学位論文要旨



No 123963
著者(漢字) 矢元,龍治
著者(英字)
著者(カナ) ヤモト,リュウジ
標題(和) カザフスタン北部における小麦農家の規模変動と生産性格差
標題(洋)
報告番号 123963
報告番号 甲23963
学位授与日 2008.04.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3347号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業・資源経済学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 泉田,洋一
 東京大学 教授 本間,正義
 東京大学 教授 松本,武祝
 東京大学 准教授 齋藤,勝宏
 東京大学 准教授 萬木,孝雄
内容要旨 要旨を表示する

本稿は,2006年10月にフィールド調査によって得られた独自のデータをもとに,カザフスタン共和国の小麦生産農家を対象として,旧社会主義国家が市場経済へと移行する中で,農業経営の変遷と今日の農業生産の現状を実証的に分析している.典型的な社会主義型大規模農場経営を行ってきたカザフスタン共和国をケーススタディとする農業の分析は,社会主義システムから市場経済システムへと移行する中で,民営化が今日の時点でいかなる帰結をもたらし,今後どのような展望が予想されるかを考える上での重要な指標を提示するであろう.

小麦生産を対象とした理由は,歴史的に小麦が同国の重要農作物であり,旧ソ連圏への小麦供給国としての役割を担ってきたからである.ソ連邦崩壊により生産量は劇的に減少したが,今日においてもその点は変わっていない.加えて,中国という巨大な小麦消費国と隣接していること,また近年の穀類農産物に対する需要の拡大ということもあって,同国が低下した小麦生産量を回復させ,また生産性の向上を図る上での十分な動機となっている.このようなことから,同国の代表的農作物である小麦生産の現状を分析することは大きな意味があると考える.本稿の分析対象である独立自営農家とは,社会主義体制では見られなかった経営形態であり,農場民営化の過程で農場から独立して家族経営を基本として農業を営んでいる.本稿の目的は,創設当時のこれら独立自営農家経営者の社会的地位や今日における社会的地位を始めとする農家の社会的特徴と,農業機械の保有量および経営規模の関係を明らかにし,今日までどのような形で,またどのような農家が経営規模の拡大を行ってきたのかを示すとともに,社会主義時代の特権的地位が今日の農業経営にどの程度まで影響を与えているのか,また一方で規模の拡大がどれほど生産性向上に寄与しているのかを総合生産性分析を通してできるだけ具体的に示すものである.

カザフスタン農業を対象としたこれまでの多くの先行研究において農業改革当初の資本の不平等な分配やそれに伴う資産の一有力者への集積が起きたことは言及されている.しかし,当初の資本の不平等な分配と経営規模及び生産性の関係を実証的に分析した研究はほとんどなく,独立自営農家間の生産性格差を詳細に検討した既存研究は皆無といってもよい.そこで,本稿はこれまで検討されてこなかった独立自営農家間の生産性格差を,初期資本及び農地の不平等な分配と関係付けて定量的に分析するものであり,この意味で,本稿の研究はこれまでの旧社会主義国農業の既存研究に新たな貢献をするものであると確信する.

本稿で行った分析及びその結果の概要は以下のようになる.

カザフスタン北部では,農村住民の頻繁な土地取引により,小麦農家の経営規模拡大と多数の農村住民の農地使用権放棄が起きていることが分かった.各農家の独立時点と2006年調査時点での経営規模別農家分布を比較すると,独立時点には半数以上が100ha未満の経営耕地を保有し,500haを越す農家は一戸しかなかったが,調査時点の経営規模分布を見ると,500ha以上の経営耕地を保有する農家が13戸に大幅増加していた.このような農家の経営耕地拡大の手段は複数あるが,北部カザフスタンの場合,主にソ連邦崩壊とともに母国へと帰還する民族からの使用権の譲渡及び買い取り,または旧集団・国営農場から没収した未利用地を管理している政府の国家土地ファンドからの使用権の取得であった.未利用地が極めて広大な北部カザフスタンにおいて,こういった農地利用権取得における費用は皆無に等しかった.しかしながら,農業資本が極めて過小であったため,すべての農村住民が独立して農業を営み,また経営規模を拡大することは出来なかった.このため初期の農業機械へのアクセスが,経営規模拡大における最大のハードルであったが,農業改革・農地改革による農場資産の民有化の過程で不透明な形で農業資本が社会的地位を利用した一部独立自営農家に集積されることとなった.農業経営規模の変動率と農家創設時点における社会的地位の関係に関する実証分析では,両者の間に極めて強い正の相関関係が見受けられた.このことは,法整備が確立していない経済移行期における無秩序な資本の分配が,一部農家の農業経営規模拡大に有利に働き,後々まで農業経営規模の農家間格差をもたらしたことを明らかにしている.

