学位論文要旨



No 123909
著者(漢字) 朝原(平林),智子
著者(英字)
著者(カナ) アサハラ(ヒラバヤシ),サトコ
標題(和) 非線形有限要素法による心筋組織・細胞の電気機械連成解析
標題(洋)
報告番号 123909
報告番号 甲23909
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第375号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 人間環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久田,俊明
 東京大学 教授 杉浦,清了
 東京大学 准教授 鈴木,克幸
 東京大学 教授 佐久間,一郎
 東京大学 教授 廣瀬,明
内容要旨 要旨を表示する

1.緒言

心臓は,筋肉が電気的興奮をトリガとして機械的に収縮することによりポンプとしての機能を果たす.この過程は一般によく知られており,詳細に研究されている.一方で,心筋において機械的活動が電気的活動を変化させる現象(機械‐電気帰還現象; mechano-electric feedback; MEF)の存在も生理学者の間ではよく知られている.これについては比較的弱い胸部打撲による致死的不整脈(心室細動; VF)の誘発(心臓震盪),心筋梗塞により損傷を受けた心臓におけるVF発生率の上昇などの臨床的現象が多数観察されており,その原因は細胞の伸展によるstretch activated channels (SAC)の活性化であると推測されているが,詳細については不明な点が多い.機械電気の連成問題であることから実験的な計測も数値計算も困難なためである.以上を踏まえ,この双方向の作用を統合的に解析できる電気機械統合心筋シミュレータを開発し,MEFの調査を試みた.なお,このためには計算負荷の少ない,電気化学・力学を連成した解析手法の開発が必要となった.

2.基礎理論

電気化学現象と力学現象の連成効果の影響を受けた生体における微小流動を取り扱うための理論として三相理論が提案されており,その非線形有限要素法への定式化が行われてきた.しかし,この理論では全てを連成して解くために計算量が膨大であった.そこで我々は,それぞれのイオンに関する未知量を三自由度のイオン電流ではなく一自由度のイオン濃度とし,さらに固体,流体,イオン,圧力,電位の関係を見直して連立方程式を分離することで計算量を大幅に削減した.細胞レベルの解析にはこの新しい理論を用いた.

組織レベルの解析では, 心筋を微圧縮超弾性体として扱い,電気現象と機械現象は別々に解いた.電気現象は素早く変化する現象であることから,両者に同じtime step,mesh sizeを用いると計算量が膨大になり,陰解法での計算は困難である.しかし微圧縮超弾性体を陽解法で解いた例は国内外にみあたらない.そこで微圧縮超弾性体の新しい陽的解析手法を開発して計算量を削減した.超弾性体の運動方程式と微圧縮拘束条件を弱形式化し,有限要素法によって空間的に離散化し,中央差分法などで時間的に離散化した後,流体の解析に一般に用いられる分離解法を参考にして分離した.さらに集中質量マトリクスが対角マトリクスであることを利用すると,連立方程式は圧力に関してのみ解けばよく,変位に関しては解く必要がなくなり,その結果計算量が大幅に削減された.この解法は安定性が極めて高いため,通常の解析にあたっては反復を必要としない.

3.モデル化と解析方法

細胞膜のモデル化についてはTenらのモデル1をもとにし,そこにKohlらの式2によって計算したSAC電流を付加した.バッファリングや筋小胞体からの出入りなどの細胞内部のCa2+の挙動についてもTenらのモデル1をもとに計算を行った.これとNegroniらの興奮収縮連関モデル3と併せて収縮力を計算した.細胞レベルでは収縮力をそのまま用いて計算を行った.一方,組織レベルでの解析は一辺0.2mm の立方体要素(電気現象は8電位節点,機械現象は8変位節点/1圧力節点)を用いて離散化し,細胞数個分を一要素として計算を行った.ここでは心筋を微圧縮異方性超弾性体として扱い,弾性ポテンシャル関数WとしてHumphreyらによって提唱された形4を用いてさらにこれを細胞レベルの収縮力の関数とすることにより,細胞レベルでの収縮力を組織単位での変形に反映させた.また興奮伝播はmono-domainモデルを用い,MEFの計算は,組織単位での変形が細胞レベルの変形に等しいと仮定して行った.計算時間を短縮して十分な数のcase studyを可能にすること,現象を単純化して支配的要因を明確にすることを目的として,本研究では左心室心筋の内層の一部を対象として基礎的な解析を行った.そのために組織レベルでの解析の力学的な境界条件は以下のように設定した.まず,左心室は球殻状であり,VF中も面内に等方に歪が発生して球殻形状を保つと仮定する.この仮定,及び微圧縮性の仮定のもとに,無負荷無興奮状態及びVF中の心筋体積と左室容積から幾何的に歪を求め,心筋が十分に厚みを持っていることから厚み方向の変位は固定されているとみなし,心内圧は等価な面内方向応力を計算して与えた.心筋にかかる応力としては,心内圧の他に周囲の心筋の収縮力も考えられる.この値はVF中の心内圧(8mmHg 程度)で面内の歪が6%になるように調整することで与えた.解析的に求めた安定限界を考慮してTime step 0.01msで計算を行った.

4.解析結果と考察

作成した細胞モデルでの解析結果から,電位とイオン濃度の間の相互作用が再現できていることが確認できた.また,刺激電流や,電位刺激によって細胞が興奮する様子も確認できた.特に電位刺激による興奮時の膜電位はオプティカルマッピングによって実験的に観測された挙動と一致した.また,細胞内の電位はほぼ一定に保たれており,実験による予測が正しいものであると裏付けた.また,細胞の一部を伸展させることでCa waveも再現できた.

細胞モデルと組織レベルで伸展の影響を比較したところ,どちらの場合においても伸展による期外興奮が観測され,その伸展閾値は実験値と一致した.細胞レベルでは一部を伸展させても全体がほぼ同時に興奮したのに対して,組織レベルでは伸展を加えた部分が興奮した後,その興奮が周囲に伝播していった.これは細胞内の電気抵抗はほとんどなく電位が一様になるのに対し,細胞間の結合部(Gap Junction)は高い電気抵抗を持つためと考えられ,主にGap Junctionの密度が興奮伝播速度(CV)を支配することが裏付けられた.また伸展を与えない場合の組織レベルでのCVは線維方向,線維直交方向ともに実験値と一致した.また,+4%以下の弱い伸展刺激はCVにほとんど影響しないが,+6%を超える強い伸展はCVを減少させるという結果も実験結果と一致した.細胞レベルでも組織レベルでも活動電位に対する仲展の影響は同じであった.活動電位第二相での伸展は膜電位を減少させて活動電位持続時間(APD)を減少させ,第二相での伸展は膜電位を上昇させてAPDを延長した.伸展による影響が逆転する電位もまた実験結果と一致した.

75mm× 75mm× 0.2mmの心筋組織片に通常興奮を模した平面興奮波を与え,様々な伸展刺激を与えたところ,伸展の強度,持続期間,領城面積,先行興奮波に対する位置などがある条件を満たした際には,渦状興奮波(SW)が発生し,一度興奮させた領域を繰り返し興奮させた.これはVFが発生したことを意味する.

SWの中心は一点にとどまらず,移動することが知られており,その挙動,並びにSWの形状が不整脈の動態に作用すると考えられている.解析の結果,膜電位の上昇(興奮)がもたらした歪は興奮波にフィードバックされ,非常に高い心内圧ではSWを分裂させ,比較的弱い心内圧でも渦の中心の移動が不規則になった.SWの中心部では収縮部位と弛緩部位が入り乱れている.興奮波前面は活動電位第二相の終盤にあたり,収縮力をまだ発生していると考えられるが,両側が収縮力を発生しているため,興奮波前面であっても伸展している箇所もあった.このような部位を模擬して期外興奮時の活動電位第一相に伸展を与えたところ,Na電流の活性化が妨げられ,それをきっかけとしてその他のイオン電流の挙動も変化した結果,APDが延長した.このことが不応領域の面積を広げて,SWの中心の移動する軌跡を変化させ,極端な場合にはSWを分裂させたと推祭された.

5.結論

1)心筋及び細胞の電気・機械現象統合シミュレータを開発した.細胞レベルでは,三相理論を応用して未知数を削減した解析手法を開発したことで固体の変形,流体の流れ,圧力,イオンの流れ(電流),電位を全て連成して解くことが,少ない計算量で可能になった.組織レベルでは,微圧縮超弾性体の陽的解析手法を開発し,歪を電気現象と同程度の短い尺度で計算することが可能になった.

2)Ca waveのような細胞レベルの現象は組織レベルでは再現できないが,伸展による期外興奮の間値や興奮伝播速度に対する影響としては組織片レベルとして実験値に一致した値がでており,マクロな現象を取り扱う解析においては今回の組織片レベルのモデル化でも対応できた.細胞内の電気抵抗はほとんどなく電位が一様になることから,マクロモデルにおいて「興奮の伝播速度を決める抵抗値はGap Junctionの密度に依存する」ということが裏付けられた.

3)伸展による期外興奮がSWを誘発することが明らかとなり、機械的刺激による致死性不整脈の原因と推測された.

4)SWの中心付近の歪がMEFを通じて中心の移動と興奮波の分裂を促進した.

1) Ten Tusscher K. H. W. J. et al., Am. J. Physiol. Heart Circ. Physiol., 286 (2003)2) Kohl P. et al.,Can. J. Cardiol., 14 (1998)3) Negroni J. A. and Lascano E. C.,J. Mol. Cell. Cardiol., 28 (1996)4) J. D.Humphrey et al.,trans,ASME J. Biomech. Eng., 112 (1990)
審査要旨 要旨を表示する

本論文は5章からなる。

第1章は序論である。まず背景として心臓のフィジオームやマルチスケール・マルチフィジックスといった概念とそれに関するシミュレーションの有用性,及び心筋において機械的活動が電気的活動を変化させる現象(機械‐電気帰還現象; mechano-electric feedback; MEF)の存在についての説明がなされている。そのうえで臨床,実験,シミュレーション,計算手法の各分野について過去の研究を説明し、「1. 計算負荷の少ない,電気化学・力学を連成した解析手法を開発し,2. この手法を用いて筋肉が電気的活動と機械的活動の間の双方向の作用を統合的に解析できる電気機械統合心筋シミュレータを開発し,3. MEFの調査をすること」ことが本論文の目的として定められている。

第2章は「基礎理論」と題し、電気機械統合心筋シミュレータのために新たに開発した解析手法について説明されている。前半では細胞レベルの解析に用いた手法について述べられている。電気化学現象と力学現象の連成効果の影響を受けた生体における微小流動を取り扱うための理論として提案されたもともとの三相理論について、未知量として取り扱う変数を減らしたり連立方程式を分離したりすることで計算量を削減し、また心筋細胞膜の膜電位との関連付けをする過程が述べられている。後半では組織レベルの解析に用いた手法について述べられている。流体の解析に一般に用いられる分離解法を参考にして微圧縮超弾性体の新しい陽的解析手法が開発された後、この解法の安定性が評価され、通常の解析にあたっては反復を必要としないと結論付けられている。

第3章では細胞、組織それぞれのレベルについて心筋をどのようにモデル化し、どのように解析したかが述べられている。どちらのレベルでも既存のモデルを合理的に統合して新しい統合モデルを作成している。解析の仕方の項では、メッシュの切り方や境界条件、それぞれの節点に与えられた性質について述べられている。組織レベルの解析では、矩形板の計算でも生体内と同様の条件の再現を行うために、実験データをもとに幾何学的・力学的な考察をして境界条件を設定したことが述べられている。

第4章では電気機械統合心筋シミュレータを用いて多方面からの解析を行った結果と、過去の関連する研究と比較しながら行われた考察について述べられている。

作成した細胞モデルでの解析結果から電位とイオン濃度の間の相互作用が再現できていることが確認された他、刺激電流や電位刺激によって細胞が興奮する様子の確認、細胞の一部を伸展させることによるCa waveの再現も行われた。特に電位刺激による興奮時の膜電位はオプティカルマッピングによって実験的に観測された挙動と一致していることが示されている。また細胞内の電位はほぼ一定に保たれていることから実験による予測が正しいものであるとの裏付けもなされている。

細胞モデルと組織レベルで伸展の影響の比較では、どちらの場合においても実験との一致が確認されたこと、細胞レベルでは一部を伸展させても全体がほぼ同時に興奮したのに対して組織レベルでは伸展を加えた部分が興奮した後その興奮が周囲に伝播していったことが結果として述べられている。細胞内の電気抵抗はほとんどなく電位が一様になるのに対し細胞間の結合部(Gap Junction)は高い電気抵抗を持つためであるとの考察がなされ、主にGap Junctionの密度が興奮伝播速度(CV)を支配することが裏付けられた。さらに組織レベルでのCV及び細胞、組織の両レベルでの活動電位に対する仲展の影響が実験結果と一致することが示されている。

心筋組織片に伸展刺激を与えて致死的不整脈がおきる様子の再現も行われ、この結果から、致死的不整脈が発生するための伸展の強度,持続期間,領城面積,先行興奮波に対する位置などが考察されている。

発生した致死的不整脈の動態については特に詳細な解析と考察が行われている。膜電位の上昇(興奮)がもたらした歪が興奮波にフィードバックされ、不整脈の状態をより一層複雑にすることが示されており、細胞膜を通過するイオンの電気生理学的かつミクロな活動、興奮波の形状によってマクロに現れる歪分布などの統合的な評価から原因が考察されている。

第5章では以上の成果が結論としてまとめられ、今後の課題が提示されている。

以上を要するに、本論文は計算機上に心筋細胞レベルおよび心筋組織レベルでの電気化学・力学現象を統合した新たなシミュレータを開発したうえ、これを用いて医学的に有用な知見を得たものであり、計算科学、臨床医学、生理学の発展に寄与するところが大きい。

したがって、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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