学位論文要旨



No 123848
著者(漢字) 木村,梨絵
著者(英字)
著者(カナ) キムラ,リエ
標題(和) 大規模イメージングを用いた海馬ネットワークにおける多シナプス応答の解析
標題(洋)
報告番号 123848
報告番号 甲23848
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1275号
研究科 薬学系研究科
専攻 生命薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 教授 嶋田,一夫
 東京大学 准教授 紺谷,圏二
 東京大学 准教授 池谷,裕二
内容要旨 要旨を表示する

【序論】

脳は、入力された情報を処理して出力する、いわば、情報処理演算システムである。多数の神経細胞が協調的にシステムとして作動することによって、幾多の特徴ある演算を実現している。こうした高次な非線形演算は、興奮性の順行性、再帰性回路、抑制性のフィードバック・フィードフォワード型回路などの多彩な局所回路を基礎とし、これら局所回路が複雑に絡み合って多シナプスを経ることによって実現しているが、その作動原理についての知見は不十分である。これまでの多くの研究は、個性ある要素から成る回路システムを、要素を無視して一様化して扱ったり、あるいは、システムから切り離された要素を独立して扱ったりしていた。システムは集団として一様でなく、その機能も要素の単純な線形和とはなっていない。したがって、一般に普及している実験手法を用いても、脳の情報処理システムの解明に迫るには限界がある。本研究では、脳システムとして情報処理を担う多シナプス回路をまとめて一つの巨大な演算子と捉え、その演算子への入力情報を人工刺激によって与え、機能的多ニューロンカルシウム画像法(functional Multineuron Calcium Imaging,fMCI)を用いて、個性を保った状態で多数の神経細胞から出力の発火活動を捉える実験系を導入した(図1)。記憶獲得に重要な働きを担う海馬ネットワークが、どのような情報演算を行うのかをまず検討し、次にその情報演算が、記憶・学習の素過程と考えられる可塑性を誘導することによって、どのように変化するのかを検討した。これにより、神経情報の表象や、その回路処理の実体を捉えることを目指した。

【本論】

1.海馬ネットワークによる情報演算機構

培養海馬切片標本に最適な切り込みを入れることによって分離した2ヶ所の刺激部位を、海馬ネットワークへの入力にあたる歯状回に設けた。さらに、その歯状回穎粒細胞からCA1野錐体細胞にいたる多彩なシナプス回路をまとめて巨大な演算子として捉え、出力にあたるCA1野錐体細胞の発火活動をfMCIによって記録した。歯状回の2ヶ所の単独刺激AとB、さらにAとBの同時刺激(A&B)によるCA1野神経細胞の発火パターンを検討した。つまり、歯状回-CA3野シナプスやCA3野-CA1野シナプスに加えて、CA3野錐体細胞同士の再帰性シナプス、フィードバック、フィードフォワード型の抑制性シナプスをまとめた演算子が入力情報をどのように演算して、CA1野錐体細胞の発火パターンとして出力するのかを調べた。その結果、細胞ごとに観察される発火確率の組み合わせは多様であり(図2)、結果として多彩な演算子が観察された。発火確率を統計学的に評価することで、(1)同時刺激A&Bで、単独刺激AおよびBによる発火確率から期待される発火確率よりも低い確率で発火する排他的論理和(XOR)様の演算子、(2)逆に、同時刺激A&Bで、期待発火確率よりも高い確率で発火する論理積(AND)様の演算子、(3)単独刺激AにもBにも反応する論理和(OR)様の演算子、(4)単独刺激Aに選択的に反応する演算子、(5)単独刺激Bに選択的に反応する演算子などが、海馬ネットワークに同時に内在していることが明らかになった(図3)。

歯状回に、刺激AとBの時間差を様々に連続的に変えた組み合わせ刺激A&Bを加えることによって、CA1錐体細胞の発火応答を調べた。この発火応答をもとに、排他的論理和(XOR)様の演算子、論理積(AND)様の演算子の割合変化を調べた。この結果、時間差が大きくなるほど、XORの割合が多くなり、一方、時間差が小さくなるほど、ANDの割合が多くなった(図4)。二種類の入力があったとき、その時間差に応じて柔軟に演算様式を変化させることが示された。

2.海馬内の領域ごとの情報伝達

歯状回に刺激による入力情報を与えたときの、海馬内のCA3野、CA1野の各領域での情報伝達様式について検討した。歯状回を刺激してCA3野神経細胞、CA1野神経細胞の発火潜時をcell-attachedまたはIooseパッチクランプ記録することにより電気生理学的に調べた。その結果、CA3野、CA1野いずれの領域においても、潜時が長くなっても、必ずしもばらつきが大きくならないことがわかった。単純な伝達を想定すれば、潜時の長さに応じて時間精度は低下し、ばらつきは大きくなるのだが、そうはならなかったことから、発火タイミングを正確に保つような性質をもっていることが予想された。

