学位論文要旨



No 123846
著者(漢字) 池田,隆光
著者(英字)
著者(カナ) イケダ,タカミツ
標題(和) 脳内で合成される17α-エストラジオールの抑制性シナプスへの作用
標題(洋)
報告番号 123846
報告番号 甲23846
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1273号
研究科 薬学系研究科
専攻 生命薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 一條,秀憲
 東京大学 教授 大和田,智彦
 東京大学 准教授 富田,泰輔
 東京大学 准教授 東,伸昭
内容要旨 要旨を表示する

【序論】

エストロゲンは「女性ホルモン」として知られており、内分泌系において重要な役割を担っている。しかし、その合成酵素や受容体が記憶を担う海馬などの神経細胞に雌雄共に発現している事が知られており、「女性ホルモン」以外の役割があると考えられる。

エストロゲンの受容体は海馬体において抑制性神経細胞にも発現していることが知られている。抑制性神経細胞は情報を処理する際に活動することが個体レベルの実験で示されていることから、抑制性神経伝達がこの正確な活動のタイミングを通じて情報処理機構に関与していると示唆されている。また、抑制性神経細胞の機能の失調と種々の疾患の関連も示唆されており、抑制性神経細胞の機能の調節メカニズム、機能調節因子を明らかにすることは生理学的にも病理学的にも重要であると思われる。

筆者は修士課程において脳由来神経栄養因子(Brain-DerivedNeurotrophicFactor:BDNF)およびBDNFのヒトに存在する一アミノ酸変異体BDNFv66MによりGAD65(GABA合成酵素=GADのisoform)量の増大が局所的に起こることを明らかにした。そして、さらなる抑制性神経細胞の機能調節因子として、エストロゲンに着目をした。外因性のエストロゲンは抑制性の神経伝達に作用することが示唆されている。しかし、その作用はGAD65を減少させる方向に働くという報告もあればGAD65を上昇させるという報告もある。一定の見解が得られない理由としてこれらの研究が外からエストロゲンを加えているという点が考えられた。外因性のエストロゲンを大過剰量に加えることにより受容体のダウンレギュレーションが引き起こされることが知られており、外因性のエストロゲンの作用は実際に生体内で合成されるであろう、内在性のエストロゲンの作用を反映していない可能性がある。しかし、脳でのエストロゲン合成に着目した研究はほとんどなく、また既存のアロマターゼノックアウトマウスは全て全身性であることから脳内で合成されているエストロゲンの役割は全く分かっていないと言っても過言ではない。

以上の点から、実際に脳内で合成されていると思われるエストロゲンの役割については重要であるにも関わらずほとんど知見が無い。本研究では他の組織の影響を受けない培養神経細胞および個体動物レベルでエストロゲンの合成を中枢神経系のみで抑制するという手法を用いて神経細胞により合成されるエストロゲンの抑制性神経終末に対する作用を解明することを目的とし、検討を行った。

【本論】

(1)海馬培養神経細胞におけるエストロゲンの役割

修士課程においてBDNFという蛋白質およびヒトに存在する一アミノ酸変異A体BDNFv66Mが抑制性神経伝達物質GABAの合成酵素、GAD65の発現を調節する事を明らかにした。また、エストロゲンとBDNFは共通の効果を持つ現象も報告されている事から、抑制性神経細胞に対するエストロゲンの役割について検討を行った。

培養7日目の海馬神経細胞に対し、エストロゲンの合成酵素(アロマターゼ)阻害剤Ietrozole、fadrozoleを適用した。そして培養9日目に固定し、GAD65対する特異的モノクローナル抗体(GAD6)で免疫染色を行った(図IA)。そして、その蛍光強度を測定したところ、Ietrozole投与群(図1B)、fadrozole投与群(図IC)のいずれにおいてもGAD65蛍光強度の低下が観察された。次にエストロゲン受容体α、βの阻害薬IC1182780(図2A)、tamoxifen(図2B)を適用したところ、同様の作用が見られた。また定量的PCRを行い、GAD65mRNAレベル経伝達機能を制御することが考えられた。また、その作用はエストロゲン受容体α、βの活性を必要とするとすることを明らかにした。以上の点から神経細胞により合成されるエストロゲンがエストロゲン受容体α、βを介してGAD65発現量の維持に関与する可能性が考えられた。

