学位論文要旨



No 124013
著者(漢字) 陳,文松
著者(英字)
著者(カナ) チン,ブンショウ
標題(和) 植民地支配と「青年」 : 台湾総督府の「青年」教化政策と地域社会の変容
標題(洋)
報告番号 124013
報告番号 甲24013
学位授与日 2008.06.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第831号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 若林,正丈
 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 准教授 井坂,理穂
 東京大学 准教授 外村,大
 京都大学 准教授 駒込,武
内容要旨 要旨を表示する

研究の目的と方法

本研究は、「青年」の政治社会史的視野を通じて、従来の学校史、教育史、そして抗日運動史の文脈において分断されて語られている植民地統治の実態や植民地社会の変容を、日本統治時代の全ての時期にわたってに検証することにする。特に、植民地統治の要であった国語学校やその卒業生の「青年集団」的歴史を究明するために、単なる政策面ではなくて、「学歴」的・職業的側面も注目していく必要がある。また、植民地統治の要としての国語学校に対して、政策の受け皿である植民地社会を観察する対象として、台湾中部の草屯洪氏一族を事例研究としてとりあげることにする。

論文の構成

本研究の構成を縦軸として植民地政府が半世紀にわたってきた「青年」教化政策の実態やその変化を4章構成の第1部で検討し、横軸として植民地政府の「青年」教化政策に反映された植民地社会における「青年」像や地域社会の変容を同じく4章構成の第2部で見ていく。

主な達成ないし発見

1、本論文の成果 ―― 植民地台湾における「青年」とは何か

(1) 協力メカニズムの構築

―― 「青年」の創出・拡大、絶えまない「青年」の争奪(第1部)

第1部では、「青年」教化政策の視点から、植民地政府と植民地社会との相互関係を考察し、1896年台湾総督府国語学校設立、1926年台湾総督府文教局設置や1944年台湾総督府青年師範学校の設立を主たる観測点として、植民地全期においての教化政策としての「青年」像の変化を描き出すことを試みた。

植民地政府の教化政策において、時期や植民地社会・帝国政府の事情によって、「青年」の定義は一様でなかったことが確認できる。それは、初期の国語学校の「新領土経営者」、中期の総督府文教局(青年団)の「次代社会の担当者」、そして末期の青年師範学校の「皇国青年(皇国民)の指導者」へと変わっていったのであった。スローガンの変化につれ、「青年」の中身も中等教育修了者から公学校卒、ついには、学歴を問わない一定の年齢層へ拡大していった。また、末期には、「皇国青年」の台湾人青年層に対して、もはや「二重言語読み書き能力」を育成するのではなく、むしろ母語を徹底に排除し、日本語能力を強要する政策へと転換してしまった。一方、「青年」教化政策によって生まれ、1920年前後以降植民地支配に反旗を翻した「台湾青年」は、1920年代から日本帝国の敗戦にかけて、しだいに厳しくなる思想弾圧と軍事動員の中で、その「二重言語読み書き能力」を使って、月刊『台湾青年』から日刊『台湾新民報』などを舞台に「書く」という実践を通じて植民地政治を批判し続け、台湾人自治という夢を一度も捨てることはなかった。

(2) 「伝統による抵抗」の底流

―― 板挟みの存在として地域社会「青年」像(第2部)

第2部では、植民地統治政策の展開を中心に見る第1部とは違って、清朝時代より「四大姓自治」伝統を有した台湾中部の草屯地域という地域社会の視点から、植民地支配のあり方と「青年」の相互関係を明らかにしようとした。地域社会の変容や「青年」教化政策の確立の過程を背景としつつ、何よりも地域社会に生きた「青年像」を描き出すことを眼目とした。そこでは、焦点を当てた洪氏一族――洪元煌と四大姓の青年達が、どのように地域社会の伝統を生かして足場を固め、台湾全島や日本本土での活動と連携しながら、地元で植民地支配と終始一貫して戦ってきたかを明らかにし、従来看過されてきた植民地支配に対する「伝統による抵抗」の実態をさらに一層鮮明にできたと考える。総じていえば、彼らは、植民地政策と地域社会伝統の挟間の中で、「二重言語読み書き能力」を活かして、近代的知識を取り込んで地域社会の発展に貢献しようとし、植民地支配体制に抑圧されながらも地域社会の伝統を足場として自ら選ぶという道を歩んだと言える。「抵抗か迎合か」の二元対立の図式を超えて、新たなグレー・ゾーンをつくりだしたともいえるだろう。

2、「青年」から見た抵抗と協力のメカニズムの挟間・軋轢

(1)日本帝国の公定ナショナリズムの「青年」像

本論文は、「青年」教化政策に焦点を合わせながら、学校教育と社会教育との双方に目配りして、半世紀にわたった植民地支配と「青年」の実際の動向を分析した。そこでは、教育(教化)政策の変容を、府国語学校、府文教局、そして府青年師範学校を論述の三つの焦点として、各時期や植民地社会の変化を見極めたうえで、それぞれの特色や実態を明らかにし、教化政策イコール「青年」教化政策の本質を見出したのである。

一方、「青年」教化政策の解明によって、従来同化政策の目標を「台湾人全体」を対象とした前提とは違う視点を提供することができた。言い換えれば、同化政策の建前が「台湾人全体」としたものであることは否定しがたいが、政策には戦略的な優先対象があった学校教育政策にせよ、社会教化政策にせよ、その第一位の優先対象となったのは、「植民地青年」にほかならなかったのである。

(2)抗日台湾ナショナリズムの「青年」像

本論文では、台湾青年が唱えている「青年」概念について、前述した日本帝国の公定ナショナリズムの「植民地青年」とは異なる、以下のような三つのタイプが存在したことを示した。

まず、留学生の内地留学を通じて、もっとも植民地宗主国の近代化の洗礼をうけ、内地のモデルを模倣するタイプである。すなわち、台湾青年、徐慶祥が1920年、提起した「台湾型」青年団の青年概念である。

第二に、台湾青年、医学校出身の医師蒋渭水、王敏川、許乃昌らが1923年発起した台北青年会や共産主義思想を有した青年団体(読書会)に代表されるタイプである。こういった青年会・読書会は、すぐにも警察当局から「共産主義」の過激思想を有した青年団体と認定され、結社禁止処分をうけ、あるいは厳しい監視や弾圧をうけ、成立にいたらなかったものの、ソ連の共産主義革命といった西洋近代思潮から影響を受けた階級的な青年概念である。

第三が、1924年結成された草屯炎峰青年会に例示される(第8章)タイプである。青年会のリーダー洪元煌は、梁啓超をはじめとして「祖国」中国近代知識人の思想を強く受けていた世代であった。だが、留意したいのは、すでに触れたように、陳独秀の「新青年」は西洋文化の受容を前提にして、旧い伝統に対してトータル的な批判(「陳腐」)を行ったのであるが、植民地の事情を有した台湾社会に生きた洪元煌は、旧い伝統(「美風」)を盾とし、植民地支配の専制政治に対するトータル的な批判を行ったのである。

(3)伝統教育の歴史記述と「台湾青年」

本研究では、伝統漢詩人の活動や作品を通じて、植民地台湾の社会・教育・政治とのかかわりを連結し、「青年」教化政策や地域社会の視点から、植民地初期から末期までの伝統漢詩人の抗日台湾ナショナリズムを如何に誕生・伝承・維持されていく歴史的背景や実態を明らかにした。

(4)伝統の変容と学歴 ―― 広域的な抵抗と「地域青年」

近代学校制度の学歴やそれを前提とする職業の導入によって、学歴としての特権の学縁関係は、「創られた伝統」として地域社会にもたらされ、新たな広域的な交流や社会移動の可能性が生み出された。本研究では、「草屯の婿」である洪深坑、呉万成や黄洪炎の事例を紹介した。ここで注目したのは、地縁・血縁のネットワークを越えての学縁の参入によって、この新たに創られた「青年」の形態によって伝統的な文人結社の形態が近代青年団体へと生まれ変わったことである。それによって、広域的な地域間の交流や連結が、青年有志の結合も点から面へと広げていった。したがって、植民地支配への抵抗運動が全島的な政治運動としては次々に植民地政府から弾圧されても、こうした広域的連結は社会に底流し続けた。

戦後、国民党の支配下におさめられた台湾社会には、林献堂をはじめとして彼らを「台中派」のカテゴリとして分類され、数少ない台湾人の広域的な派閥のひとつとしてみなされた。本論文は、一地域を越えた血縁・地縁・縁組・学縁関係により、築き上げられた広域的な連結が抗日運動の背後に存在したことを明らかにしたと言える。

(5)「青年」教化と学歴 ―― 学歴としての特権と学縁ネットワークの構築

こうした抵抗的な広域的連結に対して、「植民地青年」として植民地支配体制を台湾社会の側から支え協力する連結も存在した。本研究で取り上げた国語学校とその卒業生は、こうした協力的連結の中核であった。抵抗側の立場からは、彼らを「大国民」、「御用紳士」、そして「三脚仔」と呼んだ。しかしながら、注目したいのは、協力的連結にせよ、抵抗的連結にせよ、連結を川の流れとみなしてみると、そのどれも清流ではなくむしろ濁流であったと言えることである。なぜなら、どの「連結」にしろ、抵抗か迎合か、反日か親日か、黒か白か、明確な一線を引くことが難しいからである。

総括

総じていうと、本論文では、半世紀にわたった植民地期台湾における、植民地支配と「青年」両者の相互関係について、こういったさまざまな流れ(底流=伝統による抵抗、激流=ナショナリズムをめぐる青年の争奪、本流=協力的な「青年」集団)が共存し、また相互に軋轢を生じさせていた「青年」教化政策の実態を通して明らかにした。彼ら「青年」は、常に、伝統と近代、支配と被支配、政策と地域社会の挟間の中に生きていたのであった。最後に、本研究の主題について振り返って見ていると、植民地支配にせよ、地域社会にせよ、「青年」という主語は、前提抜きに成立するわけではない。その前提の形成から出発して、植民地支配終了後まで植民地「青年」教化政策の展開とそれが残したものを確認したこと、これが本研究の最大の成果である。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、台湾総督府の「青年」教化政策の展開を、植民地統治期全時期にわたって跡づけたものである。論述の焦点はこの政策によって生み出された「青年」の典型である台湾総督府国語学校(後の各師範学校の前身)卒業者の動向に焦点を当てて行われており、この意味で本論文は、台湾近代史における「青年」の社会史の構築を試みた力作であるということができる。

論文は、二部構成とされ序章と結論を含め全10章である。論文本論は、A4版330頁(400字詰原稿用紙換算約850枚、脚注を除く)で、注は文献注も含む形で脚注として付されている。また、巻末には、参考文献目録(全17頁)のほか、「付録」として、関連文献資料8点、図表11点、写真30点が付されている(全64頁)。

序章「課題と方法--近代ナショナリズム・『青年』・地域社会」では、植民地支配により導入されかつ形成された「青年」の概念と実体、そしてそのことが引き起こした地域社会の変化との把握が本論文の主要関心であることが指摘され、その上で台湾近代史研究における抗日運動史研究、同化教育史研究、社会教化政策史研究や「青年」研究、学歴・職業に関する研究など、関連する問題領域の先行研究が検討された上で、本論文の二つの視角が提起されている。第一に、B.アンダーソンの「ナショナリズムと青年とは近代の双子」であるとの観点が示すように、植民地統治の補助者・協力者の役割(「帝国の青年」)を期待されて「二重の言語読み書き能力」を獲得した新たなエリートは、また植民地において初めて自身をネーションとして想像していった主体でもあり、事実まさに国語学校卒業者を中核とする「二重の言語読み書き能力」取得者の中から台湾史初代のナショナリストとしての「台湾青年」が誕生した。故に台湾総督府の社会教化政策=「青年」教化政策の展開は、植民地国家と「台湾青年」のナショナリズムとの間の、次第にその範疇の包摂範囲を拡大せざるを得ないところの「青年」の争奪の展開として把握されねばならない。第二に、このような「台湾青年」と「帝国の青年」のせめぎ合いは、帝国のエイジェントとしての国語学校(後の師範学校)卒業生=教師が単に教師として学校内において教学にあたるのみではなくて、地域社会の指導層として活躍した事実があるため、地域社会における具体相として把握されねばならないことである。約言すれば、植民地台湾における「青年」政策の社会史および教師の社会史を複合させた視角である。

こうした研究視角に基づいて本論文は、二部構成をとっている。第一部「台湾総督府と『青年』--『青年』教化政策の視点から」は、上述の第一の視角により、台湾総督府の「青年」教化政策の展開を前記国語学校の教育から戦争動員の時期まで跡づける。第二部は、台湾中部の草屯地域を対象として、1999年大地震を機に発掘された同地域名望家洪家の文書(論文では『草屯文書』と仮称)を活用して国語学校卒業生を輩出した洪氏一族の家族史に沿って、第一部に把握した政策の流れに応答する地域での「青年」の社会史の構築を試みている。

第一章「植民地統治政策と『青年』の誕生--鎮圧と懐柔のはざまで」では、植民地台湾の社会に「青年」が誕生する制度的条件の形成とその背後にある植民地国家の政治社会戦略が検討されている。台湾における「青年」の形成は、植民地国家が台湾社会の指導層である郷紳層を懐柔するとともに、一定程度伝統的漢学の素養を身につけたその子弟を学校制度の中に誘い込んで、学齢を通じた年齢集団の分節化を台湾社会に持ち込み、さらに、学校卒業履歴を学歴化すること、すなわち植民地社会における近代的職業への就職資格付与の特権とを結合させたことから進展した。「学歴」提供機関として台湾社会において、台湾総督府医学校とともに顕著な意義を見せたのは、1896年設立の台湾総督府国語学校であった。国語学校はその学歴特権の故に1910年代にはすでに植民地初等教育(公学校)卒業者の進学競争が激しくなっていたのであった。

第二章「『青年』教化政策の形成」では、その国語学校における台湾人生徒の「二重言語読み書き能力」の形成の様態を、これまでの抗日運動史研究の視角からは顧みられなかった同校『校友会雑誌』を素材に検討している。著者は明治日本における「青年」が自由民権運動後退期に各地に簇生した同人雑誌という自ら用意した「白紙」に文章を書くという実践の中から主体化されていったとする木下直恵の議論に比定しつつ、この雑誌に日本語で文章を書くということが、同校の台湾人生徒が「青年」となっていく実践であったと指摘している。

この『校友会雑誌』は上から与えられた「白紙」であり、そこに「書く」という「青年」の実践は、誘導された「帝国の青年」へのは実践であったが、第一次大戦後になるとかく「帝国の青年」として養成された国語学校卒業者や台湾総督府医学校卒業者の中から自ら用意したその名も『台湾青年』という「白紙」による「台湾青年」の主体形成の実践が開始され、そこから台湾議会設置請願運動や台湾文化協会の文化啓蒙運動などの抗日民族運動が展開されていく。これらの動向は従来の先行研究でよくカバーされているところであるが、第三章「『青年』の争奪--学校内から学校外へ」で、著者はこれらの「台湾青年」の実践とそれが生み出した抗日民族運動が1920年代後半において台湾総督府の「青年」教化政策の転換を強いたとして、台湾総督府文教局の新設(1926年。自身日本本国の青年教化運動の重要な担い手でもある内務官僚の後藤文夫総務長官が主導した)、日本本国青年団運動との本格的連携、およびそれまで地方行政レベルにまかされてきた台湾内青年団運動の統制の動き(1930年「台湾青年団訓令」)などの経緯を明らかにしている。著者によれば、「帝国の青年」の少なからぬ一部分が「台湾青年」へと脱皮したことにより、かれらの抗日台湾ナショナリズムと日本帝国の公定ナショナリズムとの間に「青年」の争奪が展開されたのであり、ために台湾総督府の「青年」教化政策のターゲットは学校内から学校外(植民地初等教育経験者)へと拡大を強いられたのであった。

第四章「『青年』の争奪の終焉--『学閥』の誕生と排除される『高等遊民』」では、主として1930年代以降の時期に焦点を当てて二つの論点が示される。第一点は、国語学校の台湾人卒業生の同窓会活動を検討することによって、これら台湾人が植民地社会における地位向上を援助しあう「学閥」の原型と見なしうるネットワークを形成していく一方で、総督府「青年」教化政策が有していた学歴と職業特権付与という協力者養成・確保の政治社会戦略が、その包摂力を喪失しつつあったということである。台湾総督府は、その「内地延長主義」の統治方針に基づき、また在台湾日本人植民者子女の必要のために、1920年代には本国に連結する学校教育体系の整備を進めていったが、その一方で台湾人の中等以上教育機関への進学熱と近代的職業への就職機会の民族間不平等の厳然たる存在のゆえに増加した台湾人の「高等遊民」に対しては、これを包摂せず排除していく対応をとらざるを得なかったのであった。第二点は、上記のように1930年代以降明白な限界を露呈し始めていた総督府「青年」教化政策が、戦争動員の拡大のなかで自壊していったことである。著者はこの点について、太平洋戦争末期の戦争動員のために作られた「青年師範学校」の実態を在学経験を持つ台湾人作家の経験から例示し、植民地の「青年」教化政策が戦時に至ってその「教化」対象の急激な拡大の中で「教化」そのものの解体を現出してしまうような様相を呈していたことを明らかにしている。

第二部に入り、第五章「鞭と飴政策下における『伝統による抵抗』--地域郷紳層の対応」では、第二部の対象となる草屯地域と植民地国家とが遭遇する統治初期を扱い、清朝末期の草屯地区の「総理」をつとめた郷紳洪玉麟を事例に、未だゲリラ的抵抗が散発する時期にこの地域の郷紳が植民地地方支配末端の役職に組み込まれ支配の媒介役を務めさせられる過程と実態とが、洪と日本人地方官僚との間の書簡などを使って明らかにされている。著者によればこのような史料から浮かび上がってくるのは、郷紳層は確かに植民地国家によって「温存」され「懐柔」されて地方支配の末端に組み込まれたのであるが、それは地域社会における彼らの地位を反映したものであると同時に、依然周辺に展開される日本軍の軍事行動を背景にした、最終的には拒みがたい国家権力の発動としてであった。しかし、そんな中でも洪玉麟の報告書簡の中に描写される住民の納税サボタージュのように、消極的抵抗は存在したのであった。

第六章「儒教的伝統の受容と『青年』の誕生--近代学校の設立と台湾社会の変容」では、草屯地域での近代学校(台湾人向け初等教育機関とされた公学校)の導入過程が、「草屯文書」を活用して検討されている。近代学校導入政策全体としては伝統教育機関の急進的廃止の政策をとらずその意味では郷紳層懐柔の基本姿勢は維持されていたにせよ、公学校設置については教員給与以外の地方自弁を原則としたため、地域においては、地方行政末端に組み込んだ郷紳層に学校設置の経費を半ば強制的に割り当て寄付させるとともに最初の生徒をも彼らの子弟からいわば「供出」させるという経緯が存在していたこと、また、この過程は、国語学校の日本人卒業生が公学校教師として地域に定着する過程でもあり、後にかれらは地域に培った師弟関係を利して官製地方自治の担い手として地域に君臨する存在になっていったことなどを、明らかにしている。

こうした導入過程を経て、草屯地域にも植民地国家の協力者養成の政治社会戦略に沿って「二重言語読み書き能力」をもった「青年」が誕生したのであるが、第七章と第八章は、洪氏一族に属しこの地域で活躍した「青年」の行動の軌跡をたどり、その地域社会において果たした役割と主体性のあり方を浮き彫りにすることを試みる。

