標としての可能性について検討するためには、今後、サンプル数を増やし、より長期間において調査を行うことにより、体重や体脂肪量以外の栄養状態の指標との関連や自律神経機能との関連、食行動や食欲との関連などを解析する必要があると考えた。

表1: 横断研究結果

*By unpaired t test

Data are expressed as mean ± standard deviation

AN, anorexia nervosa; BMI, body mass index; FM, fat mass; AGRP, agouti-related protein; α-MSH, alpha-melanocyte stimulating hormone

表2: 縦断研究結果

*By Wilcoxon's signed-ranks test

Data are expressed as mean ± standard deviation

AN, anorexia nervosa; BMI, body mass index; FM, fat mass; AGRP, agouti-related protein; REE, resting energy expenditure

審査要旨 要旨を表示する

本研究は神経性食欲不振症(Anorexia Nervosa; AN)女性患者におけるメラノコルチン関連ペプチドの役割を明らかにするため、横断研究と縦断研究を行ったものである。まず、AN女性患者と健常女性を対象に、メラノコルチン関連ペプチドがANにおいて変化しているかどうかを横断的に検討し、次に、横断研究で差異のあった摂食関連ペプチドについて、AN入院患者を対象に、治療前後におけるペプチド値の変化を縦断的に測定し、治療効果との関連を検討することで、下記の結果を得ている。

1.AN患者 (18名)(年齢、23.5±7.1歳;body mass index (BMI) 14.2 ± 1.8 kg/m2)と健常者 (17名)(年齢、25.8 ± 3.9歳;BMI 20.2 ± 1.6 kg/m2)を対象として、早朝空腹時採血を行い、MC受容体に関連したホルモンであるAGRP、α-MSHと leptinの血中濃度をELISA法を用いて測定した。その結果、AN群では、Control群に比べ、血漿AGRP値は有意に上昇 (148.0 ± 41.9 vs. 112.2 ± 19.6 pg/ml, p < 0.01)しており、血漿leptin値は有意に低下 (13.5 ± 7.3 vs. 92.1 ± 61.1 ng/ml, p < 0.001) していた。血漿α-MSH値は2群間で有意差が認められなかった。また、血漿AGRP値と血漿leptin値、血漿AGRP値とBMIは全体において有意な負の相関が認められた。ANにおける血漿AGRP値上昇のメカニズムは不明であるが、ANの低栄養状態からくる血漿leptinの欠乏と関連があると推測された。

2.AN入院患者11名(制限型 9名;むちゃ食い/排出型 2名)(年齢22.3 ± 7.1歳)を対象に、一週間ごとに体組成、血漿AGRP値、血漿leptin値の変化を縦断的に調査した。その結果、治療の前後で、BMI (kg/m2)は14.1 ± 1.7から15.4 ± 1.7へ有意に上昇した (p < 0.01)。体脂肪量 (FM)(kg)は3.4 ± 3.6から4.2 ± 3.5へ有意に上昇し (p < 0.05)、除脂肪量 (kg)は32.2 ± 3.8から33.7 ± 3.3へ有意に上昇した (p < 0.05)。また、血漿AGRP値 (pg/ml)は173.6 ± 94.0から133.6 ± 67.1へと有意に低下し(p < 0.01)、血漿leptin値 (ng/ml)は0.76 ± 0.98から1.77 ± 2.56へと有意に上昇した (p < 0.01)。

3.血漿AGRP値、血漿leptin値とBMIの変化について、マルチレベル解析を行ったところ、BMIと血漿AGRP値の変化には有意な負の関連 (F (1,53) = 30.1, p < 0.001)があり 、BMIと血漿leptin値の変化には有意な正の関連 (F (1,53) = 10.2, p = 0.002)が認められた。また、血漿AGRP値の変化と血漿leptin値の変化には有意な負の関連が認められた(F (1,53) = 20.2, p < 0.001)。血漿AGRP値の低下に関して、明らかな機序は不明であるが、体重増加すなわち栄養状態の改善に伴って、血漿leptin値が上昇し、血漿AGRP値が低下する可能性が考えられた。

4.安静時エネルギー消費量(REE)を測定したところ、治療の前後でREE(kcal/day)は825.1 ± 151.8から948.7 ± 168.5へと有意に増加 (p < 0.05)した。血漿AGRP値、血漿leptin値とREEの変化について、マルチレベル解析を行ったところ、REEの増加には血漿AGRP値の低下 (F (1,32)=7.1, p < 0.05)ならびに血漿leptin値の上昇 (F (1,32) = 10.8, p < 0.01)が有意に関連していることが明らかとなった。また、AGRPとleptinはREEに対して独立して関連がある、すなわちAGRPはleptinの下流にある と考えられているが、leptinの影響を除外してもREEと関連があることが示された。

以上、本論文は、末梢のAGRP値はANにおいて上昇しており、治療経過においてBMIやleptinの変化とともにdynamicに変化していることを明らかにした。本研究は神経性食欲不振症における血漿AGRP値の変化を初めて示したものであり、今後、神経性食欲不振症の発症・維持要因の解明や治療に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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