学位論文要旨



No 123789
著者(漢字) 会田,薫子
著者(英字)
著者(カナ) アイタ,カオルコ
標題(和) 末期患者における人工呼吸器の中止: 救急医に対する質的研究
標題(洋)
報告番号 123789
報告番号 甲23789
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第3128号
研究科 医学系研究科
専攻 健康科学・看護学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 赤林,朗
 東京大学 教授 大内,尉義
 東京大学 教授 辻,省次
 東京大学 教授 矢作,直樹
 東京大学 講師 児玉,聡
内容要旨 要旨を表示する

緒言

医療技術の進展は恩恵とともにジレンマをももたらし、高度医療の甲斐なく回復の見込みが失われたあとも、その技術に依存して生命が存在する状況を作り出してきた。延命治療について過去数十年間にわたって議論された欧米では、患者自身の利益の観点から、延命治療の差し控えや中止は医学的・倫理的に適切なこととされ、それを行う医師を法的に保護する仕組みが作られた。

一方、我が国においては、延命治療の中止に関する法的・医療制度的な枠組みが不在ななか、人工呼吸器を取り外した医師が殺人容疑で捜査の対象となる「事件」が相次いで発生するなど、問題が深刻化している。厚生労働省は2007年5月に国として初めての指針を発表したが、その内容は意思決定プロセスに関する手続きにとどまった。治療中止基準に関する我が国で最初の具体的な行動を取ったのは日本救急医学会であり、同学会は2007年10月、「終末期医療に関するガイドライン」を策定し、終末期の定義とその判断を示した。

そこで本研究では、同学会「ガイドライン」策定直前の我が国の救急医療現場において、延命治療の中止に関わる問題点を、人工呼吸器に焦点を当て、救急医の経験と認識に基づいて探索的に調査することを目的とした。本研究の具体的目的は以下のとおりである。

1)末期患者において救急医に人工呼吸器の中止を回避させる要因群を明らかにすること。

2)人工呼吸器の中止が困難な現状の問題点を把握すること。

3) 人工呼吸器の中止に関する要因の特徴を他の治療法との比較において明らかにすること。

4) 末期患者のなかでも予後絶対不良な脳死患者において人工呼吸器が中止されているか否かを明らかにし、中止されていない場合にはその関連要因を明らかにすること。

5) 人工呼吸器の中止という選択肢を患者家族に提示する医師と提示しない医師の臨床実践と認識の相違点を明らかにすること。

6) 上記のことから、今後、患者と家族にとって、延命治療の中止を適切な医療の選択肢の1つとしていくために、医師に何が必要か、考察すること。

7) 日本救急医学会の「ガイドライン」運用の予測される影響について考察すること。

対象と方法

1.対象: 研究対象医師(以下、対象医師)は、国内の救急医療施設に勤務する救急医35名(男性31名、女性4名;年齢中央値49歳、28-73歳)である。

2.サンプリング方法: 目的的サンプリング、及び、理論的サンプリングによって、救急医学・集中治療学関係の学術集会発表者ならびに論文著者のなかから選択した。

3.データ収集及び分析:データ収集と分析にはgrounded theory approachの手法を採用し、データは2006年9月から2007年10月に、1名平均約60分間の半構造化インタビューを行って収集した。インタビューでは、人工呼吸器を中心に、延命治療の中止に関わる臨床実践、患者家族への説明、中止するか否かの意思決定に関する要因、中止困難な現状の問題点、医師としての悩み、などについて質問した。

4.倫理的配慮:本研究では、対象医師のプライバシー保護に細心の注意を払い、また、対象医師の時間的なコストが過大にならないように努力した。本研究の実施にあたって、東京大学大学院医学系研究科・医学部研究倫理審査委員会の承認(承認番号1468)を得た。

