学位論文要旨



No 123989
著者(漢字) 新美,亮輔
著者(英字)
著者(カナ) ニイミ,リョウスケ
標題(和) 日常物体の方向知覚に関する実験心理学的研究
標題(洋)
報告番号 123989
報告番号 甲23989
学位授与日 2008.05.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(心理学)
学位記番号 博人社第638号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 横澤,一彦
 東京大学 教授 立花,政夫
 東京大学 教授 佐藤,隆夫
 東京大学 教授 高野,陽太郎
 先端科学技術研究センター 准教授 渡邊,克巳
内容要旨 要旨を表示する

視覚的物体認知は,ヒトの高次視覚認知メカニズムの最も重要な要素のひとつである。その第一の役割は物体を同定する(再認・命名する)ことだが,その後に行われる種々の目的志向的な行動を考えると,「その物体が何であるか」以外にも物体の様々な情報を獲得する必要があるだろう。例えば道具を手に取って使う場合や,複数の物体が含まれる複雑な情景の理解には,物体が観察者に対してどのような方向を向いているかを知覚することが重要である。本論文では,視覚系が日常物体の方向をどのように知覚しているのか,また物体方向知覚は物体同定とどのような関係にあるのかを実験的に検討し,視覚的物体認知メカニズムの新しく統合的な理解を提供する。

まず第1章では,序論として,これまでの視覚的物体認知研究の中で物体方向が関係している知見を概観する。心理物理的実験研究からは,物体同定のしやすさに物体方向が影響するという視点依存性の問題と,物体方向によって異なる物体の見え(view)はいくつかのカテゴリに分類できるというアスペクト・グラフの理論を取り上げ,物体方向は必ずしも物理的に正確に知覚されるのではなく,カテゴリ的に知覚されるのではないかという仮説を提案する。さらに神経科学的諸研究からは,物体方向の処理が物体同定のための処理を行っているとされる神経機構とは別個の神経機構によって行われているのではないかという示唆を得る。

第2章では,日常物体の画像刺激を用いて行動実験を行い,物体方向知覚の基本的な特性を検討した。具体的には,物体方向の15°の違いを検出する実験課題を行い,前や後ろ方向では物体方向の違いが視覚的に顕著だが斜め方向ではそうではないことがわかった。またこれは前や後ろ方向でその方向に特異的に現れる視覚的特徴(水平輪郭線や輪郭の対称性など)の影響であることも確かめた。前や後ろ方向とそれ以外の斜めの方向とは異なるカテゴリの方向として知覚されているため,前・後ろ方向と斜め方向との間では方向ずれが検出しやすいが,斜め方向同士は違いが検出しにくいと考えられる。また,従来物体同定が困難だとされてきた前や後ろ方向の偶然的見え(accidental view)でむしろ物体方向知覚が正確だという知見は,物体同定と物体方向知覚が異なるメカニズムに基づいているという示唆に適合的である。

第3章では,上述の実験結果を踏まえて,知覚された(主観的な)物体方向が物理的な物体方向とは必ずしも一致せず,一定の誤りを伴っているのではないかという仮説を検証する。物体方向を直接に評定する実験課題を行い,前や後ろに近い方向では知覚された物体方向は正確だが,斜め方向では前や後ろとの方向の違いを過大視するような誤りがあることがわかった。この結果は,やはり前や後ろといった物体方向(偶然的見え)と,それ以外の斜めの物体方向(非偶然的見え)とが異なるカテゴリとして処理されていることを示唆している。

第4章では,物体方向知覚と物体同定とがどのような関係にあるのかを,典型的見え・偶然的見えの違いの問題を通して詳しく検討した。物体同定についての先行研究の知見と第2・3章で得られた物体方向知覚の特性,さらにいくつかの追加実験の結果から,物体方向知覚の正確さと物体同定のしやすさは逆の傾向を示すことを確かめた。つまり,物体同定がしやすい典型的見えでは物体方向知覚は不正確となり,物体同定が難しい偶然的見えでは物体方向知覚は正確なのである。このことは,物体方向知覚と物体同定とが基本的に異なる処理過程であるだけではなく,両者は相反する機能を同時に満たすために相補的に働いているのだということを示唆している。

