学位論文要旨



No 123985
著者(漢字) 中岡,貴義
著者(英字)
著者(カナ) ナカオカ,タカヨシ
標題(和) 女王蜂除去群におけるセイヨウミツバチ働き蜂の脳での遺伝子発現と生理状態の解析
標題(洋) Analysis of gene expression profile in the brain and physiologic state of European honeybee workers in queenless colonies
報告番号 123985
報告番号 甲23985
学位授与日 2008.04.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5252号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久保,健雄
 東京大学 教授 岡,良隆
 東京大学 講師 井原,泰雄
 東京大学 准教授 朴,民根
 東京大学 准教授 越田,澄人
内容要旨 要旨を表示する

多くの動物は社会を構成することで採餌効率、繁殖機会、子育て時の安全性などを向上させるとともに、外敵による捕食の危険性を減らすことで、適応度(個体あたりの繁殖可能齢に達する子供の数)を上昇させている。その一方で、自らの適応度を犠牲にして他個体の適応度の上昇に貢献する「利他行動」も、しばしば動物社会の中で観察されるが、そのような利他行動に関わる分子・神経基盤については不明な点が多い。セイヨウミツバチ(Apis mellifera L.)はコロニーを形成して生活する社会性昆虫であり、雌は女王蜂(生殖カースト)か働き蜂(労働カースト)に分化する。女王蜂は発達した卵巣を持ち、産卵に専念するが、働き蜂は成虫でも卵巣が成熟せず、コロニー維持のための労働を行う。働き蜂は羽化後の日齢に伴い育児から採餌へと分業移行し、その際、分業に応じて下咽頭腺(頭部外分泌腺)の形態・機能が変化する。育児蜂は発達した下咽頭腺を持ち、幼虫や女王蜂の餌となるmajor royal jelly proteins(MRJPs)を主要に合成するが、採餌蜂では組織が退縮し、花蜜をハチミツに加工する糖代謝酵素が主要に合成されるようになる。通常、働き蜂は女王フェロモンの影響で卵巣発達が抑制され、自らは産卵をすることなくコロニーのために労働を行うことから利他行動の典型例とされている。しかし、女王蜂不在下ではその制御が解除されて、卵巣が発達して産卵を行うようになる。このように女王蜂不在によって引き起こされる、働き蜂の「利他」から「利己」への行動転換については、生態学的には古くから知られていたものの、それを制御する分子基盤はまったく不明であった。私は修士過程において、そのような行動の変化が起きる時期に着目し、女王蜂除去後に働き蜂脳内で発現変動する遺伝子をDifferential Display 法を用いて探索した。博士課程では、cDNA マイクロアレイ法を用いてさらなる遺伝子スクリーニングを行うとともに、産卵を行うようになった働き蜂(産卵働き蜂)の生理状態、特に脳と末梢(下咽頭腺、体液)における組織形態、遺伝子/タンパク質発現の変化について解析を行った。

