学位論文要旨



No 124027
著者(漢字) 河野,有理
著者(英字)
著者(カナ) コウノ,ユウリ
標題(和) 『明六雑誌』の政治思想 : 阪谷素と「租税公共の政」
標題(洋)
報告番号 124027
報告番号 甲24027
学位授与日 2008.07.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第217号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 苅部,直
 東京大学 教授 渡辺,浩
 東京大学 准教授 宇野,重規
 東京大学 教授 川出,良枝
 東京大学 教授 中谷,和弘
内容要旨 要旨を表示する

博士論文要旨 『明六雑誌』の政治思想―阪谷素と「租税公共の政」

序論では、先行研究を批判的に検討し、本稿の問題関心を示した。

『明六雑誌』と「明六社」とは異なる。また『明六雑誌』も「明六社」もそれぞれの内部構成は多様である。『明六雑誌』の性格を、「啓蒙」「国体」(ナショナリズム)「文明」といった観点から分析してきた先行諸研究はこの点に十分意識的ではなかった。また、僅かに三編しか掲載していない福澤諭吉を、『明六雑誌』を「代表」する論者であるかのように記述する研究傾向も同様に疑問であった。代わりに『明六雑誌』上で活発に執筆した阪谷素を中心に『明六雑誌』の政治思想を叙述する可能性を提示した。

第一章では、『明六雑誌』寄稿者達の「文明」観を「開化」との比較において検討した。

「文明」を考える際に問題になったのは、第一に「文字」であり、第二に性であり、第三に市場であった。彼らのほとんどに共通していたのは、これらのそれぞれにあるべき秩序が存在するという確信と、そのあるべき秩序を実現することが統治機構の任務の一部であるという考え方であった。

他方で、彼らに共通の危機感は、「開化」は「欲」の野放図な増大をもたらすということであった。それが端的に現れるのが、市場と性という領域であった。あるべき秩序(「文明」)を実現するために、「欲」をどのようにコントロールするのか、彼らに共通のこの思想課題は、統治機構は「信」をどのように調達するべきなのかという問として語られた。その際に、出された解答の一つは宗教(「教法」「教門」)であり、もう一つは政治(「政教」)であった。この問の前に立ち、明確に後者を選択したのが阪谷素であった。政治によって「信」を調達するには、ではどうするべきなのか。阪谷は、議会において「租税公共の政」を行うことを主張する。「租税」の徴収と配分について、「合議」を通して一つの結論に至るその過程で、個々人の「欲」は、政治共同体を導く集合的な「精神」へと転換する。そのように阪谷は主張した。

阪谷は、人間における「欲」の存在を必要不可欠なものとして承認しつつ、むしろそうであるがゆえに「欲」が私的なものに堕していくことに意識的であろうとした。人間の欲望が公的なものに昇華していく契機として政治を位置づける阪谷にとって、政治とは道徳的な教育の場でもあったのは当然である。

第二章では、阪谷の「租税公共の政」の構想を、同時代の議会構想と比較検討した。

まず、議会構想を検討するに先立って、議会に先行する政治体制(「封建」「郡県」)の選択の問題が、当時の為政者・知識人にとって大きな問題であったことを示した。「封建」「郡県」そのどちらにあっても、「議会」は、望ましい統合を実現する手段として焦点化していた。だが、「議会」に期待される機能は、それぞれ異なっていた。「封建」体制を前提にすれば、「議会」は、「封建に郡県の意を遇する」ものとして、「郡県」体制を前提にすれば、

それは「郡県に封建の意を遇する」ものとしての機能が期待されていたのである。「郡県」実現後の明治七年に提出された「民選議院設立建白書」は後者の例として位置づけられるべきものであった。板垣等の民選議院構想は、以上の前提から見れば、「封建」論の系譜を引く議会構想であった。

「分権」、「士族」の「気力」論を提示し、情緒的な一体化を目指す板垣等の議会構想に対し、他方、『明六雑誌』の津田真道や神田孝平は、「智識」と「会計」「監察」制度を念頭に置いた「郡県」の議会構想を提示した。阪谷の議会構想は、「租税」制度に着目するという点で津田や神田と問題意識を共有していた。だが、阪谷の議会構想には「監察」という発想は見えない。他方、議会を統治機構の抑制よりは、むしろ統治機構との一体感を創出する制度として捉える点で、板垣等の議会構想と共通する点があった。だが、板垣等が「士族」の「気力」にこだわったのに対し、阪谷は金銭に対する人間の欲望に取り分け着目した点で両者は異なっていた。板垣にとって「気力」は与件であったのに対し、阪谷にあって、「気力」は「欲」が「公」的なものへと昇華される過程で得られる成果だったのである。

第三章では、阪谷の思想史的人生を概観した。

青年時代の阪谷を特徴付けているのは「烟霞癖」であった。阪谷は、青年期に各地を旅行し、旅先の景観を漢文で表現し、「見立て」ることで様々な風景を発見していた。儒学的教養の浸透によって、次第に盛んになっていった風景享受の作法と実践とを阪谷もまた反復していたのであった。以上のような阪谷の「烟霞癖」はまた、一種のピクチャレスクな心情の発露でもあった。「奇」なるものへの愛着として現れるそうした心情は、同時代的には、「攘夷」の志士にも、「蘭学」書生にも連なる精神態度であった。

だが、母の死とそれに伴う「喪」の作業によって、阪谷は「奇」なるものを否定し、「天」の「道理」へと回帰していく。それまでの放浪癖が嘘のように、その後の彼は生地備中にとどまり、朱子学の基本的なモットー群である「白鹿洞掲示」の「日誦」を通して「道理」の実現を希求するようになった。

阪谷にあっては、世界の基本的な構成要素は「理」と「気」であった。同時代に急速にその存在感を増しつつあった西洋の学問は、しばしばそれが「窮理」の学と呼ばれるにもかかわらず、阪谷にとってはあくまでも「窮気」の学にすぎなかった。「理」は「掲示」の教に尽きている。他方、西洋における「人心」の統合は、「耶蘇教」なる「教」がそれを担保している。彼らの富強の秘密は、「教」による「人心」の統合にある。阪谷はそのように考えた。だが無論、死への不安や来世の安楽という「利」によって「人心」の統合を図る「耶蘇教」は、基本的に誤りである。「利」ではなく、「理」(それは「掲示」に具現されている)によって「人心」を統合すること。これが阪谷の政治学の基本的な構想であった。

そのための道具立ての一つが「会議」であった。だが、「会議」は、阪谷にとって統合を達成する手段であるばかりではなく、それ自体が教育的な場でもあった。個々人が「私見」を去り、「合議討論」の中で、真の「公論」を発見していく。その時、政治共同体にとって、最善の決定がなされているばかりでなく、各人もまたそれ以前よりも善き人になっているであろう。「革命」の根本的な原因を「政教分離」に求める阪谷にとって、「会議」の政治学は「政教一致」の政治構想でもあったのである。

以上のような「掲示」の具体化としての「会議」の政治構想は、しかし、明治政府の「天照大神」を以てする「政教一致」政策と微妙な関係に立つことになった。「掲示」が背景として持つ儒学という「外来」の「教」が、「天照大御神」等の「天祖」と果たしていかなる関係に立つのか、この点をめぐり阪谷の議論はしばしば錯綜した。

この錯綜を解消に導いたのが、明治七年の民選議院設立建白と『明六雑誌』の衝撃であった。『明六雑誌』や、設立建白に刺激して提出された建白書において、阪谷は、依然として人間にとっての「欲」の問題に焦点を当てている。だが、そこでの「欲」は、もはやあの世の不安や希望ではなく、専らこの世にかかわるものであった(「財貨」「女色」)。さらに、「会議」は、単に「欲」とは切り離された抽象的な「理」の発見でなくして、「財貨」という人間の「欲」に最も密接した現象について、その具体的なあるべきあり方をめぐる「合議」と規定されるに至った。これを「西洋」イメージの転換として捉えれば、来世の「利欲」を満足させる「耶蘇教」を中心に統合されているという従来のイメージは、専ら今世における「利欲」を「合議」することによって統合されているというイメージへと転換したのである。前者が静態的であるとすれば、後者は動態的であった。この世の「利欲」は、「合議」によって政治共同体を「文明」に向かわせるための集合的なエネルギーへと変換される。前者においては十分に説明できなかった「西洋」の富強の秘密を阪谷はついに発見したのである。