結果

1.末期患者において医師に人工呼吸器の中止を回避させる要因群

人工呼吸器の中止を臨床上の通常の選択肢としている医師はおらず、医師に人工呼吸器の中止を回避させる4つの直接要因群と間接要因1つがあることが示された。直接要因群の(1)は「警察の介入・報道問題」であり、治療中止基準の欠如、免責保証システムの欠如、捜査当局の殺人容疑での介入事例の存在、「問題報道」、という要素から成っていることが示された。この要因のために、「一旦装着した人工呼吸器は死亡時まで取り外さない」方針をとっている施設が多くみられた。(2)は「家族関連問題」であり、その構成要素として、医師が家族を延命治療の目的主体として捉えていることなどが示された。(3)は「医師側の心理的障壁」であり、その構成要素として、人工呼吸器の中止を「縮命への作為」と認識し忌避する気持ち、治療中止の説明を患者家族に行うことに由来する心理的負担などがあることが示された。(4)は「医学的要因」であり、予後の不確実性や治療中止によって患者に苦痛を与える懸念などによって構成されていた。間接要因として、患者側の過大な経済的負担なく入院継続を可能にする保険医療制度が、延命治療が中止されにくい環境を図らずも形成していることが示された。

2.人工呼吸器の中止が困難な現状の問題点

ベッド・コントロールの問題、医療資源の公正な配分に関する問題、患者本人にとっての延命治療の倫理的な意味に関する問題が認識されていることが示された。

3. 治療中止に関する人工呼吸器とPCPSおよび人工肝補助療法の比較

末期患者において人工呼吸器の中止を考慮しない対象医師でも、経皮的心肺補助法 (PCPS)や人工肝補助療法の中止は行っていた。この3つの治療法の中止に関する特徴として、(1)治療中止から患者の臨終までの時間の長短を短い順に並べると、PCPS、人工呼吸器、人工肝補助療法、(2)治療の中止の形態は、人工呼吸器では治療継続可能な時点におけるwithdrawalであるが、PCPSでは治療限界時あるいは機器の使用継続限界時のwithdrawal、または、新しい機器と交換しないという形態としてのwithholdingであり、人工肝補助療法では治療限界時点または保険適用の限度によるwithdrawalであることが示された。

4. 脳死患者において医師に人工呼吸器の中止を回避させる要因群

対象医師の多くは、患者が脳死の場合でも人工呼吸器の中止を考慮しないと答えた。その主な要因として、脳死下での臓器ドナー候補以外における脳死の法的・臨床的意味の曖昧さが挙げられ、その曖昧さの原因として、臓器移植法下において脳死の二重基準が存在していること、及び、移植医療システム下で脳死の診断基準と用語が複数存在し、混乱の原因となっていることが挙げられた。また、医師側の心理的障壁の存在も示され、それは、短時間で心停止へ至る事態の回避、無呼吸テストへの忌避感などで構成されていることが示された。

5. 脳死患者において人工呼吸器の中止を選択肢としている医師の特徴

脳死患者の家族に対し、人工呼吸器の中止という選択肢を常に提示している医師は対象医師のなかに3名おり、彼らはその臨床実践と認識において共通の特徴が多く、また、その特徴の多くは、前記の「中止を考慮しない医師」の特徴と対称的であることが示された。この3名の実践では、病態生理学的なfutilityである脳死を家族が情としても受け入れた後はじめて治療の中止という選択がなされていた。この3名は、彼ら自身の実践を支えているのは二重基準によって作られた時間の猶予であると認識し、二重基準を肯定的に評価していた。また彼らは病態診断としての脳死診断を行い、結果を家族に伝え、家族とコミュニケーションを取りながら真実の情報に基づいた家族ケアを行う必要性も認識し、実践していた。

6.「軟着陸」志向

対象医師全員に共通して見られたのは、患者の生理的な状態の激変を回避あるいは緩和し、患者の終末を穏やかな「軟着陸」に導こうという姿勢であった。この志向は昇圧剤の扱いに特徴的に現れており、昇圧剤の中止には、(1)血圧が低下しても投与量を増大しない部分的withholding、(2)投与量を漸減し、その後、投与量を増大しないという部分的なwithdrawal後のwithholding、 (3)次のアンプルを使用しないという形としてのwithholding、という3つの形態があることが示された。

