学位論文要旨



No 124026
著者(漢字) 石川,公彌子
著者(英字)
著者(カナ) イシカワ,クミコ
標題(和) 昭和史における「近代国学」 : 「弱さ」と「道念」
標題(洋)
報告番号 124026
報告番号 甲24026
学位授与日 2008.07.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第216号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡辺,浩
 東京大学 教授 苅部,直
 東京大学 准教授 宇野,重規
 東京大学 教授 川出,良枝
 東京大学 教授 中谷,和弘
内容要旨 要旨を表示する

本博士論文においては、国学が他者との共生と生の肯定の思想を内包する「もののあはれ」を核に据えた思想であったととらえる問題意識から、近世国学をとらえなおし、柳田國男(一八七五―一九六二年)、折口信夫(一八八七―一九五三年)の思想を「近代国学」として政治思想史上に位置づけることを試みた。具体的には、国学は「もののあはれ」と「やさし」すなわち、<弱さ>を国学的人間像の特徴として描写した。このような意味において、国学とは、秩序に関わるための人間の資質を問うた学問であり、<弱さ>を内包する天皇を自己に近い存在として戴き、国学的人間像に基づく自由な秩序の形成を模索した学問であった。さらに、「近代国学」は、復古神道の発展型として展開し、とりわけ昭和戦前・戦中期、戦後においては現実批判の契機をもたらしたのである。

このような問題意識にもとづき、第一章において本居宣長(一七三〇―一八〇一年)、平田篤胤(一七七六―一八四三年)の国学思想を概観する。宣長はその歌論において、人間本性が「めゝし」く弱いものであると認識し、「もののあはれ」を重視する歌の世界を通じて人びとが出会うこと、「今」を相対化するまなざしをもつことを肯定した。しかも、「めゝし」さを体現する存在が「みやび」な天皇像であったのである。そして、宣長はこれらの人びとの生を肯定するものとしての「古道」を見出し、人びとを包摂する存在としての現人神天皇像を提出した。

また、このような人びとの拠り所として重視されたのが家職であり、天皇も家職国家のなかに位置づけられていた。したがって、宣長の思想は、家職国家であった近世社会のあり方にも適合的であったのである。宣長の思想は、いわば「都市の国学」として市井の学芸としての性格を中心とし、藩士・陪臣・御用商人・医師・都市に店や別荘をもつ豪農らに受容された。国学が庶民の国学を意味する「草莽の国学」として、郷村を中心に村役人・神主・豪農らに広く受容されるには、宣長学を発展させた篤胤学の登場を俟たねばならなかった。

このような宣長の思想を継承し、宣長の幽冥観を補ったのが篤胤である。篤胤は死後の霊魂が幽界に赴いて主宰神たるオホクニヌシに帰順し、生前の行いに対する死後の審判を受けると主張した。これにより、死後の救済と日常生活倫理の確立をめざしたのである。それは同時に、死後の審判を準拠点とした現実批判のまなざしをもたらすことともなった。したがって、国学の本質は現実批判、社会批判であったといえる。

また、篤胤は民間信仰に着目し、聞き取りによって幽冥界の仮説を立てて篤胤学の理論を具体化していった。このような篤胤の方法論は、まさに民俗学の先駆である。篤胤の民間信仰に対するまなざしは、近代に入り、民俗学として継承されることとなるのである。

さらに篤胤の皇国論は、単純な排外主義ではない。それは生活実感に裏打ちされたものであるともいえ、そこにみえるのは生活習慣や幽冥論も含め、自己の生活世界に対する確証であり肯定である。生活世界を肯定する国のありかたを他国と比較して、篤胤は肯定していくのである。しかし、幕末に平田派は転換する。平田派は幽冥論への関心を抱きつつも、政治情報を収集する方向へと転換したのであった。

しかし、幽冥からの情報に対する関心を平田派は安政期以降も維持していた。とりわけ明治維新以降は、平田派門人のあいだでは政府方針をめぐる論争に関して、幽界の見解を問うていた。平田派において、幽界情報は政府方針への不満のなかで噴出してきたのであり、幽冥論が彼らの「政治」へのコミットメントを担保していたのであった。

だが、津和野派の大国隆正(一七九二―一八七一年)以降、近世国学は転換する。大国においては、篤胤のような主情主義的な天皇への随順は説かれないが、その代わり、天皇を国家のあり方すなわち国体そのものとみなし、「百姓町人」までもがみずからの生活世界を犠牲にして「国のためにしぬべき」であると説かれたのであった。ここにみられるのは近代ナショナリズムの萌芽であり、国体論の発露にほかならない。

さらに、天皇はオホクニヌシに優越する存在であるとされ、最終的には宮中の祭神からオホクニヌシが除外され、幽冥論が公式に否定されることとなった。このようにして、幽冥論や、弱い自己を肯定し弱い天皇の存在を措定して自己の生活世界を確証、肯定するという近世国学のあり方が変容されていったのである。

第二章においては、柳田國男の思想を概観する。柳田は「カントリイ」すなわち、「郷土」とむすびついた非血縁を包摂するイエの復興をめざした。これらは、戦時下での「郷土」やイエをめぐる議論とは一線を画すものである。そして、人間に「悪いこと」をさせない機能を有する「固有信仰」に着目し、そのあり方を探る「一国民俗学」の確立を主張した。また、柳田は普通選挙とリベラリズムを重視し、民俗学を「公民」育成のための学問と考えていた。

それゆえ柳田は、「固有信仰」を対立する神社神道には一貫して反対していた。このことは、柳田の天皇論にも顕著である。柳田は大嘗祭論において、内清浄としての潔斎を重視する立場を明確にしている。しかもそれを契機に、ムラの祭においても内清浄としての潔斎を重視するようになった。加えて、柳田は「郷土」とイエをむすびつける頭屋制に着目し、旧来のムラの氏神信仰に公共性を見出したのである。柳田この思想の集大成が、『先祖の話』(一九四六年)に描かれる祖霊信仰と幽冥観であった。柳田は、あくまでも「イエ」と「郷土」にむすびついた祖霊信仰と幽冥観を提出し、国家が戦没者祭祀を一元化しようとする動きに抵抗したのである。これらの柳田の思想の影響を与えたのが、宣長の歌論や菅江真澄の紀行文、篤胤の幽冥論であった。

第三章においては、保田與重郎(一九一〇―一九八一年)の思想を概観する。保田は、「心のくらし」に「ゆとり」をもたらす「青春」の復権を主張し、日本浪曼派を立ち上げた。保田が意図したのは、日中戦争を「文化戦争」としてとらえ、青年たちが出征して中国に議会政治にもとづいた平準化された社会を作り、それを逆輸入することによって日本社会を平準化・民主化させることであった。そのような政治的な主張を内包していたからこそ、日本浪曼派は時代性と政治性を帯びた結社として認識され、若者たちを中心に支持を集めたのである。そして保田によれば、日本浪曼派とは近代批判を行う国学の再建の運動であった。

初期保田は富士谷御杖の言霊論に依拠していたが、のちに宣長の思想に力点を移すようになり、また同時に鹿持雅澄(一七九一―一八五八年)の万葉論や伴信友(一七七三―一八四六年)、伴林光平(一八一一三―六四年)の歌論、鈴木重胤(一八一二―六三年)の影響を色濃く受けるようになった。加えて、保田は柳田や折口の影響も受けている。それらにもとづいて保田が主張したのは、ムスビ信仰にもとづいた「神人一如」の状態であり、私有概念の存在しなかった上代の復古である。保田は祭政一致と米作りを主張し、祭祀の準備としての生産活動を重視して日常倫理を説いた。この延長上に、戦後は、一神教を否定する「絶対平和論」を主張したのである。

しかし、保田はマルクス主義の影響を受け、美的感覚を重視することで現実の相対化を図る側面が強かった。加えて、家郷に対するイメージが希薄であった。そのため、「偉大な敗北」という滅びの美学を追究し、伴信友や伴林光平の影響を受けて玉砕を美化するようになった。ここにおいて、保田の言説は権力側の言説と外形的な類似をみせることとなり、外形的には容易に権力の操作を受けてしまう隘路に陥ったのであった。保田が示したのは、先行する柳田、折口世代とは異なり、家郷を重視した国学からの乖離であったのである。

第四章においては、折口信夫の思想を概観する。折口は宣長の源氏物語論を継承し、光源氏を人間の理想像であり、天皇の理想像であると解釈する。そこで折口が見出すのは、弱く、過ちをくりかえしつつも反省と向上をくりかえして神に近づこうと努める天皇像であった。さらに、「まれびと」論や鈴木重胤の影響を受けた外来魂説と相俟って、折口は外来魂を付与され親密圏を形成する天皇像を描写している。折口が描き出すのは、無力で「寂しい」天皇像であり、それゆえに宮中祭祀という負担に耐える天皇は神聖性を得るのである。しかし折口もまた、柳田同様にテロリズムを批判し、リベラリズムと選挙を重視していたのであった。

他方で折口は、篤胤とキリスト教の影響を受け、宗教性を喪失した神社神道を一貫して批判していた。折口が戦後試みた神道普遍宗教化においては、神道と皇室を切断することが説かれ、オホクニヌシが主宰神として想定され、死後の審判が主張されていた。同時に、大政翼賛会や神社神道の禊行が否定され、あくまでも教義を立てることが中心とされたのである。このような折口の思想もまた、普遍宗教としての神道を志向しつつも「一国民俗学」を志向するものである。しかも折口は、国家から切断された、血縁やイエとは異なる親密圏を構想・実践し時局に抗したのであった。

さらに第四章末尾において、柳田、保田、折口の思想を比較し、ふたたび「近代国学」の政治思想史的位置づけを考察する。国学はまさに家職を中心とした秩序形成をテーマとしており、とりわけ「近代国学」は<弱さ>を本質とする人間がイエや親密圏形成をしながら、国家から自立した主体性を獲得するための方法を模索した思想にほかならなかったのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、いわゆる国学が他者との共生と生の肯定を内包する「もののあはれ」を核に据えた思想であったととらえ、その観点から近世国学をとらえなおし、さらに、その延長として、柳田國男(1875年~1962年)、保田與重郎(1910年~1981年)との比較において、特に折口信夫(1887年~1953年)の思想を、「近代国学」として日本政治思想史上に位置づけることを試みた作品である。

いわゆる国学の大成者、本居宣長(1730年~1801年)は、「もののあはれ」と「やさしさ」、すなわち「弱さ」をその人間像の核とした。それは、彼の和歌や物語の理解の基礎にあるが、同時に、彼の理想とする政治秩序を成り立たしめるものであった。その意味で、国学は、儒学とも、西洋近代思想の主流とも大きく異なる形で、政治秩序に関わるための人間の資質を問うた学問であった。「弱さ」を内包する天皇を自己に近い存在として戴き、その人間像に基づく秩序の形成を模索したのである。さらに、「近代国学」は、復古神道の発展型として展開し、昭和戦前・戦中期、さらに戦後において、現実批判の契機をも有していた。本論文は、(特に昭和期に焦点をあてつつ)江戸時代から戦後までを対象とし、「弱さ」の人間像を軸として、「国学」政治思想の展開とその可能性を詳細に跡付けた前例のない労作である。

「序章」では、まず従来の国学評価が論じられ、本居宣長・平田篤胤の近世国学には現状批判の要素があったことが主張される。さらに、柳田・折口の思想はそのような近世国学を引き継いでおり、「近代国学」と呼ぶにふさわしいとされる。そして、青年期に自我形成に悩んだ彼等は、それを自我形成と秩序形成の問題として一般化し、弱い個人がいかにして共同して秩序に関わるのかを模索したと論じられる。本論文の主な目的は、そのような近代国学の展開を詳述し、日本政治思想史上に位置づけることにある。

「第一章 近世国学の思想」では、第一節で本居宣長の思想が論じられる。宣長はその歌論において、人間本性を「めゝし」く弱いものであるとし、それを隠蔽することなく肯定しようとした。そして、そのことを相互理解する「もののあはれ」を重視する歌の世界を通じて人びとが出会うこと、そこにおいて「今」を相対化するまなざしをもつことを肯定した。しかも、「雅び」な天皇こそが「めゝし」さを体現する存在であった。著者によれば、宣長は、弱い「凡人」たちの生を肯定しつつ、彼等が、弱くしかも「雅び」な天皇を戴いて結合することを構想したのである。

また、著者によれば、宣長の思想は、いわば「都市の国学」として市井の学芸としての性格を有し、武士・御用商人・医師、そして都市に深い関わりをもつ豪農らに受容された。国学がいわゆる「草莽の国学」として、郷村を中心に村役人・神主・豪農らに広く受容されるには、篤胤学の登場を俟たねばならなかったのである。

第二節では、平田篤胤(1776年~1843年)の思想が論じられる。篤胤は、死後の霊魂が幽界に赴き、その主宰神たるオホクニヌシに帰順し、生前の行いに対する死後の審判を受けると主張した。そう考えることによって、篤胤は、死後の救済と日常生活倫理の確立とをめざしたのである。彼自身は討幕論を主張したわけではない。しかし、彼の主張には、「御民」の生活を圧迫する体制への批判が含意されており、近代になって国学が生活を基礎として「抵抗の論理」を示す先駆となっていると、著者は指摘する。

また、篤胤は民間信仰に着目し、聞き取りによって幽冥界に関する仮説を立てていった。このような篤胤の民間信仰に対するまなざしは、近代に入り、民俗学として継承されることとなるというのが、著者の解釈である。

ただし、近世国学が有するのは以上のような面ばかりではない。とりわけ津和野派の大国隆正(1792年~1871年)以降、近世国学は転換する。隆正においては、篤胤のような生活を基礎においた天皇への随順は説かれない。そうではなく、「百姓町人」までもがみずからの生活世界を犠牲にして「国のためにしぬべき」であると説かれた。さらに、天皇はオホクニヌシに優越するとされた。そして、維新以降宮中の祭神からオホクニヌシが除外され、篤胤的な幽冥論は公式に否定された。

このようにして、幽冥論や、弱い自己を肯定し、弱い天皇の存在を措定して自己の生活世界を確証、肯定するという近世国学のあり方が変容していった――それが著者の解釈である。

「第二章 柳田國男の思想」においては、まずその思想の原点としての幽冥観が論じられる(柳田は、早くも1905年に篤胤を高く評価する「幽冥談」を著している)。そして、柳田には、幽冥論を排除した神社神道や「靖国」政策を批判する意図があったとされる。また、柳田は、国家とは直接に結びつかない「郷土」と、そこに根付いた非血縁者を包摂する「イエ」の復興をめざした。そして、人に「悪いこと」をさせない機能を有する「固有信仰」に着目し、そのあり方を探る(そして、植民地には関わらない)「一国民俗学」の確立を主張した。さらに柳田によれば、民俗学は、普通選挙制を活かす「公民」育成に資する学問に他ならなかった(郷土研究は実際に「公民の民俗学」とされる)。

柳田は、「固有信仰」と対立する神道の組織化には一貫して反対した。彼は、その思想の集大成的な性格を持つ『先祖の話』(1946年)でも、あくまでも「イエ」と「郷土」にむすびついた祖霊信仰と幽冥観を説き、国家が戦没者祭祀を一元化しようとする動きに抵抗している。彼の鎮魂論が、国家による戦没者祭祀を許さないのである。

これらの柳田の思想の背景には、宣長の歌論や篤胤の幽冥論があったというのが、著者の理解である。また、著者によれば、「弱さ」を抱え、人の意志ではいかんともしがたい吉凶に翻弄されながらも日常倫理を尊重し、他者と共同して生きていく「凡人」「常民」への柳田のまなざしは、正に国学の伝統を承けたものであった。

「第三章 保田與重郎の思想」においては、柳田・折口との比較において、その思想が論じられる。保田は、「心のくらし」に「ゆとり」をもたらす「青春」の復権を主張し、日本浪曼派を立ち上げた(1935年)。保田の説明によれば、それは近代批判を行う国学の再建の運動であった。

初期保田は富士谷御杖(1768年~1823年)の言霊論に依拠していた。しかし、のちに宣長の思想に力点を移すようになり、また同時に鹿持雅澄(1791年~1858年)の万葉論や伴信友(1773年~1846年)・伴林光平(1813年~1864年)の歌論、そして鈴木重胤(1812年~1863年)の影響を色濃く受けるようになった。加えて、彼は、マルクス主義、そして柳田・折口の影響も受けた。それらにもとづいて保田が主張したのは、ムスビ信仰にもとづいた「神人一如」の状態であり、私有概念の存在しなかった上代の復古である。そして保田は祭政一致と米作りを主張した。彼によれば、日中戦争は、そのような文化圏を作る「文化戦争」であった。一方、戦後は、この延長上に、彼は、一神教を否定する「絶対平和論」を主張した。

しかし、保田には、美的感覚を重視することで現実の相対化を図る側面が強かった。加えて、家郷に対するイメージが希薄であった。そのため、結局、「偉大な敗北」という滅びの美学を追究し、伴信友や伴林光平の影響を受けて玉砕を美化するようになっていき、保田の言説は政府・軍部の言説と類似をみせることとなった。著者によれば、先行する柳田・折口世代と異なり、保田は、家郷を重視した国学の伝統から乖離して、そのような道を歩んだのである。なお、本章末尾には「補論」が付され、保田と三島由紀夫との共通性が簡潔に指摘されている。

「第四章 折口信夫の思想」では、これまでの論述を前提にし、比較を交えつつ、折口信夫の思想が、文学論・天皇論・神道と国学論・神道普遍宗教化論の順に解析される。

折口は、その文学論において、宣長の源氏物語論を継承し、光源氏が人間の理想像、かつ天皇の理想像として描かれていると解釈する。そこで折口が見出したのは、弱く、過ちをくりかえしつつも反省と向上をくりかえして「神」に近づこうと努める天皇像であった。さらに、著者は、折口の「まれびと」論や、「たをやめぶり」の復権の試みを紹介している。ついで、著者は、折口の「みこともち」論に触れた後、その大嘗祭論を柳田のそれとも比較しつつ詳しく分析し、国学者鈴木重胤の影響を受けた外来魂説と相俟って、天皇を、苦しみつつ外来魂を付与されて生きる、無力で「寂しい」存在として把握しているとする。

一方、折口は、宗教性を喪失した神社神道を一貫して批判していた。そして、「総ての国文学の中から自由なる道念をば引き出して来て、我々の清純なる民族生活を築き上げようとする欲望、それを学風としてゐるものが国学なのです」と主張した(1937年)。「道念」とは「もらるせんす」である。折口によれば、明治以降の道徳を規定したものは、実は国学ではなかった。そして彼は、芳賀矢一の国民道徳論を批判し、武士道は「ごろつき」の道徳に過ぎないとさえするのである。著者は、さらに、近世以来の種々の禊祓論を分析した後に、折口のそれへの批判を紹介している。

戦後、折口は神道の普遍宗教化を試みる。著者によれば、それは、行き場もなく慰められることのない霊魂への憂慮に基づいていた。そこでは神道と天皇の切断が説かれ、オホクニヌシが主宰神として想定され、死後の審判が主張されていた。

第四章最終節は、「親密圏と近代国学」と題され、本論文全体の結語を兼ねている。そこで著者は、折口が柳田のようなイエの論理をも否定する一方、漂泊する芸能者や宗教者としての「まれびと」を中心とする、血縁によらない共同性を志向していたことを強調する。それは、「まれびと」が伝える神の託宣の下、「道念」を共有する一種の「親密圏」であり、国家からは独立した領域だったというのが、著者の解釈である。

そして著者は、近代国学とは、「弱さ」と「やさしさ」とを本質とする人間が親密圏を形成し、国家からは自立した秩序を形成することを模索した学問だったと指摘して、論を結んでいる。

本論文の評価は以下の通りである。

本論文の第一の長所は、国学の流れを、一旦十八世紀の本居宣長にまで遡った上で捉え直し、「弱さ」という概念を軸としつつ、戦後にまで至る「近代国学」を詳細・緻密に分析し、国学と呼ばれる思想潮流に新たな理解をもたらした点にある。特に、主情的な人間像を基礎としながら、時代の支配的な権力や思想に必ずしも迎合せず、むしろある種の抵抗を試みていく姿を描き出したことは、新鮮である。「国学」を所詮「天皇制イデオロギー」だなどとして単純に無視し、切り捨てるのではなく、別の角度から見直すことによって見えてくるものがあることを、本論文は明らかにしていると言ってよいであろう。

第二の長所は、従来とは異なる角度からする国学の把握に基づく個別の分析によって、従来、説明しにくかったり、奇異に思われたりしていた思想史上の諸事実に解答を示したことである。柳田の周辺に左翼的知識人が意外に多かったこと、関連して一九六〇代には一種の柳田ブームが起きたこと、折口が戦後、神道普遍宗教化を試みたこと等が、その例である。

第三の長所は、その論文としての高い完成度である。長い歴史を扱いながら(生没年からすれば前後する保田と折口を記述上逆転したことも含めて)構成は堅固であり、文章は読み易く、扱う分野の広さにもかかわらず一次資料・二次資料ともに広く渉猟し、その上で論旨を組み立てており、課程内博士論文として、高い水準に達しているということができる。

ただし、本論文にも、短所というべき点がないではない。

第一に、「弱さ」「道念」等の鍵となる概念と天皇制・親密圏等の概念との関係についての説明がやや淡泊であるため、若干物足りない感の残ることである。それらについて、より濃密な記述をしたならば、本論文の説得力は一段と向上したことであろう。

第二に、本論文では、「国学者」間の比較は様々になされているが、「近代国学」と対比される国家神道それ自体については、いわば議論の前提とされ、特段の説明や解釈が行われていないことである。現在も論争になっている国家神道の性格に関して著者の踏み込んだ議論がなされていたならば、本論文の精彩はさらに増したと思われる。

もっとも、以上のような短所は、本論文の価値を大きく損なうものではない。

本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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