コロニーから女王蜂がいなくなると、残された働き蜂は若い幼虫をコロニー内から探し出し、ローヤルゼリーを与えて新しい女王蜂の育成を行う。しかし、若い幼虫しか女王蜂へ分化する能力を持たないため、コロニー内からそのような若い幼虫がいない場合には、女王蜂新生をやめ、働き蜂は卵巣を発達させて産卵を始める。女王蜂除去後1週間ほどたつと若い幼虫がいなくなるため、この時期に働き蜂では利他から利己への行動変化が開始すると考えられる。そこで、行動転換期の脳機能の変化に関わる遺伝子候補として、女王蜂除去後、4、7、10日後に働き蜂脳内で発現変動する遺伝子の網羅的探索を行った。女王蜂存在群から採取した同日齢の働き蜂を対照群として、遺伝子発現を比較した(図1)。全脳からtotal RNAを抽出し、脳由来の遺伝子クローン約5,200個がスポットされたチップを用いたcDNA マイクロアレイ法により、女王蜂除去群と女王蜂存在群との間で発現量に差のある遺伝子のスクリーニングを行った。働き蜂の採取はコロニーと時期を変えて独立に3回行い、3ロットのうち2ロット以上で1.3倍以上の発現量差を示したスポットを候補遺伝子とした。その結果、女王蜂除去群の働き蜂脳内で発現量の高い遺伝子候補として、グルタミン合成酵素(LOC727342)、vitellogenin-like lipoprotein(LOC408696) の遺伝子、また、女王蜂除去群で発現量の低い遺伝子候補としてα-crystallin(LOC400857)、HSP70(LOC409418)の遺伝子を同定した。このうち、グルタミン合成酵素遺伝子は修士課程におけるスクリーニングでも同定されている。これらの候補遺伝子について定量的RT-PCR法による発現解析を行ったところ、α-crystallinでは、女王蜂除去後7日で3つのロットすべてにおいて女王蜂除去群での発現量が女王蜂存在群の0.8倍以下であった(図2A)。グルタミン合成酵素遺伝子は、全9サンプル(女王蜂除去後4、7、10日×3ロット)のうち6サンプルにおいて、女王蜂除去群での発現量が、女王蜂存在群の1.2倍以上であった。また、vitellogenin-like lipoproteinは、ロット1、2において4、7、10日後いずれのサンプルにおいても1.5倍以上の発現量を示した(図2B)。HSP70については、1.2倍以上あるいは0.8倍以下の発現変動は認められなかった。以上の結果は、女王蜂除去により、働き蜂脳での遺伝子発現プロファイルが変化することを示唆している。グルタミン合成酵素は、神経伝達物質であるグルタミン酸の合成に関わり、α-crystallinには神経保護作用が知られている。vitellogenin-like lipoproteinは他生物種において相同性の高い遺伝子が見出せず、脳での機能は不明である。女王蜂除去により、女王フェロモンを感受しなくなったことで、一部の脳領野でこれらの遺伝子発現が変化し、産卵行動型の神経回路が形成される可能性が考えられる。in situ ハイブリダイゼーション法や免疫組織化学により、これらの遺伝子が発現変動する領野が同定されれば、ミツバチ働き蜂の利他行動を制御する脳領野の同定につながることが期待される。

女王蜂除去群においては、女王蜂除去後、約2-3週間で働き蜂による産卵が始まる。従来の研究では、産卵働き蜂の生理状態について女王蜂との比較をなされることが多かったが、本研究では、働き蜂間の分業に深く関わる下咽頭腺の生理状態と体液中のビテロジェニン量について解析を行い、産卵働き蜂の生理状態は育児蜂と採餌蜂のどちらに類似しているかという点に注目した。まず、女王蜂存在群から育児蜂、採餌蜂を12匹ずつ採取し、下咽頭腺および卵巣の発達度を測定したところ、下咽頭腺の房の直径はそれぞれ、155±4.6、107±4.0μm (mean ± S.E.M.)であり、卵巣小管の直径はそれぞれ、103±5.7、 99±5.0μmであった。次に、女王蜂除去群の働き蜂を無作為に採取し(n=52)、同様に下咽頭腺の形態と卵巣の発達度の相関を調べた。女王蜂存在群の働き蜂では(平均値+標準偏差x 2) は143μmとなることから、それより大きな卵巣小管を持つ個体を産卵働き蜂と定義したところ、52匹中28匹が産卵働き蜂であった(育児蜂、採餌蜂では24匹中0匹)。その下咽頭腺の房の直径は140±3.8μmであり、採餌蜂のものに比べ有意に大きかったが(p<0.01)、育児蜂と比べて有意差は認められなかった(図3)ことから、産卵働き蜂の下咽頭腺は形態的には育児蜂型であることが示された。次に機能面での類似性を検証するため下咽頭腺タンパク質についてSDS-ポリアクリルアミド電気泳動によりバンドパターンを比較したところ、産卵働き蜂は育児蜂に似たパターンを示し、さらに抗MRJP抗体を用いたウェスタンブロット解析の結果、産卵働き蜂は育児蜂同様にMRJPを発現していることが判明した。育児蜂は不妊性であるにもかかわらず、体液中に卵黄前駆タンパク質であるビテロジェニン(Vg)を多く含み、採餌蜂ではその含量が低下することが知られている。そこで、女王蜂除去群の働き蜂について卵巣の発達度と体液中のVg濃度の相関を調べたところ、産卵働き蜂では、育児蜂と同等かそれ以上のVg濃度を持つことが明らかになった。以上のことから、産卵働き蜂は採餌蜂型よりも育児蜂型に近い生理状態を持つことが示された。また、Vg 濃度と下咽頭腺のサイズにも正の相関が見られ、これらのことから卵巣発達度、下咽頭腺の生理状態、体液中のVg 濃度調節について共通の制御機構の存在が示唆された。ハチ目では、単独性のカリバチ類から、高度な真社会性を有するミツバチまで、多様な社会性が観察される。マルハナバチなどの単年性の社会性ハチ類では、巣の創設期には新女王蜂が単独で営巣、産卵、採餌、育児のすべての作業を行うが、働き蜂が羽化すると採餌を働き蜂に任せるようになり、女王蜂は産卵と育児を継続する。ミツバチの女王蜂は産卵以外の巣内の労働は一切行わないことから、ミツバチの産卵働き蜂の行動や生理状態は、ミツバチの女王蜂よりも単年性のハチの女王蜂に近いのではないかと考えられる。ミツバチでは女王蜂によって、そのような行動が制御されており、その分子・神経基盤は進化的な面からも興味深い。

