No | 123843 | |
著者(漢字) | 五十嵐,中 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | イガラシ,アタル | |
標題(和) | 禁煙治療法に関する臨床経済学的評価モデルの開発と禁煙指導法・新規禁煙治療薬バレニクリンの臨床経済学的評価 | |
標題(洋) | ||
報告番号 | 123843 | |
報告番号 | 甲23843 | |
学位授与日 | 2008.03.24 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(薬学) | |
学位記番号 | 博薬第1270号 | |
研究科 | 薬学系研究科 | |
専攻 | 生命薬学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 1序論 医薬品の評価に際して、今までは品質と有効性および安全性のエビデンスのみが求められてきたが、限られた医療資源の有効活用という観点から、費用対効果すなわち効率のエビデンスも重要視されてきている。 喫煙が社会経済に与える影響は大きいが、日本は禁煙推進政策について遅れをとっている。禁煙治療法に関しては、2006年まで保険適用がなかった。この禁煙治療法に関し、たばこ規制世界保健機関(World Health Organization:WHO)枠組条約(2004)などの禁煙関連の法や条約の整備によりたばこへの依存が疾病として捉えられるようになり、保険適用の可能性が議論されていた際に、費用対効果の定量的なデータも求められた。しかしこれまで、日本で禁煙治療法を導入することの費用対効果を、喫煙関連疾患の医療費を含めて前向きに予測した研究は存在せず海外の経済評価モデルの外挿も困難が多い。 本研究の目的は、日本においてようやく疾病として認識され、またこれまで保険償還がなされなかった禁煙治療についてコストとアウトカム双方をコントロールと比較する「完全な経済評価」のために、日本の喫煙関連疾患をカバーするモデルを開発し、日本のデータを用いて解析を行うことである。最終的なゴールとして、くすりの効率のエビデンスをより広く保険償還に関する意思決定に利用するためのツールを提示することを目指した。 2禁煙治療法の臨床経済学的評価モデルの開発 禁煙治療法のコストとアウトカムの双方を定量的に測定できるモデルの開発を目的とした。V 【データと手法】 禁煙成功者と禁煙失敗者の双方につき、性と年齢で層別化された疫学データとコストデータを収集した。疫学データとしては、大きくは喫煙関連疾患の罹患確率と疾患罹患後の死亡確率を、コストデータとしては関連疾患の医療費を収集した。このうち疾患の罹患確率について喫煙習慣によって差が出るものとし、習慣別の罹患確率を算出した。 【結果】 「禁煙に成功して健康」「禁煙に失敗して健康」「禁煙状態で喫煙関連疾患を罹患」「喫煙状態で喫煙関連疾患を罹患」「死亡」の五つの状態からなるモデルを開発した。概略を図1に示す。 一度罹患したら二度と治癒しない疾患を考慮するため、解析は点推定値をもとに複数回の試行を行うマイクロモンテカルロシミュレーションを基本として行った。またモデルには多くの仮定が含まれるため、点推定値自体を動かして評価する「ワーストーベスト感度分析」と、パラメータの数値を点推定値の代わりに確率分布に従った乱数として発生させる「モンテカルロ感度分析」とを行うことで、頑健性を評価することとした。 モデルは性別(男性と女性の2階層)と年齢(30歳から70歳まで、10歳刻みの5階層)とで10個に分けられる。種々の禁煙治療法の禁煙成功率と治療法自体のコストとを入力して計算を行うことで、性と年齢別の期待医療費と期待アウトカムとが算出される。開発したモデルにより、既存あるいは新規の禁煙治療法の臨床経済評価が可能になった。 3経済評価の不確実性とその対応 経済評価の結果を実際につかう政策決定者の立場からは非常に重要なモデルの妥当性評価と利益相反の問題を、具体的な介入の評価の前に吟味した。 モデルの妥当性については、(1)喫煙習慣別平均余命、(2)喫煙習慣で区別しない平均余命、(3)累積肺がん発症リスク、(4)年齢調整肺がん罹患率について、モデルから計算した値と疫学データとの比較を行った。 この結果、70歳男性と30歳女性については基準を満たさなかったため、実際のモデルを用いた解析からは除外することとした。 利益相反については、この分野の研究が進んでいる米国の事例を中心にレビューを行った。利益相反の存在は患者の利益と科学的バイアスに対して一定の影響を及ぼ寅規制手段として一律禁止も考えられるが、米国ではバイ・ドール法により金銭的インセンティブを生科学産業の育成に用いる枠組みが意図的に作られており、利益相反の一律禁止は想定しにくい。これにかえて考えられるのは情報開示である。