学位論文要旨



No 123995
著者(漢字) 澁谷,智子
著者(英字)
著者(カナ) シブヤ,トモコ
標題(和) 聞こえない親を持つ聞こえる人々 : 文化の中で自己の語りはどう作られるのか
標題(洋)
報告番号 123995
報告番号 甲23995
学位授与日 2008.05.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第826号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 今橋,映子
 東京大学 教授 井上,健
 東京大学 准教授 市野川,容孝
 東京大学 名誉教授 竹内,信夫
 筑波大学 教授 好井,裕明
内容要旨 要旨を表示する

「ろう文化」という思想においては、手話を使う人々を言語的少数者と捉え、視覚を重視した独自の行動様式や価値観を持つ人々と考える。こうした「ろう文化」の考え方は、手話が音声言語とは別の文法を持つ独立した言語であることが学問的に証明されたことを背景に、アメリカのマイノリティ運動の一つとして主張され、1990年代になって、日本にも紹介されるようになった。本論文では、聞こえない親を持つ聞こえる人々の語りに注目することで、「ろう文化」という枠組みが、個々の体験の解釈にも作用していく様を取り上げる。

聞こえない親を持つ聞こえる人々はコーダ(Coda: Children Of Deaf Adults)と呼ばれ、身体的には聞こえながらも、言語や文化の面では聞こえない親の影響を強く受けて育つ。たとえば、日本のコーダの場合、生活の中で手話と日本語を恒常的に使うという意味で、実質上のバイリンガルになっていることも少なくない。しかし、日本では、こうした二言語使用や二文化体験に起因することも多いコーダの葛藤は、ごく最近まで「文化の違い」によるものという解釈を与えられないまま、漠然とした違和感でのみ捉えられてきた。そして、そのような違和感は、世間に対して自分や自分の家族を特殊で低い存在と位置づけることで、納得されてしまいがちだった。こうした解釈には、身体機能の違いに目を向けた「障害者」/「健常者」という分類の仕方が強力に働いていたことも影響している。この分類に照らせば、聞こえない親をもつ聞こえる子は「障害者」の親をもつ「健常」の子どもであり、多数派に属する存在であることが自明視されていた。このように、その社会の多数派とは違う言語や文化にふれているとは認識されず、「障害者の家族」という視点でのみ見られてきたコーダの状況は、国を越えた異文化体験をクローズアップされる、エスニック・マイノリティの子どもや帰国子女などとは異なっている。こうした子どもたちは、国際移動を前提とした二言語使用や二文化体験があることを想定され、認識される違いは「文化の違い」として語られがちであるのに対し、コーダの場合には、違いは間こえない親の子育て能力や常識の欠如によるものと理由付けされてきたのである。

本論文では、従来は見過ごされることの多かったコーダという事例を見ていくことを通して、既存の文化概念や障害概念が前提としている考え方を問い直す。すなわち、国家やエスニシティを基本とした従来の文化の分類では抜け落ちてしまう文化的越境者の一例としてコーダを位置づけることで、グローバル化が進み人やモノの移動も頻繁になってきている今日においては、文化をより多角的に捉える必要があることを提起する。また、自らは心身機能の障害は持つていないコーダが社会からの特別視や同情に直面する現状を追い、「障害Jが個人の身体の状況だけでなく社会によっても作られている面があることを指摘する。

コーダをめぐる背景を説明する第1章では、まず、コーダを複数の文化にふれて育つ子どもと捉え、「CCK(Cross‐Cultural Kids)」という概念を紹介する。コーダを含めた「CCK」の体験は、文化が自明なものとしてあるのではなく、人々との対話を通して個人の中に獲得されていくものであることを示している。また第1章では、日本の聴覚障害者を取り巻いてきた環境を歴史的に概観する。ろう教育において手話は長い間抑圧されてきたが、聞こえない人が登場するドラマの人気や聴覚障害者団体の活動は、社会における手話のイメージを向上させ、手話講習会や手話サークルなど、手話学習の場が多く作られるようになった。こうした土壌の上に導入された「ろう文化」思想は、様々な摩擦を起こしつつも次第に定着してきており、それに伴って「コーダ」という概念も知られるようになってきている。

第2章がテーマとするのは、コーダのコミュニケーションである。長年、手話が言語とみなされず、身体機能を基準に親子が異なるカテゴリーに属すと捉えられてきた状況は、コーダと聞こえない親が使うコミュニケーションの方法を、言語という枠に留まらない多様なものにしている。手話は重要ではあるものの、声、口話、筆談、身振り、ホームサインなどの方法もよく用いられている。しかし、コーダは思春期になると、親に対して自分の言いたいことを充分に伝えられていないと感じることも多かった。また、コーダの中には、日本語モノリンガルとの比較や、自分の手話が相手に通じないなどの実感から、日本語や手話に対する苦手意識を持っている人も多く見られた。近年では、手話の社会的地位が上がるにつれ、コーダが手話を正規に学んだり手話に関わる職業に就いたりすることも増えてきているが、こうした経験は、コーダが自分の手話がどのようなものであるのかを振り返るきっかけとなっている。また、こうした手話学習の場において、コーダは、少数派に属する親を持つことと少数派言語が流暢に使えることを結びつけて見る風潮があることも実感している。