第七章「『二重言語読み書き能力』エリート層と『青年』教化政策--協力的な「青年」集団の養成」では、国語学校卒業ないし修学経験者で草屯地域で教員、地方行政機関官吏、信用組合役員、政治団体先住者などとして活躍した4名の洪氏一族の「青年」を取り上げる。これらの「青年」は地域社会においては、植民地国家の地方統治においては常に日本人の下の「補助者」の地位に置かれながらも、地域社会に対しては、その地方名望家である郷紳の子弟でありかつ「二重言語読み書き能力」を獲得した地域社会のエリートとして「指導者」の役割をも担ったのであった。後者の役割ゆえに、「台湾青年」的行動をとる場合はもちろん、当局の意向に沿って「協力者」としての行動をとる場合でもなお地域の経済的発展や生活と文化の改良に努力し、一族から輩出した自治運動家洪元煌の活動をそれぞれの立場でできうる限り支持するなど地域の自治の伝統の擁護を志向するという主体性が見て取れたのであった。

第八章「『台湾青年』の抵抗--洪元煌と草屯『炎峰青年会』」は、その洪元煌に焦点を当てる。新たに発掘された前述の「草屯文書」には、洪元煌若年の時から晩年までの漢詩稿が残されており、社会政治運動家として知られた洪元煌がまた漢詩人としての一面を持つことも示している。著者は、自治運動で活躍した時期の洪元煌の行動や言動に加えて、戦時期や戦後初期の漢詩作をも参照することによって、「台湾青年」としての台湾人の自治にこだわる姿勢と農村エリートとしての農民の生活へ関心とが一貫していたことを示している。著者は、ここに清朝の「遺民」としての伝統文人の文化的抵抗の場合のみならず台湾の植民地近代の所産である「台湾青年」においても伝統文化がその抵抗の支えとなっていたことが見て取れる、としている。

終章「狭間に生きた植民地台湾の『青年』像」では、本論8章の内容が第一部と第二部に分けて要約され、植民地国家の協力者形成の政治社会戦略にそって誕生した台湾近代の「青年」の実体を台湾総督府国語学校・師範学校修学者ないしこれと同型の教育経験を持った者と同定して、その層の動向を植民地支配全期間にわたって追跡したことで、かれらが常に伝統と近代、植民地支配と被支配、植民地統治政策と地域社会の狭間に生きてきた存在であったことを豊かな社会史的ニュアンスの中に把握し得たと主張している。最後に、本論文で十分に検討できなかった諸問題と本論文の成果から戦後史研究につなげていくべき課題を簡明に指摘して論文を終えている。

以上が本論文の概要であるが、本論文の貢献は、何よりもまず、台湾近代史研究における「青年」の社会史ともいうべき領域の骨組みを示すことで、植民地台湾史研究に豊かな知見を付け加えたことである。著者が本論文で示したその骨組みを約言すれば、次のようなものであろう。台湾史においては、「青年」の概念は日本の植民地支配によって持ち込まれ、台湾総督府の、教育・教化政策を中心とする統治政策と台湾社会の相互作用の中で、その概念の実体としての「青年」が形成されていったのであった。台湾において「青年」とは、まずもって初等教育教師養成教育や現地社会医療を担う医師養成教育を通じて統治当局が期待するモダニティを身につけそれを台湾社会で体現する植民地統治の補助者、協力者としての「帝国の青年」として登場した。台湾総督府の「青年」教化政策は、漢族社会の伝統的教養を一定程度備えた郷紳層子弟をターゲットとして、かれらを「帝国の青年」として養成していく政治社会戦略としてスタートしたのであった。かく養成された「青年」は、植民地社会において最初に「二重の言語読み書き能力」を持つ知識層であったが、一次大戦後に至りかれらの一部が植民地ナショナリズムの担い手として登場する(「台湾青年」の誕生)と、台湾総督府の「青年」教化政策の対象は、植民地社会上層階級子女にとどまらず植民地初等教育を受けた経験を持つ年齢層一般に広がって、かく拡大した「青年」を台湾総督府と「台湾青年」とが争奪する局面が生じた。さらに、日本が日中戦争、太平洋戦争に没入していくと、植民地国家にとっての「青年」とは戦争に動員すべき人的資源として学歴を問わない兵役適齢層にまで拡散して植民帝国の終焉を迎えたのであった。

