学位論文要旨



No 123910
著者(漢字) Deryugin,Valery
著者(英字)
著者(カナ) ヴァレリー,デリューギン
標題(和) 古代アムール川流域・環オホーツク海における社会文化的適応プロセス研究 : 沿岸環境への適応過程について
標題(洋) Socio-cultural processes of environmental adaptation in the Amur basin and Okhotsk coastal area in ancient age : concerning processes of adaptation to littoral environment
報告番号 123910
報告番号 甲23910
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(環境学)
学位記番号 博創域第376号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 社会文化環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,宏之
 東京大学 教授 辻,誠一郎
 東京大学 教授 鬼頭,秀一
 東京大学 准教授 清水,亮
 東京大学 准教授 熊木,俊朗
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

初期鉄器時代とは,沿岸漁撈が発生し、海洋環境への適応が最初に始まった時代である。しかし、人間の海洋への適応の度合が強くなったのは、特徴的な海獣猟の文化が発生した1~2千年前であった。この時期、沿岸域の資源を中心に、陸上狩猟およびブタやイヌの飼育も伴うオホーツク文化の遺跡は、サハリンから千島列島北部までオホーツク海南岸に沿って広がっていた。

現在オホーツク文化と呼ばれる文化には、それが同一文化であるのか、あるいは、同じ時期に存在した異文化間に共通する社会文化プロセスを示すものであるのか、という問題がある。古代のエスニック・プロセス(民族形成)の復元は非常に難しいが、理論的に若干の結論を出すことは可能であろう。本論では、環オホーツク海地域における、いわゆるオホーツク文化の諸問題,とくに「種族」の変容過程につよく影響をあたえる物質文化の変遷、沿岸環境への適応過程とその地域性、移動過程のメカニズムと環境変動との関係について考察する。

第I部 環オホーツク海における初期鉄器時代の文化

アムール下中流域のポリツェ文化は、トナカイ飼育を行っていた可能性があり、農業・狩猟文化の合流点であるという意見が、現在提示されている。ポリツェ文化の主な分布域は、松花江・ウスリー河口周辺だが、紀元後4~5世紀ごろアムール河口部付近や沿海州まで広がっている。

アムール河口部へ移動したポリツェ文化は、現地の文化と融合し、河口ポリツェという新しいローカルな文化に変化したと考えられる。河口ポリツェ文化には、サルゴリ式土器・エヴォロン式土器など、いくつかの土器の伝統が見られる。同時期のアムール河口部には、北サハリンにおけるナビリ文化の土器に類似する土器も存在する。

紀元前5~4世紀から後4~5世紀にサハリン南部・北海道北部に展開する鈴谷式土器は、アムール川下流域から石狩低地帯に広がっているという意見がある。しかし、大陸の縄線文土器とは独立関係にある。サハリン南部・クリル列島には、独自の海洋生業の発展が続縄文時代から継続していた。

また、トカレフ文化の土器の起源はアムール流域の初期鉄器時代にある、というこれまでの定説を再検討できた。いわゆるトカレフ文化の土器は、型式学的分析によるとオホーツク系土器と類似し、古コリヤーク文化層と関係がある。トカレフ文化の時期には、沿岸環境への適応がはじまったと考えられる。

第II部環オホーツク海における古代・中世の文化

「オホーツク文化」というのは、鈴谷文化、オンコロマンナイ文化、十和田文化、サハリンと北海道のバリエーションに分類されるオホーツク文化、トビニタイ文化というように、地域や時期で分けたエスニック・グループの文化の総称であるとする意見がある。

漁撈・海獣猟を主体的な生業としたオホーツク文化を形成した人々の社会には、それぞれの地域で異なる発展がみられる。このことは、周辺地域との活発な交易によって成り立つ地域社会とそうではない地域社会で、環境条件が異なっていることを示すと考えられる。人類学のデータによって、オホーツク文化の人々は、現在のアイヌ人とニブフ人とは違って、現在のウリチ人とナナイ人に一番近いとされている。

オホーツク文化の分布域の北には、もう一つ文化が同期に存在していた。それはテバフ文化である。この文化は、海獣狩猟民世界と遊牧民の世界の接触地域にあった。一方、タイガ地帯の移動民の影響もよく観察できる。

テバフ文化はローカルなオホーツク文化といえる。アザラシの骨などの存在は、川・海の資源を利用したことを示している。テバフ文化の生業や住居の建設方法などはオホーツク文化に近い。ただし、トナカイ飼育と馬飼育の存在については、まだ検討すべき問題が残っている。

オホーツク海北西沿岸には、オホーツク文化・テバフ文化と同時に、古コリヤーク文化といわゆる初期鉄器時代文化が存在していた。本論では古コリヤーク文化土器に類似した土器はテバフ遺跡出土の資料にみられるという意見について再検討した結果、土器分析によると別々の伝統と考えられる。古コリヤーク文化の遺跡で出土した土器は、沿岸地域の文化伝統によるものではなく、ヤクート・チュコトの内陸の伝統の強い影響を受けていると考えられる。

江ノ浦B式・江ノ浦A式土器の発生には、4~5世紀に属する靺鞨文化のナイフェリト土器群の強い影響があった。北部靺鞨に対して渤海国が8世紀に行った軍事行動によって、交易ルートが形成されたことが背景にあると想定される。この交易は10世紀以降も存在していたのであろうか。アイヌの伝説を総合すれば、サハリンの土城等は、アイヌがサハリンへ進出する以前に建てられ、オホーツク文化の時期に始まったと結論できる。その土城は、金国の貿易の市場であったとする意見もある。

テバフ文化の遺跡でも、靺鞨文化の製品が出土している。オホーツク海・ベーリング海沿岸地域とアムール流域の間の交易ルートの存在は、靺鞨文化圏に出土した海獣骨角器の遺物が示している。

第III部 アムール流域・環オホーツク海沿岸における種族変容過程

サイクロンのメカニズムとユーラシアのステップ地帯における遊動民文化の変動リズムの間には何らかの関係があった。およそ古代移動民は、故郷に似ている地形・気候がある地域への移動を希望していた。しかしながら、一部の移動民は、不慣れな環境がある地域に移動を余儀なくされた。そのような移動は、彼らの社会・生業に重要な変更を与えた。タイガ地帯への移動の場合、ステップ地帯の民族は、牧畜業や農業の経験を欠落することになった。

擦文文化の担い手はアイヌ人の先祖と関係することが明らかである。中国の記録による「流鬼」と「吉里迷」という人々は、オホーツク文化の集団の一部、つまりニブフ人の先祖だったと言われている。

オホーツク文化の人種に関しては、様々な意見がある。多くの研究者は、オホーツク文化人は、アムール下流域の新石器時代に起源をもつ古ニブフ族だったと指摘している。ピルスードスキーは、シュクシン族(粛真)に起源を持つ「ツングース系」の民族に関係する、伝説上の「トンチ」という人々だとした。また、形質人類学によれば、オホーツク文化の人種は、ニブフ人ではなく、ナナイ人・ウリチ人に近い。オホーツク文化人はいくつかの異なった起源をもつ可能性が高い。オホーツク文化の地域差と多数のエスニックとの間には関係があるかもしれない。

各地域において、3世紀頃までの考古学的文化には長期間の安定性が見られる。これらの文化は、周囲の自然環境と密接に関係がある。海洋生業や海獣猟をもつ文化と農業や家畜をもつ文化の中間には、森の狩猟民からなる別の世界が展開していた。

地域環境の相違と生業・文化の特徴によって、トナカイの利用方法は異なる。トナカイ飼育の方法にはタイガ式とツンドラ式の形式がある。ツンドラ式トナカイの利用では、肉を食用とするが、乗用家畜および乳搾りの対象ともなった。タイガ式トナカイ飼育では、輸送利用、短距離移動、荷駄・乗用などである。しかし、タイガ地帯におけるトナカイ飼育は、家畜生業のバリエーションではなく、特に狩猟における騎乗用として重要であった。

北ツングース人は、アムール河地域・サハリン・オホーツク海北西沿岸の各少数民族の中に流入していたと考えられている。沿岸環境に適応し、海獣と漁撈が主な生業となっていた。この過程はおそらく長く続かなかった。とはいえ、ツングース語系の民族の中でも、集団によって海洋生業への適応過程のレベルが違うことがわかった。

結語

本論で対象とした地域において、2~3世紀にあったステップ地帯における旱害は、アムール河流域のエスニック・プロセスに重大な影響を与えた。4世紀に遊牧民に押し出される形となったポリツェ文化は、アムール河口部や沿海州方面に広がった。連鎖反応のようにナビリ文化・鈴谷文化の担い手による南方へ移動が始まった。新しい自然環境に移動したポリツェ文化集団は、豚・犬を一部で家畜とし続けたが、農業はしなかった。他方、沿岸環境は海洋生業や海獣猟にとっては好適な条件下にあった。

オホーツク文化人は異なった起源をもつ。オホーツク文化の地域差と多数のエスニック間に関係があるかもしれない。いわゆるパレオアジアの民族の諸特徴は、古代文化において区別することが困難である。考古学的な研究に「パレオアジア人」という用語は、注意深く使用しなければならない。物質文化にもニブフ族やツングース語系諸民族の間には差異がない。海洋での生業活動は、ニブフ族などパレオアジア人の特徴とはいえない。ツングース系民族も、可能性であれば、沿岸環境の資源を使用していたからである。

