学位論文要旨



No 123779
著者(漢字) 土屋,剛史
著者(英字)
著者(カナ) ツチヤ,タケシ
標題(和) 分化抑制因子の抑制による胃癌腹膜転移の制御
標題(洋)
報告番号 123779
報告番号 甲23779
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3118号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上西,紀夫
 東京大学 教授 岡山,博人
 東京大学 教授 宮園,浩平
 東京大学 准教授 宮田,哲郎
 東京大学 准教授 池田,均
内容要旨 要旨を表示する

研究の背景と目的

本邦における胃癌の死亡率は近年減少しているものの、現在でも癌死の原因の第2位となっている。腹膜転移は進行胃癌患者の直接的な死因の一つである。腹膜転移を術前に診断することは難しい場合も多く、また、手術や化学療法によって完治させることも非常に困難である。したがって、胃癌の腹膜転移に対する新しい治療法や予防法の開発は、重要と考えられる。

本研究で用いた分化抑制因子(inhibitor of differentiation / inhibitor of DNA binding、Id 蛋白)は、転写調整因子であるへリックスループヘリックス(HLH)蛋白に属する。Id蛋白は、ベーシックHLH蛋白やRb蛋白などとヘテロ二量体を形成し、これらの蛋白の作用をネガティブにコントロールする。Id蛋白は、未分化細胞や増殖細胞で高発現しているが、有糸分裂後の細胞、最終分化細胞や退化細胞では抑制されている。すなわち、発達の過程の組織中には広範に発現しているが、ほとんどの成熟組織では発現が認められない。

Id蛋白の発現異常は、卵巣癌、乳癌、前立腺癌、大腸癌等、様々な癌種で明らかにされている。胃癌においても、Id1の高発現が、腫瘍の悪性度、低分化度、進行度、高い転移能と相関することが示されている。Idファミリーの中、Id1とId3は、胃癌を含む様々な癌種で共に高発現していることが多い。また、細胞分化、増殖、細胞運動、浸潤、血管新生と関連しているといわれている。

本研究では、胃癌の腹膜転移の治療のターゲットとしてId1とId3に注目し、これらの蛋白の抑制により、胃癌の腹膜転移を抑え得るかについて検討した。具体的には、RNA干渉によるId蛋白の抑制が胃癌細胞の増殖や転移能に及ぼす影響について研究を行った。

方法・結果

【Id1,3ダブルノックダウンMKN45細胞の作製】

ヒト胃癌細胞株であるMKN45を用い、RNA干渉法にてId1, 3ダブルノックダウン細胞を作製した。また、empty vectorをコントロールベクター(mock transfectants)として用いた。トランスフェクションさせたMKN45細胞のId1とId3の蛋白発現を、Western blot法にて分析した。Id1とId3蛋白は、親細胞(parental、P細胞)で強く発現していた。コントロール細胞(mock control、M細胞)では同様の発現レベルを認めた。しかし、ダブルノックダウン細胞(Id1/Id3kd、Id細胞)のId1発現レベルはコントロール細胞の65%まで低下していた。また、Id3の発現レベルは、60%まで低下していた。

【細胞増殖の検討】

各群の胃癌細胞を6日間培養し、1、3と6日目にMTS法にて増殖能を評価した。Id細胞の増殖能は、培養後3日目までは、M細胞と有意な差がなかったが、培養後6日目では、M細胞より12%低下していた。

【細胞遊走能の測定】

Wounded monolayer repair assay による検討で、傷閉鎖の程度によって細胞運動能を評価した。M細胞とId細胞では、それぞれはじめの傷幅の49%と26%まで閉鎖した。すなわち、Id1, 3ダブルノックダウンにより、細胞運動能はM細胞の52.5%まで低下した。

【MMP発現の測定】

各群の胃癌細胞内のMMP発現を、Western blot法にて評価した。MMP2とMMP9の発現を確認したが、いずれの群においても発現レベルに差を認めなかった。

【インテグリン発現の測定】

各群の胃癌細胞表面のレセプター発現を、フローサイトメトリーにて調べた。P細胞でインテグリンα2、α3、α5、α6、αV、β1とCD44の発現が認められた。これらのレセプター発現レベルはP細胞とトランスフェクション細胞間で同程度であったが、インテグリンα6の発現が、Id細胞では、M細胞の80%まで低下していた。

【細胞外基質と中皮細胞への接着】

細胞外基質(ECM)蛋白であるコラーゲンタイプI、III、IV、フィブロネクチンとラミニンへの細胞接着能を検討した。いずれの細胞株もフィブロネクチン以外とは強く接着し、接着率もP細胞とトランスフェクション細胞でほぼ同等であった。しかし、ラミニンに対する接着率はId細胞で低下し、コントロールの58%であった。中皮細胞への接着は、Id細胞とM細胞間で差を認められなかった。

【VEGF産生と分泌測定】

各群の胃癌細胞の培養上清を回収し、VEGF測定キット(ELISA法)にてVEGF濃度を測定した。培養上清中のVEGFの濃度は、M細胞に比べて、Id細胞で有意に低下していた。また、各群の胃癌細胞の蛋白抽出液を用い、Western blot法にて、細胞内のVEGF蛋白発現を評価した。細胞内のVEGF発現も他の細胞に比べId細胞で低下していた。

【HUVECs増殖に及ぼす影響】

MKN45細胞株から分泌されたVEGFの、ヒト臍帯静脈内皮細胞(HUVECs)に対する活性について検討した。MKN45細胞の培養上清でHUVECsを培養し、その増殖能をMTS法にて評価した。Id細胞の培養上清で培養したHUVECsの増殖能は、M細胞のものに比べ低下していた。

【HUVECsの管腔形成能に及ぼす影響】

HUVECsを浮遊させたマトリゲル上に、各群の胃癌細胞の培養上清を加え、管腔形成を観察した。Id細胞の培養上清を添加した、マトリゲル上でのHUVECsの管腔形成能は、M細胞の培養上清を添加した場合に比べわずかに低下していた。

【動物皮下腫瘍モデル】

P細胞、M細胞及びId細胞をマウスの皮下に移植し、腫瘍形成能及び増殖能を比較評価した。移植後6日目より全ての細胞で皮下腫瘍の形成が観察され、6、10、13と19日目と腫瘍サイズは経時的に増大した。Id細胞移植群では、M群に比べ、腫瘍増殖速度は緩徐であった。

【動物腹膜転移モデル】

P細胞、M細胞及びId細胞の転移形成能を、マウス腹膜転移モデルにて評価した。各細胞をマウス腹腔内に注入、17日後に開腹し、腹腔内の転移結節の数と大きさを測定した。Id細胞接種群では、M細胞接種群に比べ、転移結節の総数が明らかに低下していた。また、個々の結節のサイズも小さく、特に直径2.0mm以上の結節を比較したときに、差はより明らかであった。

考察

以下の理由から、本研究では胃癌の腹膜転移の治療のターゲットとしてId蛋白が検討に値するものであると考えた。第一に、Id蛋白は、腫瘍化と癌の進展に関連したいくつかの重要な遺伝子発現を調節していること。第二に、ほとんどの成熟した正常組織では、Id蛋白が発現していないこと。したがって、癌細胞の特異的なターゲットになり得ること。第三に、Id発現の部分的な抑制だけでも、腫瘍浸潤と転移を十分に抑えることができること。そして第四に、胃癌の腹膜転移は、特に分化度の低い癌と関連しており、分化度の低い胃癌は、Id蛋白を高発現していることである。

MKN45は低分化腺癌患者に由来する細胞株であり、MKN45を含む様々な胃癌細胞株でId1とId3が高発現していることが既に報告されている。Id1とId3は進化の過程でも密接に関連しており、類似したプロモーター配列を持っている。両者の作用機序も重なり合っており、互いに代償性に機能する可能性も示唆されている。以上より、Id1あるいはId3どちらか一方のId蛋白抑制よりも、両方のId蛋白の抑制によって相乗的な効果が期待できるものと考え、Id1, 3ダブルノックダウンMKN45細胞を研究に用いた。

ヌードマウスで腹膜転移モデルを作製し、Id1, 3ダブルノックダウン細胞の腹腔内の転移形成能を評価した。Id1, 3ダブルノックダウン細胞は、コントロール細胞に比べ、腹膜転移の結節数の減少だけでなく、結節のサイズが縮小していたことが確認された。すなわち、Id1, 3ダブルノックダウン細胞では腹膜転移形成能が低下していた。

Id1, 3ダブルノックダウンによる、腹膜転移形成能低下のメカニズムを解析するために、転移の過程における様々なステップについてin vitroで検討した。Id1, 3ダブルノックダウン細胞は、増殖能と運動能のいずれも低下していた。そして、細胞外基質蛋白への接着については、ラミニンへの接着が低下しており、インテグリンα6の発現低下によるものと考えられた。基底膜の重要な構造構成要素の1つであるラミニンへの転移部位での接着能低下により、腹膜転移結節数が減少する結果になったと考えられた。

腹膜転移結節のサイズもId1, 3ダブルノックダウン群では低下していた。これには、細胞増殖能の低下だけではなく、血管新生能の低下が関与しているものと考えられた。腫瘍が2-3mm以上に成長するには、血管新生が必要であるといわれている。血管新生を強力に促進するものの一つに、血管内皮細胞増殖因子(VEGF)があり、実際MKN45細胞株でもVEGFが産生、分泌されていた。Id1, 3ダブルノックダウン細胞では、VEGFの産生、分泌が低下しており、そのために血管内皮細胞の増殖や管腔形成能も抑制されたと考えられる。私達の研究グループでは、血管内皮細胞のId1, Id3発現が血管新生に必要であることを既に報告している。以上のようにId蛋白は、癌細胞と内皮細胞の両方にとって増殖を促す重要な因子であり、胃癌の腹膜転移の形成においても、中心的な役割を担っていることが判明した。したがって、Id蛋白の抑制は、胃癌治療の新しい戦略となり得るものであると考えられる。

