学位論文要旨



No 124014
著者(漢字) 藍,弘岳
著者(英字)
著者(カナ) ラン,コウガク
標題(和) 荻生徂徠の詩文論と儒学 : 「武国」における「文」の探求と創出
標題(洋)
報告番号 124014
報告番号 甲24014
学位授与日 2008.06.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第832号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 黒住,眞
 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 教授 渡辺,浩
 東京大学 准教授 齋藤,希史
 東京大学 名誉教授 平石,直昭
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、詩文と儒学を併せ含む意味をもつ「文」をめぐって、「文の空間」としての東アジアをコンテクストとし、十七~八世紀の「武国」日本に生きた知的巨人・荻生徂徠の詩文・儒学がいかにその政治思想に連関しているのかを究明して、その思想形成の過程を明らかにしたものである。第一部では、徂徠の詩文論と儒学を論じるための思想史的な前提を考察した(第一章と第二章)。第二部では、徂徠の詩文論を考察した(第三章から第六章まで)。第三部では、徂徠の儒学説と政治改革論を考察した(第七章と第八章)。各章における考察内容は以下の通りである。

第一章では、まず、武国としての徳川前期社会とそれ以前の「武士の世」では、日本兵学の〈言語〉で語られる「武」優位の「文武両道」観が支配的な見方としてあったこと、及び、「文」は武士たちに公家的な芸と意識されつつも、武士の個人修養、戦勝、統治のためのある種の諸教習合的で兵学的な知として求められていたことを、明らかにした。さらに、「文」の担い手としての徳川前期儒者の存在形態と書物の出版状況、及び「文」に関する徳川前期儒者の考えを検討した。また、徳川儒者が唐宋古文と宋詩を主要な内容とした漢詩文及び理学の〈言語〉で説かれた載道主義的な詩文観を受容したことによって、次第に徳川前期における「武」優位の「文武両道」観をもつ武士の意識をも変えていくことを論じた。

第二章では、徂徠の家系と、その家学である医学と兵学をめぐって、初期の学問的営為とその思想形成との関連を検討した。まず、徂徠が医者の子として、当時の主流医学としての李朱医学を学び、李朱医学の〈言語〉ないし李朱医学と密接に関わる理学の〈言語〉・思惟様式で自然と人間を認識していたことを考察した。さらに、徂徠の武士の家系との関連で、彼が日本兵学を学んだことや、『孫子国字解』をめぐる彼の初期兵学思想を把握した。そして、彼の医学思想と兵学思想とはともに、彼の思想を理学的な思惟様式、世界観から脱出させるべく働いたが、兵学よりも彼の医学的知がその「仁」(養う)を重んじる儒学思想の形成を根底から支えている、という見方を提示した。この章の考察は、兵学偏重の視点から徂徠学の原型を捉える従来の見方に対して、一つの修正を果たしたと言える。

第三章では、明代古文辞派の詩文論を考察した。地方官僚を務める文人グループとしての明代古文辞派の詩文論は、科挙のために「文法」の形式ばかりが踏襲されて俗化した、唐宋古文および宋詩を含む載道主義的な「宋調」的文学を乗り越えようとしたものである。特に、「修辞」を重んじる李・王の詩文論は、歴史的に先行した模範とすべき詩文のような「格調」――雅な音韻(「声」)と高華な「色」―を自らの文章に持たせながら、自らの「意」ないし「理」を表現するために、歴史的に先行した模範とすべき詩文の習熟・剽窃・模倣を敢えてしたのである。そこで、右の考察を通して、本論文では、李・王の詩文論には載道主義の詩文観から、「理」を否定せずに自然及び歴史的に先行した詩文の「声」と「色」を重んじる詩文観への変化が看取できる、ということを読み取った。

第四章では、従来、主に言語学の視点から論じられてきた徂徠の「訳学」を、古典漢文の作文法と修辞学の視点を入れて複眼的に検討した。まず、荻生徂徠が「訓読」の代わりに行っていた「訳文の学」という「字義」「文理」を重んじる漢文研究と、中国語音直読の「崎陽の学」の看書論との二つの方法を考察した。ここでは、これらの徂徠の方法がまとめて提起されたのは「訳学」という概念においてであると理解する。この視点から、徂徠の「訳学」は、漢文の背後の中国語における歴史変化とともに、文体としての漢文における唐宋古文と「古文辞」との差異をも同時に意識しながら、音声と「辞」の「色」など多面的に漢文を把握する方法論であるという見方を提示した。さらに、その「訳学」は、現代言語学の「語法」で分析しきれない漢文そのものを対象とするのみならず、唐宋古文の「文法」による分析でも捉えきれない「古文辞」までも対象としたように、彼の「古文辞学」に密接に関わっている。こうした捉え方によって、従来の語学と「崎陽の学」を中心にした「訳学」の捉え方、及び音声中心主義という徂徠像に対して、一つの反論を試みた。