次にBDNFとエストロゲンの関係に着目した。エストロゲンによりBDNFの発現が誘導されることが報告されており、エストロゲンによるGAD65発現量調節はBDNFを介したものであるか検討を行った。培養神経細胞に対しIC1182780、BDNFをそれぞれ単独処置した群とそれらを共処置した群について検討を行った。するとGAD65発現量はIC1182780単独処置群に比べて有意に上昇したものの、BDNF単独処置群に対しては有意に低かった。また、BDNFの受容体の阻害薬K252aおよびICII82780を単独、共処置を行った。するといずれの薬物も単独で有意にGAD65発現量を低下させたものの、共処置群では薬物単独処置群に対し、さらに有意に低下していた(図3)。このことから、エストロゲンによるGAD65量の調節にBDNFは関与しない、もしくはBDNFの寄与は小さいものと思われる。

(2)雄性ラットの脳におけるエストロゲン

次に雄性ラットの脳内におけるエストロゲンに着目をした。一般に「女性ホルモン」として知られているのは17β一エストラジオールであるが、LC/MS/MSを用いた検討によりマウスの脳においては17α一エストラジオールが存在すると報告されている。市販の抗体は全て交差性を示してしまうことから、これまでにELISAやRIAなどの方法により行われてきた研究は不正確である可能性がある。そこでガスクロマトグラフィー・マススペクトラムを用いて17α一エストラジオールと17β一エストラジオールを別々に定量することのできる系を確立した。雄性ラットより海馬を摘出し、抽出を行った後に誘導体化試薬を加え、定量的に解析した(内部標準物質としては重水素体を用いた)。計5匹の雄性ラットの海馬体について検討を行ったところ、3匹より図4Aに代表されるようなチャートが得られた。矢頭のピークが標準17ev-一エストラジオールの、矢印のピークが標準17β一エストラジオールのピークの保持時間が一致した。一方2匹からは図4に代表されるようなチャートを得、標準17α一エストラジオールのピークに保持時間が一致するピークは得られたが、標準17β一エストラジオールの保持時間に一致するピークは得られなかった。重水素体を用いた内部標準法により定量を行ったところ、図4Cを得た。全ての個体において17α一エストラジオールは17β一エストラジオールはよりも多かった。

17α一エストラジオールが実際に機能的に抑制性神経細胞に働くのかという点については不明であるために、培養神経細胞を用いて検討を行った。培養7日目の海馬神経細胞に対しIetrozole、17α一エストラジオールおよび17β一一エストラジオールを適用し、培養9日目に解析を行ったところ、図5を得た。Letrozole処置群に対し、letrozole、17eα-エストラジオールもしくは17β-エストラジオールを共添加した群ではGAD65シグナルが有意に上昇していた。また、いずれの濃度においても17α-エストラジオールと17β-エストラジオールの作用に有意な差はなかった。すなわち、17α-エストラジオールは17β-エストラジオールと同程度の作用を持っており、抑制性シナプス調節に関与しうる事を初めて明らかにした。

(3)雄性ラットの脳内で合成されるエストロゲンの役割

実際に脳内において合成されるエストロゲンの役割に着目をした。まずletrozoleを脳室内に投与することによりエストロゲン合成を抑制することを試みた。Letrozoleを脳室に投与することにより、末梢組織由来のエストロゲンと中枢神経系由来のエストロゲンを区別することを可能にした。Letrozoleを24時間毎に三回脳室内投与し、その効果を確認するためにGC/MSで脳内の17α一エストラジオールの定量を行った。すると、letrozoleを投与したラットの海馬体においては17α一エストラジオールが有意に低下していることを確認した。