3.発火タイミング依存的な情報演算の可塑的変化

記憶・学習の素過程と考えられている可塑性を海馬多シナプスネットワーク内に誘導することによって、情報演算がどのように変化するのかを検討した。可塑性は発火タイミング依存的な可塑性(spike dependent plasticity;STDP)を考慮し、歯状回刺激AとBの時間差10msの組み合わせ刺激A&Bを連続(1Hz、20回)で加えたペアリング刺激によって誘導した。歯状回の単独刺激AとB、同時刺激A&BによるCA1野神経細胞の発火応答を記録することによって、海馬ネットワークの演算子が可塑性前後で機能的にどのように変化するのかを検討した(図5)。その結果、発火パターンは、細胞ごとに劇的に多様な変化を示したが、ランダムな変化ではなく、集団として特定の傾向をもって変化した。例えば、同時刺激A&Bにのみ反応していたものが、単独刺激AかBによってだけでも反応するようになった。つまり、入力の一部から完全な入力による出力を再現する演算ユニットが出現した。論理演算子では、可塑性誘導後に、論理和(OR)様、B選択的(B)、排他的論理和(XOR)様の演算子が増加した。つまり、情報を連合させる演算ユニット、情報を分離させる演算ユニットが同時に出現した。刺激AとBを組み合わせたペアリング刺激によって、可塑性を誘導したのにも関わらず、情報の分離の方向に働く演算ユニットが出現したことの理由を考察し、ペアリング刺激を構成する刺激AとBの間に時間差があったからではないかと考えた。この仮説を検証するために、歯状回に刺激AとBの間の時間差をなくしたペアリング刺激を加えることによって、再び可塑性を誘導した。この結果、可塑性誘導後の、情報の分離の方向に働くと考えられるXORの演算子の増加の程度が減少した(図5)。このことから、ペアリング刺激の時間タイミング依存的に可塑性による情報演算の方向が変化することが示唆された。さらに、XORの演算子の増加傾向の消失は、NMDA受容体拮抗薬AP5を適用することによってブロックされ、再び、XORの演算子の増加が見られるようになった。

4.情報演算の可塑的変化の計算機シミュレーションによる検討

実験によって得られた、情報演算の可塑的な変化がシミュレーションによって再現できるかを検討した。海馬ネットワークを構成する、個々の神経細胞の膜電位はlzhikevichモデルに従うとして、可塑性はSTDP則に基づいて誘導した。この結果、一部の実験結果においては再現できたが、例えば論理演算子の割合などは再現できなかった。今後、さらに検討を続ける予定である。これが再現できれば、実験では検討しにくい部分を明らかにでき、さらに予測にも利用できるので大いに期待される。

【総括】

本研究により、海馬ネットワークには多様な論理演算子が存在していることが明らかになった。したがって、海馬ネットワークは並列分散型情報処理を行っていることが示唆された。また、二種類の入力の時間差情報を変化させることによって一時的に演算様式が変化すること、可塑性誘導によって入力刺激依存的に長期的に演算様式が変化することから、情報演算のスタイルは柔軟に変化することが示唆された。

本研究は、個性ある要素と、複雑集合体であるシステムという異なる次元の実験データを系統立てて扱うための第一歩になると期待される。これによって、細胞個々とマクロシステムをつなぐメタレベルの視点から、記憶・学習の素過程であるシナプス可塑性を捉え直すことが可能になる。今後、本実験系により情報演算に基づいた中枢神経疾患の病因解明や治療方法の確立につなげたい。

図1.海馬ネットワークの情報演算を機能的多ニューロンカルシウム画像法(fMCI)により可視化したA.実験概念図B.蛍光強度上昇という形で発火活動が捉えられた。C.歯状回刺激によるCA1野神経細胞の発火の時空間パターンD.Cのデータをもとに発火した細胞と発火しなかった細胞に分類した。

図2.入力刺激依存的に個々の神経細胞は多様な出力発火パターンを示す歯状回刺激(StimA(上段)、StimB(中段)、StimA&B(同時刺激,下段))10試行によるCA1野興奮性神経細胞の発火応答をラスター表記した。個々の神経細胞の平均発火確率は、下段にグレースケールで示した。

