学位論文要旨



No 123906
著者(漢字)
著者(英字) Chua,Yenping
著者(カナ) チュア,イエンピン
標題(和) マルチエージェント型歩行者シミュレーションのための歩車相互作用モデリング
標題(洋) Pedestrian-Vehicular Interaction Modeling for Multi-Agent Based Pedestrian Simulation
報告番号 123906
報告番号 甲23906
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(環境学)
学位記番号 博創域第372号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 人間環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉村,忍
 東京大学 教授 大和,裕幸
 東京大学 教授 岡本,孝司
 東京大学 准教授 陳,
 東京大学 講師 文屋,信太郎
内容要旨 要旨を表示する

本研究の背景

計算機による交通流シミュレーションは、都市交通計画における意志決定プロセスに定量的な裏付けを与える手段として大変有効である。特に車両等の交通主体を詳細にモデル化することのできる微視的交通流シミュレータは、異なる交通シナリオを詳細にモデル化し模擬することができるため、動的に変化する実際の交通現象を仮想交通環境の中で再現し、評価することができる。したがって、道路交通システムの設計者は、実際の交通状況を混乱させることなく高度交通システム(Intelligent Transport System(ITS))技術等の新しい技術・システムを評価し、必要とあれば修正を加えて再評価することができる。

都市交通現象は様々な交通主体 (ドライバー、歩行者など)および環境(道路網、交通規則信号など)を包括する複雑システムである。 そのようなシステムのダイナミズムと非線形性は人間-環境の相互作用、および人間-人間の相互作用によって説明される。人間-人間の相互作用には3つの基本的なの形態がある。それは、ドライバー-ドライバー、歩行者-歩行者、そして歩行者-ドライバーである。これまで追従モデルやレーン変更モデルなどの自動車間の相互作用モデルが交通流シミュレータのために研究されてきた。一方で、社会力(social force)モデルや磁力モデルなどの歩行者シミュレーション・モデルは、主に歩行者の経路探索および歩行者の自己組織化行動についての研究にとどまっており、歩行者とドライバーの相互作用に関して記述されている文献は殆どない。

一方、発展途上のアジアの都市では、交通ルールが明確でないか適切に守られないことが多く、歩行者が道路を渡る際に先進国よりも頻繁に歩行者-ドライバー間の相互作用が発生し、その形態も多様である。従ってこのような都市における歩行者とドライバーの相互作用をモデル化することは興味深く、その相互作用を考慮できる微視的交通流シミュレータを開発することは、こうした国々における交通システム設計支援の観点から有意義である。ただし、そのようなシミュレータは他に開発の事例が無い。

そのような歩行者と車との相互作用を再現できるシミュレータが実現できれば、歩行者の交通環境中での振る舞いを調べるデータ収集装置としても有効である。実際の道路環境での実験は常に危険を伴い、実験できる状況も限られるため、取得できるデータは限定される。したがって、できるだけ現実に近づけた仮想の交通環境において交通実験を代替的に行うことができれば、現実の道路環境では取得できなかったデータの採取が可能になると期待される。

目的

本論文の目的は次の2つである。第一に、歩行者-ドライバー間の相互作用を模擬するための実際に即したモデルを提案する。このモデルは、より多様な相互作用が観察される発展途上のアジアの都市にも適用できるものとする。

第二に、そうして得られた歩行者-ドライバー相互作用モデルを微視的交通流シミュレータMATES(Multi-Agent based Traffic and Environment Simulator)に組み込むことによって、リアルタイム歩行者シミュレーション環境を開発する。この環境は歩行者を含む交通実験の仮想空間での実施を実現することを目的とする。

発展途上のアジアの都市を想定した歩行者-運転者の相互作用シミュレーションモデル

発展途上のアジアの都市における歩行者の行動

発展の途上にあるアジアの都市での歩行者およびドライバーの行動は、先進的な都市と比較して明らかに異なり過激である。本研究では、これらの過激な行動をモデル化するために、再定義された「車線」と「横断歩道」、および新しく導入される「避難箇所」の概念を用いたモデルを提案する。発展途上のアジアの都市において、一般にドライバーは車線の概念を持たず、道路のレーンを無視して走行する自動車をしばしば目にする。そのため、「車線」の再定義が必要である。また、歩行者は道路を横断する際、一車線ごとに安全を確認して進み、車線と車線の間で再び次の車線の安全を確認して進む。この車線と車線の間の、歩行者が次の車線の安全を確認するまで待機する場所を「避難箇所」とする。

