学位論文要旨



No 123984
著者(漢字) 三村,太郎
著者(英字)
著者(カナ) ミムラ,タロウ
標題(和) アッバース朝におけるギリシャの学問の存在意義とは何か : 論証科学の展開を中心として
標題(洋)
報告番号 123984
報告番号 甲23984
学位授与日 2008.04.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第825号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 橋本,毅彦
 東京大学 教授 村田,純一
 東京大学 教授 今井,知正
 東京大学 准教授 廣野,喜幸
 東京大学 准教授 高橋,英海
 京都産業大学 教授 矢野,道雄
内容要旨 要旨を表示する

イスラーム国家の代表であるアッバース朝(750-1258)においてギリシャの諸学問が盛んに研究されたことはよく知られているが,一神教の世界観とは根本的に対立するはずの世界観を基盤に持つギリシャの学問が大々的に受容され研究されたということは,その背景に何らかの大きな理由を想定するべきである.だが驚くべきことに,その背景については現在に至るまで決定的な見通しを得るには至っていない.

本論文では,アッバース朝宮廷という社会において,いかにして当時の支配者たちや学者たちの間でギリシャの学問の存在意義が認められるようになっていったのかを考察することで,ギリシャの学問がなぜ受け入れら研究されたのかを解明しようとした.

まず,第2章では,ギリシャの学問の導入へ大いなるきっかけをあたえたとされてきた二代目カリフのマンスールの翻訳振興活動の実際を跡付けた.

その結果,サーサーン朝ペルシャ対策としての占星術への彼の強い関心が明らかとなったが,占星術を基礎付ける天文学においては次第にギリシャ天文学の研究が盛んとなっていったことも知られているため,第3章では,アッバース朝における天文学の展開を見ることで,ギリシャの学問の存在意義の解明の端緒を得ようとした.

すると,マンスールの頃は占星術の問題を解くという目的のために当時最先端のインド天文学が大々的に受容されていたが,7代目カリフのマームーンの頃になるとインド天文学の影響は表面的には見えなくなり,かわってギリシャ天文学が優勢化し,ギリシャ天文学の担い手たちはギリシャ天文学を論証で裏付けることで自らの優位性を主張していたことが分かった.

このギリシャ天文学の担い手たちの戦略が成功を収め,ギリシャ天文学が優勢化したことから,論証を有効とみなす土壌がアッバース朝に存在し,ギリシャの学問の進展に大きな力を与えていたことが見て取れる.そのため,論証という厳密な根拠付けを有効とするアッバース朝における土壌の形成過程を考察することになった.

それを始めるにあたって,論証を意味する「ブルハーン」という用語に着目した.ブルハーンは元来『クルアーン』において宗教の正当性を裏付ける証拠を意味し,イスラームにとって特別な意味を持つ用語がその訳語として採用されたことは大きな手がかりだからである.まず,第4章では,『クルアーン』におけるブルハーンの意味と,その背景に存在していたキリスト教徒とイスラーム教徒との間の宗教問答を眺めることで,アッバース朝における宗教問答とブルハーンの関係を考察した.

すると,宗教の正当性をめぐる議論において,ムタカッリムというイスラーム擁護者たちが異教を論駁し,イスラームの正当性を裏付けるブルハーンの提出に従事しており,さらに彼らが,ギリシャ哲学の担い手たちもその論敵と見なし,論駁文書を残していたことが分かった.アッバース朝宮廷における宗教の正当性をめぐる議論の場にギリシャの学問の担い手たちも参与していたことから,第5章では,宗教の正当性をめぐる議論の場においてムタカッリムたちの論敵となったギリシャの学問の担い手たちの実像を探った.

その際,マニ教に代表される二元論者対策のためにムタカッリムたちがイスラームの教理にとどまらず,世界観に関する問題に対しても精力的に発言していたことに注目した.というのは,ムタカッリムによって論駁されていたギリシャの学問の担い手たちも世界観をめぐる問題に対して発言していたからである.実際,キンディーというギリシャ天文学の担い手はギリシャ天文学にとどまらず世界観に関しても発言することでイスラーム擁護者として活躍していた.

その際,キンディーはブルハーンとして論証を提示し,他者との差別化を図っていた.アッバース朝宮廷における助言者の席を巡ってマジュリスという議論の場でさまざまな学者たちが議論を繰り返していたが,キンディーは論証という厳密な根拠付けをブルハーンとして提出することで,根拠付けの価値を認める土壌だった宮廷において成功を収めたのである.また,論証に基礎付けられていたことからギリシャ天文学の価値が認められたのもマジュリスでだった.アッバース朝においてマニ教などの二元論対策として世界観をめぐって議論する必要性から世界観への議論の豊富な蓄積を持つギリシャの学問に関心が集まる一方で,論証という厳密な基礎付けを有していた側面からもギリシャの学問は注目を集めたことになる.