現在、癌治療のために、細胞内蛋白を標的にした様々な戦略が立てられている。アンチセンス オリゴヌクレオチド、リボザイムによる遺伝子導入、またはペプチドといったものである。本研究では、Id蛋白の抑制に用いたRNA干渉も、効果的な遺伝子抑制の手段であることが示された。しかし、実際に臨床応用するためには、ベクターの安全性やsiRNAの体内への効率的な導入法の問題など、今後まだ克服すべき課題も多く残されており、十分な検討を加えていく必要があると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、胃癌の腹膜転移の治療のターゲットとして分化抑制因子(Inhibitor of differentiation, 以下Id)蛋白に注目し、RNA干渉によるId蛋白の抑制が、胃癌細胞の増殖や転移能に及ぼす影響について研究を行ったものであり、下記の結果を得ている。

1.ヒト胃癌細胞株であるMKN45を用い、RNA干渉法にてId1, 3ダブルノックダウン細胞(Id1/Id3kd、Id細胞)を作製した。また、コントロールベクターとしてempty vectorを導入したコントロール細胞(mock control、M細胞)と親細胞(parental、P細胞)を対照として用いた。それぞれの細胞のId1とId3の蛋白発現を、Western blot法にて分析したところ、P細胞とM細胞で、いずれも強い発現を認めた。しかし、Id細胞のId1発現レベルはM細胞の65%まで、Id3の発現レベルは60%まで低下していた。

2.各胃癌細胞の増殖能をMTS法にて評価した。Id細胞の増殖能は、培養後3日目までは、M細胞と有意な差が認められなかったが、培養後6日目では、M細胞より12%低下していた。

3.Wounded monolayer repair assay を用いた検討で、傷閉鎖の程度によって細胞運動能を評価した。M細胞とId細胞ではそれぞれ、はじめの傷幅の49%と26%まで閉鎖した。すなわち、Id1, 3ダブルノックダウンにより、Id細胞の運動能はM細胞の52.5%まで低下していた。

4.各胃癌細胞内のMMP発現を、Western blot法にて評価した。MMP2とMMP9の発現を確認したが、いずれの細胞においても発現レベルに差を認めなかった。

5.各胃癌細胞表面のレセプター発現を、フローサイトメトリーにて調べた。P細胞でインテグリンα2、α3、α5、α6、αV、β1とCD44の発現が認められた。これらのレセプター発現レベルはP細胞とトランスフェクション細胞間で同程度であったが、インテグリンα6の発現が、Id細胞では、M細胞の80%まで低下していた。

6.細胞外基質(ECM)蛋白であるコラーゲンタイプI、III、IV、フィブロネクチンとラミニンへの細胞接着能を検討した。いずれの細胞株もフィブロネクチン以外とは強く接着し、接着率もP細胞とトランスフェクション細胞間でほぼ同等であった。しかし、ラミニンに対する接着率はId細胞で低下し、M細胞の58%であった。中皮細胞への接着能の検討では、Id細胞とM細胞間で差を認めなかった。

7.各胃癌細胞の培養上清中のVEGF濃度を測定したところ、M細胞に比べて、Id細胞で有意に低下していた。また、細胞内のVEGF蛋白発現をWestern blot法にて評価したところ、M細胞に比べId細胞で低下していた。

8.胃癌細胞から分泌されたVEGFの活性を、ヒト臍帯静脈内皮細胞(HUVECs)の増殖への影響として検討した。Id細胞の培養上清で培養したHUVECsの増殖能は、M細胞のものに比べ低下していた。

9.HUVECsを浮遊させたマトリゲル上に、各胃癌細胞の培養上清を加え、管腔形成を観察した。Id細胞の培養上清を添加した、マトリゲル上でのHUVECsの管腔形成能は、M細胞の培養上清を添加した場合に比べわずかに低下していた。

10.各胃癌細胞をマウス背部の皮下に移植し、腫瘍形成能及び増殖能を比較評価した。移植後6日目より全ての細胞で皮下腫瘍の形成が観察され、6、10、13と19日目と腫瘍サイズは経時的に増大した。Id細胞移植群では、M群に比べ、腫瘍増殖速度は緩徐であった。

11.各胃癌細胞の転移形成能を、マウス腹膜転移モデルにて評価した。各細胞をマウス腹腔内に注入し、17日後に開腹して、腹腔内の転移結節の数と大きさを測定した。Id細胞接種群では、M細胞接種群に比べ、転移結節の総数が明らかに低下していた。また、個々の結節のサイズも小さく、特に直径2.0mm以上の結節を比較したときに、差はより顕著であった。

以上、本論文はId蛋白抑制による胃癌腹膜転移形成能の低下を明らかにし、そのメカニズムを解明した。胃癌細胞の増殖能、運動能、血管新生能の低下に加え、α6-インテグリンの発現低下によるラミニンへの接着抑制という新しい知見を得ている。本研究はIdが胃癌腹膜転移の形成に重要な役割を担っていることを明らかにしたもので、実際に臨床応用するためには、今後まだ克服すべき課題も多く残されているものの、Id蛋白の抑制が胃癌治療の新しい戦略となり得ることを明らかにしたことから、学位の授与に値するものと考えられる。

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