学位論文要旨



No 124012
著者(漢字) 頼,衍宏
著者(英字)
著者(カナ) ライ,エンコウ
標題(和) 日本語時代の台湾短歌 : 結社を中心にした資料研究
標題(洋)
報告番号 124012
報告番号 甲24012
学位授与日 2008.06.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第830号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 神野志,隆光
 東京大学 教授 菅原,克也
 東京大学 准教授 斎藤,希史
 東京大学 教授 若林,正丈
 東京大学 教授 小森,陽一
内容要旨 要旨を表示する

台湾は大日本帝国の一部分であった時代(1895~1945年)、日本語が国語であった。先の大戦が終るまでの50年間、日本文学の養分が絶えず当地に注入した。日本伝統短詩型文学の短歌(五七五七七)もその例外ではない。21世紀の今でも、「台湾歌壇」という結社の創作活動が営まれており、短歌の人気が未だ絶えていない。

然るに、この3世紀に跨がるジャンルについては、<台湾文学史>ではまともに取り扱われてこなかった。両国における研究史を見ても、偶々目に付いた資料を踏まえて台湾歌壇を論じる通弊が見られ、或は誤解された部分的な台湾歌壇像しか語られてこなかった。

確かな台湾歌壇全体像の提示が今、求められている。そこで本論文では日本統治時代における台湾歌壇の発生と史的展開を解明した。

第一章では、<台湾文学史>の中に短歌への視点が欠落している現状を指摘し、この問題を解決するための方法が書誌的研究にあることを述べた。次いで、歌人が結社に依存する歌壇の有様を確認し、孤蓬万里の年表「台湾短歌の揺籃」を踏まえて調査研究を進める時の留意点と取り組み方を示した。

第二章では、「台湾短歌の揺籃」で提示された21結社及びその機関誌を一々調査研究した。

*「新泉」 *「にひ星」 「人形」 *「十月」 「あらたま」 *「泊芙藍」 「あぢさゐ」 「行人」 「八雲」 *「蜻蛉玉」 「海響」 「相思樹」 「朱轎」 「原生林」 「大タロコ」 「棕梠竹」 「紅樹」 「台湾」 *「がじゆまる」 「南台短歌」 「やまなみ」

その中で一次資料の現存が確認できないものは、6点(星印)である。根本資料が散逸した場合は、同時代の内地・台湾における短歌雑誌、結社発行所地元の新聞紙等の傍証資料を務めて発掘して、結社の基本性格を明らかにした。その上で各結社すべての展開相を追跡した。そのうち1940年以降鼎立し、尚且つ1945年まで発刊した3大結社の概略だけを記せば、以下のようになる。

1.「あらたま」バックナンバーは19年弱の分だけ現存が確認しうる。

まず「あらたま」を創刊する前に浜口正雄が「人形」に出詠し、「台日歌壇」の連中と共に「あらたま第一次発展の基底」を作り上げた実態を究明した。平井二郎による「第二次発展の基底」の実態も明らかにした。次に、「あらたま」主宰となった平井が内地母誌「水甕」の旧作を『攻玉集』に編入したことを指摘し、「あらたま」が「水甕」系とされる由縁を明らかにした。平井が『攻玉集』の中に明示した「寂」の理念には、内地母誌「ポトナム」色が響いていた。東京の歌誌に浸潤していくうちに平井が「寂の耽美」を提唱し、これが「あらたま」の批評基準の一つとなっていく。「ポトナム」台北支部長にまでなった平井だが、『歌集台湾』をめぐる事件と、「ポトナム」の内部歌論問題を契機に「ポトナム」から遠のいていく。その反面、竹尾忠吉の台湾来任に刺戟されて、島木赤彦はじめ中央歌壇随一歌誌「アララギ」へ接近し、「あらたま」が「アララギ」の「出店」と認識されたことを見届けた。1935年に平井は、北原白秋の「台湾は歌にならない」説に対応するべく、「真個の台湾短歌」を追求する意気込みを示した。即ち「アララギ」の『万葉集』尊重に従い、平井は台湾短歌には万葉の東歌、防人歌からの影響が否定できないことを説き始める。この「東歌」影響説は台湾方言の詠み入れに反映することを論じ、「防人の歌」影響説の極致は台湾人軍医による防人歌にあったと指摘した。次に、「あらたま」の出詠統計表を提示した上で、「真個の台湾短歌」という主張が出された1935年が第1回隆盛期となっており、第2回隆盛期を迎えた1943年に「台湾文芸功労賞」を授けられたことを明らかにした。受賞の背後に、台湾人歌作者を含めて「あらたま」系歌人の中央歌壇進出、島内における新聞・雑誌短歌欄の選者進出という諸実績があった。「台湾芸術」において陳奇雲が選者となったことが、「本島人歌壇」の成立と、日本人が本島人を指導する図式を逆転した一つの画期をもたらしたことを究明した。次いで、戦局の悪化によって「あらたま」が廃刊せざるを得なくなった事情を確かめた。