次にletrozoleを投与することによる抑制性シナプスの変化について検討を行った。Letrozoleを脳室内に投与したラット脳切片を作成し免疫染色法により、図6に代表例を示す染色像を得た(背側海馬CA1野)。蛍光強度を定量したところ錐体細胞層においてGAD65の蛍光強度は有意に低下していた(図6)。

次にletrozole脳室内投与を行い、ラットの行動に変化が起こるか、検討を行った。するとオープンフィールド試験にてletrezole(i.c.v.)群では中心部にいる時間が有意に低下していた。また17α一エストラジオールの共投与によりその作用は消失した。なお体重や、移動距離、リアリングの回数には有意な差は認められなかった。他の試験についても検討を行ったが、高架式十字迷路や強制水泳試験では差は検出されなかった。

【総括】

本研究において培養神経細胞および雄性ラットを用いた検討から、以下の点を明らかにした。

1.培養神経細胞、雄性ラット海馬においてエストロジェンの合成能低下にともなって抑制性神経細胞の抑制能を強めるGAD65は減少した。

2.雄性ラット海馬に主に存在するエストロゲンは17α一エストラジオールである。

3.脳内におけるエストロジェンの合成能低下にともなって雄性ラットは不安様行動を示す。また、この表現型は17α一エストラジオールの共投与により見られなくなる。

以上の点から17α-estradiolは脳内で合成され、機能的に抑制性神経細胞に働く新規の神経伝達調節因子であると考えられた。

図1.培養海馬神経細胞に対するエストロゲン合成酵素(アロマターゼ)阻害剤の作用。**p<0.01vsvehicle

図2.培養海馬神経細胞に対するエストロゲン受容体阻害薬の作用。*p〈0.05、**p〈0.01 vs vehicle

図3.(A)ICEI82780、BDNFの作用(B)1C1182780およびK252aの作用。**p〈0.01 vs vehicle、##p〈0.01 between indicated groups

図4.ラット海馬より GC/MSを用いた17α一esteadiol(矢頭)、17β一エストラジオール(矢印)の検出および定量図

図5.培養神経細胞への17α一エストラジオール、17β一エストラジオールの作用。**p<0.01 vs vehicle、#p<0.05、##p<0.01 vs vehicle

図6.Letrozole(i.c.v.)の背側海馬CA1野GAD65への作用。*p〈0.05 vs vehicle

審査要旨 要旨を表示する

エストロゲンは「女性ホルモン」として知られており、内分泌系において重要な役割を担っている。しかし、その合成酵素や受容体が記憶を担う海馬などの神経細胞に雌雄共に発現している事が知られており、「女性ホルモン」以外の役割があると考えられる。エストロゲンの受容体は海馬体において抑制性神経細胞にも発現していることが知られている。抑制性神経細胞は情報を処理する際に活動することが個体レベルの実験で示されていることから、抑制性神経伝達がこの正確な活動のタイミングを通じて情報処理機構に関与していると示唆されている。また、抑制性神経細胞の機能の失調と種々の疾患の関連も示唆されており、抑制性神経細胞の機能の調節メカニズム、機能調節因子を明らかにすることは生理学的にも病理学的にも重要であると思われる。エストロゲンの作用を検討した報告は既にあるが、全て外因性に与えたものの作用であり、脳内で合成されたエストロゲンの作用は検討されていない。

本研究では、抑制性神経細胞の機能調節因子として、エストロゲンに着目し、培養神繹細胞および個体動物レベルで内因性エストロゲンの作用解明を目的とした。

1.海馬培養神経細胞におけるエストロゲンの役割

培養海馬神経細胞に、エストロゲンの合成酵素(アロマターゼ)阻害薬letrozole、fadrozoleを適用し、抑制性神経伝達物質GABA、の合成酵素、GAD65、レベルを免疫染色で測定した。letrozoleおよびfadrozoleはともにGAD65レベルを低下させ、エストロゲン受容体α、βの阻害薬ICI182780、tamoxifenも同様の作用を示した。また、定量的PCRにより、GAD65mRNAレベルも低下していることを明らかにした。以上の点から培養神経細胞の合成するエストロゲンは抑制性神経伝達機能を制御することが考えられ、その作用はエストロゲン受容体α、βを介することを明らかにした。

