学位論文要旨



No 123891
著者(漢字) 江端,一晃
著者(英字)
著者(カナ) エバタ,カズアキ
標題(和) 混合原子価マンガン酸化物の光電子分光による研究
標題(洋) Photoemission study of mixed-valence Mn oxides
報告番号 123891
報告番号 甲23891
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第357号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 複雑理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,淳
 東京大学 教授 齊木,幸一朗
 東京大学 教授 上田,寛
 東京大学 教授 岡田,真人
 東京大学 准教授 溝川,貴司
内容要旨 要旨を表示する

強相関電子系の研究は、現在の物性物理学分野における最も重要なテーマの1つである。その精力的な研究の中でも特に、ペロブスカイト型マンガン酸化物は注目を集めている。その理由は、巨大磁気抵抗効果、スピン・電荷・軌道秩序、光誘起相転移など多彩な物性が次々と発見されたからである [1]。このような研究は、基礎的な物性物理の研究において重要であるだけでなく、電子機能性材料としての工学的な応用においても極めて大きな可能性を持っていることが認識されるようになり、ますます研究に拍車がかかっている。

最近、マンガン酸化物において強磁性金属相と電荷整列相が共存した巨視的な相分離 [2] や、Mn3+とMn4+がストライプ状に自己組織化した微視的な相分離 [3] が報告されており、巨大磁気抵抗効果との関連性が指摘されている。我々は、巨大磁気抵抗効果の出現機構の解明を目指し、代表的なホールドープ系マンガン酸化物であるPr1-xCaxMnO3、Nd1-xSrxMnO3、La1-xSrxMnO3の電子構造を光電子分光により詳細に調べた。論文は、導入(第1章)、実験手法(第2章)に続き、Pr1-xCaxMnO3のキャリアドーピングによる化学ポテンシャルのシフトとスペクトル強度の移動(第3章)、Pr1-xCaxMnO3の温度変化による化学ポテンシャルシフトとスペクトル強度の移動(第4章)、Nd1-xSrxMnO3の化学ポテンシャルの組成依存性(第5章)、Nd1-xSrxMnO3の化学ポテンシャルの温度依存性(第6章)、化学ポテンシャルにおけるフィリング、バンド幅制御の効果(第7章)、マンガン酸化物における光照射効果(第8章)、まとめと今後の展望(第9章)からなる。以下に本論文における研究結果の概要を示す。

1.Pr(1-x)CaxMnO3のキャリアドーピングによる化学ポテンシャルのシフトとスペクトル強度の移動

Pr(1-x)CaxMnO3はx = 0.3-0.75において電荷整列相が存在し、その領域において巨大磁気抵抗効果が観測されていることから注目されている物質である。我々はPr(1-x)CaxMnO3のバルク単結晶試料に関して光電子分光測定を行い、キャリアドーピングに伴う電子の化学ポテンシャルシフトや価電子帯の電子構造変化を調べた。

図1に、T = 80 Kおよび室温で測定されたドーピングに伴う化学ポテンシャルシフト△μの比較を示す。T = 80 Kの低温領域においては、x≧0.5においてストライプの周期変化に関連したシフトの抑制が見られた。また、0.3≦x<0.5において△μの明確なシフトが観測されており、その組成領域においてストライプの周期は一定であると考えられる。一方、x=0.3付近からストライプ状揺らぎの周期がドーピングとともに変化する高温領域では、x≧0.3において△μの抑制が観測された。

図2に、室温で測定された価電子帯の光電子スペクトル(hγ= 21.2eV)を示す。図2から、キャリア濃度の増加に伴いAの成分からBの成分へとスペクトル強度が移動している様子が読み取れる。hγ= 600 eVの測定においても同様のスペクトル強度の移動を確認している。次にフェルミ準位(EF)近傍のデータに着目すると、全組成にわたって室温では絶縁体であるが、巨大磁気抵抗効果が発現するx≧0.3の領域でEF近傍に有限の状態密度が現れる"擬ギャップ的"な振る舞いが観測された。室温近傍においてPr(1-x)CaxMnO3は電荷整列相と強磁性金属相のゆらぎが報告されており[4, 5]、相競合の結果、擬ギャップ的な振る舞いが観測されていると考えられる。