図3.海馬ネットワークは様々な論理演算子をもつA.論理演算子の概念図黒の塗り部分が発火を意味するβ論理演算子の細胞数分布(全2284細胞)

図4.StimAとStimBの時間タイミングを変えることによる各種論理演算子数の割合変化A.組み合わせ刺激A&Bのプロトコル歯状回の二箇所刺激StimAとStimBの時間タイミングを連続的に変えた。B.各種論理演算子数の割合変化組み合わせ刺激A&Bの時間タイミングに応じて、各種論理演算子の割合は変化した。C.排他的論理和XORおよび論理積ANDの割合変化StimAとStimBの時間差がなくなるにつれて、ANDの割合が多くなり、時間差が大きくなるほどXORの割合が多くなった。(全1182細胞)

図5.発火タイミング依存的に海馬ネットワークの情報演算は可塑的な変化を示す 時間差10ms、あるいはOmsのペアリング刺激を1Hz20回で加えることにより、海馬ネットワークに可塑性を誘導した。ペアリング刺激前後の各種論理演算子数の変化率をグラフに示した。時間差10msのペアリング刺激(全742細胞)、時間差Omsのペアリング刺激(全915細胞)、NMDA受容体拮抗薬AP5100pM存在下での時間差Omsのペアリング刺激(全611細胞)を加えたときの結果を順に示した。検定は母比率の差の検定によって行った(**ρくO.Ol)。

審査要旨 要旨を表示する

脳は、入力された情報を処理して出力する、情報処理演算システムとして働く。多数の神経細胞が協調的にシステムとして作動することによって、幾多の特徴ある演算牽実現している。こうした高次な非線形演算は、興奮性の順行性、再帰性回路、抑制性のフィードバック・フィードブ才ワード型回路などの多彩な局所回路を基礎とし、これら局所回路が複雑に絡み合って多シナプスを経ることによって実現しているが、その作動原理についての知見は不十分である。これまでの多くの研究は、個性ある要素から成る回路システムを、要素を無視して一様化して扱ったり、あるいは、システムから切り離された要素を独立して扱ったりしていた。システムは集団として一様でなぐその機能も要素の単純な線形和とはなっていない。したがって、一般に普及している実験手法を用いても、脳の情報処理システムの解明に迫るには限界がある。本研究では、脳システムとして情報処理を担う多シナプス回路をまとめて一つの巨大な演算子と捉え、その演算子への入力情報を人工刺激によって与え、機能的多ニューロンカルシウム画像法(functional Multineuron Calcium lmaging,fMCI)を用いて、個性を保った状態で多数の神経細胞から出力の発火活動を捉える実験系を導入した。記憶獲得に重要な働きを担う海馬ネットワークが、どのような情報演算を行うのかをまず検討し、次にその情報演算が、記憶・学習の素過程と考えられる可塑性を誘導することによって、どのように変化するのかを検討した。これにより、神経情報の表象や、その回路処理の実体を捉えることを目指した。

1.海馬ネットワークによる情報演算機構

培養海馬切片標本に最適な切り込みを入れることによって分離した2ヶ所の刺激部位を、海馬ネットワークへの入力にあたる歯状回に設けた。さらに、その歯状回穎粒細胞からCA1野錐体細胞にいたる多彩なシナプス回路をまとめて巨大な演算子として捉え、出力にあたるCA1野錐体細胞の発火活動をfMCIによって記録した。歯状回の2ヶ所の単独刺激AとB、さらにAとBの同時刺激(A&B)によるCA1野神経細胞の発火パターンを検討した。つまり、歯状回一CA3野シナプスやCA3野一CA1野シナプスに加えて、CA3野錐体細胞同士の再帰性シナプス、フィードバック、フィードフォワード型の抑制性シナプスをまとめた演算子が入力情報をどのように演算して、CA1野錐体細胞の発火パターンとして出力するのかを調べた。その結果、細胞ごとに観察される発火確率の組み合わせは多様であり、結果として多彩な演算子が観察された。発火確率を統計学的に評価することで、(1)同時刺激A&Bで、単独刺激AおよびBによる発火確率から期待される発火確率よりも低い確率で発火する排他的論理和(XOR)様の演算子、(2)逆に、同時刺激A&Bで、期待発火確率よりも高い確率で発火する論理積(AND)様の演算子、(3)単独刺激AにもBにも反応する論理和(OR)様の演算子、(4)単独刺激Aに選択的に反応する演算子、(5)単独刺激Bに選択的に反応する演算子などが、海馬ネットワークに同時に内在していることが明らかになった。

歯状回に、刺激AとBの時間差を様々に連続的に変えた組み合わせ刺激A&Bを加えることによって、CAI錐体細胞の発火応答を調べた。この発火応答をもとに、排他的論理和(XOR>様の演算子、論理積(AND)様の演算子の割合変化を調べた。この結果、時間差が大きくなるほど、XORの割合が多くなり、一方、時間差が小さくなるほど、ANDの割合が多くなった。二種類の入力があったとき、その時間差に応じて柔軟に演算様式を変化させることが示された。

2.海馬内の領域ごとの情報伝達

歯状回に刺激による入力情報を与えたときの、海馬内のCA3野、CA1野の各領域での情報伝達様式について検討した。歯状回を刺激してCA3野梯経細胞、CAI野神経細胞の発火潜時をcell-attachedまたはlooseパッチクランプ記録することにより電気生理学的に調べた。その結果、CA3野、CA1野いずれの領域においても、潜時が長くなっても、必ずしもばらつきが大きくならないことがわかった。単純な伝達を想定すれば、潜時の長さに応じて時間精度は低下し、ばらつきは大きくなるのだが、そうはならなかったことから、発火タイミングを正確に保つような性質をもっている.ことが予想された。

3.発火タイミング依存的な情報演算の可塑的変化

記憶・学習の素過程と考えられている可塑性を海馬多シナプスネットワーク内に誘導することによって、情報演算がどのように変化するのかを検討した。可塑性は発火タイミング依存的な可塑性(spike timing dependent plasticity,STDP)を考慮し、歯状回刺激AとBの時間差10msの組み合わせ刺激A&Bを連続(1Hz、20回)で加えるペアリング刺激によって誘導した。歯状回の単独刺激AとB、同時刺激A&Bによる・CAI野神経細胞の発火応答を記録することによって、海馬ネットワークの演算子が可塑性誘導前後で機能的にどのように変化するのかを検討した。その結果、発火パターンは、細胞ごとに劇的に多様な変化を示したが、ランダムな変化ではなく、集団として特定の傾向をもって変化した。例えば、同時刺激A&Bにのみ反応していたものが、単独刺激AかBによってだけでも反応するようになった。づまり、入力の一部から完全な入力による出力を再現する演算ユニットが出現した。論理演算子では、可塑性誘導後に、論理和(OR)様、B選択的(B)、排他的論理和(XOR)様の演算子が増加した。つまり、情報を連合させる演算ユニット、情報を分離させる演算ユニットが同時に出現した6刺激AとBを組み合わせたペアリング刺激によって、可塑性を誘導したのにも関わらず、情報の分離の方向に働く演算ユニットが出現したことの理由を考察し、ペァリング刺激を構成する刺激AとBの間に時間差があったからではないかと考えた。この仮説を検証するために、歯状回に刺激AとBの間の時間差をなくしたペアリング刺激を加えることによって、再び可塑性を誘導した。この結果、可塑性誘導後の、情報の分離の方向に働くと考えられるXORの演算子の増加の程度が減少した。このことは、上記の仮説を支持し、ペアリング刺激の時間タイミング依存的に可塑性による情報演算の方向が変化することが示唆された。さらに、xoRの演算子の増加傾向の縮小は、NMDA受容体拮抗薬AP5を適用することによってブロックされ、再び、XORの演算子の増加が見られるようになった。

4.情報演算の可塑的変化の計算機シミュレーションによる検討

実験によって得られた、情報演算の可塑的な変化がシミュレーションによって再現できるかを検討した。海馬ネットワークを構成する、個々の神経細胞の膜電位はIzhikevichモデルに従うとして、可塑性はSTDP則に基づいて誘導した。この結果、一部の実験結果においては再現できたが、例えば論理演算子の割合などは再現できなかった。今後、さらに検討を続ける予定である。これが再現できれば、実験では検討しにくい部分を明らかにでき、さらに予測にも利用できるので大いに期待される。

本研究により、海馬ネットワ7クには多様な論理演算子が存在していることが明らかになった。したがって、海馬ネットワークは並列分散型情報処理を行っていることが示唆された。また、二種類の入力の時間差情報を変化させることによって一時的に演算様式が変化すること、可塑性誘導によって入力刺激依存的に長期的に演算様式が変化することから、情報演算のスタイルは柔軟に変化することも示唆された。本研究怯、個性ある要素と、複雑集合体であるシステムという異なる次元の実験データを系統立てて扱うための第一歩になると期待される。細胞個々とマクロシステムをつなぐメタレベルの視点から、記憶・学習の素過程であるシナプス可塑性を捉え直すことを可能にする研究であり、博士(薬学)の学位授与に値するものと判定した。

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