第3章では、コーダの体験と社会の障害観との関連について論じる。「障害」は個人の身体の問題として捉えられ、医療や能力不足と結び付けて解釈されることが多いが、実は、何が「障害」とみなされるか、「障害」をどのように見るのかは、それぞれの社会の人々の考え方や制度によっても変わってくる。障害学においては、心身機能の欠損を「インペアメント(impairment)」、社会のしくみによって障害者にもたらされている不利益や活動の制約を「ディスアビリティ(disabilty)」と呼び、この両者を概念的に区別してきた。しかし、実際のところ、「障害」は子育ても含めてその能力を疑われることと結びついており、「障害」がもたらす「苦労」や「大変さ」を本人や家族が努力によって越えていくという図式に、障害を持つ親もその子どもも巻き込まれている。しかし、ここにはケアの方向性の問題も関わっており、子どもが親のケアや通訳を行なうことは、子どもの年齢が幼ければ幼いほど注目される。

コーダの場合、親との生活の中で行なうことが多いのは、親に音情報を伝えることと通訳をすることである。聞こえる人の社会では、音の使い方のルールが暗黙のうちに共有されているため、コーダの多くは、聞こえない親が違和感をもって見られぬよう、親の音の出し方を状況に合わせて調整している。しかし、音の「規範」と「逸脱」としてではなく、「音の意味が細かく定められている世界」と「音に意味が見出されない世界」があり、両者は共存しうるというように見方が変われば、コーダが音をコントロールするあり方も変わってくる。コーダが家庭で行なう通訳の特徴となるのは、1)親子という私的な関係性の中で通訳が行なわれること、2)子どもという立場で、聞こえない親と聞こえる大人の間の通訳を担うということである。コーダは日常生活や学校関係の通訳を行なうことが多いが、中には医療や金融関連の通訳など、子どもには負担の大きい通訳をすることもある。また、通訳することを通して、本来なら子どもが聞かなくてもよいことを聞いたり、ろう者と聴者の話し方のずれを調整したりする中で、早くから大人びてしまったように感じているコーダもいる。

しかし、多くのコーダが強調するのは、コーダにとっては、親が聞こえないことそのものよりも、親が聞こえないことに対するまわりの人の見方のほうが負担になっているということである。聞こえない親を社会的弱者とみなし、同情や努力への期待といった先入観でコーダやその家族を見る見方が強く働いている状況では、逆にそれに立ち向かうために、コーダは自分の家族が普通であることを強調しなくてはいけなくなることもある。こうしたコーダの体験からは、やはり、「障害」を能力不足や苦労と結びつけて解釈する社会の見方(ディスアビリティ)の作用の大きさを窺うことができる。

第4章では、コーダの語りの生成と変化を時間的空間的な広がりの中で論じる。聞こえない親の元で育ったことについての語りは、常にコーダ個人の現在の立場から過去を振り返る形で作り出され、しかもそれは時の経過と共に変化している。就職や転職、離家、結婚、出産といった、人生の節日となる出来事はコーダの出会う世界を広げ、また、コーダが手話や聞こえないことに関する知識を得たり、コーダ同士で深く話したりすることで、自分や自分の家族をどう位置づけるかも明確になる。特に、親に対する見方と、通訳という行為の意味は、時間と共に捉え方が大きく変わってくる事柄である。こうした個々の経験や環境、性格の違いに加え、それぞれのコーダは、自分の生活している社会の考え方の影響も強く受けている。たとえば、日本人コーダの語りでは、アメリカのコーダのように「機能不全」などの心理学的用語が用いられることはほとんどなく、アイデンティティのジレンマについてもあまり痛切に語られないといった違いが見られる。こうした違いは、その社会において、どのように説明すれば、コーダの置かれている状況を世間の人々に理解してもらいやすいかということとも結びついている。

コーダの語りが作られ、変容していくプロセスは、個人がその社会で共有される意味の体系を取り込みながら、物事をどのようにまなざし、感じ、意味づけていくかを、鮮やかに示している。自己の体験を語りとして紡いでいくことは、その社会に生きる人々や情報との相互作用の中で作られる、実に動的な文化的営みなのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「聞こえない親を持つ聞こえる人々-文化の中で自己の語りはどう作られるのか」は、日本においてほとんど先行研究のない「コーダ」(Coda:Children of Deaf Adults 聞こえない親を持つ聞こえる人々)に関する、初めての実証的研究である。1990年代以降日本でも社会的、理論的に周知されるようになった「ろう文化」の領域の中でさえ、コーダは周辺的な存在と見なされがちであるため、文化的境界者として育ち、その過程で様々な問題、葛藤にさらされている有様を、詳細に追究した研究はほとんどなかった。その研究テーマの性格上、本論文も学問分野を必然的に横断し、比較文化学、社会学、障害学、異文化間教育学などの知見を十全に盛り込み、独自の分析方法を編み出そうとしたものである。公開審査会当日には、手話同時通訳も公式に用意され、音声言語のみで通常行われてきた博士論文公開審査会に、新たな形式と可能性が導入されたことも、特筆に値するだろう。