考察

1.延命治療中止の「社会の許容限度」の解釈に関わる問題:報道された人工呼吸器中止「事件」が実質的な「社会の許容限度」を臨床医に知らせる形になっていることが示された。しかし警察の対応には一貫性がなく、医療政策は以前から医療保険の適用限度という形で、一定時点での治療の中止を求めていた。政策はすなわち法であり、明白な矛盾が長年存在していたといえる。

2.脳死の二重基準の臨床上の意味:脳死患者において家族が更なる医的介入を無益・無用と納得するまでの期間を設ける点で、脳死の二重基準の有用性が示された。非論理的と批判されることが多いこの二重基準が、臨床実践上は意味を有することを実証研究によって初めて示した。

3. 脳死の段階的類語と複数の診断基準の設定による影響:移植医療を前提とした複数の脳死診断基準が、移植以外の臨床場面でも脳死基準の格付けとして存在していると医師に認識されており、法的脳死判定でなければ治療中止に際して自己防衛が困難であると医師側が認識していることが示された。治療中止の判断に必要な脳死診断基準の明確化が必要である。

4.治療中止に関わる医師の心理的障壁と治療中止の形態の関係:人工呼吸器中止を回避させる要因に医師の心理的障壁があり、治療中止の形態がそれに関連していることが示唆された。他の人工補助療法と異なり人工呼吸器の場合には使用継続可能な段階での中止という形になり、医師はその文字通りの中止を「作為」によって生命を終わらせることと認識していることが示唆された。治療中止の形態と中止に関わる心理的抵抗の関係は昇圧剤投与においても認められた。治療中止に関わる医師の心理的障壁と中止の形態の関連を示した研究は他に無い。

5.防衛医療の弊害:延命治療の継続はベッド・コントロール問題と社会的に公正な医療資源の配分問題を生んでいると認識されており、今後、実証データの把握の必要性が示唆された。

6.家族ケアとしての延命治療と真実に基づいたグリーフ・ケアの必要性:家族への説明に婉曲表現を用いるよりも、脳死診断の結果を家族に伝え、延命治療を継続するか否か、家族と共同で意思決定する少数派医師の実践は、死の受容をより良く援助する方法であると考えられる。

7.日本救急医学会の「終末期医療に関するガイドライン」運用の予測される影響: 人工呼吸器中止回避要因のなかで、「警察の介入・報道問題」の土台の要素である「治療の中止基準の欠如」と「免責保証システムの欠如」による問題が緩和され、それによって、ガイドラインに沿った臨床であれば、「警察の介入」と「問題報道」のあり方が大きく変化する可能性があり、人工呼吸器を「決して中止しないこと」という施設内の方針にも変容がみられる可能性が示唆された。一方、このガイドラインによって解消されず、問題が継続すると考えられるのは、「医師の心理的障壁」と「医学的要因」の構成要素である「患者に苦痛を与える懸念」である。人工呼吸器の中止に際して、患者にとって確実に苦痛がない最期を実現し、かつ、それが家族の心理的負担にもならない方法はどうあるべきかについて、我が国の社会的・文化的な文脈において議論する必要がある。

結論

本研究では、救急医35名を対象に、末期患者における人工呼吸器の中止に関する問題を調査した。その結果、延命治療中止が困難な現状の原因として、社会的な要因の他に、医師側の心理的障壁の関与が示された。末期患者における人工呼吸器の中止が適切な医療の選択肢の1つとして存在するためには、医師側がその選択肢を保持するのではなく、家族側に提示されなければならない。したがって、医師側の問題について具体策が講じられる必要がある。

審査要旨 要旨を表示する

我が国において延命治療の中止が社会問題化するなか、本研究は、末期患者における人工呼吸器の中止に関して救急医療施設でみられる問題点について、国内の救急医の経験と認識に基づいて質的に探索することを目的として行い、下記の知見を得た。

1.末期患者において救急医に人工呼吸器の中止を回避させる要因群

人工呼吸器の中止を臨床上の通常の選択肢としている対象医師はおらず、医師に人工呼吸器の中止を回避させる直接要因群(「警察の介入・報道問題」、「家族関連問題」、「医師側の心理的障壁」、「医学的要因」)の存在が示された。報道された人工呼吸器中止「事件」が実質的な「社会の許容限度」を医師に知らせる形になっていることが示された。しかし警察の対応には一貫性がなく、医療政策は以前から医療保険の適用限度という形で、一定時点での治療の中止を求めていた。政策はすなわち法であり、明白な矛盾が長年存在していたといえる。

2.脳死患者において救急医に人工呼吸器の中止を回避させる要因群

対象医師の多くは、患者が脳死の場合でも人工呼吸器の中止を考慮せず、その主な要因として、脳死下での臓器ドナー候補以外における脳死の法的・臨床的意味の曖昧さが挙げられ、その曖昧さの原因として、臓器移植法下において脳死の二重基準が存在していること、及び、移植医療システム下で脳死の診断基準と用語が複数存在し、混乱の原因となっていることが挙げられた。看取る基準としての脳死診断基準の明確化の必要性が示唆された。

3.人工呼吸器の中止が困難な現状の問題点

延命治療の継続はベッド・コントロール問題と社会的に公正な医療資源の配分問題を生んでいると認識されており、今後、実証データの把握の必要性が示唆された。また、患者本人にとっての延命治療の倫理的な意味に関する問題も認識されていた。

4.脳死患者において人工呼吸器の中止を選択肢としている医師の特徴

脳死患者の家族に対し、人工呼吸器の中止という選択肢を提示する医師は対象医師のなかに3名おり、彼らはその臨床実践と認識において共通の特徴が多く、また、その特徴の多くは、前記の「中止を考慮しない医師」の特徴と対称的であることが示された。この3名の実践では、家族が患者の死を受容した後に、はじめて治療の中止という選択がなされているが、彼らは、その実践を支えているのは二重基準によって作られた時間の猶予であると認識し、二重基準を肯定的に評価していることが示された。非論理的と批判されることが多い脳死の二重基準が、臨床実践上は意味を有することを実証研究によって初めて示した。

5.治療中止に関わる医師の心理的障壁と治療中止の形態の関係

人工呼吸器中止を回避させる要因の1つに医師の心理的障壁があり、治療中止の形態がそれに関連していることが示唆された。他の人工補助療法と異なり人工呼吸器の場合には治療継続可能な段階での中止という形になり、医師はその文字通りの中止を「作為」によって生命を終わらせることと認識していることが示唆された。治療中止の形態と中止に関わる心理的抵抗の関係は昇圧剤投与の中止においても認められた。昇圧剤投与の中止は頻繁に行われていたが、その形態は、(1)血圧が低下しても投与量を増大しない部分的withholding、(2)投与量を漸減し、その後、投与量を増大しないという部分的なwithdrawal後のwithholding、 (3)次のアンプルを使用しないという形としてのwithholdingで行う投与中止であり、形態としてのwithholdingによって投与中止を実施することが心理的抵抗感のなさと関連していることが示唆された。治療中止に関わる医師の心理的障壁と中止の形態の関連を示した研究は他に無い。

6.日本救急医学会の「終末期医療に関するガイドライン」によって解決されない問題

同ガイドラインによって解消されず、問題が継続すると考えられるのは、「医師の心理的障壁」と「医学的要因」の構成要素である「患者に苦痛を与える懸念」の問題であることが示唆された。人工呼吸器の中止に際して、患者にとって確実に苦痛がない最期を実現し、かつ、それが家族の心理的負担にもならない方法はどうあるべきかについて、我が国の社会的・文化的な文脈において議論する必要がある。

以上、本論文は、救急医を対象として末期患者における人工呼吸器の中止に関する問題を調査し、その結果、脳死の二重基準は非論理的ではあるが我が国においては臨床上の有用性を有することを実証研究によって初めて示した。また、本研究において、治療中止に関わる医師の心理的障壁と治療中止の形態の関係についての知見を得たが、これまでに同様の報告はみられない。今後、治療中止に関わる医師側の情緒的な問題の考察に有用であろうと考える。これらの知見と考察は、我が国において、延命治療の中止が適切な臨床上の選択肢の1つとして患者家族側に提示される医療環境を整備するうえで有用であると考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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