これらの知見を踏まえ,第5章の総合考察では,これまで主として物体同定過程の側面からしか語られてこなかった視覚的物体認知メカニズムについて,物体方向知覚過程という別の側面から光を当て,統合的な理解を試みた。物体は,前や後ろなどの一部の方向ではその方向に特異的な視覚特徴を多くもたらすが,逆に方向に依存せず多くの方向に共通してその物体に見られる視覚特徴を欠いている場合が多い。このため物体方向は正確に知覚できるが,視点非依存的特徴に基づいて行われる物体同定は難しくなると考えられる。斜めの方向ではその逆で,視点非依存的特徴の量が多いために物体方向はわかりにくいが,同定はしやすい。両者はそれぞれ異なるカテゴリの方向として処理されることとなる。そして斜め方向のカテゴリでは,そこに含まれる物体方向が比較的広い範囲にわたるため,結果として親近性が高くその物体の典型的な見えとして認知されるのだと考えられる。

神経科学的研究を概観すると,物体の偶然的見えに対しては,通常の物体同定処理を行っているとされる腹側視覚経路ではなく背側視覚経路が関わるという可能性が指摘できる。これは物体方向の正確な知覚や,偶然的な見えの処理に適した物体認知メカニズムが背側経路にあることを示唆している。一方で,物体方向の情報は捨象するかわりに効率的な物体同定を行うような,典型的見えに対して最適な物体認知メカニズムが,これまでよく検討されてきたような腹側視覚経路の機構なのだと考えられる。視覚的物体認知のメカニズムは,このような相反する特性を持った2つのメカニズム(方向特異的視覚特徴を処理し,物体方向知覚に最適なものと,方向非依存的視覚特徴を処理し,物体同定に最適なもの)が協働することで,物体同定や物体方向知覚といった物体に関する多様な処理を同時に実現し,種々の認知機能に貢献しているのだと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、視覚的物体認知のメカニズムを統合的に理解するために、日常物体の方向知覚に関して実験心理学的な検討を行ったものであり、全5章から構成されている。

第1章では、従来の視覚的物体認知研究における方向知覚に関する知見を概観する。物体同定のしやすさに物体方向が影響するという視点依存性の問題と、物体の見えは方向によっていくつかのカテゴリに分類できるという理論を取り上げ、物体方向のカテゴリ的知覚仮説を提案している。さらに神経科学的研究から、物体方向が物体同定の処理機構とは別の神経機構によって処理されているという可能性に言及している。

第2章では、日常物体を用いた実験を行い、物体方向知覚の基本的特性を検討する。物体方向の差異を検出する実験の結果、前後方向に比べ、斜め方向では物体方向の差異が分かりにくいことを明らかにしている。これは、前後方向とそれ以外の斜めの方向とは異なるカテゴリとして知覚されているため、前後方向と斜め方向との間では方向ずれが検出しやすいが、斜め方向同士の違いが検出しにくいと考察している。

第3章では、知覚された物体方向が物理的な物体方向とは必ずしも一致せず、一定の誤差を伴うという仮説を検証する。物体方向の評定実験を行い、前後に近い方向では正確だが、斜め方向では前後方向との違いを過大視するような誤差があることを明らかにしている。

第4章では、物体方向知覚と物体同定との関係を、典型的見え・偶然的見えの違いの問題を通して検討する。その結果、物体を同定しやすい典型的見えでは物体方向知覚は不正確となり、物体同定が難しい偶然的見えでは物体方向知覚は正確であることを見いだした。このことは、物体方向知覚と物体同定とは相反するが、両者が相補的に働いていることを強く示唆している。

第5章では、物体は一般的に、前後方向では特異的な視覚特徴を多く含むが、方向に依存せずに共通して見られる視覚特徴を欠いている場合が多いことに言及する。このため、実験では、物体方向は正確に知覚できるが、視点非依存的特徴に基づいて行われる物体同定は難しくなり、一方、斜めの方向では視点非依存的特徴が多いために物体方向は分かりにくいが、物体同定は容易になったと考察している。斜め方向のカテゴリに含まれる物体方向が比較的広い範囲にわたるため、結果として親近性が高くその物体の典型的な見えとして認知されるという結論を導いている。

本論文は、物体方向知覚という側面から実験を重ね、物体同定と物体方向知覚という相反する特性を持った2つのメカニズムが協働することによって物体認知を実現している過程を見事に明らかにしており、実験心理学研究に多大な貢献をした。以上の点から、本審査委員会は、本論文が博士(心理学)の学位を授与するのにふさわしいものであるとの結論に達した。

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