学位論文要旨



No 124006
著者(漢字) 西口,創
著者(英字)
著者(カナ) ニシグチ,ハジメ
標題(和) レプトンフレーバー保存を破るミュー粒子崩壊事象を10-13分岐比まで探索するための新しい高感度陽電子スペクトロメータ
標題(洋) An Innovative Positron Spectrometer to Search for the Lepton Flavour Violating Muon Decay with a Sensitivity of 10-13
報告番号 124006
報告番号 甲24006
学位授与日 2008.06.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5253号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 徳宿,克夫
 東京大学 教授 駒宮,幸男
 東京大学 教授 中畑,雅行
 東京大学 教授 坂本,宏
 東京大学 准教授 濱口,幸一
内容要旨 要旨を表示する

近年相次いで報告されたニュートリノ振動現象の観測結果より、ニュートリノにおけるフレーバ非保存は確実視されている一方で、荷電レプトンにおけるフレーバ非保存事象の観測事例は未だ一例も報告されていない。ニュートリノが質量を持つように標準理論を拡張した場合に予測される荷電レプトン混合の割合は、ミュー粒子のフレーバ非保存事象(μ→eγ)の崩壊分岐比を例にすると、オーダーにして10(-50)程度と極めて小さく観測は望むべくもない。一方、超対称性を加味した超対称性大統一理論や、超対称性シーソー機構などの新しい理論モデルの多くは10(-11)~10(-15)という非常に大きな崩壊分岐比を予言している。現在のμ→eγ探索の実験感度の上限値は、米国ロスアラモス研究所において行われたMEGA実験により1999年に報告された1.2×10(-11)(90%C.L.)であり、実験感度を更に数桁向上することが出来れば、標準理論を越える新しい物理現象の観測が期待され、多くの理論モデルの可能性を検証することが可能となる。この荷電レプトン混合現象が近年注目を集めている理由のひとつは、その理論的な予言値が現在の実験上限値に対して、僅か数桁下にあることである。そこで、膨大な量のミュー粒子を使うべく「世界最高強度のミュー粒子ビーム」を利用し、その膨大な雑音事象の中から極めて少ない事象を検出するために「μ→eγ検出に特化した超高性能検出器」を用いて、現状の実験感度を100倍向上させ、一挙に理論予言領域を探索する実験(MEG実験)を、東京大学の森が中心になり1999年に提唱した。MEG実験はスイス国立ポールシェラー研究所にて稼働中の現在世界最高強度のミュー粒子ビーム(毎秒3×107個のミュー粒子)を使い、東京大学素粒子物理国際研究センターを中心とした日本グループと、スイス、イタリア、ロシアおよび米国のグループによる国際共同プロジェクトとして進められている。

この実験の成否は、静止したミュー粒子からの2体崩壊で放出される比較的低エネルギー(52.8MeV)のγ線と陽電子を、いかに精度良く高頻度で検出出来るか、が鍵を握る。更に、いかにして雑音事象の頻度を低減することが出来るか、が二つ目の鍵を握る。実際、現在の上限値であるMEGA実験の結果は、検出器の分解能の限界と膨大な雑音事象が故に、実験感度が制限されてしまっていた。そこでMEG実験では、液体キセノンを用いた新しいタイプのγ線検出器と、特殊勾配磁場を利用した高計数率に耐え得る荷電粒子スペクトロメータを開発し、これらの困難を克服することを目指している。