終章では、阪谷と『明六雑誌』寄稿者たちが、いわば「統治の倫理」を語ろうとした点において共通しているという見通しを提示した。

以上、『明六雑誌』寄稿者たちの政治思想は、その結論においてよりも、むしろ彼らが解答を試みた問において共通することが示された。即ち、統治機構は、いかにして人々を教え導き、またその過程において、いかにして信頼を調達するべきなのか、という問題である。あるべき統治が道徳的教化を伴っていること、及び、そのコロラリーとしての民の(非道徳性ではなく)無道徳性は、共に彼らの政治思想の与件であった。逆に、<革命>を生き抜いた彼らにとって、統治機構の信頼性は、課題ではあっても、自明の前提ではなかった。

福沢諭吉がそこから最も遠い存在であるところの、以上の共通点は、阪谷において最も典型的に(思索の結果、所与のものとしていた伝統的統治観が一部変容したことをも含めて)現れている。これが、本稿の結論である。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、近代日本の出発点において、西洋政治思想の総合的な受容を試み、その後の国家建設と社会改革とに大きな影響を及ぼした論説雑誌、『明六雑誌』(全43号、1874年~1875年)の思想につき、新しい角度から解明したものである。従来の研究では、その寄稿者のうち、福澤諭吉に代表される洋学系の知識人に注目することが多かったが、本論文は、儒学(朱子学)者、阪谷素(さかたに・しろし、号は朗廬、1822年~1881年)に焦点をあて、政治をめぐる徳川時代以来の論争史の上に、『明六雑誌』による新しい展開を位置づけ、西洋化・「啓蒙」活動といった、一面的な規定にとどまらない、さまざまな論争の軸が存在していたことを、分析の焦点とする。

序章・終章を含めれば全五章分で構成されている本論文の内容は、おおむね以下のとおりである。

序章「問題関心と先行研究の検討」において筆者は、これまでの『明六雑誌』研究がとった分析視角を批判し、新しい接近手法を提唱する。「啓蒙」や「ナショナリズム」や「文明」といった一つの観点によって、『明六雑誌』の思想を総括することは、彼らが実際にどんな問題をめぐって、どのように議論していたのか、その実態からかけ離れてしまう。また、よく注目される福澤諭吉が、わずか三篇しか執筆していないのに対し、阪谷素は十六篇と、もっとも精力的な寄稿者であった。そこで筆者は、さまざまな思想上の立場が交錯する『明六雑誌』について、その議論の空間を、阪谷を中心に分析する視角をとる。

第一章「『文明』と『開化』」で筆者は、同時代の用語法に着目して、『明六雑誌』寄稿者の多くが、文化が高度になり道徳が完備した、あるべき秩序としての「文明」と、即物的な技術の発展としての「開化」との間に、対立関係を見いだしながら議論したことに着目する。彼らは、「開化」が、市場における競争や性風俗において、「欲」の野放図な増大をもたらすという危機感を共有していた。したがって「欲」を統御し「文明」の秩序を実現することが統治者の任務であると考え、そのために、被治者からの「信」を得る方策をめぐり議論を闘わせた。津田真道はその鍵を宗教(「法教」)に求めたが、これに対して、あくまでも政治制度を通じた「信」の獲得を説いたのが、柏原孝章と阪谷素であった。

阪谷は、朱子学に基づきながら、「民撰議院」制度の採用を通じ「租税公共の政」を行なうことを、『明六雑誌』上で提唱した。租税の徴収と配分につき「合議」する過程で、人々の多様な「欲」は、全体を導く一つの「精神」に転化する。欲望が放恣に流れず、「天下の公心公義」へと昇華してゆく、一種の教育の回路として、阪谷は政治を位置づけた。