また,各農家の総合生産性を求めて規模間で比較した結果,大規模層の総合生産性が圧倒的に高く,規模の経済が顕著に見られ,農業経営規模拡大は経済的動機に基づくことが示された.そして総合性生産性への各生産要素の貢献度を調べた結果,大規模農家ほど農業機械を効率的に利用していることが明らかになった.また労働力も規模拡大によって効率性が高まることが示されたが,同国北部の小麦生産は極めて土地・機械集約的であり,労働力は農業機械を運転するための補完的な生産要素であって,農業機械の効率的利用が労働力の効率的利用にもつながるという関係が見出された.よって農業機械が規模の経済の恩恵を受けて総合生産性を高める上で,最も重要であることが示された.

独立当初の社会的規模がその後の農業経営規模拡大に有利に働き,そして規模拡大した農家が,規模の経済の恩恵を受けているという一連の流れが分析によって明らかになった.総合生産性と社会的地位の相関を調べた結果,規模が同じであれば社会的地位は総合生産性に優位に影響を与えていなかった.データの制約上,特権階級が多数を占める1000haを超える農家を総合生産性分析に加えることが出来なかったが,この結果は経営規模が同じであれば社会的地位という農家の属性が総合生産性を決める要因にはならないことを示した.これは不透明な取引の過程で特権階級が大規模化した結果,一般的な農家よりも高い生産能力を備えることが出来たことを示している.社会的地位に依存せずに農業経営を行ってきた農家は同じ規模であれば社会的地位の高い農家と同等の生産性を有するものの,多くの旧特権階級農家が大規模化している中,今後小麦市場で生き残っていくためには規模の拡大が不可欠であろう.もしも農場の資産民有化がすべての住民に対して公正に行われていたとしたら,生産性は高いが社会的地位は高くない農家が農業資本の不足に現在ほど苦しむことなく規模拡大を推し進め,経営効率向上に努めることが出来たであろう.

今後,農家が今まで同様に規模拡大を進めることが出来るかどうかは不確かである.現在,多くの農家が農業機械の老朽化及び絶対的な不足に悩まされている.農業機械の大半は80年代に製造されたものであり,毎年相当な額を修理に費やしており,農業機械の早急な刷新は,更なる経営規模拡大及び生産性向上には必須である.最新の農業機械の購入には金融機関の利用が不可欠であり,特に政府系リース会社が大きな役割を担うことになる.この際,やはり社会的地位を利用した金融機関との関係は否定できない.実際に,社会的地位を利用して金融機関にアクセスし農業機械を刷新するという流れはすでに起きており,この流れが強まれば,一般的な農家が自助努力だけで生産性向上を実現することはより一層難しくなるだろう.

また同国穀倉地帯では,独立自営農家と並んで農業企業が主要な小麦生産の担い手である.本稿では,独立自営農家に対象を絞った分析を行ったため,農業企業に関する詳細な検討は行っていないが,農業企業は穀物商社や巨大なホールディングカンパニーが主導する穀物市場のインテグレーションに組み込まれ,大規模な小麦生産を行っている.農業企業は単収や労働生産性の面では独立自営農家に劣るであろうが,豊富な資金を背景に最新鋭の農業機械を導入しており,労働生産性の向上が見込まれる.また,グループ会社を通じた小麦製品の製造や流通も農業企業が持つ,独立自営農家には無い利点である.さらに,旧国営・集団農場の後継である農業企業の経営陣は農村地域において大きな権力を維持しており,それは往々にして地域役人の力を上回る.一部独立自営農家においては,農業企業に燃料や種子を融通してもらっている場合がある.このような現状を見た場合,独立自営農家にとって農業企業と競争関係にありつつも,友好関係を保つことは不可欠であろう.

以上,分析結果から想定される今後の小麦生産農家の展望について述べたが,市場経済に即したより健全な農家間の競争が育まれるよう,行政機関は社会的特性によって特定農家に偏重するような政策を行うことは慎み,いかなる農家でも生産性向上の機会が得られる市場を整備すべきであろう.

本文では,各農家の資本制約の有無と生産性や社会的地位の関係が分析されなかった.そして,生産性の分析では,作付期及び収穫期以外の農閑期は分析対象期間とならなかったことに加え,データ上の制約から販売価格についても分析が出来なかった.独立自営農家の農業経営全体を分析する上で,今後はこれらの点も含めたより詳細な研究が必要である.