前述の通り、MEGでは毎秒3×107個のミュー粒子崩壊頻度という非常に高計数率環境で、精度良く陽電子を検出しなくてはならない。従来のドリフトチェンバーを用いて、このような高計数率化で高精度測定をすることはほぼ不可能であるため、EGでは特殊な磁場勾配を持たせた超伝導電磁石を採用することによりこの問題を解決した。この特殊な勾配磁場は、中央部分を窪ませたソレノイドコイルの巻き数と巻き密度を調節することによって実現されており、中心部分でおよそ1.8T、外縁部では0.4Tという大きな磁場勾配を持たせてある。この磁場勾配のおかげで、検出器中央に設置されたミュー粒子停止標的から放出された陽電子は、速やかに飛跡検出器の外へと掃引される。また通常の一様磁場の場合、荷電粒子の磁場中での回転半径はその放出角度に依存するが、磁場の勾配を調節することでこの角度依存性を無くすことが可能になる。そのため、回転半径は放出角度に依存せず、その運動量のみに依存することになる。この特性を利用し、MEGではドリフトチェンバーを、ミュー粒子の崩壊スペクトル(Michelスペクトル)の上限部分(52.8MeV付近)のみに感度を持つように、すなわち回転半径の大きな領域にのみ選択的に配置し、更に高計数率環境での安定動作を可能にした。このような特殊磁場を採用することで高計数率下での安定動作を実現することが出来るが、前述した通り、MEG実験を成功に導くためには、高計数率下での高精度検出と同時に、大幅な雑音事象の低減も実現しなくてはならない。そのため、荷電粒子スペクトロメータで用いる飛跡検出機を極限まで低物質量化することにより、検出精度の向上と雑音事象の低減の双方を可能にした。

通常ワイヤチェンバーのワイヤには、相当な張力を掛けて製作されるため、ある程度強固な構造物が必要になるが、それは当然物質量の増加を意味する。MEG実験では、膨大なミュー粒子からの崩壊陽電子がそれらの構造物に当たることになり、γ線検出器に対して大きな雑音源となる。そのためMEG実験では、チェンバーのフレームのうちミュー粒子ターゲットに向いた辺の構造物を一切取り外す、という思い切った構造を採用した。当然、製作に際し力学的な条件は極めて困難なものになったが、1年に及ぶ試行錯誤の末、このオープンフレーム構造でのチェンバーの作成に成功し、大幅な低物質量化に成功した。またこのフレーム構造の開発と並行して、カソードを担うフォイルの低物質量化も進め、ポリイミド加工工場を訪ね、共同で超薄型でパターン印刷まで盛り込んだフォイルの開発にも成功した。これらの成果により、実験の要求を満たすドリフトチェンバーを完成することに成功し、最終的なスペクトロメータとして組み上げた際(16台のドリフトチェンバーモジュールからなる)、信号陽電子の飛跡が通過する平均物質量を0.002放射長単位にまで低減することを可能にした。

この低物質量化に加え、MEGの目指す実験感度をより確実なものとするためには、低運動量の荷電粒子の飛跡検出において最大の分解能低下要因であるクーロン多重散乱の影響を考慮にいれ、これを効果的に低減するようなアルゴリズムの開発が必要不可欠である。そのため、飛跡検出アルゴリズムはカルマンフィルターに代表される逐次的なフィルター手法を基に開発した。また、詳細なモンテカルロシミュレーションの開発は必須であり、物理事象の生成から検出器内での詳細なエレクトロニクスの再現まで含めたシミュレーションソフトウェアを開発した。

スペクトロメータの建設は2007年夏に完了し、その後速やかに検出器の立ち上げ並びに較正作業を開始し、2ヶ月のエンジニアリングランを通してすべての較正手順を確立した。また、較正作業完了後、大量のミュー粒子を計画通りの頻度で照射し、大強度ミュー粒子の照射環境で動作可能であることを証明し、そこで得られたデータを解析しスペクトロメータの性能を評価した。数台のドリフトチェンバーが動作不良を起こしたため、2007年のデータでは計画通りの性能を発揮することが出来なかったが、この性能の劣化分も含めたモンテカルロシミュレーションの結果、ドリフトチェンバーの補修が済み全台数が稼働すれば、計画通りの性能が実現可能であることを実証した。また、これらの動作不良の原因は完全に把握されており、現在修復作業はほぼ完了している。