修士課程においてBDNFがGAD65の発現を調節する事を明らかにしているので、BDNFとエストロゲンの関係に着目した。エストロゲンによりBDNFの発現が誘導されることが既に報告されている。エストロゲンによるGAD65発現量調節がBDNFを介したものであるか検討を行った。培養神経細胞に対しICII82780、BDNFをそれぞれ単独処置した群とそれらを共処置した群について検討を行った。するとGAD65発現量はICI182780単独処置群に比べて有意に上昇したものの、BDNF単独処置群に対しては有意に低かった。また、BDNFの受容体の阻害薬K252aおよびICII82780を単独、共処置を行った。いずれの薬物も単独で有意にGAD65発現量を低下させたものの、一方の阻害薬が他方の阻害薬の作用をマスクすることはなかった。これらのことから、エストロゲンによるGAD65量の調節にBDNFは関与しない、もしくはBDNFの寄与は小さいものと思われる。

2.雄性ラットの脳におけるエストロゲン

次に雄性ラットの脳内におけるエストロゲンに着目をした。一般に「女性ホルモン」として知られているのは17β一エストラジオールであるが、LC/MS/MSを用いた検討によりマウスの脳においては17α一工ストラジオールが存在すると報告されている。市販の抗体は全て交差性を示してしまうことから、これまでにELISAやRIAなどの方法により行われてきた研究は不正確である可能性がある。そこでガスクロマトグラフィー・マススペクトラムを用いて17α一エストラジオールと17B一エストラジオールを別々に定量することのできる系を確立した。雄性ラットより海馬を摘出し、抽出を行った後に誘導体化試薬を加え、定量的に解析した(内部標準物質としては重水素体を用いた)。.

17α一エストラジオールの作用については不明であるために、培養神経細胞を用いて検討を行った。培養海馬神経細胞に対しIetr。zoleJ7α一エストラジオールおよび17β一エストラジオニルを適用したところ、Letrozole処置群に対し、Ietrozole、17α一エストラジオールもしくは17β一エストラジオールを共添加した群ではGAD65シグナルが有意に上昇していた。また、いずれの濃度においても17α一エストラジオールと17β一エストラジオールの作用に有意な差はなかった。すなわち、17α一エストラジオールは17β一エズトラジオールと同程度の作用を持っており、抑制性シナプス調節に関与しうる事を初めて明らかにした。

3.雄性ラットの脳内で合成されるエストロゲンの役割

実際に脳内で合成されるエストロゲンの役割に着目した。letrozoleを脳室内に投与することにより、末梢組織由来のエストロゲンと中枢神経系由来のエストロゲンを区別した。Letrozoleにより、脳内の17α一エストラジオールの量が有意に低下していることを確認した。次に、Letrozoleを脳室内に投与したラットの海馬CA1野では、GAD65のレベルが有意に低下していた。次に、letrozole脳室内投与を行い、ラットの行動解析を行った。その結果、オープンフィールド試験にてletrozole(i.c.v.)群では中心部にいる時間が有意に低下していた。また17α一エストラジオールの共投与によりその作用は消失した。なお体重や、移動距離、リアリングの回数には有意な差は認められなかった。他の試験についても検討を行ったが、高架式十字迷路や強制水泳試験では対照群との違いは検出されなかった。

本研究において培養神経細胞および雄性ラットを用いた検討から、(1)培養神経細胞、雄性ラット海馬においてエストロジェンの合成能低下にともないGAD65レベルは減少すること、(2)雄性ラット海馬に主に存在するエストロゲンは17α一エストラジオールであること、(3)脳内におけるエストロジェンの合成能低下にともなって雄性ラットは不安様行動を示し、この作用は17α一エストラジオールの共投与により抑制されること、を明らかにした。以上のことから17α一estradiolは脳内で合成され、機能的に抑制性神経細胞に働く新規の神経伝達調節因子であると考えられた。このように、本研究はエストロジェンの脳機能に対する作用を明らかにしたものであり、博士(薬学)の学位授与に値するものと判断した。

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