第二章「『明六雑誌』における『議会』」は、阪谷の構想を中心にして、議会制度の受容にかかわる諸議論を整理している。

伝統的に東アジアにおいて、政治体制をめぐる議論は、中国古典に言う「封建」制と「郡県」制との得失をめぐって展開していた。そのことは、本論文が扱う時代の日本思想においても例外ではない。徳川末期から明治初年にかけては、「封建」制の改良を唱える者(加藤弘之・阪谷素)からも、「郡県」制への転換を唱える者(津田真道など)からも、それぞれの論理で議会制度の採用が提唱されていた。廃藩置県により郡県制が採用され、論争が決着を見たあとでも、板垣退助らの「民撰議院設立建白書」(1874年)は、地方分権と士族の「気力」とを維持する「封建」制の美点を、郡県制に注入する機関として、議会の開設をめざしたのである。

他方、『明六雑誌』で、津田真道や神田孝平は、人民の「智恵」を集め、政府に対する「監察」と「会計検査」を合理的に行なえる、「郡県」制に立脚した議会構想を提示した。阪谷の場合は、租税制度に着目する点は津田や神田と共通するものの、討論を通じた「精神」陶冶の機能を議会に期待する側面では、板垣に近い。しかし、士族の「気力」にこだわる板垣らに対し、阪谷は、金銭に対する人間の欲望に着目し、そうした「欲」が「公」的なものに昇華されることを通じ、真の「気力」が充実すると論じた。

第三章「阪谷素の政治思想」は、阪谷の政治思想の形成過程をたどり直して、その思想について、より掘り下げた分析を行なっている。ほとんど放浪癖と言ってよいほど、各地への旅行経験を重ねて青年期をすごしたのち、嘉永六(1853)年の母の死をきっかけに、阪谷は生地備中にとどまり、朱子学の「理」と「気」の体系に脚をすえて講義を始め、基本的な教訓テクストである『白鹿洞掲示』を熱心に復唱しながら、「道理」「天理」の社会における実践を求めるようになった。公武合体論と開国論が、その選んだ政論上の立場である。また阪谷は、西洋諸国においては「耶蘇教」が人心を統合し、国家の「富強」を支えていると見ていた。これに対し、来世の安楽という「利」ではなく、朱子学の「理」に立脚した統合を達成する手段として、「会議」を提唱する。「合議討論」の過程で、個人は「私見」を離れ、真の「公論」を発見していく。『白鹿洞掲示』で示された学問の方法としての討論は、同時代の朱子学者、横井小楠などの場合と同じく、議会制度(阪谷の言葉では「合議局」)の理解を通じて、政治体制の根幹をなす回路へと転用されたのである。徳川末期には諸藩の再統合のために、明治初年には五箇条誓文に言う「公論」の制度として、阪谷は「会議」機関の創設を唱えた。

ただ、明治政府が発足当初に神道の国教化を掲げ、仏教・キリスト教との対立が問題化すると、天照大御神などの「天祖」への崇拝と、儒学との関係をめぐり、阪谷の議論はいったん迷いを見せる。しかし、『明六雑誌』上での討議と「民撰議院設立建白書」をめぐる論争に加わることで、阪谷は思想をさらに成熟させた。「千殊万別」に対立した宗教(「教法」)が説く、来世に関する不安や希望の次元との混同を避け、あくまでも現世の「財貨」にかかわる「欲」に視野を定め、その相互調整を通じて、さまざまな立場を共存させようとするのである。朱子学者の言説としては大胆にも、「欲」の働きを原則として是認した上で、「会議」はもはや、抽象的な「理」を発見する場ではなく、「財貨」の適切な配分を決める「議院」での「合議」へと、その役割が明確化される。ここに確立したのが、前二章で触れた、阪谷による「租税公共の政」の政体構想だったのである。