本論文は全四章で構成され、別冊で付帯する資料集が、論文と共に常に参照されるべき一次資料の役割を果たしている。

世界的に見た場合、コーダ研究についてのまとまった、優れた研究は唯一、アメリカの文化人類学者ポール・プレストンの著書(1994)が挙げられる。その書物の邦訳(2003)者の一人でもある澁谷氏は、プレストンの調査対象が専らアメリカ国内のコーダであることに鑑み、本博士論文をまとめる大前提として、日本国内のコーダと知り合い、インタビューをし、アンケートを取るという営為を7年間にわたって続け、その成果を社会学的方法で分析し、別冊資料集としてまとめた。それによって、プレストンの先行研究の成果を確認しながらも、独自の観察と考察を加えた4章立ての構成が導き出されている。

序論および第1章「コーダをめぐる背景」では、「ろう文化」研究に必要なタームが整理され、さらにコーダという存在を、異文化間教育学で頻用される「CCK(Cross-Cultural Kid)」という境界者の概念として捉え直しながらも、一般的なエスニック・マイノリティとは異なり、その身体的特徴や文化が継承されず、「ろう者」の文化と「聴者」の文化を混淆したかたちで内面化している存在であると説明される。

第2章「コーダのコミュニケーション」からは、前述した付帯資料集の分析を基盤として、日本のコーダを実際に取り巻く状況や、諸々の問題を明るみに出す。ここで中心的テーマとなるのはコーダのコミュニケーションである。手話が独自の文法構造をもつ「言語」であることは、近年よく知られてきたが、本章で筆者は、次に言語学の成果を援用し、いわば日本手話と音声日本語のバイリンガルとしてコーダを捉え直す。思春期のコーダに良く見られる問題としては、ろう者の両親との意志の疎通がうまくいかなかったと感じる不全感。一方で、コーダと両親との間では、手話のみならず、口話、声、筆談、身振り、ホームサインに至るあらゆるコミュニケーション手段が駆使されるために、コーダ自身は長じてから、(本格的な)手話にも日本語にも熟達していないのではないかという、苦手意識をもつ傾向が見られると分析される。

第3章「社会の障害観とコーダ」では、本来なら聞こえる人として障害を持たないはずのコーダが、社会から「聞こえない人の子ども」として、同情や特別視の対象となる中で生ずる問題について分析する。ここではプレストンの先行研究と同じく、「通訳すること」と「責任を持つこと」が、社会によって過度に期待されている様が浮かび上がってくる。

第4章「コーダの語りの生成と変化」は、本論文で最も独自な分析と見解が示される部分である。約7年間の参与観察を経て筆者が到達した見解は、プレストンと異なり、成人となったコーダの、自らの人生の語り方、あるいはコーダについての問題意識は、徐々に変化していくという点である。成人後、職業としての通訳者をめざす体験、コーダ同士の出会いや問題の共有意識が、彼らの「語り」を変化させていく。第4章5節では日米のコーダの特徴的差異として、(1)日本のコーダは自分たちを、アメリカの例と違って「アダルトチルドレン」のような心理学的説明モデルで語らない。(2)日本は世界的に見ても稀なほど手話学習が行われている国であり、そのおかげでろう者やコーダが閉鎖的なコミュニティに囲われていないという利点がある。(3) 日本のコーダは、自分に要請される日本語の運用能力を高い水準で測り、その結果として自分の日本語能力を過小評価する傾向にある。(4) 日本のコーダはアメリカのコーダほど、アイデンティティの葛藤について語らない-という4点の結論が出されている。これによって、文化的境界者としてのコーダが、社会との相互作用の中で自己を位置づけていく有様が、きわめて実証的かつ緻密に記述された論文と、結論づけることができるだろう。

審査会ではまず一致して、聴者である筆者が、ろう者やコーダの方々と誠実かつ長期の調査を継続した成果である貴重な分析と、その結果を高く評価した上で、むしろ今後の学問的進展につながる問題点が、それぞれの専門家から指摘された。

社会学からは文化の概念からコミュニケーションへと方向付けるこの論文のベクトルがむしろ全く反対にコミュニケーションの不全感から出発するはずではなかったかという概念的プロセスのあり方、エスノメソドロジーからはプライベートな情報に属する調査結果をいかに抽象化するかという方法論的問題が十分自覚的に論じられていないこと、比較文学からは「語り」に関する文学理論の消化が物足りないこと、さらに比較文化論で近年精緻化されている「異文化理解の倫理」に関する考察が脱落していること、などが指摘された。また多くの委員から、調査したコーダそれぞれの多様性を尊重する誠実さのあまり、個別の語りをグランド・セオリーに発展させる方向性を自ら抑制することになったのではないかという指摘がなされた。

しかし以上の指摘は、あくまでも今後の進展への希望として語られたものであり、本論文の価値を損なうものではないことも確認された。

以上の審査結果を踏まえて、本審査委員会は全会一致で、本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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