また,カザフスタンにおける小麦生産の分析を包括的に行ううえでは,独立自営農家との比較で,もうひとつの主要な小麦生産主体である農業企業に対する分析を行っていくことが不可欠である.

今後,以上の点をさらに検証することにより,旧社会主義国家であるカザフスタン共和国が移行経済を通じて歩んできた小麦を始めとする農業部門の発展をより深く追求することが出来るであろう.

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、カザフスタン北部の小麦農家を対象として、独自のフィールド調査で獲得したデータをもとに、農業経営の規模変化とその要因、および規模変動を規定する要因としての規模間生産性格差を定量的に分析するものである。

カザフスタンの農業はかつて典型的な社会主義型大規模農場によって特徴付けられていたが、1991年のソ連邦崩壊以降、市場経済化が進行し、農業においても土地配分や農業資産の民有化を内容とした改革がなされた。しかし改革の過程では、農業資本の不平等な分配や一部有力者への資産の集中がおこり、それが改革後の農業のあり方に大きな影響を及ぼしている。

こういった背景を踏まえて、本研究では分析の対象を同国北部コスタナイ州の小麦農家(独立自営農民)の経営に焦点をあてる。その上で、研究の課題を(1)経営規模の変動とその規定要因、(2)規模の経済の定量的分析、というふたつとする。前者ではサンプルデータを使った記述的分析と回帰分析、後者では総合生産性(TFP)という手法が使われている。

分析結果の概要は以下の通りである。

カザフスタン北部では、農村住民の頻繁な土地取引により、小麦農家の経営規模拡大と多数の農村住民の農地使用権放棄が起きている。各農家の独立時点と2006年調査時点での経営規模別農家分布を比較すると、独立時点には半数以上が100ha未満の経営耕地しか保有していなかった。調査時点では、500ha以上の経営耕地を保有する農家が13戸に増加していた。調査地での経営拡大は、主にソ連邦崩壊とともに母国へと帰還する民族からの使用権の譲渡及び買い取り、または旧集団・国営農場から没収した未利用地を管理している政府の国家土地ファンドからの使用権の取得であった。そして未利用地が極めて広大な北部カザフスタンにおいては農地利用権取得にかかる費用はほとんどゼロであった。しかし、農業資本が過小であったため、すべての農村住民が農業経営を拡大できたわけではない。農業機械の保有の有無あるいは農業機械利用へのアクセスの差異が、経営規模拡大における最大のハードルであった。そのため、農業改革・農地改革による農場資産の民有化の過程で農業資本を蓄積した一部独立自営農家が有利な位置に立つこととなった。事実、農業経営規模の変動率と農家創設時点における社会的地位の関係には、強い正の相関関係が見出される。このことは、法整備が確立していない経済移行期における無秩序な資本の分配が、一部農家の農業経営規模拡大に有利に働き、農業経営規模の農家間格差をもたらしたことを示すものとされる。

農家の総合生産性(TFP)分析では以下のことが見出された。TFPは大規模層において圧倒的に高く、規模の経済が明確に存在している。またTFPへの各生産要素の貢献度を計算した結果、大規模農家ほど農業機械を効率的に利用していることが明らかになった。労働生産性も規模の増加によって高まることが示されたが、対象地の小麦生産は極めて土地・機械集約的であり、労働力は農業機械利用のための補完的な生産要素で、農業機械の効率的利用が労働力の効率的利用にもつながるという関係が見出された。農業機械の保有の有無あるいは農業機械利用へのアクセスの有無が、総合生産性(TFP)を高める上で、きわめて重要であり、独立当初の社会的地位の高さによる機械の獲得が、その後の農業経営規模拡大に有利に働き、そして規模拡大した農家が、規模の経済の恩恵を受けるという一連の流れが分析によって明らかにされた。なおTFPと社会的地位の相関を調べた結果、規模が同じであれば社会的地位の違いは総合生産性に有意に影響を与えていないことも見出されている。この結果は経営規模が同じであれば社会的地位という農家の属性が総合生産性を決める要因にはならないことを示している。本論文では、結論として、もし農場の資産民有化がすべての住民に対して公正に行われていたとしたら、生産性は高いが社会的地位は高くない農家が農業資本の不足に苦しむことなく規模拡大を推し進め、経営効率向上に努めることが出来たであろう述べている。

以上、本研究はカザフスタン北部の小麦農家に焦点を絞り、独自のフィールド調査で獲得したデータを使って、同国における規模変動の実際とその規定要因、そして規模の経済の分析をおこなった。導かれた分析結果からは、経済体制移行期の農業問題に関するこれまでの研究では見られない知見が得られており、本研究の学術上の意義は大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位を授与するに値するものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク