学位論文要旨



No 123773
著者(漢字) 金,玉蓮
著者(英字)
著者(カナ) キン,ギョクレン
標題(和) 幼小児の人工内耳埋込術前後の前庭誘発筋電位(VEMP)に関する研究
標題(洋)
報告番号 123773
報告番号 甲23773
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3112号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 芳賀,信彦
 東京大学 教授 水口,雅
 東京大学 准教授 郭,伸
 東京大学 講師 伊藤,健
 東京大学 講師 星地,亜都司
内容要旨 要旨を表示する

研究の背景

Vestibular Evoked Myogenic Potential(VEMP)(前庭誘発筋電位)は1992年にColbatchらによって初めて報告された新しい聴覚誘発電位である。これまでの聴覚誘発電位は聴覚伝導路に起源を持つのに対し、VEMPは聴覚刺激にもかかわらず前庭神経系に起源を持つ。しかも、高度難聴では本来は刺激音が聞こえるはずがないにもかかわらず大きなVEMPが出現する。現在までのところ「音刺激が球形嚢の前庭感覚細胞に伝えられ、ここでアナログ・デジタル変換された後、下前庭神経へ伝えられ、延髄の下前庭神経核へ投射される。ここで前庭脊髄路のニューロンにシナプス結合しこのニューロンは頚部の胸鎖乳突筋(SCM)の筋紡錘へ投射される。」と解釈されている。しかし生理学的機序についてはわからないところが少なくない。

VEMPは音刺激でなぜ生じるのであろうか。脊椎動物の進化と球形嚢の役割から考えてみる。魚類、両生類、爬虫類には蝸牛管は存在しないが三半規管と耳石器の球形嚢と卵形嚢は存在する。進化上、これらの脊椎動物では、音の受容細胞すなわち感覚細胞は球形嚢にあるが、鳥類で初めて棒状の蝸牛管が現れ、音の受容はその感覚細胞で行われる。蝸牛の回転が出現するのは哺乳類に進化してからである。ヒトでは音の受容は蝸牛で行われるが、VEMPの受容器が球形嚢にあるのは、単なる進化の遺残である可能性が高い。この球形嚢が音に反応したとしても聴覚に役立つとは考えにくいが、その機能はわかっていない。

球形嚢の有毛細胞は垂直加速度のセンサーの役割をしている。垂直加速度刺激が与えられると、耳石膜と接している有毛細胞の動毛(kinocilia)と不動毛(stereocilia)に偏位が加わり、有毛細胞で加速度情報がアナログ・デジタル変換されて前庭神経へ伝えられる。しかし、音情報がどのように球形嚢の有毛細胞でアナログ・デジタル変換されて前庭神経へ伝えられるのかはわかってはいない。音情報を直接受容する感覚細胞が前庭感覚細胞の一部にあるのか、加速度刺激と音刺激の両方を受容するのか、受容細胞レベルでもまだ解明されていない。前庭神経そのものにも音に反応する神経線維が存在するのか、わかっていない。

目的

本研究では対象に高度難聴児を選び、かつ人工内耳手術を受けた症例に限定して術前、術後のVEMPを比較検討し、

(1)高度難聴児でも音が聞こえない障害があるにもかかわらず、VEMPは出現するか、もし出現しない場合はなぜか。

(2)人工内耳埋込術では蝸牛の鼓室階に電極を挿入することにより内耳の内リンパの状態が変化するが、人工内耳埋込術後でも音に対して前庭神経が反応してVEMPは出現するのか。出現するとすればそれはなぜか。逆に反応が認められなければそれはなぜか。

(3)人工内耳手術後、会話音を聴くために調整した使用電流でも前庭神経が刺激されてVEMPが出現するか。出現しなければなぜか。

以上のような疑問に対する答えを得ることを目的とする。すなわち、人工内耳を介して音刺激に対して前庭神経が刺激されてVEMPが出現するものなのかを解明する。

研究方法

高度難聴児及び人工内耳装用児を対象に、VEMPを記録した。人工内耳埋込術後のVEMPに関しては、人工内耳の電源を入れた状態(CI "on")と切った状態(CI"off")でそれぞれVEMPを記録した。

a) VEMPの測定

刺激には0.1ms,95 dB nHLのクリック音を一側より与え,刺激頻度5Hz,解析時間50ms,加算回数100回,帯域フィルター20~2000Hzとした。電極の接着部位は、探査電極はSCMの吻尾側の1/2,基準電極は胸骨頭の起始部上、接地電極は前頭部に置いた。測定時には、頭を持ち上げ、或いは対側の肩を見るようにして、刺激側の筋緊張を保たせる。

b) VEMPの判定

VEMPが正常か否かは,ピークのP,Nの潜時,P-N間の振幅を測定して判定した。VEMPの再現性の有無ならびに振幅の絶対値により、判定基準を

i)タイプI:正常:VEMPの振幅が50μV以上

ii)タイプII:低振幅:VEMPの振幅が0より大きく、50μVより小さい

iii)タイプIII:無反応:VEMPの再現性を認めない

とし、タイプIIとタイプIIIを異常として分類した。

予備実験では高度難聴児のVEMPの出現頻度を調べた。研究分野は4つに分け、研究Iでは平衡機能障害を明らかにすべく、術前のVEMP、カロリックテスト及び回転検査との関係を明らかにする。研究IIでは人工内耳埋込術の術前・術後(CI "off")のVEMPを比較し、術後の球形嚢の機能を調べる。研究IIIでは人工内耳(CI "on")でのVEMPの出現の検討及び電流量との関係を調べる。研究IVでは内耳奇形症例を内耳道狭窄を伴わない場合と伴う場合に分けて、人工内耳埋込術後のVEMPの有無について検討する。

結果

予備実験:高度難聴児では約67%にVEMPが誘発された。

(1)研究I:人工内耳埋込術前の幼小児においては、カロリックテストの反応が良好なのが38%で低い出現率なのに対して、VEMPが出現したのが65%で、回転検査で良好な反応が得られたのが68%であった。

(2)研究II:13例中6例において術前に認められたVEMPの反応が術後に消失した

(3)研究III:非内耳奇形群における人工内耳( CI "on")でのVEMPが誘発された症例が50%であった。VEMPが認められた群はVEMP無反応群より、Cレベル(快適に聞こえる最大レベル)が高い傾向を認めた。

(4)研究IV:内耳奇形症例はCレベルが高く、人工内耳(CI "on")でのVEMPは内耳道狭窄を伴わない例では全例出現し、内耳道狭窄を伴う例では低振幅であった。

考察

高度難聴児ではVEMPが70%に近く出現し、球形嚢機能が保たれていることがわかった。VEMP 無反応が30%近く、これらの症例では球形嚢機能が先天的に失われていると考えられた。

(1)したがって、人工内耳埋込術前の幼小児においても球形嚢機能も半規管機能も保たれている場合が多く、cochleosaccular degenerationとは異なることを示唆している。

(2)術前見られた反応が人工内耳非使用下(CI "off")で消失するのが約半数あり、人工内耳埋込術後球形嚢の機能も障害されることが明らかとなった。

(3)人工内耳を使用する( CI "on")とVEMPが誘発された症例が半数存在することは人工内耳( CI "on")でのVEMPは下前庭神経が刺激されることにより誘発されると考えられた。これらの症例ではCレベルが高い傾向があり、人工内耳(CI "on")でのVEMPはCレベルの電流量が大きければ出現する可能性が高いことがわかった。

(4)内耳奇形症例では、聴覚そのものは良くはなく蝸牛神経が少ないと推察されるが、人工内耳(CI "on")でVEMPは誘発されやすいことから下前庭神経はより保存されている可能性が高い。

結論

人工内耳手術例では人工内耳使用下に音刺激を与えるとVEMPが出現する例が半数にのぼることは、これらの例では音刺激で人工内耳に電磁誘導されて流れる電流で下前庭神経が刺激されたと考えられる。VEMPが出現しなかった例は電流量が小さいかあるいは下前庭神経の発達異常も否定できない。

今後の展望

本研究から今後のVEMPの臨床応用として、人工内耳術後の前庭機能検査の他に、人工内耳術後にVEMPを経時的に記録しモニターすることで術前の前庭系の発達期の可塑性を解明する方法として用いるようにしたい。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は人工内耳埋込術前後の球形嚢―下前庭神経系の病態を明らかにするため、人工内耳埋込術前後の前庭誘発筋電位(VEMP)を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1.高度難聴児では約67%にVEMPが誘発された。VEMPは前庭系由来の反応であり、高度難聴児では球形嚢機能が保たれていることが多いと考えられた。

2.高度難聴児では約28%の症例においてVEMPが無反応であった。VEMPが出現しなかった例の原因として(1)球形嚢の感覚細胞が先天的に障害されている、(2)球形嚢神経或いは下前庭神経に障害がある、(3)胸鎖乳突筋の筋緊張が著しく低下している、などが考えられた。

3.術耳における術前と術後のVEMPの比較で術前見られた反応が消失した症例があり、これは人工内耳埋込術後、球形嚢の機能が障害されたためと考えられた。

4. 非内耳奇形群と内耳奇形群における人工内耳埋込術後のVEMPでは、CI "on"の時VEMPが誘発された症例が多数存在した。VEMPが出現した症例は人工内耳のプロセッサにより、クリック音刺激が電流刺激に変換され、その電流が滑走して球形嚢神経或いは下前庭神経が刺激したためと考えられた。VEMPが出現しなかった例の原因には(1)電流が小さく、球形嚢神経或いは下前庭神経を刺激することができない、(2)球形嚢神経或いは下前庭神経が先天的に形成されていない、(3)胸鎖乳突筋の筋緊張が検査時に高まらない、などが考えられた。

以上、本論文は人工内耳埋込術前後のVEMPの解析から、術後球形嚢の機能は障害されていても、下前庭神経機能は保たれている場合が多いことを明らかにした。本研究はこれまで未知に等しかった、人工内耳埋込術後の球形嚢―下前庭神経系の病態の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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