情報開示の趣旨は、情報の受け手にバイアスの存在可能性を正しく認識させる透明性の確保にある。本研究についてもこれを参考に、全ての発表について利益相反の情報を開示することで対応した。 4禁煙指導法の費用効果分析 2006年の中医協で保険適用開始の可否について議論されていた禁煙指導法については、保険償還開始による医療コスト増大に見合った効果が得られるかどうかについても論点となっていた。そこで、開発したモデルを用いて禁煙指導法導入の費用対効果を評価した。 【データと手法】 禁煙成功率については国内のランダム化比較試験のデータ(指導群33%,無指導群4%)を、禁煙指導のコストについては保険適用前のため、自由診療で行われていた際の報酬額36,294円を算入した。生存年数をアウトカムとする費用効果分析を実行し、コントロールである「無指導」と比較した生存年数1年延長あたりの増分費用効果比(incremental cost efffectiveness ratio::ICER)を算出した。さらに、適応患者全体(27.5万人)について初期投資の総額と将来的な医療費削減総額とを評価することで、医療費へのインパクトを推計した。 【結果】 禁煙指導法を導入すると、無指導群と比較してコストは削減され、かつ生存年数も延長するドミナント(dominant,優位)の状態になる。表1に結果を示した。 具体的には、30歳から60歳までの男性に禁煙指導を行った場合、無治療の場合と比較して医療費を15.7万円削減でき、平均生存年数はO.13年延長できる。40歳から70歳までの女性に禁煙指導を行った場合、無治療の場合と比較して医療費を11.7万円削減でき、平均生存年数は0.08年延長できる。 医療費のインパクトについて、禁煙指導法の適応患者全体(27.5万人)で初期投資100億円が発生するが、将来的には503億円の医療費削減が見込める。 ワーストーベスト感度分析において、禁煙指導法のICERは生存年数1年増加あたり最大でも44万円と、保険償還可能と考えられた。モンテカルロ感度分析において、禁煙指導法がドミナントになる確率とICERが500万円以下に収まる確率は、ともに95%以上となった。 5禁煙治療薬バレニクリンの費用効果分析 ニコチンを含まない禁煙治療薬バレニクリンは、2006年6月に日本でも承認申請がなされた。この際に、禁煙指導に加えて新たにバレニクリンを導入することの経済性を示すために、モデルを使った評価を行った。 【データと手法】 禁煙成功率については国内のランダム化比較試験のデータ(男性:バレニクリン群37.9%vs.プラセボ群25.5%。女性:バレニクリン群22.2%vsプラセボ群16.1%)を、禁煙指導のコストについては保険適用(ニコチン依存症管理料)下での診療報酬額(バレニクリン群76,000円,プラセボ群15,000円)を算入した。質調整生存年(quality-adjusted life year:QALY)をアウトカムとする費用効用分析を実行し、コントロールである「プラセボ群」と比較した1QALY延長あたりのICERを算出した。さらに、適応患者全体(27.5万人)について初期投資の総額と将来的な医療費削減総額とを評価することで、医療費へのインパクトを推計した。 【結果】 禁煙指導に加えてバレニクリンを導入することで、30歳から60歳までの男性については、指導のみと比較して医療費は削減され、QALYは延長するドミナントの状態になる。具体的には医療費を2.8万円削減でき、0.10QALYを獲得できる。表2に結果を示した。 40歳から70歳までの女性にバレニクリンを導入した場合、指導のみを行った場合と比較して医療費は2.8万円増加するものの、0.03QALYを獲得できる。ICERは1QALY増加あたり85.8万円と、妥当な範囲に収まっている。 医療費へのインパクトについて、バレニクリンの適応患者全体(27.5万人)で初期投資168億円が発生するが、将来的には205億円の医療費削減が見込める。 ワーストーベスト感度分析において、バレニクリンの増分費用効果は1QALY増大あたり最大でも270万円と、保険償還可能と考えられた。モンテカルロ感度分析において、バレニクリンがドミナントになる確率は50-60%程度、ICERが500万円以下に収まる確率は80-95%程度となった。 6考察とまとめ 【考察】 禁煙治療に関して、喫煙関連疾患の影響をコストとアウトカムの両面から評価できる臨床経済学的評価モデルを確立し、禁煙指導法や経口禁煙治療薬バレニクリンが臨床経済学的にも優れていることが定量的に示せた。 政策決定に援用されたことをもって研究の正当性を論じることはできないが、医療保険政策の変化にともない、医療分野についても経済性のエビデンスが要求されつつある中で、タイムリーに定量的データを提供できたことに意義があると考える。 将来的にこの流れを保険償還や薬価算定に関する意思決定に定着させていくためには、経済評価の受け手と出し手、すなわち政府と製薬企業双方にとって使いやすいシステムと、それに基づくデータを整備せねばならない。 