海洋での生業活動の盛行とトナカイ飼育の発生・トナカイ遊牧民の北方移動は自然環境変動の結果である。海洋での生業活動の盛行は、プランクトン、海水魚、海獣の増加をひきおこした中世の最温暖期と直接的に関係する。また、トナカイ飼育の発生は、紀元後1千年紀初頭におけるステップ地帯の最温暖期と関係がある。おそらく、狩猟民は、ステップ地帯からタイガ地帯へと移動した遊牧民から家畜の技術を借用し、野生トナカイを飼い馴らしたのであろう。トナカイ飼育民の北方への拡大の広がりは、中世の最温暖期に一致している。この最温暖期には、現在のタイガ地域南部にステップ地帯が広がり、コケの生育地が狭くなったため、トナカイ飼養飼育民は山脈支脈の新しいコケの生えた土地へ移動しなければならないという状態に陥ったのだと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、紀元前2千年紀中葉~紀元後2千年紀前葉にかけて、ロシア極東のアムール川流域から、北海道を含む環オホーツク海にかけて展開した考古学的諸文化の成立と展開およびその相互関係を、土器製作技術・文様分析を中心とした物質文化の詳細な解析に基づいて、その複雑な文化動態を読み解き、さらにその文化変容の背景に、当該地域に展開する多様な自然環境の変異に基づく生業転換等の適応過程を透写した上で、現住少数民族に至るエスニック・プロセスの仮説を提示した完成度の高い独創的かつ意欲的な研究である。

本論文は、3部構成をとり、時代を追って記述と分析が行われている。第I部の各章では、当該地域の初期鉄器時代について、アムール中流域・下流域・河口部・間宮海峡西岸・サハリン・オホーツク海北西沿岸といった文化圏ごとに、代表的な遺跡出土資料に基づいて整理した。このような広い範囲を統一的に分析した先行研究はロシアにもなく、論文提出者の長期にわたる堅実な野外調査の蓄積にその多くを負っている。つづく第II部第1~3章では、前1千年紀後半から後2千年紀前半にかけて環オホーツク海沿岸に展開したオホーツク文化に焦点をあて、この文化が実際には、起源と系統を異にする多くの考古学的諸文化の集合によって成立していることを明らかにしている。オホーツク文化は、道東・道北の沿岸地帯とサハリンに分布することで我が国では戦前から注目され、調査・研究の蓄積があるが、その主体がロシア側の環オホーツク海地域にあることから、近年までその実態は茫漠としていた。ロシア人でありながら、この文化の研究のため日本に長く留学した論文提出者の長期にわたる研究により、日本とロシア相互の研究を初めて同等に比較検討することが可能となった。

本論文が対象とする地域は、多様な自然環境を有し、さらに日本および中国といった政治的中心の周縁にあったため、複雑な歴史的変遷過程を辿っている。これまでの先行研究では文献研究を中心としていたため、その様相は不明瞭であったが、論文提出者は、アムール中・上流域に展開していた中世の文化群にその影響を見て取っている(同第4章)。

以上の見取り図の整備に基づいて、第III部では、これら諸文化の形成・変容プロセスを、民族学・人類学・言語学・地理学等の知見を加えて説明を試みた。当該地域は、自然環境と地理的・地形的要因に規定されるため、農耕の北限地帯に相当する一方、内陸での狩猟、沿岸部・大河川流域での水産資源利用に特色を有する。そのため民族集団の移動には、複雑な生業転換が予想される。また自然環境の異なるシベリアに系統を有するトナカイ飼養・利用の影響も重要である。現在の少数民族に連なるエスニック・プロセスを加味したシナリオには、資料の絶対的不足に起因する異論も想定されうるが、全体的には現段階では整合的かつ意欲的な仮説の提示と評することができる。少なくとも、これほど広大な地域における長大な時間軸上の文化動態を、具体的な資料操作に基づいて総合的に議論した研究は初めてである。

一方そのため、文化の関係性の検討にやや性急な議論が見られること、集団移動の根拠とされた気候変動に関するデータの提示に乏しいこと等、不満を感じさせる部分もなくはないが、本論文の意義を損なうほどのものではない。論文提出者の将来の研鑽に期待したい。

なお、本論文の第I部第3章および第II部第2章における現地調査の一部には、福田正宏・臼杵勲・熊木俊朗・佐藤宏之等との日露共同調査によるものを含んでいるが、当該部分は論文提出者が主体となって独自の分析および検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって本委員会は、博士(環境学)の学位を授与するにふさわしいと認めるものである。

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