これら今回のエンジニアリングランを通じた実証実験の結果、2008年度のMEG実験のデータ取得によって、現在のμ→eγ崩壊分岐比に対する上限値を2桁向上させる感度が実現出来ることが証明された。この実験感度をもって探索すれば、荷電レプトンにおけるフレーバー物理の理解を大いに進めることが可能となる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は11章からなる。第1章は序章でありこの研究の背景が簡潔に述べられている。第2章ではさらに詳しくこの研究の理論的・実験的背景を説明している。第3-5章はこの研究を進めるための実験装置の説明にあてられ、特に第5章では論文提出者が開発・製作した測定器の詳細な説明が記述されている。第6章で実験装置をシミュレーションする手法を説明し、第7章では、検出器データから事象を再構成する方法を述べている。試験実験のデータを基に、第8章で測定器の較正手法を述べ、第9章でその試験データをもとに検出器の性能の評価を行っている。その結果により、第10章で今回完成した検出器が目標とする物理を行うに重要な性能を達成したことを論じ、第11章が全体のまとめとなっている。

本論文の主眼は、μ+粒子が陽電子と光子に崩壊するという事象の探索を行うことを可能にする、きわめて独創的で高性能な陽電子の運動量測定装置(スペクトロメータ)を開発・製作できた点である。さらに、完成した装置の試運転の結果をもとに性能評価を行い、探索実験を進めるに十分な精度を得たことを検証している。

通常ミュー粒子は陽電子とミュー・ニュートリノと電子・ニュートリノの3体に崩壊し、ミュー粒子からミュー・ニュートリノへとレプトンフレーバーがよく保存されていることが実験的にわかっている。しかし、フレーバーが保存する理論的な強い根拠はなく、実際標準模型を超える理論では、世代を超えてミュー粒子が電子と光子に崩壊する可能性が論じられている。

これまでの実験ではこの分岐比は1.2×10-11以下であることが分かっており、それをさらに1桁以上よい精度での探索を目指して、国際共同実験MEGが提案され、スイスのPSI研究所で実験が行われることになっている。この崩壊過程を発見できた場合は、素粒子物理学において全く新しい地平が出現し、重要な結果となる。しかしこの実験を行うには、従来の検出器の組み合わせでは不十分であり、全く新しい方式の測定器開発が必要であった。論文提出者は、この実験に計画段階から参加し、この開発の主力となってきた。

この実験の鍵は、2体崩壊して出てくる陽電子と光子をいかに精度よく測定できるかである。特に、複数事象が重なりあったものを一つの事象として見てしまう効果をどれだけ抑えられるかが重要になる。主には2つの高性能検出器の発明が必要であり、一つは光子の測定器(液体キセノン検出器)で、もう一つは陽電子の検出器である。論文提案者は陽電子を検出するスペクトロメータを開発した。測定器との散乱による精度劣化をできるだけ少なくするために、全く新しい構造の、非常に物質量の少ない飛跡検出器を作ることができた。この検出器を特殊な磁場勾配を持つ磁石と組み合わせることで、探索する運動量領域のみを選択的にカバーする独創的なCOBRAスペクトロメータが完成した。

2007年の試験実験でスペクトロメータの性能試験を行い、論文提出者が中心になって解析を行った。試験実験には何点かの問題があったことが判明したが、そのままでも2008年の本実験では分岐比10(-13)台まで探索できることを示した。その上、問題点の多くは単純に解決可能なものであるので、対策を講じれば、本実験で6.5×10(-13)の分岐比まで探索可能であることを、シミュレーションとの綿密な比較を通して示した。

本論文は、国際共同実験グループMEGでの共同研究であるが、この研究に関しては論文提出者が主体となって進めている。論文提出者はこの研究を進めるにあたって、非常に重要なCOBRAスペクトロメータのための飛跡検出器の開発を中心になって進めてきており、この貢献が、この重要な実験を実現するためには不可欠のものである。以上により論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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