終章は、『明六雑誌』寄稿者の多くが共有した問い、すなわち、人々の「欲」の噴出を前にして、政府がいかにして統合をなしとげ、正当性を確立するかという問題が、阪谷においてもっとも純粋な形で考えぬかれたと総括する。阪谷は、『明六雑誌』の議論の空間を象徴する人物として、むしろ福澤諭吉より重要な位置にある。そのことを示唆しつつ、本論文は閉じられている。以上が、本論文の要旨である。

本論文の長所としては、次の諸点を挙げることができる。

第一に、明治初期の個々の思想家の思想ではなく、『明六雑誌』の思想を探るという分析視角によって、そこで闘わされた議論の豊富さと、思想展開のさまざまな可能性とを明らかにした。従来も、本論文が言及する、大久保利謙・鳥海靖・戸沢行夫といった、歴史学畑の研究者による仕事に見られるように、『明六雑誌』の活動の全体像を描こうとする研究が、なかったわけではない。しかし、それらの諸研究が、設立・解散の経緯や寄稿者の経歴といった、活動の言わば外的な側面に視野を限っていたのに対し、筆者は、『明六雑誌』の論説の内容そのものに分析のメスを入れる。その結果、明治初年という日本近代史上、重要な時代において、どのような政治思想上の議論が展開されていたのか、その姿を動的に描くことに成功している。

第二に、議会の開設をめぐる、『明六雑誌』寄稿者たち、およびその周辺の論者による言説を、ていねいに分析することを通じ、近代日本における議会制度の受容が、西洋の制度を単純に移植したのではなく、思想上の議論の一定の蓄積の上でなされたことを、詳細に跡づけた。朱子学における学問の方法としての討論の重視が、議会制度の理解に資したことは、先行研究でも指摘されていたが、本論文は、これに加えて、人間どうしの「欲」の対立にいかに対処するかという人間学的観点と、封建制と郡県制の選択をめぐる前近代以来の国制論の観点とを指摘し、当時に展開していた議論の厚みを、巧みに再現している。

第三に、『明六雑誌』の最多寄稿者であり、多くの読者を得たと思われるにもかかわらず、従来、研究に乏しかった阪谷素の思想について、その内実を明らかにし、意義を説得的に説明した。先行研究の少なさは、近代思想の研究者に、徳川時代の思想に関する素養が乏しいという事情に、大きく由来するが、筆者は、儒学思想に関する研鑽を積んで、みごとにその限界を突破した。また、国立国会図書館に所蔵された、阪谷関連の未公刊原史料を多数利用して叙述されていることも、特筆すべきであろう。阪谷の、朱子学を基礎とした議会論や租税論を分析したことは、中国・朝鮮の同時代思想との比較にも寄与するものであり、研究史を大きく前進させた。

ただし、本論文にも短所がないわけではない。

第一に、まず第一章で『明六雑誌』を概観し、その背景となった封建制・郡県制をめぐる議論を第二章で分析し、次いで阪谷の思想形成を第三章で追うという、いわば倒叙法のような構成をとった結果、一読しただけでは全体の議論がわかりにくくなっている。この点、本文と注に相互参照の説明を追加するなど、工夫がもっとあってよかった。

第二に、『明六雑誌』で行なわれた議論を、幅広く押さえて分析してはいるものの、人間の欲望をめぐる議論、封建・郡県論、議会制度論の三者に、重点を置いた結果、それ以外の議論につき、説明が十分になされていない。このほかの議論をも十分に咀嚼しながら整理すれば、より総合的に、『明六雑誌』の思想空間を再現できたはずである。

第三に、章・節の題名が、目次と本文とで異なっている箇所があり、文献目録にも不備がある。こうした形式上の不手際も、博士論文としては画龍点睛を欠くうらみが残る。

しかし、以上の短所も、本論文の意義と価値とを大きく損なうものではない。これは、大学院での研鑽の上に、前近代思想と西洋思想とが交錯する、明治初年という研究困難にして重要な時期の政治思想にとりくみ、その像を新たに描いた、画期的な学問業績である。以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度の研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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