Dual gap acceptanceによる歩行者-ドライバーの相互作用のモデル化

一般性を失わずに、歩行者と自動車の2つの道路使用者しか路上に存在しないと考えることができる。概念的に、ここで提案するDual Gap Acceptanceのモデルは歩行者-自動車の相互作用をDriver Yield(DY)モデルとPedestrian Gap Acceptance(PGA)モデルという二つの車・歩行者間の距離(gap)に基づくモデルの組み合わせによって表現する。すなわち、ドライバーは歩行者にゆずるかどうかを横断歩道上の歩行者の流れおよび歩行者との距離(gap)によって判断する(DYモデル)。一方、車線を横断するために待っている歩行者はもっとも近いレーンを走る自動車の流れおよび最近傍の自動車との距離(gap)で横断の意思決定をする(PGAモデル)。双方の意思決定の組み合わせは歩行者-自動車のダイナミックな相互作用を引き起こす。このモデルでは、歩行者は現在の速度の維持、あるいは自動車の動きによって加速するまたは立ち止まるかを決定する。そしてドライバーは歩行者の動きに反応して現在のスピードを維持するか減速するか、または停止するかを決定する。歩行者-ドライバーは各人の状況に応じた判断をする結果、安全な合意に至ることもあり、また、急ブレーキに至る矛盾した判断をすることもある。

提案するモデルは、双方の道路使用者が遭遇した際の行動パターンを抽象化したものである。ドライバーの2段階の意志決定過程と歩行者による安全判断に基づいて道路使用者2者の相互作用の非線形性を表現する。

PGAとDYのためのBinary Logitモデル

PGAとDYのための意思決定過程は単純である。それは歩行者が自動車とのgapを受け入れるか拒絶するか、ドライバーが歩行者に譲歩するかしないかである。これらの意思決定の過程に影響を及ぼす要因を、Binary Logitモデルを用いて確率論的にモデル化する。Binary Logitモデルのもとで道路使用者が代替手段を選ぶ確率は、変数xnの一次結合に基づいている。

道路使用者の動作を予測するために、それぞれの代替手段iに関する効用は以下の確率で表される。

したがって、もう一方に関して単にひとつの代替手段の選択確率を得ることためには係数βの推測値を求めればよい。係数βは最尤法によって得られる。

ケーススタディ: 中国上海における信号機の無い交差点

提案するモデルを検証するために、上海のショッピングセンターに隣接している南京西通り(Nanjing West Road)の双方向の4車線道路にある信号機の無い中央ブロックの横断歩道をビデオカメラによって撮影し、そこから抽出したデータを使ってBinary Logitモデルの係数βを求める。さらに決定されたモデルを使ってMATESによるシミュレーションを行う。

結果

得られたPGA Binary Logitモデルによれば、モデル中の変数のうち、gap長、待ち時間、避難箇所の位置、避難箇所で待つ歩行者の数が最も歩行者の意思決定において影響度が高かったことを示した。5%の精度レベルにおいて、全体の正解率は86.3%、gapを受け入れ次のレーンに進んだ場合の正解率は83.4%、gapを受け入れなかった場合の正解率は88.6%であった。一方、DYモデルの同定からは、ドライバーが歩行者に譲るかどうかの判断は、待っている歩行者の数、自車の速度、および近くのドライバーがその歩行者を譲歩したかどうか、に影響されることがわかった。全体の正解率は90.5%、そして歩行者に譲らない場合の正解率は97.1%を達成した。しかしながら、譲る場合の正解率は49.4%に留まった。これは、歩行者に譲る場合が全体の13. 8%しかなくデータ不足であったこと、そして説明変数の数が十分でなかったことが理由として考えられる。

この同定されたモデルをMATESに実装し再現計算を行った。歩行者-自動車の相互作用に関して、ビデオ撮影による観測結果とMATESによる計算結果はほぼよい一致を示した。

リアルタイム歩行者シミュレータ

コンピュータの画面や、よりリアリティを求めた3次元没入型可視化環境での利用を想定したリアルタイム歩行者シミュレータを開発した。このシミュレータでは、被験者が仮想道路環境中の歩行者の一人となり、その動きをキーボードで操作することによって制御することができる。シミュレータの歩行者は前進、後退、左右への方向転換、加減速、そして頭を左右に向けることが可能である。歩行者シミュレータは、特に危険な状況の再現や、子供や老人、身体障害者などの特定のグループに関して研究を行うとき、現実世界において実験を行う代替手段となりうる。

結言

本論文において、PGAモデルおよびDYモデルによる、歩行者-自動車シミュレーションのモデルを提案した。このモデルはその簡便さと精度の観点で有用であると考えられる。Multinomial Logitモデルなどの解析的なモデルを使って歩行者-自動車間相互作用の結果の出現確率を調べるのではなく、提案されたモデルはPGAおよびDYモデルによって得られる影響変数によって道路利用者の意思決定の要因と過程を解析し、相互作用を再現・予測する方法を提供する。このモデル及びその実装は、交通システムの設計者が、新設する横断歩道や新しい交通規則の効果を検証する際に有用であると考える。今後、他のアジアの都市で歩行者-自動車の相互作用の行動を調べることが、モデルのさらなる精度・信頼性の向上につながると考える。

