学位論文要旨



No 123878
著者(漢字) 宮越,達三
著者(英字)
著者(カナ) ミヤコエ,タツゾウ
標題(和) 低次元モット絶縁体の超高速光学応答に関する研究
標題(洋)
報告番号 123878
報告番号 甲23878
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第344号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 物質系専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡本,博
 東京大学 教授 木村,薫
 東京大学 教授 辛,埴
 東京大学 教授 廣井,善二
 東京大学 准教授 寺嶋,和夫
内容要旨 要旨を表示する

●背景と目的

近年の情報通信の発展に伴い、次世代超高速通信技術の候補の一つとして、全光型のスイッチング素子が注目を集めている。全光型スイッチングでは、光で光を制御することにより従来の電気的な素子よりも高速なスイッチングが期待される。その用途に適した光学材料の特性は、三次の非線形光学定数X(3) が大きいこと、および、光励起状態が超高速に緩和することである。

最近、銅酸化物やハロゲン架橋ニッケル錯体をはじめとする低次元モット絶縁体の光学応答の研究が行われた結果、それらが、大きなX(3)を持つことや、超高速の光学応答を示すことが見いだされ、光スイッチング材料として有力な物質と期待される。さらに、ハロゲン架橋ニッケル錯体の一つである[Ni(chxn)2Br]Br2においては、光誘起絶縁体-金属転移が報告され、光照射により生成された荷電キャリアが高速に緩和することも報告されている。

これらのモット絶縁体では、電子間のクーロン反発により、各サイトに電子が一つずつ局在するために絶縁体となる。この電子構造は、通常のバンド絶縁体とは本質的に異なるものであり、そのことがモット絶縁体の上記の特異な光学応答に関係していると考えられている。実際に、大きなX(3)の起源に関しては、実験、および、理論の両面からその解明が進んできた。しかし、励起子や、荷電キャリアの緩和の物理的機構については、ほとんど解明されていないのが現状である。

本研究では、モット絶縁体(電荷移動型絶縁体)の中から、一次元ハロゲン架橋ニッケル錯体と二次元銅酸化物を対象とし、それぞれの物質における光励起状態の性質とその超高速緩和過程を詳細に調べ、それらの物理的機構を明らかにすることを目的とした。

実験としては、薄膜試料を用いて、時間分解能約180 fs及び約30 fsでのポンプ・プローブ分光測定を行い、過渡吸収スペクトルを直接測定した。

以下に、研究対象としたモット絶縁体の基礎的性質と研究内容について述べる。

1) ハロゲン架橋ニッケル錯体

図1(a)に示すように、ハロゲン架橋ニッケル錯体は、ハロゲンとニッケルが交互に並んだ一次元鎖を形成している。本研究で用いた試料は、配位子が1,2-ジアミノヘキサデカン(C14H29CH(NH2)CH2(NH2):C14-en)である[Ni(C14-en)2Br]Br2及び[Ni(C14-en)2Cl]Cl2 (以下Ni-Br, Ni-Cl)の微結晶を、PMMA (poly(methyl methacrylate))とともにクロロホルムに溶かし、CaF2上にスピンコートした薄膜である。

本研究では、Ni-Brにおいて、温度4KにおけるCT吸収帯での過渡吸収スペクトルとその励起光エネルギー依存性を、Ni-Clにおいて、赤外領域の過渡吸収スペクトルを測定した。

2) 二次元銅酸化物

図2に、対象とした二次元銅酸化物Nd2CuO4および La2CuO4 (以下、NCO及びLCO)の結晶構造を示す。

二次元銅酸化物は、高温超伝導体の母物質として盛んに研究が行われており、元素置換(Nd3+→Ce4+やLa3+→Sr2+)によるフィリング制御でCuO2面にキャリアを注入することで、金属的性質(低温で超伝導)を示す。

本研究では、光照射によって生成する金属状態やミッドギャップ吸収を示すキャリアの緩和ダイナミクスを調べるために、赤外領域から可視領域の過渡吸収スペクトルを測定した。試料には、LCO及びNCOをそれぞれLSAO基板、LSAT基板上にPLD(Pulsed laser deposition)法により約100 nm積層した薄膜試料を用いた。

●結果と考察

1) ハロゲン架橋ニッケル錯体

図3(a)に、Ni-Brの過渡吸収スペクトルの時間変化を、線形吸収スペクトルと共に示す。励起エネルギーは1.55 eVである。図4に、プローブ光1.37 eVでの吸収変化のダイナミクスをそのフィッティングと共に示した。

各プローブエネルギーでの時間発展を、時定数0.18 psで指数関数的に緩和する成分exp(-t/0.18 ps)、同じく時定数1.4 psで緩和する成分exp(-t/1.4 ps)、誤差関数の応用関数で表せる成分 、定数項の四成分に分解し、有限のパルス幅を考慮したコンボリューションによる解析を行った。この解析によって得られた各成分の強度をプローブエネルギーに対して示したのが図3(b)である。

超高速成分exp(-t/0.18 ps)は、その時定数が、単結晶反射スペクトルから求めた位相緩和時間(0.12 ps)と同程度であることから、光シュタルク効果などのコヒーレント応答に帰属される。一方、exp(-t/1.4 ps)は、励起子の緩和を表すと考えられる。誤差関数の応用関数で示される緩和過程は、一次元上のランダムウォークを表すため、 で表される成分は、光励起により生成した電子と正孔が、対消滅する過程である。定数項は、電子励起に伴う系の温度上昇による吸収スペクトルのブロードニングによるものである。

励起子が時定数1.4 psで高速緩和することと、荷電キャリアが数十ps以上かけて、遅い緩和を示すことが特徴的であり、その緩和過程に影響しているのは、周囲の格子やスピンとの相互作用であると予想される。より明解な議論のためには、光励起状態(キャリア、励起子)の誘導吸収が現れると予想される赤外領域の超高速光学応答を測定した。誘導吸収のエネルギー位置や挙動を調べることで、光励起状態と周囲との相互作用に関する情報が得られると期待される。試料は、電子格子相互作用、励起子効果がNi-Brに比べて大きいNi-Clとした。

図5(a)に、励起子吸収ピーク近傍の1.8 eVを励起した際の、赤外領域の過渡吸収スペクトルの時間変化を示す。この変化は、時間の経過に伴い強度が減少すると共に、そのピークが高エネルギー側にシフトする。図5(b)はフィッティング解析により得られた成分スペクトルである。時定数25 fsの緩和成分は、ポンプ光エネルギーとこの吸収のピークエネルギーの和が、以前に報告されている非共鳴での二光子吸収のエネルギーとよく一致する。また、緩和時定数が位相緩和時間(21 fs)と同程度であるため、この吸収はodd励起子からeven励起子へのコヒーレントな二光子吸収によるものと考えられる。

時定数1.7 psの緩和成分は、CT吸収帯でのダイナミクスからodd→even間の誘導吸収であると推測される。上記のコヒーレントな吸収に比べ高エネルギーにピークを有することから、格子緩和によってエネルギー準位が変化した緩和励起子による誘導吸収であると考えられる。

一方、誤差関数の応用関数で示される成分は、上述したように荷電キャリアによる誘導吸収である。この成分は、約0.4 eVにピークを持つミッドギャップ吸収を示すことから、キャリアは格子緩和を伴ったポーラロンを形成していると考えられる。

特に注目すべき点は、励起子が時定数1.7 ps以下で高速緩和していることである。バンド絶縁体に比べ、高速に緩和することから、緩和過程にスピン系が関与している可能性がある。

2)二次元銅酸化物

図6(a,b)に、NCOおよびLCOの過渡吸収スペクトルの時間変化を、線形スペクトルと共に示す。励起エネルギーはそれぞれ1.58 eV、及び2.25 eVとCTピーク近傍を励起した。励起光子密度は、NCOで3.5 x 10-2 photons /Cu、LCOで5.5 x 10-2 photons /Cuである。