2.田淵武吉「原生林」は10年分全部揃っている。

まず内地歌誌「国民文学」台北支部の活動を推し進める中で同誌の大黒柱松村英一が台湾短期滞在の間に島内歌壇に与えた刺戟を跡付けた。結果、松村の台湾詠が「原生林」の命名に繋がったことを確認し得た。また、松村の指導と「朱轎」の事件という明暗の狭間に「原生林」創刊があったことを明らかにした。次に、「原生林」で力説された「現実主義」が、田淵が選歌を仰いでいる師匠松村の歌論の一節であり、これを発展させたのが田淵の「まこと」(真事、真言)論であると指摘した。田淵は後進誘掖の実績で総督府に認められ「台湾文芸功労賞」を授けられた。この点に鑑みて日本人と台湾人に分けて考察を加えた。前者では、「原生林」における池田敏雄短歌の中に読み込まれた台湾民俗の題材と台湾語の使用が、雑誌「民俗台湾」に継承された経緯を指摘した。後者では、本島人出詠が「真の皇民化」を意味するという論の延長線上に、大東亜戦争に入ると田淵は本島人歌作者の育成に乗り出した。「原生林」の「本島人志願兵」短歌が『大東亜戦争歌集』に入ったのがその頂点であるが、当該本島人は志願兵ではなかったことも見届けた。「まことの道」が「皇国の道」であるとする田淵は、社外で「皇国の道」を受け持ち、そこの短歌欄では<学生皇民短歌>の全島学際的誘掖がなされたことを指摘した。

3.斎藤勇「台湾」も6年分全部揃っている。

まず斎藤の編輯した内地歌誌「日本短歌」と「台湾」との諸類似性を指摘した。次に井東襄の<台湾歌壇大同団結事実無根>論について批判を加えた。関連資料を分析した結果、台湾歌人クラブより「台湾」へと、台湾文芸家協会への2通りの大同団結の実態を明らかにした。次に、「台湾」が3結社(「あぢさゐ」「行人」「棕梠竹」)のために支部化・統合への道を提供したことや、全島歌壇再編のために演じた役割を確かめた。次いで、斎藤の職歴を踏まえて、台北州3校で繰り広げられた短歌指導の実績(例:李登輝の短歌)を究明し、この過程の中から「台湾」会員が発掘されたことを見届けた。また、「台湾」に所属する台北三高女教員も、必修科目となった短歌教育の中で台湾人学生を「台湾」に送り込んだが、陳氏詠美の登場がその頂点であると確認した。次に、斎藤の短歌について、彼の「歌語」「連作」には内地母誌「霸王樹」の流れを汲んでいたことを提示した上で、井東の説を退けた。斎藤の連作について新聞記事と照合し、そのテーマが大東亜文学者会議で強調されていた「戦果」にあったことを指摘した。次に、「台湾」で手製版の「愛国百人一首かるた」による競技が行なわれた実態を究明した。そして、大東亜文学者会議・愛国百人一首かるたへの接近は、斎藤が日本文学報国会台湾支部の理事であったことに起因することを指摘した。次に、「台湾」が休刊せざるを得なかった理由は、激戦中の主宰応召にあったと確認した。

第三章では、第二章で明らかになった短歌雑誌の基本書誌、各結社の交流関係と共に、各々牽引された短歌運動を綜合して纏め直した。そこから得られた概要は以下の6点である。

(1)根岸系による台湾歌壇の制覇を確かめた。

(2)台湾歌壇の対立・派生・離合分散の展開相を図式化した。

(3)本島人選者と日本人・台湾人投稿者からなる「本島人歌壇」が1940年に成立した。

(4)「八雲」系の「皇民化」主張を経た後、「皇民化運動」から新たに<皇民短歌>が生じた。

(5)「真個の台湾短歌」は「あらたま」系に説かれた後、「台湾」の「南方短歌」へと拡大した。

(6)台湾歌壇の発展を阻む検閲は、政治社会批判詠・軍事機密詠・差別用語であった。

これ以外に、短歌資料を視野に入れると、これまでの<台湾文学史>をめぐる先行研究とは一致しない事実が浮かび上がってきた。主な成果は次の7点である。

(1)台湾歌壇の全体像解明を以て、部分的台湾歌壇像を見直し得た。

(2)五七五七七は日本短詩型との事実を以て「台湾文学は中国文学の一部」説を見直し得た。

(3)台湾人による詠作は1902年から始まり、中央歌壇進出は1919年だとの事実を確かめ得た。

(4)「皇民化」用例が1936年から始まるとの説を、台湾歌壇人の用いた1935年に訂正し得た。

(5) <皇民短歌>という事実を以て「皇民文学」の「極く少数」作家創作説を見直し得た。

(6)短歌雑誌併合(1943年)との事実を以て1944年の2大文芸誌に限る統合説を見直し得た。

(7)「糞リアリズム論争」の1943年発端の通説を短歌論評の事実を以て1940年に見直し得た。

特に (3)~(7)を見ても分かるように、短歌は<台湾文学史>の主流として語られている小説ジャンルに見劣りをしないどころか、むしろ時代を先取りするという有様を確認出来る。

