学位論文要旨



No 123968
著者(漢字) 時田,郁子
著者(英字)
著者(カナ) トキタ,ユウコ
標題(和) ムージルの詩的人間学 : 『特性のない男』における<生命の樹>
標題(洋)
報告番号 123968
報告番号 甲23968
学位授与日 2008.04.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第633号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松浦,純
 東京大学 教授 重藤,実
 東京大学 准教授 宮田,眞治
 九州大学 教授 浅井,健二郎
 東京学芸大学 教授 赤司,英一郎
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、ローベルト・ムージルの長編小説『特性のない男』を題材にして、ムージルの詩的人間学を描き出そうとするものである。この作品の題名<特性のない男>の中に、近代的な認識主体としての<我(Ich)>概念の解体と再構築が暗示されているということを考察の出発点に置いて、主人公ウルリヒ(Ulrich)の名の中にアナグラム的に潜んでいる<原-我(Ur-Ich)>という理念が展開してゆく過程を、ムージルの詩的方法に則って、分析・検証する。<原-我>は、原初的な人間の在り方を指すもので、カバラの伝統におけるアダム・カドモン、プラトンの『饗宴』において語られる己の半身を探し求めて合一を果たした人間の姿、ピグマリオン伝説、ヘルマフロディトス、あるいはエジプト神イシスとオシリスといった様々なイメージで把握されうるのだが、主人公のウルリヒとアガーテ兄妹においては<シャム双生児>のイメージとなって現象してくる。そして、アダム・カドモンが<生命の樹>という聖書にあるイメージに重ねられるのと同様に、『特性のない男』における<原-我>もまた<生命の樹>のイメージに結びつく。つまり、「創造は暴力と愛から生じる」(S.591)というウルリヒの言葉から明らかである<暴力>と<愛>の二項対立は、ムージルによって<樹>のイメージを付け加えられて、<暴力の樹>と<愛の樹>という対概念になり、この二本の樹が<生命の樹>を構成するのである。こうした二項対立はモデルネ文化において共有された合理主義と神秘主義の対立のヴァリエーションでもあるのだが、ムージル文学においては、<暴力の樹>と<愛の樹>が補完し合っている点に特徴があり、そうした総体が<生命の樹>と呼ばれる。

ムージルは、<生命の樹>を描き出すために、<暴力の樹>と<愛の樹>といった二項対立を詩的方法でもって乗り越えようとする。彼は、言語で表現しえないものを表現しようとするために、やはり言語を用いざるをえないのだが、その際に一つ一つの語に特殊な意味合いを込めることによって、言語表現の限界に挑んだ。まず、「類推」という一般的な思考法を、「魂の滑りゆく論理」(S.593)と言い換えて、ある対象から際限なく別のイメージを紡ぎ続ける運動を、「類推」という思考法に付与した。こうしてムージルの詩的方法に属するようになった思考法は、比喩だけでなく、さまざまな局面にも浸透するものとなる。次いで、ある種の決まった語群を適度に配置して、言語によっては表現しえない事柄を陰画的に浮かび上がらせる。さらに、別の分野――哲学・心理学・宗教など――で用いられるイメージを借用して、それらのイメージに独自のニュアンスを与えることによって、<人間>に関するイメージを再構築していった。まさにこの点において、ムージルの作品は「詩的人間学」を呈示するのである。

<暴力の樹>はいわゆる男性原理的・父権的な現実世界を統べるもので、これまでの主人公ウルリヒの<生>を駆り立ててきた。こうした現実世界を批判的に眺めるウルリヒのまなざしは、法律学者の父親に対する批判的まなざしに他ならず、両者の関係の中に、<父>と<子>の対立構造を見出すことができる。<父>にあたるのはウルリヒの父親、カカーニエンと名づけられるオーストリア帝国、あるいは神であり、それぞれ、ウルリヒ、カカーニエア人たち、信者たちが<子>に相当する。この構造において<父>の<法>が<子>を支配していて、<子>は<父>に従いながらも、どこかで<法>を破る「犯罪者」への憧れを抱いている。人々のそうした羨望の的になるのが、娼婦殺しのモースブルッガーである。ウルリヒの場合、彼がモースブルッガーに寄せる強い関心ゆえに、両者は無意識裡に<分身>関係になって、その結果、モースブルッガーに重ねられていた「神の子」のイメージがウルリヒに付け替えられて、ウルリヒに救世主としての役割が、あるいは「天才」としての独創的かつ創造的な役割が期待されるようになる。

他方、<愛の樹>は定義しがたいものであるが、<暴力の樹>と対概念であることから、女性原理的・母権的なものと想定することができる。一般的な認識構造において、外的世界は<感性>を通っていき<悟性>によって把握されるのだが、外的世界のうち<愛の樹>に属するものは、<感性>を通った後、<悟性>を通らずに直接<魂>に伝わってゆく。このことをウルリヒは女性たちとの交際の中で漠然と感じ取るのだが、その際に<感性>において触覚的に感じられる<愛の樹>の現象が「やさしさ」という語によって暗示される。ウルリヒにとって、<愛の樹>は、この作品の第2巻における妹アガーテの登場によって、より明確に輪郭づけられるのだが、第1巻においては彼を取り巻く五人の女性たち――レオーナ、ボーナデーア、ディオティーマ、クラリッセ、ゲルダ――がアガーテの先触れとしての役割を部分的に担っていて、こうした女性たちに共通する、ウルリヒの半身としての可能性を<女性的なもの>と言い表すことができる。そして、<女性的なもの>の核にある<母性的なもの>が、ウルリヒを惹きつけたり、嫌悪感を引き起こしたりしながら、<子供>の<身体感覚>を、すなわち、認識構造が確立される以前の、外的世界をそのまま受け止める<現存在>を呼び起こす。アガーテの<現存在>はこうした<子供>の<現存在>に近いのだが、彼女の<身体>は性を具えている点で、つまり、生殖/<創造>の可能性を秘めている点で、<子供>の<身体>とは決定的に異なっている。このように<愛の樹>の現象形態は、性的なものを含めた<身体>性を基盤としていることがわかるが、その存在は「やさしい」、「やわらかい」、「暗い」、「空虚な」といった語の配列からかろうじて想定することができる。

<生命の樹>は<暴力の樹>と<愛の樹>の総合であるが、この<生命の樹>そのものに関する直接的な説明はこの作品の中にほとんどなく、断片的な記述からその全体像を推し量ることしかできない。ウルリヒとアガーテの兄妹は、父親の死をきっかけにして久しぶりの再会を果たし、アガーテの強い希望に従って、<父>の遺言書を偽造する。この遺言書偽造の是非を巡って、兄妹は善悪についての、すなわち<道徳>について問い始める。こうした兄妹の探究は、楽園から追放されたアダムとエーファが辿った道を遡るものであると見なすことができる。つまり、アダムとエーファの場合、彼らが<父>の<法>を犯して「知識の樹」の実を食べた後、神は、知識を手に入れた彼らが今度は<生命の樹>に手を伸ばして、永遠の<生命>を手に入れることを恐れて、彼らを追放したのだった。それに対し、ウルリヒとアガーテは、<父>の<法>を犯した後に、善悪の「知識の樹」にたどり着いて、さらに<生命の樹>に手を伸ばそうとしているのである。ウルリヒ/アガーテ兄妹は、<父>の<子>としてのこれまでの役割から解放されて、意識的に「二人家族」を形成し、この共同体の中で<遊戯>し始める。すなわち、容貌の類似性を基にして、自分たちを<シャム双生児>に喩えて、双子ごっこを始めるのだ。そして実際、ウルリヒがアガーテの身支度を手伝っているときに、こうした<遊戯>的な要素が現れて、<シャム双生児>のイメージが<身体>性を帯びるという事態が生じる。すなわち、兄がかがみこんでいた妹の<身体>を抱きかかえて空中に放り投げたとき、妹の<身体>の<軽さ>とそれを支える兄の<身体>の<重さ>が均衡を保って、それまでとは確実に異なる時間・空間が出現したのである。それは、新プラトン主義的なルネサンス哲学における「存在の大いなる連鎖」という考えに代表されるような、<人間>が絶対的存在と垂直方向に結びつく時間・空間である。この一瞬の後に、兄は空中から降りてきた妹の<身体>を抱きかかえるのだが、こうした兄妹の姿は、「まるで彼らの身体は一本の根から生じたかのようだった」(S.1083)と描かれていて、<生命の樹>のイメージに重なってくる。さらに、二人は<千年王国>というキリスト教的なイメージを用いながら、<道徳>について会話を交わしていき、こうした一般的なイメージを借用しながら、<人間>が絶対的存在に繋がるような時間・空間を、<自然>という概念で捉え直してゆく。

本論文は、ムージルの詩的方法に則って、<原-我>という理念が小説の筋に従って展開してゆく過程を追う。この理念の現象は、主人公たちにおいては<シャム双生児>という比喩で把握されることになるのだが、さらに、作品のレベルにおいて<シャム双生児>という比喩が<生命の樹>という別のイメージを紡ぎ出している。そして、一般的なイメージを引き寄せてはそこから別のイメージを連想してゆくことによって、既存のイメージに固定されずに、イメージの連鎖の中から陰画的に<原-我>としての<人間>像が浮かび上がってくる。<人間>に関する知を探究し続ける、こうした運動が、ムージルの詩的人間学なのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、20世紀ドイツ語圏文学を代表する一人、オーストリアの作家ローベルト・ムージル (1880-1942) の未完の長編小説『特性のない男』をとりあげ、その主題および詩法を、ひとつの「詩的人間学」と捉えて、論じたものである。

『特性のない男』の執筆は、主に1920年代になってのことであるが、前身となる草稿群では、主人公の名前も変転した。そこに主題の明確化の表現を見る本論文は、主要モチーフの一つ「別の状態」へ繋がる「別様に」という語を響かせるAnders を退けて選ばれたUlrich には、〈原-我(われ)〉Ur-Ichの概念が隠されており、〈我(われ)〉の解体と〈原-我〉への再構築が主題として暗示されている、として、全篇を解釈してゆく。そのさい採用された方法は、作者ムージルの博士論文の対象でもあったエルンスト・マッハの要素還元主義をはじめとする、19世紀後半以来の人間論(ないしその基礎となるもの)の参照とならんで、とりわけ小説テクストに見られる詩法の分析である。

近代的「個」の人間論に代わる新たな人間論ないし「新しい人間」像が模索された時代の中、ムージルは、カバラの原アダム、ギリシアのヘルマフロディトス、エジプトの兄妹=夫婦神オシリスとイシスなど両性具有ないし両性一体の原形象を参照しつつ、ウルリヒとアガーテの兄妹を「シャム双生児」との自己規定に至らせて、両者の区別と一体性、両性の異質性と同根性を包む〈原-我〉の経験をさせる、と本論文は読む。また、その関連で、要所要所に現れる樹木の形象に注目し、複雑なこの小説の構成と詩法に新たな光を当てる。即ち、両性の対置は(合理主義を含む)〈暴力〉と(神秘主義に繋がる)〈愛〉の原理的対置と重ねられ、両原理は、〈暴力の樹〉と〈愛の樹〉として形象化された上で、究極的には、根源的な〈生命の樹〉の分枝という位置づけを得る、と論じ、主人公が出会う出来事、旧友、特異な存在感をもつ殺人者モースブルッガー、そして女性たちは、部分的に彼とも鏡像関係や対照関係に立ちながら、この2本に分かれた〈樹〉に連なるものである、と指摘する。こうして〈原-我〉は「エデンの園」の〈生命の樹〉への到達を含意することになる。そしてこの「葉に覆われて見えにくい」樹幹を垣間見せるのが、要所に置かれた樹木のイメージとともに、両原理の標徴となる単語群の周到な配置であり、「魂の滑りゆく論理」と呼ばれる独自の比喩法を伴うそのような詩法が、語り難い〈原-我〉とそこへの道を間接的に浮かび上がらせ、「詩的人間学」を提示している、と説く。

本論文は、第1次大戦へ向かう時代設定への論及の不十分さや翻訳等に時に見られる不正確さに憾みを残すものの、参考文献博捜の上、作品全体の解釈に関わる新たな視点を提示し、多岐に亘る論点を一貫した論へと構成した力量は、十分評価すべきものである。以上に鑑みて、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当するものと判断する。

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