2.Pr(1-x)CaxMnO3の温度変化による化学ポテンシャルシフトとスペクトル強度の移動

第4章では、Pr1-xCaxMnO3の温度変化を光電子分光により詳細に調べることで、相競合に伴う電子状態を明らかにした。図3にx = 0.25, 0.3, 0.5のEF近傍の温度依存性の結果について示す。巨大磁気抵抗効果を示すx≧0.3の組成に関しては、電荷整列転移温度以下で電荷整列ギャップが開き、温度低下とともに次第にギャップが開いていく様子が観測された。一方、x = 0.25の組成は低温で強磁性絶縁体相に転移するが、その領域で温度依存性は観測されていない。共鳴x線散乱の実験によれば、x≧0.3では軌道秩序の相関長はshort rangeであるが、x<0.3ではlong rangeであるという報告がされている [6]。そのため、軌道秩序の相関長の違いが電子構造に影響を及ぼしていると考えられる。また、x≧0.3において低温で電荷整列ギャップが開き、高温で擬ギャップ的な振る舞いを示すことは、強磁性と電荷整列の競合を仮定したモンテカルロ計算の結果 [7] ともコンシステントである。

3.Nd(1-x)SrxMnO3の化学ポテンシャルの組成依存性

第5章では、x=0.5周辺に電荷整列相を持ち、中間のバンド幅の系であるNd(1-x)SrxMnO3に関して系統的にドーピングに伴う電子の化学ポテンシャルシフトを光電子分光により調べた。その結果、Pr(1-x)CaxMnO3と同様に電荷整列相の組成領域において△μの抑制が観測され、Nd(1-x)SrxMnO3においてもストライプの周期変化が生じている可能性が示唆された。

4.Nd(1-x)SrxMnO3の化学ポテンシャルの温度依存性

近年、Nd1-xSrxMnO3やLa1-xCaxMnO3などのマンガン酸化物において、初期に提唱された"二重交換相互作用"の他に電子-格子相互作用に起因するポーラロン効果の存在が指摘され、巨大磁気抵抗効果を理解する上で重要な因子であることが認識されてきている [8]。我々は、光電子分光法を用いて、Nd1-xSrxMnO3のバルク単結晶試料の温度変化に伴う光電子スペクトルのシフトを調べることで、化学ポテンシャルの温度依存性を導出し、二重交換相互作用や電子-格子相互作用の効果について考察した。その結果、高温側の常磁性絶縁体相から低温側の強磁性金属相の転移付近において、TC直下では二重交換モデルで提唱されているような急激なシフト [9] は観測されず、TCからある程度、低温になった後に上方にシフトしていくことがわかった。強磁性金属相におけるTC近傍でのシフトの抑制は、ポーラロンの効果であると考えられる。低温領域において、温度低下とともに上方にシフトしていく振る舞いは、eg軌道がヤーンテラー効果により分裂したときの二重交換モデルを用いて説明される。

5.化学ポテンシャルにおけるフィリング、バンド幅制御の効果

第7章では、化学ポテンシャルの組成依存性の結果についてまとめ、フィリング制御の効果に加えてバンド幅制御によるシフトについて考察を行った。図4に化学ポテンシャルのドーピング、およびAサイトのイオン半径<r A>に対する依存性について示す。

図4から比較的バンド幅の狭い系に関しては、電荷整列相の組成領域においてシフトがピン止めされており、ストライプ形成が示唆される。一方、電荷整列相を持たないバンド幅の広い系については単調なシフトが見られることから、電荷整列相を持つマンガン酸化物の巨大磁気抵抗効果とストライプ秩序が相関を持っていることが示唆された。また、<r A>の増加に伴い下方への化学ポテンシャルシフトが観測されたが、それは斜方晶歪みの減少により、eg軌道とt2g軌道の混成が弱まった効果を反映していると考えられる。さらに<r A>に伴うシフトからその平均値を差し引いた結果、強磁性金属相の領域においてバンド幅の増加とともに上方へのシフトが見られ、その振る舞いは第6章と同様にeg軌道が分裂したときの二重交換相互作用により解釈される。