本論文は台湾歌壇の基礎研究を築き得たのみならず、<台湾文学史>の現状に対しても、新たな問題を提起しうるであろう。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「日本語時代の台湾短歌――結社を中心にした資料研究――」は、日本の植民地時代の台湾における短歌についての資料研究である。一八九五~一九四五年の台湾は日本の植民地であり、日本語を「国語」としていた。この日本語時代の台湾における日本語文学の正当な位置付けをめざして、本論文は短歌に目を向けたものである。

短歌は、台湾人を「教化」するという点でも大きな役割を果したものであり、定着して、現在もなお台湾における創作活動は絶えていない。日本語とともに深くひろく浸透したといえる短歌は、日本語時代を考えるうえで必須不可欠であり、重要な問題であるが、その研究は十分になされていない。資料の整理もきちんと果されているとは言えないのである。そのために、日本語時代の短歌に関する発言が、たまたま目に付いたものによってなされたり、正確な情報に基かずにおこなわれたりすることがすくなくない。本論文は、その現状に鑑みて、基礎となるべき資料を調査・整理することをこころざしたものである。

本論文は、第一章「はじめに」、第二章「日本語時代における台湾歌壇の史的展開」、第三章「まとめとして」、の三章から構成される。第一章では、日本語時代の台湾短歌の研究の現状について、資料研究の決定的な不足をふりかえる。そして、短歌の場合、個人活動でなく、結社によって活動するというのが一般的だが、台湾においてもおなじであったことに顧みて、資料研究も結社を中心とするのが適切であることを確認する。第二章では、結社とその歌誌を逐一検討・調査してゆく。本論文の中心をなすのは、この調査であり、「資料研究」と題するゆえんである。第三章は、この調査によってあきらかにされえたことを確認し、問題の展望を与える。

本論文の核心は、第二章にある。特筆されるのは、資料研究としての意義である。ここで取り上げられた歌誌は、「新泉」、「にひ星」、「人形」、「十月」、「あらたま」、「泊夫藍」、「あじさゐ」、「行人」、「八雲」、「蜻蛉玉」、「海響」、「相思樹」、「朱轎」、「原生林」、「大タロコ」、「棕梠竹」、「紅樹」、「台湾」、「がじゅまる」、「南台短歌」、「やまなみ」の二十一誌にのぼる。それによって台湾短歌を全体として見渡すことをはたしている。指針となったのは、『台湾万葉集』を編んだ孤逢万里の『「台湾万葉集」物語』(岩波ブックレット、一九九四年)であった(日本語時代を生きた歌人孤逢万里の同時代証言として類するものがない)が、これらの歌誌について、現存の確認(所蔵者・巻号)をはじめとして、結社の活動を発足から終焉まで、当時の新聞等を博捜して徹底的に調査することは、本論文によってはじめてなされたものである。

そのなかで、結社相互の関係や、日本本土の結社との関係をあきらかにし、台湾の人々が、日本語時代にどのように短歌にかかわったかということを具体的に照らし出したのであった。誰が主宰し、どういう人たちが参加していたか、刊行の実際はどうかという事実関係を洗い出してゆくことを積み重ねて、台湾短歌の世界の実態にせまったのである。それによって、従来の論文等に見られた誤りを訂すところが多々あるのが、本論文のもっとも重要な功績である。たとえば、前掲の諸誌のなかでも、おおきな結社であった「あらたま」の創刊年月、主宰者について明確にしたことは、その一例である。また、教育の場において、「皇民化」をすすめる「教化」のなかで短歌の役割がおおきかったことを斎藤勇の足跡をつうじて具体的にあらわし出したことも注目される。

以上、本論文は、日本語時代の台湾短歌研究の資料的基礎を築いたものとして、たかく評価される。今後の研究はここからはじまるといって過言ではない。巻末に、参考文献が載せられているが、五十八ページにのぼるその文献一覧も資料的価値のたかいものである。なお生存する関係者へのインタビューがこころみられ、付載されているが、これも貴重な資料といえる。台湾の「日本語人」たちが高齢化したいま、この時期をはずしたら失われてしまうものが、本論文によってとりとめられたことの意味はきわめておおきい。

ただ、その資料的意義がたかく評価されるだけに、歌の引用などに正確さに欠けるところのあるのが惜しまれるという指摘があった。また、これらの歌誌を調査してゆくなかで、さらに存在があきらかにされてきた歌誌を追究することの必要についても指摘があった。しかし、それによって本論文の価値を損なうものではないというのが、審査委員の一致した評価であった。

したがって、審査委員会は全員一致して、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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