世界観に関する問題と論証という論法への関心は,アッバース朝宮廷におけるギリシャの学問の担い手の一大勢力であるギリシャ医学の担い手たちにも色濃く見られるようになっていた.アッバース朝におけるギリシャの学問の存在意義の総体を捉える必要から,ギリシャ医学の担い手たちにとっての存在意義を考察するため,第6章では,キンディーの同時代人であるタバリーに注目した.彼は,それまでの要約に基づく医学教育を打破しガレノスの目指す医学者像である哲学者兼医学者を育むべく,新たな医学教科書『知の楽園』を編んだ人物である.ここにおいてガレノスの言う哲学者とは論証を操る哲学者を指す.ギリシャ天文学の担い手と同様,ギリシャ医学の担い手も医学に関する助言にとどまらず世界観をめぐってブルハーンに基礎付けられた議論を求められていたからこそ,ガレノスの医学者像が再発見されたのである.このタバリーの活動と平行してガレノスの諸著作のシリア語への翻訳が進行していたことからも,当時,ガレノスの提唱した論証科学者としての医学者が求められていたことが分かる.

そこで,第7章では,キンディーの活躍していた頃の論証科学に関わるギリシャ語著作のアラビア語への翻訳活動の状況と,その翻訳従事者たちに焦点を当てることで,アッバース朝宮廷における論証科学の広がりを見ようとした.

すると,当時,ギリシャの学問の担い手たち自身が翻訳のパトロンとなって論証科学に関するギリシャ語著作の翻訳を振興するのに加えて,サービト・イブン・クッラやフナイン・イブン・イスハーク,クスター・イブン・ルーカーなどの翻訳に従事していた者たちも助言者として宮廷に参与するようになっていたことに気づく.

さらにイブン・ムナッジムとフナイン・イブン・イスハーク,クスター・イブン・ルーカーの間で交わされた往復書簡を分析することで,ギリシャの学問の担い手たちが論証を操ることのできる哲学者という自覚を共有していたことが見えてきた.アッバース朝宮廷におけるギリシャの学問の存在意義の核心を論証が担っており,そのことを担い手たちも自覚していたのである.

その一方で,ムタカッリムの側から論証の基礎である論理学に対して批判がなされていたことも知られており,アッバース朝宮廷における論証の位置づけをより幅広く眺めるために,第8章では,論理学批判を主題とした問答の代表である,ギリシャの学問の担い手マッター・イブン・ユーヌスとムタカッリムのシーラーフィーとの間の問答を取り上げた.

この問答で,彼らは文法学と論理学という対立軸で論理学を捉えなおそうとしており,注目すべきはマッター・イブン・ユーヌスが自身を論理学者と自覚し,周囲からもそう認められていたことである.ここにおいて新たなカテゴリーである論理学者が登場してくるのだが,さらに論理学者はアリストテレス主義者だったことも見逃せない.実際,マッターもアリストテレス主義者だったことが知られており,論理学者と呼ばれていたファーラービーもアリストテレス主義者だった.

ここにおいて,なぜ論理学者というアリストテレス主義者が登場してきたのかが問題となるが,

シリア系キリスト教徒が論理学者の多くを占めていたことがこの問いへの手がかりとなる.なぜなら,シリア系キリスト教徒の多くがギリシャ医学の担い手だったことを考え合わせるならば,ガレノス主義者の中からアリストテレス主義者へと移行していく者がいたといえるからである.そこで,第9章でアリストテレス主義の礎を築いたファーラービーにおけるガレノスとアリストテレスの位置づけを見ると,ファーラービーは経験の捉え方においてガレノスの見方を取り入れていることに気づく.彼はガレノスの経験論を取り入れることでアリストテレス自然学を論証科学として組み立てなおし,数学と匹敵する厳密性を持つ自然学を手に入れたのだった.ギリシャ医学の担い手の中でも,論証科学としての医学を目指す過程で,より厳密な論理体系を求めて,すでに保持していた論理学教授の伝統の延長上でアリストテレス『分析論後書』に注目し,それに依拠することで議論を組み立てようとしたのが論理学者だったといえる.

そして,ファーラービーは,アッバース朝が実質的に権力を失おうとしていた頃に活躍した学者だった.それゆえ,ファーラービーとギリシャの学問との関係の考察を終えることで,アッバース朝におけるギリシャの学問の存在意義の考察を目指した本論文もひとまず終えることになった.

以上,アッバース朝宮廷におけるギリシャの学問の担い手たちの動きを包括的に眺めることで,アッバース朝でのギリシャの学問の存在意義と展開をたどることができた.アッバース朝はサーサーン朝ペルシャの伝統と対峙することで論証科学の受け皿となり,ギリシャの学問とその担い手たちの裾野は論証科学を中心に広がっていった.彼らは,論証科学化という視点は持ちつつ,各々の授かってきた教育内容や能力などに従ってギリシャの学問をさまざまな方向に展開させていった.