本研究は、ミツバチ働き蜂が利他から利己へ行動変容していく際の脳での遺伝子発現を解析するとともに、産卵働き蜂が女王蜂と育児蜂の生理状態を併せ持つことを示した初めての例である。今後、女王蜂除去後に働き蜂の脳で発現変動する遺伝子の機能解析や女王フェロモンへの応答、脳と末梢との相互作用を解析することで、働き蜂の生殖生理の制御機構、ひいては利他行動に関する分子・神経基盤の解明につながると考えている。また、ミツバチとは異なる社会性を持つハチ類や、ハチ以外の動物種との比較により、様々な動物が見せる利他行動の進化的起源が明らかになっていくことも期待される。

図1 サンプリングのデザイン

女王蜂除去後4、7、10日後に女王蜂除去群と存在群から同日齢の働き蜂を採取した。

図2 定量的RT-PCR A:α-crystallin B:vitellogenin-like lipoprotein

女王蜂除去群においてα-crystallin では発現低下、vitellogenin-like lipoprotein では発現上昇の傾向が見られた。

図3 卵巣の発達度と下咽頭腺の発達度の相関

女王蜂存在群の育児蜂、採餌蜂、女王蜂除去群の産卵働き蜂(卵巣小管の直径>150μm)の下咽頭腺の房の直径はそれぞれ、155±4.6、107±4.0、140±3.8μm (mean±S.E.M.)であり、産卵働き蜂の下咽頭腺は、採餌蜂のものに比べ、有意に大きかった(P<0.01)。

審査要旨 要旨を表示する

社会性動物では自らの適応度を犠牲にしてでも、同種他個体に利益をもたらす「利他行動」が観察されるが、その分子・神経的基盤については不明な点が多い。本論文が研究対象とするセイヨウミツバチは社会性昆虫であり、メスが女王蜂と働き蜂にカースト分化する。女王蜂は卵巣が発達しており、産卵に専念するが、働き蜂の卵巣は退縮し、コロニー維持のための労働を行う。従って、働き蜂の労働は利他行動の典型とされている。働き蜂はさらに、羽化後の目齢に依存して育児から採餌へと分業するが、それに伴い、生理状態も変化し、育児蜂では下咽頭腺(頭部外分泌腺)が発達し、幼虫の餌となるmajor royal jelly proteins(MRJPs)を主要に合成するが、採餌蜂では退縮し、花蜜をハチミツに加工する糖代謝酵素を主要に合成する。通常、働き蜂は女王フェロモンの作用により卵巣発達が抑制されているが、女王蜂が失われるとその抑制が解除され、産卵を開始する(産卵働き蜂)。しかしながら、女王蜂不在によって誘起される働き蜂の「利他」から「利己」への行変化の分子・神経的基盤はこれまでほとんど不明であった。本論文では、女王蜂除去後に働き蜂の脳で発現変動する遺伝子候補をcDNAマイクロアレイ法により網羅的に検索・同定すると伴に、下咽頭腺の形態・機能と体液中のビテロジェニン濃度に着目し、産卵働き蜂の生理状態が育児蜂と採餌蜂のどちらにより近いかを解析している。