6.マンガン酸化物における光照射効果

近年、Pr1-xCaxMnO3では、電場印加をした状態で光照射することにより電荷整列相の融解に伴う金属化が報告されている [10]。また、La0.6Sr0.4MnO3の強磁性金属相において、光照射によるO 2pからMn 3dへの下向きスピン電子の励起に伴う抵抗率の増大が報告されている [11]。我々は、光電子分光法を用いて、Pr0.7Ca0.3MnO3 (T = 100, 290 K)、Nd0.6Sr0.4MnO3 (T = 15, 300 K)のバルク単結晶試料の光照射 (λ = 280-400 nm) に伴う光電子スペクトルの変化を調べた。その結果、Pr0.7Ca0.3MnO3の電荷整列相 (T = 100 K)において光照射に伴う化学ポテンシャルシフトが観測され、電荷整列相の融解によるものであると結論付けた。また、常磁性絶縁体相 (T = 290 K) においては光照射による電子構造の変化は観測されなかった。Nd0.6Sr0.4MnO3の強磁性金属相 (T = 15 K) においては、O 2pからMn 3dへの下向きスピン電子の光励起によると考えられる化学ポテンシャルシフトが見られた。常磁性絶縁体相 (T = 300 K) においては光照射によるスペクトルの変化が見られないことから、光励起に伴う強磁性スピン相関の乱れがNd0.6Sr0.4MnO3の電子構造に影響を及ぼしていると考えられる。

以上のように、我々は巨大磁気抵抗効果を示すホールドープ系マンガン酸化物であるPr1-xCaxMnO3、Nd1-xSrxMnO3、La1-xSrxMnO3に対して光電子分光測定を行い、電子構造に関する研究を行った。その結果、ストライプ形成や相競合に伴う特異な電子状態を見出し、それぞれの物質の相違点、類似点について考察することにより新たな知見を得ることができた。

参考文献[1] Y. Tokura and N. Nagaosa, Science 288, 462 (2000)[2] M. Uehara et al., Nature 399, 560 (1999)[3] S. Mori et al., Nature 392, 473 (1998)[4] M. v. Zimmermann et al., Phys. Rev. Lett. 83, 4872 (1999)[5] R. Kajimoto et al., Phys. Rev. B 58, R11837 (1998)[6] M. v. Zimmermann et al., Phys. Rev. B 64, 195133 (2001)[7] H. Aliaga et al., Phys. Rev. B 68, 104405 (2003)[8] S. Shimomura et al., Phys. Rev. Lett. 83, 4389 (1999)[9] N. Furukawa., J. Phys. Soc. Jpn. 66, 2523 (1997)[10] M. Fiebig et al., Science 280, 1925 (1998)[11] X.J. Liu et al., Jpn. J. Appl. Phys. 39, L1233 (2000)

図1. Pr1-xCaxMnO3の化学ポテンシャルのドーピングおよび温度依存性

図2. Pr1-xCaxMnO3のEF近傍のスペクトルの組成依存性

図3. Pr1-xCaxMnO3のEF近傍のスペクトルの温度変化。下図は、フェルミ分布関数で割った状態密度を表す。

図4. 室温、80 KにおけるPr1-xCaxMnO3、Nd1-xSrxMnO3、La1-xSrxMnO3の化学ポテンシャルのホール濃度x、Aサイトのイオン半径<r A>に対する依存性。PI、FM、COはそれぞれ常磁性絶縁体相、強磁性金属相、電荷整列相を表す。

審査要旨 要旨を表示する

遷移金属化合物の物性において,スピンの自由度に加えて電荷と軌道の自由度も重要な役割を果たしていることが近年明らかになり,盛んに研究がおこなわれている.その代表例であるペロブスカイト型マンガン酸化物は,マンガンのd軌道が結晶場分裂してできたeg軌道の整列,マンガン原子の周囲の格子変形がeg軌道のさらなる分裂と結合したヤン・テラー効果,egバンド電子の金属性電気伝導と強磁性が協調しておこる二重交換相互作用,およびこれらの電子相の間の競合で多彩な物性が出現している.本論文では,このような複雑な物質を見る新しい切り口として,系の電荷応答を直接反映する量である電子の化学ポテンシャル・シフトの系統的測定を光電子分光を用いて行い,電荷・スピン・軌道の自由度が強く結合した系に関する新たな知見を得ることを試みている.

本論文は9章からなる.第1章ではまず本研究の背景として,ペロブスカイト型マンガン酸化物の基本的な電子構造と物性,電子相図,結晶構造について述べている.とくに,この物質に特徴的な現象である巨大磁気抵抗効果,電荷・軌道整列,相分離現象,および光電子分光を用いたスペクトルと化学ポテンシャル・シフト測定の先行研究について詳しく紹介している。第2章では,光電子分光法の原理と光電子スペクトルから得られる情報について述べている.とくに,化学ポテンシャル・シフトから得られる情報についてまとめている.

第3章から第8章では,個々の物質系に対する実験とその結果,解析,議論について述べている.まず第3章では,バンド幅の狭い系であるPr(1-x)CaxMnO3の電子構造のホール濃度依存性を光電子分光で調べた結果について述べている.バンド幅の広い系であるLa(1-x)SrxMnO3の先行研究では,ホール濃度の増加により化学ポテンシャルが単調に下降していたが,Pr(1-x)CaxMnO3では化学ポテンシャルがピン止めされ下降しなくなる現象が見出され,この系に見られる微視的な相分離あるいはストライプ状の電荷整列のためであるとして説明されている.続く第4章では,同じくPr(1-x)CaxMnO3の電子構造の温度依存性を光電子分光で調べ,低温でギャップが開く様子と,それに伴う化学ポテンシャルのシフトを見出している.

第5章では,中間的なバンド幅を持つNd(1-x)SrxMnO3について電子構造のホール濃度依存性を光電子分光で調べており,Pr(1-x)CaxMnO3とLa(1-x)SrxMnO3の中間的な振舞いが示されている.続く第6章でNd(1-x)SrxMnO3の電子構造の温度依存性が調べられている.Nd(1-x)SrxMnO3はPr(1-x)CaxMnO3と異なり強磁性金属であるために,二重交換相互作用による,温度に依存した化学ポテンシャルの巨大なシフトが理論的に予想されているが,本論文では実際にこれを観測している.

第7章では,第3章から第6章で述べたNd(1-x)SrxMnO3とPr(1-x)CaxMnO3および新たに測定したha(1-x)SrxMnO3の結果を横断的にまとめて,バンド幅の変化による電子構造の変化を論じている.いくつかの仮定を設けてデータ処理を行い,二重交換相互作用が働くと考えられる強磁性金属相のみにおいて,理論的に予想される化学ポテンシャルの上昇が見られることを示している.

第8章では,光照射によるマンガン酸化物の電子構造の変化を光電子分光により調べ,電荷整列相においてのみ,フェルミ準位付近のスペクトル強度の変化と化学ポテンシャルのシフトが起こることを見出している.最後の第9章で,本論文の結論をまとめ,将来の展望について述べている.

以上のように本論文は,電荷・軌道整列,二重交換相互作用の競合する複雑な強相関電子系であるペロブスカイト型マンガン酸化物について,新しい切り口から電子構造を系統的に研究し,深い物理的洞察に基づき新しい知見を得たことで高く評価された.従って,論文審査委員会は全員一致で博士(科学)の学位を授与できると認めた.

なお,本論文の一部は,十倉好紀,富岡泰秀,尾嶋正治,組頭広志,近松彰,桑原英樹,藤森淳,和達大樹,橋本信,滝沢優,田中清尚,前川考志の各氏との共同研究であるが,論文提出者が主体となって実験,解析,考察を行なったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する.

したがって,博士(科学)の学位を授与できると認める.

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