第五章では、荻生徂徠を中心にして、徳川前期における明代古文辞派関係の著作とその文学主張の受容について考察した。まず、江戸の初期から明代古文辞派の著作がいかに閲読、批評、利用されてきたかを、具体的な調査を行うことによって解明した。この調査を踏まえて次のように徂徠の詩文論を捉えた。徂徠は彼以前の徳川儒者文人と異なり、明代古文辞派の詩文論をよく理解した上で、それを和訓による漢文学びの弊害を克服して優れた漢詩文を読解・制作する方法・「学」としての「古文辞学」へと練り上げた。それとともに、詩文の「修辞」に関わる「色相」「格調」などを重んじる彼自身の詩文論も確立されたのである。さらに徂徠は、「文の空間」としての東アジアにおいて、「芙蓉白雪の色」をもつという徂徠一門の漢詩文が覇を称える可能性すら考えていたことを、明らかにした。

第六章では、学問方法論としての古文辞学のあり方を解明した。徂徠は明代古文辞派から示唆を受けることで、「辞」が修められた「史」「文」として経書を見る観点を得、また、模倣・習熟を重んじる作文方法、及び文章の修辞法などを読み・評点する方法を会得した。つまり、徂徠は明代古文辞派の詩文論と評点学を踏まえて、「訓詁」で捉えきれない「古文辞」を解読できる古代漢籍の批評方法としての古文辞学を経書解釈に応用することによって、経書解釈方法としての古文辞学を創出したのだ、という見方を示した。また、従来の研究では注目されていなかったことだが、文体としての「古文辞」と言語としての「古言」とを徂徠が区別していたこと、そして彼が「古文辞」を読む際に二重の「修辞」が存在する可能性に注意していたことを、明らかにした。さらに、そのような古文辞研究の深化によって、徂徠は「古言」の世界を発見し、三代の君子の言語世界で行なわれていた「先王の道」とその「義」についての理解を通して、理学や仁斎学など既成の儒学説における重要な経書字義の解釈の誤りを知り、その字義(「名」)を弁明するために『弁名』を著した、ということを示した。そして『弁名』の方法については、孔子の「正名」作業を踏まえながら、「物」の「義」を基準にして聖人と三代君子たちが使っていた「名」を把握するものとして理解した。そのうえで、徂徠はこの方法によって、「義」を含蓄する「物」(「文」としての「聖人の道」)の再構築に成功したのである、という主張を行った。

第七章では、徂徠の「文」としての「聖人の道」を内容とする儒学説および歴史認識について考察した。まず、徂徠が再構築された古代儒学における「道」は、その医学思想と繋がっており、「敬天」「安民」としての政治観(「仁」の理念)に基づきながら、「礼」を秩序原理にした「詩書礼楽」と「刑政」という「物」と「術」によって構成されたものである、という見方を示した。そして、彼が三代全体について、このような「文」としての「聖人の道」という規範・制度の体系で統治されていた祭政一致・兵農一致・文武一致の封建・礼治の世として把握していることを、明らかにした。さらに、徂徠の歴史認識に関して次のように論じた。徂徠は中国における制度史について、三代の「礼楽」から、秦漢以後にそれが「法律」化されていく過程を経て、「礼法混合」の制度が生れ、さらにこうした「礼法混合」の世界に生れた理学が制度全体に浸透していくさまを、複眼的に捉えている。また、彼は日本の歴史について、祭政一致の三代の政治形態と部分的に繋がる神代と「公家の代」の前半の政治形態をより肯定的に見ているが、武力と刑罰に依拠する統治を行なった「武家の世」を批判的に見ている。このように徂徠の歴史認識のあり方を明らかにした。以上のような徂徠の儒学説および歴史認識に対する考察を経て、「心学」「理学」としての儒学を「文学」(「文」)としての儒学へと、また〈持敬の儒学〉を〈敬天の儒学〉へと旋回させたという点に、古代儒学を再構築する徂徠の作業の意義を見出した。

第八章では、徂徠の現実認識と政治改革論を考察した。まず、徂徠は「文」としての「聖人の道」の伝統をいかに継承したか、そして、それが基づく「礼」という秩序原理及びそれに内包された「仁政」の理念で、自然に形成した「御威光」と「家筋」による武国の支配の仕方を批判したか、についての分析を行った。さらに、徂徠の土着論、身分・役職に関する制度の改革論、および人材論を考察した。徂徠の制度構想は、「人情」と「道理」に基づき、「文」としての「聖人の道」の伝統に繋がる「和漢の古法」に依拠しながら、「敬天」「安民」としての政治観に基づき、将軍が「天命」を受けた立法者として将軍中心の「礼」を秩序原理にして、「徳」の原理を導入して人材の流動化・活性化を図ろうとしたものであることを、明らかにした。最後に、徂徠の政治改革論と熊沢蕃山および山鹿素行のそれとを比較した。すなわち、徂徠の政治改革論は、確かに蕃山・素行と同じく兵農一致ないし「武」「軍学」を容認してその価値を積極的に認めるものだが、日本の武家の礼楽と現存の公家の礼楽を積極的に利用しようとせず、孟子以後の儒学説にも依拠していない。こうした比較に基づき、徂徠がその政治改革論で描いた国家像とは、将軍中心でありながらも、従来考えられてきた「一君万民的・郡県的国家像」ではなく、〈封建・礼治的国家像〉である、という主張を行った。

以上の考察を経た結論において、従来分裂したままで処理されてきた語学者・文学者としての徂徠と政治学者としての徂徠とを、より有機的に結び付け、両者を統合的に捉える新たな徂徠像を提示した。徂徠にとって、文学(詩文の学)は政治に関わらない私的な領域の遊びではなく、文学は政治思想を作り出すための方法ですらあった。彼の詩文論、儒学説および政治改革論のすべてに通底しているのは、調和的な「声」と「色」に表象された「文」的な雰囲気・形式美に対する徂徠の拘りであり、それこそが徂徠の詩文・儒学・政治思想の体系的な連関を媒介していることを、明らかにした。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「荻生徂徠の詩文論と儒学――「武国」における「文」の探求と創出」は、徳川日本の17世紀後半から18世紀初期の思想家・荻生徂徠(1666-1728)が、武家の国家において「文」の秩序を作り上げようとする在り様を、その学問の幅広い形成過程から追求する論文である。徂徠による詩文・漢文などの「文」学は、古文辞学および翻訳論を重要な契機とし、規範・制度となる「文」(礼楽)をもとらえる。その動きは、武国たる日本を越え、明代さらに古代中国への探求であり、本論文はその様相を具体的に描き出してゆく。従来の研究では、徂徠の思想内容について、結局、その詩文と政治秩序とをただ分離させ、また「日本化」あるいは「近代化」という枠組でとらえる傾向があった。これに対して本論文は、徂徠が「文」の秩序を東アジア的広がりにおいて構成(創出)していくとし、その局面における個々の探求の動きを関係づけながら追求していく。以下、次のように論を展開する。

序章では、従来の徂徠論では、個別論はともかく視野・方法としては、専ら日本だけに止まり、そこで近代化をとらえており、またその言語論も同様に不十分であった。しかし、徂徠の言語論は、大きな東アジアの漢文学史の視野において、武国での文をめぐって形成され、そこに文体(古文辞)また規範(礼楽)としての「文」が創出される。ここに踏み込んで行くことが必要だと説く。

この問題意識と方向付けから、第一部「武国における「文」の受容・展開と初期徂徠」では、まず初期徂徠学の在り方をとらえる。徂徠には、大きな近世的背景として、武国における「文武両道」さらに「文」優位の流れがあった。徂徠はこれに棹さしている、という(第一章「武国と「文」――徂徠以前において」)。また、初期の徂徠は、医学・兵学を論じる。それらは、後の徂徠学に無関係な学問あるいは「武威」論なのではなく、活物的・生命論的な自然観から養うべき天人の分の強調なのだとし、その具体的な様相をとらえる(第二章「武国における荻生徂徠の家系と初期思想――医学・兵学」)。論者は、ここに徂徠のいわば有機的な自然観・存在論を捉えんとする。

第二部「漢詩文としての「文」の探求と創出」では、所謂「徂徠学」が構成されるテキストにさらに入っていく。その際、徂徠がかなり深く関与したが、しかし従来は軽視されることもあった明代古文辞学の中身を深くとらえていく。李攀龍・王世貞など個々の思想家の在り方を具体的に把握し、それが宋学流の「理」の重視ではなく、より風雅な格調・修辞の模倣・習熟であるとし、その学問的な状態と影響を指摘する(第三章「明代古文辞派の「宋学」批判と詩文論-―李攀龍と王世貞」)。他方これはまた徂徠において方法としての翻訳論としても展開している。徂徠は、当時の「訓読」は日中のまた史的な言語の差異に無自覚であるとし、これを乗り越えるものとして「訳学」「看書」を説く(第四章「徂徠の「訓読」批判と翻訳方法論」)。その際、徂徠は、明代古文辞学派に深く関与することから、東アジアにおける華やかで美しい「文の空間」を強調し自負することになった、という(第五章「徂徠の詩文論」)。この徂徠における「古文辞学」が、さらに深化することから「六経」を史・文とみなす「古言」の世界を発見し、これが徂徠の「弁名」論、「聖人の道」の再構築となった(第六章「学問方法論としての古文辞学――経書解釈方法・『弁名』方法の創出」)。

以上の第一部・第二部から、「徂徠学」がとらえる制度・秩序の内容をさらに把握したのが「第三部規範・制度としての「文」の探求と創出」である。ここでは、徂徠の儒学説が、「文」としての「聖人の道」であり、敬天・安民から、封建において作為・養育される、風雅――「美」的なまた「仁」たる詩書礼楽の形態――としてとらえられる。ただ、この三代に成立する理想的形態は、歴史的には衰えながら当代・日本に至る、と徂徠はとらえる(第七章「荻生徂徠の儒学説とその歴史認識」)。その歴史・地域認識から、振り返って、徂徠自身の現実認識と政治改革論が説かれる(第八章「荻生徂徠の現実認識と政治改革論――制度と「徳」」)。その内容は、制度論、土着・身分制また人材論などとして展開する。これらの内容を論者は追い、徂徠は、政治と宗教を関連させ、天・鬼神への敬に基づく祭政一致を説いているが、これを変容するところに後の近代天皇制に繋がる政治思想史があるのではないか、と最後に問題提起する(結論)。

本論文は、従来の徂徠研究では、大きくは、その詩文論と礼楽刑政論が分化されてしまう傾向があったのに対し、これを結び付け、古文辞学における徂徠学の形成をとらえる。そこには、「武国」における「文」の探求があり、内容として風雅(美)また仁などの徳を持つ秩序が探求され、それが東アジア的な詩文論・儒学説・歴史観からの創出であった、とする。このような把握は、従来、文学と政治とを分離させまた日本内部のみに収斂し勝ちであった思想史を、徂徠自身を辿ることで大きく東アジア思想においてとらえたものといえる。この点は、徂徠論あるいは徳川思想史において意義あるだけでなく、近世以後の大きな地域文化論としても高く評価できよう。

具体的な個別研究としても、かつて十分にとらえられていなかった、医学さらに古文辞学派たちの動きを始めとする諸テキストに深く踏み込んでおり、このことも研究として意義が大きい。また、徂徠の秩序論は、徳川期の東アジア的な広がりにおいてあるが、その活物観・歴史観は、やがて近代に向けて国学・後期水戸学・近代天皇制へと否定的な連関を生じることも示唆されている。徂徠をめぐる諸思想が、東アジア思想の近世・近代にどうなるのか、本論文は大きな問題提起をしている。

とはいえ、「徂徠学」は、「言語」をめぐる方法論あるいは「古文辞学」としてあっただけではない。当初から「経学」の側面をもち、「聖人の道」「六経」の解読にむかう方向性をもつ。そこでは「今言」に対する「古言」の把握が展開する。これらについて本論文は、触れてはいるが、古文辞学を中心にするが故に、その段階的な把握が十分ではない。また、徂徠自身において、彼の人生における経験と年代的な発展があり、それが五十代以後の徂徠学になる。これらを位置づけていくことも必要だろう。また徂徠の制度論が、彼の現実との関係において、その成敗はどうだったのか。この理論と現実との緊張関係もやはり問題になり、それはまた徂徠以後の政治思想史にも繋がる。翻って徂徠以前の山鹿素行・伊藤仁斎、伊藤東涯などとの関連もより十分に捉える必要がある。また背景たる活物・神妙不測観が一体何なのかもより把握すべきだろう。

とはいえ、本論文は、荻生徂徠の言語に立ち入りながら、そこにおける「文」がいかに彼の学問と秩序観を形成したかを、しかも東アジア的視野にも踏み込んでとらえた労作である。各々の分析は、膨大な研究・史料を踏まえて行われており、筆者の研鑽がきわめて深く広く展開している。この徂徠における東アジア関係と言語認識は、おそらく徂徠のみならず徂徠以前・以後についても、今後の研究に大きな示唆を与えるだろう。本論文は、従来十分ではなかった徂徠学の諸局面に踏み込み、徂徠学の形成を、その詩文・漢文の言語がさらにその政治的な展開にまで結合していく状態を深くとらえており、この研究はこれまでにない極めて創造的な仕事だといえる。このような点から、審査委員会は、本論文は、当該研究分野において画期的な地平を開くものであり、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものであると認定する。

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