学位論文要旨



No 123769
著者(漢字) 大野,貴之
著者(英字)
著者(カナ) オオノ,タカユキ
標題(和) 糖尿病網膜症を考慮した冠動脈血行再建術戦略の確立に関する研究
標題(洋)
報告番号 123769
報告番号 甲23769
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3108号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 新家,眞
 東京大学 教授 門脇,孝
 東京大学 准教授 官田,哲郎
 東京大学 准教授 中島,淳
 東京大学 准教授 佐田,政隆
内容要旨 要旨を表示する

わが国における糖尿病は、生活習慣と社会環境の変化に伴って増加しており、平成14年度糖尿病実態調査によると糖尿病と強く疑われる人は約740万人で、糖尿病の可能性が否定できない人を合わせると約1,620万人になる。糖尿病患者の平均寿命は一般日本人と比較して約10年から15年短く、死因としては冠動脈疾患が第1位を占めている。近年バイパス手術あるいはカテーテル治療を受ける糖尿病患者の割合は増加している(東大病院では40~50%)が、糖尿病は各患者間で罹病期間、血糖コントロールにより病気の"進行度"が大きく異なる。その結果、冠動脈血行再建術後の成績・治療効果も糖尿病患者の"進行度"によりさまざまである。さらに1人の糖尿病患者でも"進行度"は経時的に変化するため、どの時期に冠動脈血行再建術を施行するのかにより術後成績も経時的に変化していると予想される。従って糖尿病の"進行度"を考慮した冠動脈血行再建術戦略が必要である。

糖尿病と診断された患者は6ヶ月-1年毎の眼底検査を受けることが奨励されており、平成14年度糖尿病実態調査では「これまでに医師から糖尿病と言われたことがある」と答えた人の70%は眼底検査を受けたことがあると回答している。筆者らが調査した範囲内では冠動脈血行再建術が施行された糖尿病患者の多くは術前1年以内の網膜症の把握は可能であり、たとえ診断がなされていなくとも術前に眼底検査を施行することは簡単である。筆者らは現在までに冠動脈血行再建術を施行した763人の糖尿病患者の眼底所見を調査したが、その結果446人(59%)は網膜症のない糖尿病患者、178人(23%)は非増殖性網膜症患者、139人(18%)は増殖性網膜症患者であった。つまり冠動脈血行再建術が必要な糖尿病患者の約40%は糖尿病網膜症を合併しており比較的頻度の高い合併症であるといえる。

糖尿病網膜症患者の生命予後は不良であり、その死因の大半は冠動脈疾患であることは眼科医の間ではよく知られた事実である。網膜症のない糖尿病患者の5年死亡率は1~8%であるのに対して、非増殖性網膜症患者8~19%、増殖性網膜症患者45%と報告されている(7,8)。Helbigらは増殖性網膜症患者に対して硝子体手術を施行した糖尿病患者のうち心臓病を合併しない患者の5年死亡率は10%であったが、心臓病を有する患者の半数が3.5年以内に死亡したと報告している。冠動脈疾患による死亡・心筋梗塞発症リスクは網膜症の進行と共に増すことが報告されている。1370人の2型糖尿病患者を対象とした8.5年間の疫学調査(Wisconsin Epidemiological Study)では冠動脈疾患による死亡は網膜症のない糖尿病患者をコントロール群とし、軽症非増殖性網膜症患者のハザード比は1.5 (1.22-1.85)、中等度非増殖性網膜患者1.93 (1.43-2.61)、増殖性網膜症患者2.07 (1.48-2.91)であった。また996人の1型糖尿病患者を対象とした同調査では20年間の心筋梗塞発症率は網膜症のない糖尿病患者6.0%、軽症非増殖性網膜症患者12.5%、中等度~重症非増殖性網膜症患者21.0%、増殖性網膜症患者26.9%であった。しかしこれら疫学調査は冠動脈疾患を合併していない患者も対象に含まれていること、糖尿病患者ではしばしば心筋梗塞は自覚されず無症状であることの2点を考慮すると、冠動脈疾患を合併した糖尿病網膜症患者では死亡・心筋梗塞発症のリスクはより高いと予想される。

無作為化比較試験であるBARI studyの結果、糖尿病を合併した冠動脈多枝病変患者ではカテーテル治療と比較してバイパス手術の生命予後改善効果が報告されている(28)。しかしカテーテル治療は侵襲の点では優位性を持ち、更に薬剤溶出性ステントの出現により成績向上が期待されているため、日常の臨床現場では糖尿病患者に対しても積極的にカテーテル治療が行われている。

1996年4月から2004年3月の間に東大病院にて319人の糖尿病患者が冠動脈血行再建術(CABG或いはPCI)を受けていた。153(48.0%)人は網膜症合併、166(52.0%)人は網膜症発症以前であった。網膜症発症前糖尿病と比較して網膜症患者はインスリン治療、腎機能低下、無症候性心筋虚血の割合が高かった。初回血行再建術後の平均経過観察期間は48.2±28.6ヶ月で、全経過中死亡症例は網膜症153人中16人、網膜症発症以前166人中3人であった。319人中96人が初回血行再建として、22人が再血行再建としてCABGを受けていた。網膜症患者では全経過中死亡したのはCABGを受けていた59人中2人、CABG受けていなかった94人中14人であった。4年死亡率はそれぞれ2.9%、17.0%であり、死亡曲線はCABGを受けていたか否かにより有意差を認めた(P=0.007)。リスク補正(65歳以上の高齢、インスリン治療、無症候性心筋虚血、腎機能低下、心機能低下)後のハザード比は0.13 (95%信頼区間 0.03-0.62;P=0.011)であった。対照的に網膜症発症以前の患者では死亡したのはCABGを受けていた59人中1人、CABG受けていなかった107人中2人であった。4年死亡率はそれぞれ1.7%、1.9%であり、死亡曲線はほぼ同様であった(P=0.94)。

すなわちバイパス手術の生命改善効果は糖尿病網膜症患者で大きく発揮されると言える。カテーテル治療と比較したバイパス手術の生命予後改善効果は、現存する病変だけでなく"将来"の新規病変も含んでバイパスすることによると考えられる。バイパス手術自体が"将来"の新規病変発症を予防するわけではないが、新規病変によるイベントを致死的でないものにする効果があると考えられる。したがって網膜症のない糖尿病患者と比較して糖尿病網膜症患者は新規病変出現のリスクは高いため、バイパス手術を施行するか否かの選択が生命予後に影響したと考えられる。一方、網膜症のない糖尿病患者では新規病変出現のリスクは低く冠動脈バイパス術・冠動脈インターベンションのどちらを選択しても生命予後は良好で差を認めなかったと考えられる。

このように冠動脈疾患による死亡・心筋梗塞発症のリスクが高い糖尿病網膜症患者に対しては生命予後改善を目的としたバイパス手術が第1選択と考えている。しかし糖尿病網膜症患者に対してもカテーテル治療が可能なら積極的に施行されている。2004年4月から2005年10月の間に東大病院にて220人が左冠動脈前下行枝(LAD)病変に対して薬剤溶出性ステント留置(DES)留置施行されていた79人を対象患者とし網膜症の有無により網膜症発症前糖尿病群(25人)、糖尿病網膜症群(54人)の2群に分けた。それぞれの群に対して東大病院で単独バイパス手術施行した連続397人より(1)LAD病変に対してバイパス手術施行されていた。(2)糖尿病を合併していた。(3) バイパス手術後12ヶ月以上東大病院にて経過観察されていた。以上3点の適格規準を満たす患者を選択しhistorical controlとした。エンドポイントは心事故 (心臓死、心筋梗塞、再血行再建術、DES留置後の場合はステント血栓症も含む)とした。網膜症発症前糖尿病群、糖尿病網膜症群それぞれのグループ内でDES留置患者はバイパス手術施行患者と比較して病変数が少ない以外は大きな差を認めなかった。術後造影はDES留置・網膜症発症前糖尿病患者88%、DES留置・糖尿病網膜症患者87%、バイパス手術施行・網膜症発症前糖尿病患者91%、バイパス手術施行・糖尿病網膜症患者89%に施行されていた。術後1年間の心事故を表5に示した。DES留置・網膜症発症前糖尿病患者25人中5人、DES留置・糖尿病網膜症患者35人中4人、バイパス手術施行・網膜症発症前糖尿病患者54人中24人、バイパス手術施行・糖尿病網膜症患者57人中8人が心事故を経験していた。心事故の多くは再血行再建術であり、Kaplan-Meier法による1年心事故率はそれぞれ21.1%、11.4%、44.0%、14.0%であった。心事故回避曲線は網膜症発症前糖尿病患者群ではDESとバイパス手術との間に有意差を認めなかったが(P=0.32)、糖尿病網膜症患者群ではDESはバイパス手術と比較して有意に不良であった(P=0.003)。糖尿病網膜症患者群ではDES留置による心事故のリスク補正(年齢、性別、HbA1、血清クレアチニン値、インスリン治療、心駆出率)後のハザード比は2.8(95% CI, 1.1-6.9; P=0.02)であった。

冠動脈疾患を合併する糖尿病患者の冠動脈血行再建術後の成績を改善するためには網膜症合併の有無により特徴的な患者背景・心事故発症のリスク、冠動脈血行再建術後成績を考慮して戦略を立てるのが適切と思われる。網膜症発症以前は心機能・腎機能は正常なことが多く新規病変出現のリスクは低いため、カテーテル治療を選択しても良いと考えられる。しかし網膜症病期は薬剤溶出性ステント留置後Target Vessel Failure率が高いだけでなく、新規病変出現による冠動脈疾患による死亡・心筋梗塞発症リスクも高いためバイパス手術を第1選択とするのが望ましい。また初回カテーテル治療時、網膜症がなくとも5-10年後には網膜症を合併する可能性があるため、常に患者の眼底所見を考慮しておく必要がある。

審査要旨 要旨を表示する

冠動脈疾患に対する治療法としては冠動脈バイパス手術(CABG)あるいはカテーテル治療(PCI)が2本の柱であるが、糖尿病患者に対する適切な冠動脈血行再建術戦略(CABG対PCI)は明らかではない。本研究は糖尿病網膜症を考慮した冠動脈血行再建術戦略の確立を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1.1996年4月から2004年3月の間に東大病院にて319人の糖尿病患者が冠動脈血行再建術(CABG或いはPCI)を受けていた。153(48.0%)人は網膜症合併、166(52.0%)人は網膜症発症以前であった。網膜症発症前糖尿病と比較して網膜症患者はインスリン治療、腎機能低下、無症候性心筋虚血の割合が高かった。初回血行再建術後の平均経過観察期間は48.2±28.6ヶ月で、全経過中死亡症例は網膜症153人中16人、網膜症発症以前166人中3人であった。319人中96人が初回血行再建として、22人が再血行再建としてCABGを受けていた。網膜症患者では全経過中死亡したのはCABGを受けていた59人中2人、CABG受けていなかった94人中14人であった。4年死亡率はそれぞれ2.9%、17.0%であり、死亡曲線はCABGを受けていたか否かにより有意差を認めた(P=0.007)。リスク補正(65歳以上の高齢、インスリン治療、無症候性心筋虚血、腎機能低下、心機能低下)後のハザード比は0.13 (95%信頼区間 0.03-0.62;P=0.011)であった。対照的に網膜症発症以前の患者では死亡したのはCABGを受けていた59人中1人、CABG受けていなかった107人中2人であった。4年死亡率はそれぞれ1.7%、1.9%であり、死亡曲線はほぼ同様であった(P=0.94)。

2.2004年4月から2005年10月の間に東大病院にて220人が左冠動脈前下行枝(LAD)病変に対して薬剤溶出性ステント留置(DES)留置施行されていた79人を対象患者とし網膜症の有無により網膜症発症前糖尿病群(25人)、糖尿病網膜症群(54人)の2群に分けた。それぞれの群に対して東大病院で単独CABG施行した連続397人より(1)LAD病変に対してCABG施行されていた。(2)糖尿病を合併していた。(3)CABG後12ヶ月以上東大病院にて経過観察されていた。以上3点の適格規準を満たす患者を選択しhistorical controlとした。エンドポイントは心事故 (心臓死、心筋梗塞、再血行再建術、DES留置後の場合はステント血栓症も含む)とした。網膜症発症前糖尿病群、糖尿病網膜症群それぞれのグループ内でDES留置患者はCABG施行患者と比較して病変数が少ない以外は大きな差を認めなかった。術後造影はDES留置・網膜症発症前糖尿病患者88%、DES留置・糖尿病網膜症患者87%、CABG施行・網膜症発症前糖尿病患者91%、CABG施行・糖尿病網膜症患者89%に施行されていた。術後1年間の心事故を表5に示した。DES留置・網膜症発症前糖尿病患者25人中5人、DES留置・糖尿病網膜症患者35人中4人、CABG施行・網膜症発症前糖尿病患者54人中24人、CABG施行・糖尿病網膜症患者57人中8人が心事故を経験していた。心事故の多くは再血行再建術であり、Kaplan-Meier法による1年心事故率はそれぞれ21.1%、11.4%、44.0%、14.0%であった。心事故回避曲線は網膜症発症前糖尿病患者群ではDESとCABGとの間に有意差を認めなかったが(P=0.32)、糖尿病網膜症患者群ではDESはCABGと比較して有意に不良であった(P=0.003)。糖尿病網膜症患者群ではDES留置による心事故のリスク補正(年齢、性別、HbA1、血清クレアチニン値、インスリン治療、心駆出率)後のハザード比は2.8(95% CI, 1.1-6.9; P=0.02)であった。

以上、本論文は糖尿病網膜症患者に対する冠動脈血行再建術は生命予後改善目的にはCABG施行した方が有利であること、また再狭窄予防効果改善がCABGと同程度に優れていると言われているDESを用いたPCIも網膜症患者では不良であることを明らかにした。本研究はこれまでに循環器領域では考慮されなかった網膜症が糖尿病患者に対する冠動脈血行再建術戦略に有用であると考えられ、学位に授与に値するものと考えられる。

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