アッバース朝の抱えていた諸問題と,その問題の解決に携わった学者たちのとりまく状況とが交差することで,アッバース朝宮廷は論証科学を軸としたギリシャの学問研究の一大拠点となったのだった.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、8世紀から10世紀にかけてのアッバース朝時代のアラビアにおけるギリシャの学問が翻訳され、論証的な学問がアラビアで発展していく様子を論じたものである。本論文は、10章からなる。第1章は序論として、アッバース朝のアラビアにおいてギリシャの学問が翻訳されるとともに、論証的な学問が発展した様子を概観し、先行研究と本論文の内容を紹介する。第2章では、アッバース朝における翻訳活動を概観する。第3章は天文学の分野に着目し、計算優先のインド天文学から論証重視のギリシャ天文学への移行過程が論じられる。第4章と第5章では、宗教に目を転じ、マニ教やキリスト教などの異教からイスラーム教の正当性を主張するために論証が重視された社会的事情を指摘する。第6章では医学の分野においてもガレノス医学が導入され、論証性が重視されたことを述べる。第7章、第8章、第9章では論証的な学問への志向性が広がり、アリストテレスの論理学を修得した論証法を専門とする論理学者の登場と彼らの活動について概説する。最終章において、以上のような論証的学問の誕生と普及がギリシャ学問の翻訳と導入と相関関係をもっていたことを結論する。

三村太郎氏の論文「アッバース朝におけるギリシャ学問の存在意義とは何か-論証科学の展開を中心として-」は、アッバース朝の初期におけるギリシャ学問の翻訳と受容の過程を、論証科学の導入と展開という観点から論じたものである。西洋の科学の発展は古代ギリシャに端を発し、近代西欧において近代科学としての体裁を得るようになったことはよく知られている。科学革命の以前にあって、古代ギリシャの学問はアラビアを経て12世紀に西欧に伝えられ、アリストテレスを始めとする諸学問は大学で講じられる学問の体系となった。このように古代ギリシャの学問を中世後期の西欧に伝えたアラビアにおける科学史の研究は、科学史研究において非常に重要な研究分野でありながら研究の進んでいない分野である。三村氏の研究は、このようなアラビア科学の歴史研究において、論証性という大きな特徴を有するギリシャ学問のアラビア世界における受容を、学者たちが活動する制度的な場、社会的背景を考慮しつつ論述することで、アラビアにおける科学研究・学問研究の前提となる基盤を明らかにしたものであり、今後のアラビア科学史の研究に大きく貢献するものとして高く評価されるものである。研究にあたっては、英独仏はもちろんギリシャ語・ラテン語・アラビア語、さらにサンスクリットとシリア語を読みこなすことによって当時の一次史料に直接あたり、的確かつ興味深い文章を多数引用してくることに成功している。論述の面では、些細な点において多少不満な点も残されていたが、それをはるかに上回る学問的な意義をもっていることが審査において高く評価された。

本論文のテーマであるギリシャの諸文献のアラビアへの受容については、ディミトリ・グタス『ギリシア思想とアラビア文化』においてよく論述されているところであるが、三村氏はその議論をよく保管する観点として、アラビア社会において論証という営みが重視され学者の間で普及していくことに着目し、天文学・神学・医学などの諸分野についてそのことを明確に示した。社会的に大きな意味をもつ占星術と関係する天文学においては、当初計算方法の進んだインド天文学がよく導入されたが、プトレマイオスのいわゆる『アルマゲスト』が紹介されることによって、アラビアの天文学者たちはインド天文学からこの論証的な形式を備える幾何学体系として表現されたギリシャ天文学に深く傾倒していくことになる。アッバース朝期のアラビア社会における論証重視の傾向を見る際の鍵として、三村氏は次に宗教界における論証の必要性に注目し、ペルシャとの深い関係にあったアッバース朝の社会においてイスラームを正当化するために世界観に踏み込んだ議論がなされるとともに、弁証や論証が重視されていったことを指摘する。ムタカッリムと呼ばれる学識者たちの存在、またマジュリスと呼ばれる宮廷において議論がなされる制度的な場の存在なども説明した上で、9世紀の優れた哲学者・科学者であったキンディーが論証的な学問を非常に重視していたことを論じる。次に、医学の分野においてもガレノス医学の受容にあたって、9世紀の宮廷医タバリーらの著作を引用しつつ、論証的な性格を有するガレノスの医学書を積極的に翻訳し吸収していった経緯が語られる。またアリストテレスの学問との関係から、論証性を重視するが故に、ガレノス医学を批判する場面も存在したことが指摘される。そしてさらに、論証が重視されることで論理学を専門とする学者が登場することを論じる。また、哲学者ファーラービーが、プラトン以降のギリシャ哲学の継承の系譜を、実際の経緯とは異なりアリストテレスを重視して理解していたことを指摘し、当時のアラビア思想界においてアリストテレスと論証的学問が重視されていたことを論じる。

審査は、科学史・医学史・哲学を専門とする教員とともに、この時期のアラビア天文学を専門とする研究者、この時期のシリアの学術思想の歴史を専門とする研究者によってなされたが、いずれも本論文に対しては高度な語学読解力に基づく史料の調査と読解、多くの興味深い文献の発見と紹介、読みやすく興味深く構成された論述などの点で博士研究論文として高い評価がなされた。

結び

よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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