審査要旨 要旨を表示する

都市交通現象は様々な交通主体(ドライバー、歩行者など)および環境(道路網、交通規則信号など)を内包する複雑システムである。 このシステムのダイナミズムと非線形性は、主に人間-環境の相互作用、および人間-人間の相互作用によって説明される。さらに、人間-人間の相互作用には3つの基本的な形態がある。それは、ドライバー-ドライバー、歩行者-歩行者、そして歩行者-ドライバーの相互作用である。これまで追従モデルやレーン変更モデルなどの自動車間の相互作用モデルが交通流シミュレータのために研究されてきた。また、社会力(social force)モデルや磁力モデルなどの歩行者シミュレーション・モデルも開発されてきた。一方、発展途上のアジアの都市では、交通ルールが明確でないか適切に守られないことが多く、歩行者が道路を渡る際に先進国よりも頻繁に歩行者-ドライバー間の相互作用が発生し、その形態も多様である。従って、このような都市の交通においては、歩行者とドライバーの相互作用が重要な役割を果たしているが、それに関する研究はこれまでほとんど行なわれてこなかった。そこで、本論文では、歩行者-ドライバー間の相互作用に着目し次のような研究を行った。まず、歩行者-ドライバー間の相互作用モデルを新たに提案した。次に得られた相互作用モデルを知的マルチエージェント型交通流シミュレータMATES(Multi-Agent based Traffic and Environment Simulator)に組み込むことによって、リアルタイム歩行者シミュレーション環境を開発した。このリアルタイム歩行者シミュレータを没入型3次元可視化装置CABINと統合することにより、仮想的な交通社会実験環境を構築した。

本論文は6つの章から構成されている。

第1章は序論である。アジアの発展途上国の都市圏において歩行者や自動車が混然一体となった不安定な道路利用状況を概観し、近年取り組まれている都市交通計画の意志決定支援を目的とした交通流シミュレーション研究について到達点を述べ、本研究の課題、および目的を明らかにしている。

第2、3章では、本研究で関発を行った歩行者-ドライバー間の相互作用モデルの理論とフレームワーク、および本モデルの知的マルチエージェント型交通流シミュレータMATESへの実装に関して述べている。本モデルは、Dual Gap Acceptanceモデルと名づけられ、アジアの発展途上国の都市における交通流を再現することを目的として構築された。このモデルでは、歩行者-自動車の相互作用をDriver Yield(DY)モデルとPedestrian Gap Acceptance(PGA)モデルという二つの車・歩行者間の距離(gap)に基づくモデルの組み合わせによって表現する。双方の意思決定の組み合わせにより歩行者-自動車のダイナミックで非線形な相互作用を表現する。

第4章では、提案した相互作用モデルの検証に関して述べられている。中国・上海のショッピングセンターに隣接している南京西通り(Nanjing West Road)の双方向の4車線道路にある信号機の無い中央ブロックの横断歩道をビデオカメラによって撮影し、そこから抽出したデータの一部を使って相互作用モデルのパラメータを決定する。さらに決定されたモデルを使ってMATESによるシミュレーションを行い、ビデオカメラによる観測と比較する。その結果、歩行者-自動車の相互作用に関して、ビデオ撮影による観測結果とMATESによる計算結果はよい一致が得られ、提案モデルの有効性が検証された。

第5章では、第4章で述べられたような現実の交通状況の観測に代わって、仮想的な交通実験を行う目的で新たに開発したリアルタイム歩行者シミュレータと3次元没入型可視化装置の統合システムに関して述べられている。このシミュレータでは、被験者が仮想道路環境中の歩行者の一人となり、その動きをコントローラーで操作することによって制御することができる。シミュレータの歩行者は前進、後退、左右への方向転換、加減速、そして頭を左右に向けることが可能である。本歩行者シミュレータは、特に危険な状況の再現や、子供や老人、身体障害者などの特定のグループに関して交通社会実験を行うとき、現実世界の実験の代替手段となりうるものである。実際にこの仮想実験環境で留学生約50名を被験者として実験も行い、本仮想交通社会実験環境の有効性および今後の課題が述べられている。

第6章は結論であり、上記の内容が総括され、提案手法の有効性および今後の展望についてまとめられている。

以上を要するに、本論文においては、特にアジアの発展途上国における交通問題を考える上で鍵を握る歩行者-自動車の相互作用に焦点を当て、Dual Gap Acceptanceモデルと名づけた非線形モデルを新たに提案し、それを微視的交通流シミュレータMATESに実装することによりアジアの発展途上国の交通流・歩行者シミュレーション手法の高精度化を図った。また、同時に、没入型可視化環境とリアルタイム歩行者シミュレーションを統合することにより、仮想的な交通社会実験環境を構築した。これらは、21世紀の重大な社会環境問題の一つであるアジアの発展途上国の交通環境の評価分析の高度化にとって大変有用な成果であり、よって本論文は博士(環境学)の学位請求論文として合格と認められる。

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