強励起の場合は、0.2 eV以下で低エネルギーへ向かって吸収の増加が見られ、金属相の生成が示唆される。時間変化する成分を分離して議論するために、光照射後数ps以内に緩和する成分を、元素置換によってCuO2面にキャリアをドープしたときの吸収変化と共に図6(c,d)に示した。得られたスペクトルは、ミッドギャップ領域で幅広い吸収増加を示している。

大まかなスペクトル形状は、元素置換による吸収変化と類似しており、光照射による荷電キャリア生成によって電子状態が大きく変化したことがわかる。

過渡吸収スペクトルと化学ドープした場合のスペクトルを比較すると、光励起によって生成するキャリア数が、励起光子密度に比べて一桁以上少ないことが分かった。これは、キャリアが時間分解能180 fsに比べ高速に緩和していることを示唆している。

図6(e,f)には、光照射後5 ps後の過渡吸収スペクトルを温度上昇による吸収変化と共に示した。両者のスペクトル形状がよく一致していることから、数ps以上残る成分は、系の温度上昇によるものであると解釈できる。二次元銅酸化物では、バンド端の吸収スペクトルの温度変化から、CT励起状態とフォノンの相互作用が存在していることが示されている。したがって、数ps以上残る成分は、電子系から格子系へのエネルギー移動に対応するものと考えられる。

時間分解能30 fsの測定系を用いて二次元銅酸化物La2CuO4の光励起状態の緩和時定数を測定したところ、約80 fsであった。これは、一次元銅酸化物Sr2CuO3における励起子の緩和時間0.94 psに比べ10倍以上高速である。次元性に応じて最も大きく変化するのは、スピンと電荷の結合の強さである。この光励起状態は、二次元モット絶縁体特有の強いスピン・電荷結合のために、スピン励起を放出することにより超高速に緩和すると考えられる。

● 結論

低次元モット絶縁体において超高速光学応答を測定したところ、一次元ハロゲン架橋ニッケル錯体では励起子が、二次元銅酸化物ではキャリア(金属状態やミッドギャップ状態)が、約1psあるいはそれ以下の時間で超高速に緩和するという特徴が明らかとなった。バンド絶縁体よりモット絶縁体、一次元系モット絶縁体より二次元モット絶縁体で光励起状態が高速緩和することから、低次元モット絶縁体に特有の高速緩和は、スピンを介した格子系へのエネルギー移動の存在によるものであることが示された。

図 1 (a)ハロゲン架橋ニッケルの一次元鎖と(b)その電子状態

図2 二次元銅酸化物の結晶構造(a)NCO, (b) LCO

図3 Ni-Brにおいてポンプ・プローブ分光測定により得られた(a)過渡吸収スペクトルの遅延時間依存性、及び(b)緩和ダイナミクスをフィッティング解析して得られた各成分の信号強度スペクトル。実線が線形吸収スペクトル、破線が正負を逆転した吸収スペクトル。矢印が励起エネルギーである。

図4 吸収変化の時間発展。Pump 1.55 eV、probe 1.37 eV。

図5 Ni-Clにおけるの(a)過渡吸収スペクトルの時間変化と(b)フィッティング成分の信号強度スペクトル

図6 左列がNCO、右列がLCOについての(a,b)過渡吸収スペクトルの時間変化と線形吸収、(c,d)超高速緩和成分と化学ドープによるスペクトル変化の比較、(e,f)光励起後5 ps後の過渡吸収スペクトルと温度上昇によるスペクトル変化の比較

審査要旨 要旨を表示する

近年の情報通信網の急速な発展の中で、次世代超高速通信の中心技術のひとつとして、全光型スイッチングが注目されている。全光型スイッチングでは、電気的スイッチングよりも高速なスイッチング動作を実現できる可能性がある。その用途に適した光学材料の特性は、三次の非線形光学定数χ(3)が大きいこと、及び、光励起状態が超高速に緩和することである。最近、二次元銅酸化物や一次元ハロゲン架橋ニッケル錯体といった低次元モット絶縁体の光学応答に関する研究が行われ、それらの物質が大きなχ(3)を持つこと、および、光励起状態の超高速緩和を示すことが見いだされた。これらの結果から、低次元モット絶縁体は、光スイッチング材料として有力な物質と期待されている。さらに、臭素架橋ニッケル錯体では、光照射によって、モット絶縁体が金属に転換する現象(光誘起絶縁体-金属転移)が高速に生じることも報告されている。これらのモット絶縁体では、電子間のクーロン反発により、各サイトに電子が一つずつ局在するために絶縁体となる。その電子構造は、通常のバンド絶縁体とは本質的に異なるものであり、そのことがモット絶縁体の特異な光学応答に関係していると考えられている。実際に、大きなχ(3)の起源に関しては、実験、理論両面からその解明が進んできた。しかしながら、励起子や荷電キャリアの高速緩和の物理的機構については、ほとんど解明されていないのが現状である。本研究は、このような背景を踏まえ、典型的な低次元モット絶縁体であるハロゲン架橋ニッケル錯体と銅酸化物を対象として光励起状態の性質とその超高速緩和過程を詳細に調べ、それらの物理的機構を明らかにすることを目的としたものである。

本論文は5章からなる。第1章には、序論として、研究目的と論文の概要、研究の背景、および、本論文の構成が述べられている。研究の背景では、本研究に関連する光学応答の基礎事項の他、対象とするハロゲン架橋ニッケル錯体と銅酸化物に関する過去の研究が紹介されている。第2章には、試料の作成方法と本研究で使われた分光測定の方法が述べられている。第3章には、ハロゲン架橋ニッケル錯体の超高速光学応答に関する実験結果が示されている。まず、臭素架橋ニッケル錯体において、電荷移動吸収帯領域の過渡吸収分光の結果が示された。吸収変化は、超高速応答成分、約1ピコ秒の時定数で緩和する成分、誤差関数の応用関数で表されるやや遅い緩和成分の三成分でほぼ再現される。それらのスペクトル形状と時間特性から、各成分が、それぞれ、励起子に関するコヒーレント応答、実励起された励起子の緩和、実励起された荷電キャリアの緩和に起因することが明らかにされた。次に、塩素架橋ニッケル錯体において、赤外領域の過渡吸収分光の結果が示された。過渡吸収は、やはり三成分からなるが、それぞれが、励起子に関するコヒーレントな二光子吸収、格子緩和した励起子による二光子吸収、格子緩和した荷電キャリア(ポーラロン)によるものであることが明らかとなった。これらの結果から、実励起された励起子の緩和が非常に高速であること、および、ポーラロン効果で荷電キャリアの緩和が遅くなることが結論された。第4章では、二次元銅酸化物において、電荷移動吸収帯領域から赤外領域にわたる広範囲の過渡吸収分光の結果が示された。その結果から、励起強度が高い場合は、モット絶縁体から金属への転移が生じることが明らかにされた。スペクトル形状とその時間変化の解析から、金属状態の緩和は極めて高速であり、キャリアはその数の減少にともなって局在して行き、ミッドギャップ状態を形成することが示された。局在したキャリアの緩和も非常に高速であり、数十フェムト秒の時定数で生じることがわかった。本章の最後で、第3章の結果を合わせて一次元モット絶縁体と二次元モット絶縁体の光励起状態の緩和ダイナミクスの比較が行われ、二次元モット絶縁体の緩和がより高速であり、それが、強相関電子系に特有のスピンー電荷結合によるものであることが指摘された。第5章には、本研究の総括が述べられている。

なお、第3章については、田尾祥一、前田充史、松崎弘幸、岡本博(東京大学)、大津英揮、長谷川美貴(青山大学)、高石慎也、山下正廣(東北大学)各氏との共同研究、第4章については、小林賢太郎、松崎弘幸、岡本博(東京大学)、澤彰仁(産総研)、川崎雅司(東北大)、十倉好紀(東京大学)各氏との共同研究であるが、いずれも論文提出者が主体となって研究を遂行したもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

以上から、本論文は、低次元モット絶縁体の超高速光学応答の機構解明とその光機能性材料としての新しい可能性の開拓に大きく貢献するものである。したがって、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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