政府関連機関に対しては、保健予算への影響を明示する医療費のインパクトの推計や、薬剤経済学的データの吟味を容易に行うために感度分析の結果を簡潔にまとめたサマリーテーブルの提示が有用である。 製薬企業に対しては、より中立的な立場から広い疾患領域の研究を実施できるアカデミアからモデルを開発し提案することで、個々の医薬品の開発に生かせる薬剤経済学的データを提供できる可能性がある。今回議論した妥当性や利益相反の問題は、企業との連携の際には非常に重要になる。 今回開発したモデルや収集したデータをもとに、他の疾患領域についても心血管系疾患の二次予防に対するアスピリンの薬剤経済評価や、前立腺がんに対する複数の治療法の比較臨床評価、喫煙のみならず血圧やコレステロール値などのリスクファクターを組み込んだ健康支援プログラムの開発を行った。 【研究の限界】 いくつかの疾患について、質の高い疫学データを得ることができなかった。組み入れられなかった疾患の中でとくに重要なCOPDについては、小島らのコホート研究(2007)によりようやく国内での罹患率データが示され、生存確率やコストデータを吟味した上でモデルに組み込む予定である。 多くの疾患のリスクのデータソースとした平山研究(1990)は、発表されてから20年近くが経過しており、データの更新が必要になる。2007年に祖父江らが、三つの大規模コホート研究を併合した解析により、疾患別の喫煙の相対リスクのデータを改めて発表している。今後国立がんセンターと連携した上で、疫学データを新規なものに入れ替える予定である。 さらに、喫煙の影響として重要な受動喫煙の影響や、医療費以外の損失は、データが得られなかったことや医療費支払者の立場で解析していることもあり、解析に加えていない。 妥当性の評価について、質の高いコホート研究との比較は今後も重要な課題となる。 今後はコンパクトであるが質の高いデータを用いたモデルの再開発や、受動喫煙の影響を評価できる手法の開発が必要である。現在、肺がんのみのデータを組み込んだモデルを新たに開発した。 【研究の展望】 現在、今回のモデルをベースにした以下のような研究を進行中である。 (1)2008年診i療報酬改定に向け、ニコチン依存症管理料算定後の調査結果を用いた薬剤経済評価 (2)バレニクリンの薬剤経済評価モデルの海外、特にアジア諸国への展開 (3)禁煙啓蒙活動の一助となる種々の医療経済データの提供 (4)有害事象のエビデンスレベルを吟味した上でのファーマコビジランスデータの組み込み 【総括】 従来日本では充分には行われてこなかった禁煙治療法の経済性評価について、海外ではなく日本の状況に応じた喫煙関連疾患を同定し、日本の罹患率と相対リスクをもとに、コストとアウトカム双方を定量評価できるモデルを開発した。 経済評価の不確実性に関する課題として、モデルの妥当性と利益相反の2つを同定した。モデルの妥当性については、喫煙習慣別平均余命、統合平均余命、肺がん累積罹患率、年齢調整がん罹患率の4点について既存のデータとの比較を行った。利益相反については情報を開示することの意味合いを論じ、本研究については全ての発表について利益相反の情報を開示することで対応した。 このモデルを用いた経済評価によって、禁煙指導法が費用対効果に優れており、バレニクリンが費用対効用に優れていることを定量的に示すことができた。 そしてモデルを用いた経済評価の意思決定への生かし方を提案することで、医療資源の合理的配分に資するくすりの費用対効果、すなわち「効率」の薬剤経済学的エビデンスを、日本においてより広く保険償還における意思決定に使用するためのツールと一連のプロセスを提示することができた。 図1禁煙治療のモデルの概略 表1禁煙指導法の費用効果分析の結果 表2バレニクリン(val)の費用効用分析の結果 | |
審査要旨 | 合理的使用という観点から、医薬品や医療技術について、費用対効果すなわち「効率」のエビデンスが重要視されるようになってきた。とくに公的財源を用いる保険償還の可否の決定に関してそのニーズが高まっているものの、費用対効果のエビデンスを意思決定につかう土壌は確立されていない。 喫煙が社会経済に与える影響は大きいが、日本億禁煙推進政策について遅れをとっている。禁煙関連の法や条約の整備によりたばこへの依存が疾病として捉えられるようになり、保険適用の可能性が議論されていた際に、費用対効果の定量的なデータも求められた。しかしこれまで、日本で禁煙治療法を導入することの費用対効果を、喫煙関連疾患の医療費を含めて前向きに予測した研究は存在しなかった。海外では経済評価モデルが開発されているものの、モデル自体が禁煙治療の効果を適切に反映していないことや、欧米人と日本人とでべ一スラインに差があることもあり、モデルの外挿による評価は困難であった。 本研究の目的は、これまで保険償還がなされてこなかった禁煙治療についてコストとアウトカム双方をコントロールと比較する「完全な経済評価」を行うために、日本の喫煙関連疾患の影響を適切に捕捉できるモデルを開発し、日本のデータを用いて種々の禁煙治療法の解析を行うことである。具体的には、モデルを開発した上で、禁煙治療法および新規の経口禁煙治療薬バレニクリンの費用対効果を定量的に示すことを目的としている。さらに最終的なゴールとして、くすりの効率のエビデンスをより広く保険償還に関する意思決定に利用するためのツールを提示することを目指したものである。 第1に、海外ではなく日本の状況に応じた喫煙関連疾患を同定し、日本の罹患率と相対リスクをもとに、コストとアウトカム双方を定量評価できるモデルを開発した。 種々の禁煙治療法の禁煙成功率と治療法自体のコストとを入力して計算を行うことで、性、年齢別の期待医療費と期待アウトカムとが算出される。開発したモデルにより、既存あるいは新規の禁煙治療法の臨床経済評価が可能になった。 第2に、経済評価の不確実性に関する吟味を行った。具体的な課題として、モデルの妥当性と利益相反の2つを同定した。モデルの妥当性については、喫煙習慣別平均余命、統合平均余命、肺がん累積罹患率、年齢調整がん罹患率の4点について既存のデータとの比較を行った。利益相反については情報を開示することの意味合いを論じ、本研究については全ての発表について利益相反の情報を開示することで対応した。 第3に、モデルを用いた経済評価によって、禁煙指導法および新規の経口禁煙治療薬バレニクリンが費用対効用に優れていることを定量的に示すことができた。 禁煙指導を導入することで、男性については無治療の場合と比較して医療費を15.7万円削減でき、平均生存年数は0.13年延長できる。女性に禁煙指導を行った場合、無治療の揚合と比較して医療費を11.7万円削減でき、平均生存年数は0.08年延長できる。 適応患者全体(アンケート調査と人口分布データにより、解析対象の喫煙人口2,200万人のうち、27万人が適応対象と推計された)で見た場合、禁煙指導の導入によって初期投資100億円が発生するが、将来的には503億円の生涯医療費削減が見込める。種々のパラメータを確率的に発生させるモンテカルロ感度分析において、禁煙指導法がドミナントになる確率と増分費用効果比(incremental cost-effectiveness ratio:ICER)が500万円以下に収まる確率は、ともに95%以上となった。 禁煙指導に加えてバレニクリンを導入することで、男性については指導のみと比較して医療費を2.8万円削減でき、質調整生存年(quality-adjusted life year:QALY)は0.10QALYを獲得できる。女性にバレニクリンを導入した場合、指導のみを行った場合と比較して医療費は2.8万円増加するものの、0.03QALYを獲得できる。ICERは1QALY増加あたり85.9万円と、保険償還可能な範囲に収まっていると考えられた。 適応患者全体で見た場合(禁煙指導法の解析と同様に、27万人が適応対象と推計された)、バレニクリンの導入によって初期投資168億円が発生するが、将来的には205億円の生涯医療費削減が見込める。種々のパラメータを確率的に発生させるモンテカルロ感度分析において、バレニクリンがドミナントになる確率は50-60%程度、ICERが500万円以下に収まる確率は80-95%程度となった。 第4に、モデルを用いた経済評価の意思決定への生かし方にっいて、政府関連機関および製薬企業に対して、どのような形での貢献ができるかの考察を行った。政府関連機関向けには費用対効果のデータの提示方法の標準化、さらにはリーグテーブルの構築を提言した。製薬企業に対しては、中立的なアカデミアが経済評価を実施することの意義と、本研究のような長期的なコスト・アウトカムを推計できるモデルが、広義の予防介入領域の医薬品開発に貢献できることを論じた。 本研究により、禁煙治療法さらには他の疾患領域の介入における長期的なコスト・アウトカムを推計できる日本の各疾患の容一スラインデータや推移確率を組み込んだモデルが開発された。そして開発されたモデルを用いた臨床経済分析によって禁煙指導法および経口禁煙治療薬バレニクリンの費用対効果を定量的に明らかにすることができだ。さらに、モデルを用いた経済評価の意思決定への生かし方を提案することで、医療資源の合理的配分に資するくすりの費用対効果、すなわち「効率」の薬剤経済学的エビデンスを、日本においてより広く保険償還における意思決定に使用するためのツールと一連のプロセスを提示することができた。 医療資源の適正使用、すなわち医薬品の合理的使用に本研究の成果が貢献できる点は大きく、申請者の五十嵐中は博士(薬学)の学位に相当するものと考える。 | |
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