加えて本論文の貢献は、「草屯文書」という好個の史料によって、このようなストーリーを、草屯地域という台湾中部の一地域の社会史を描き出すことによって分厚く肉付けしたことである。本論文第二部の各章は、この草屯地域における「青年」の創出過程、それら「青年」の協力者的行動と「台湾青年」的行動の分岐や重なり、それを支えていたと思われる中部地域の広域的な社会・文化ネットワークの存在、草屯地域における諸「青年」と官製地方自治とのインターアクションなどを、これら「青年」の具体的な言動、行動、さらには漢詩という文学表現を通じて、具体的に提示している。植民地期を生きた台湾人の思いを捉える必要はこれまでも再三指摘されながらも、従来は資料的な制約が大きく、警察関係の資料や抗日運動系の新聞『台湾民報』の記述にもっぱら頼りがちであった。しかし、本論文で税の滞納をめぐる総督府との往復文書、抗日運動関係者の日記や詩集という貴重な資料を新たに発見し、活用することで、植民地統治下台湾社会のいわば息づかいまで感じさせる叙述を展開しており、新たな研究の地平を切り開いたと言える。

ただ、本論文も欠点無しとしない。審査委員会の審議においては、次の諸点が指摘された。

第一に、台湾における「青年」の生成に関して、総督府国語学校『校友会雑誌』に着目し、台湾人生徒がそこに用意された「白紙に書く」という行動に誘導されて「帝国の青年」として形成されていくプロセスをとらえているのは、一つの貢献であるが、「書く」という行動のもう一つの側面である「読む」という行動には検討が加えられていない。この側面の検討があれば、「帝国の青年」と「台湾青年」の共通の基盤、「青年」の世代的な感性やメンタリティの相違などを論じる手がかりが得られ、論述に厚みを加えることができたと思われる。

第二に、「帝国の青年」に対抗する「台湾青年」の登場、統治側との「青年の争奪」局面の誕生、そこから戦時期の「皇民化運動」という流れを描いているが、抗日運動が1930年代初頭に弾圧されてから「皇民化運動」までの時期の把握が弱い。『台湾新民報』日刊化による抗日活動家の再結集や教育を受けた青年の「高等遊民」化の問題が指摘されているものの、この狭間の時期のイメージは依然明確なものとなっているとは言えない。

第三に、第二部に登場する「青年」の行動の重要な立脚点である草屯地域の動向について、事例研究としてローカル・ヒストリーを描いた功績は明確であるものの、この事例が当時の台湾全体の状況の中でどのような位置を占めるのか、必ずしも明確に言及されていない。例えば、1920年代以後の農村経済の動向と「青年」たちの行動との連関などは、部分的にしか言及されていないが、より系統的な扱いができれば、草屯地域における「帝国の青年」と「台湾青年」の協力と対立の最大のドラマである洪元煌(抗日運動家)と洪火煉(協力的行動に終始)の二人のリーダーの関係の把握も、重層的なものにできたし、ひいては、論文でとりあげた事例の固有性と普遍性を浮かび上がらせることがある程度可能であったと思われる。

この他、論文に登場する人名、地名や事項などについて、台湾史専門以外の読者でも抵抗なく読み進められるような記述上のいっそうの配慮が望ましかったとの指摘もなされた。

しかしながら、審査委員会は、指摘されたこれらの欠点は今後の課題と言うべきものでもあって、本論文の成果を大きく損なうものではない、一定の修正を経て刊行されれば、この分野の研究を大きく前進させるものであるとの認識で一致した。よって、本審査委員会は、本論文の査読および口述試験の結果により本論文提出者が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定するものである。

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