第一章では、働き蜂の「利他」から「利己」への行動変化に関連する遺伝子候補として、コロニーから女王蜂を除去して1週間後、働き蜂の行動が変化し始める時期に、働き蜂の脳で発現変動する遺伝子の網羅的探索を行っている。女王蜂除去後4、7、10日後にコロニーから働き蜂をランダムに採集し、正常群から採集した働き蜂を対照としてcDNAマイクロアレイ法を行い、発現量に差がある遺伝子を検索した。その結果、女王蜂除去群で発現量の高い遺伝子候補としてグルタミン合成酵素とビテロジェニン様リポタンパク質遺伝子、発現量の低い遺伝子候補として、α-クリスタリン遺伝子を同定した。これらの候補遺伝子について、定量的RT-PCRを行った結果、cDNAマイクロアレイ法の結果と一致した発現変動の傾向が検出された。グルタミン合成酵素は神経伝達物質のグルタミン酸合成に関わり、α-クリスタリンには神経保護作用が知られている。ビテロジェニン様リポタンパク質については、他種において相同遺伝子が見出されず、神経系での機能は不明であるが、女王不在下での産卵働き蜂の行動発現と関連して、一部の脳領野でこれら遺伝子の発現が変化した可能性が考えられる。

では産卵働き蜂は元々有していた働き蜂としての生理状態を失うのだろうか、或は育児蜂や採餌蜂としての生理状態を保持し続けるのだろうか?第二章では、この問題を解決するため、産卵働き蜂の生理状態が育児蜂と採餌蜂のどちらに近いか検討した。先ず、女王蜂除去群の働き蜂の卵巣を調べたところ、半数以上の働き蜂で卵巣が発達しており、「産卵働き蜂」と推定された。これらの「産卵働き蜂」の下咽頭腺の発達度は育児蜂と有為差が見られず、採餌蜂に比べると有意に発達していた。またその下咽頭腺は育児蜂同様MRJPsを主要に発現していた。育児蜂は不妊であるが、下咽頭腺発達のため体液中に卵黄前駆タンパク質(ビテロジェニン)を多く含み、採餌蜂ではその濃度が低下することが知られている。解析の結果、「産卵働き蜂」は育児蜂と同等以上の体液ビテロジェニン濃度をもつことが判明した。これらの結果は、産卵働き蜂の生理状態は育児蜂に類似しており、採餌蜂とは反対の特性を示すことを示している。産卵働き蜂の卵巣が発達し始めると、通常の育児から採餌への分業が阻害される可能性が考えられ、そのメカニズムの解明が今後の重要な課題である。マルハナバチ等の単年性の社会性ハチ類では、コロニー創設期に、新女王蜂が最初に羽化した働き蜂に採餌を任せ、産卵・育児のみを継続するフェーズがある。今回見出されたミツバチの産卵働き蜂の行動や生理状態は、より原始的な社会性ハチ類の女王蜂のそれに近い可能性も考えられ、ハチ類の社会性進化を理解する上でも興味深い。

本研究は、ミツバチ働き蜂・が「利他」から「利己」へ行動変容していく際の脳での遺伝子発現を解析するとともに、産卵働き蜂が育児蜂の生理状態を維持することを示した初めての例であり、動物行動学・生理学、社会生物学の発展に寄与するものである。

なお、本論文は竹内秀明助教(東京大学)・久保健雄との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験を計画し、遂行したもので、論文提出者の寄与が十分であると判断できる。

従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク