学位論文要旨



No 124032
著者(漢字) 池田,一人
著者(英字)
著者(カナ) イケダ,カズト
標題(和) ビルマにおけるカレンの民族意識と民族運動の形成
標題(洋)
報告番号 124032
報告番号 甲24032
学位授与日 2008.07.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第833号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 准教授 井坂,理穂
 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 教授 高橋,昭雄
 愛知大学 教授 伊東,利勝
内容要旨 要旨を表示する

本研究の対象とするのは、ビルマ(ミャンマー)における、20世紀に入ってからの植民地後期(~1941年)から日本占領期(~1945年)を経て独立交渉期(~1947年)までの、カレンと呼ばれる人々の民族意識と民族運動の形成過程についてである。

植民地期の統計(1931年)ではカレンは、多数派のビルマ民族(総人口の66%弱)に次ぐ9.3%の人口割合を有し、下ビルマに限るとその割合は20%以上に上ることになる。多民族国家ビルマにおける他の「少数」民族が、おおむね自らの故地と言える集住地を持つのに対して、カレンの大部分は下ビルマに一帯にビルマ民族と混住してきた。カレンはまた、仏教を主に信仰するビルマ民族に対して、ビルマにおいて最大のキリスト教人口を抱えている。カレン総人口に占めるキリスト教徒人口は16%ほどに過ぎないが、ビルマのキリスト教徒におけるカレンの割合は66%強にもなり、とくにその大部分を占めるバプティスト派の発言力が大きく、カレンといえばキリスト教徒という印象を外部に与えてきた。

カレンの歴史は通常、このバプティスト派のキリスト教徒を核として、植民地体制に迎合的であった「親英分子」、ビルマ独立に際して自前の国家を求めようとした「分離主義者」、ビルマ=タイ国境でいまもって反政府武装闘争を続ける「叛徒」、などのイメージのもと、このビルマ世界に異質ななにものかとして語られてきた。

だが、カレンは宗教的には仏教やキリスト教諸派、精霊信仰者やカルト的諸宗教を含み、また言語的にもスゴーやポー、カレンニー、パオ、パダウンなど下位言語グループを抱えて多様な人々であって、外部から「カレン」と一括できる一様な民族意識を共有してきたわけではない。とくに多数派を占める仏教徒が、どのようにカレンという民族意識を持つに至り、どのようにキリスト教徒のカレン意識と交錯し、そしてのちにキリスト教徒の主導するカレンの民族運動にどのように参画していったのかがまったく知られていなかった。この点に鑑み本研究では、第1に、仏教徒の民族意識形成の一端を植民地期に出版された2種の仏教的なカレン史テキストとその背景の分析から探り、第2に、仏教徒とキリスト教徒の民族的経験の共有契機を日本占領期冒頭に起こった初めてのカレン=ビルマ民族間の民族衝突事件に求める。そして、第3に仏教徒のみならずさらに広範なカレンを名乗る主体を糾合しえた、独立交渉期のカレン民族運動の細部を再検討することによって、この運動が従来の「分離主義」という評価に当てはまらないことを論証する。

第1の点については、1929年から1939年までに出版された仏教徒著者のウー・ピンニャとウー・ソオによる2点の仏教的カレン史と、ソオ・アウンフラによるキリスト教的カレン史の計3点のカレン史書を素材として、とくに前者に現われた仏教徒のカレン意識について論じた。その際には、その歴史観を支えている宗教や王権、民族といった概念とその論理構成が派出したビルマ語世界の19世紀を中心とした歴史的文脈、そして2書の執筆動機が生まれた社会的文脈のふたつのコンテキストにテキストを位置付けて、おのおのの「民族」の表出形態と民族に関する主張と動機を探った。

歴史的文脈からの検討では、まず、ビルマ語世界における仏教徒の視点の上で王権の崩壊と宗教の衰退ととらえられていた19世紀の植民地化の流れの中で、この世界の主権者として民族(ルーミョウ)の観念が立ち上がっていき、やがて民族を単位とした社会的・政治的運動が20世紀初頭の植民地社会で開始されたことを指摘した。2書は「王統記」という体裁をとりながらも、カイン/クゥイン(ビルマ語でのカレン)という民族を主権者として歴史叙述を行っているが、それを何ら不思議のないものとしてビルマ語読者が受け入れたのは、このようなビルマ世界の民族化が断絶を感じさせることなく進行し、定着していたためであった。

他方、よりミクロな2書執筆の社会的背景分析には、出版動機のひとつとなったビルマ語全国紙トゥーリア紙上で行われた「映画とカイン」論争の考察を通して、カレンが仏教世界で周辺化されている状況を指摘した。このような周辺化、または民族批判は、20世紀初めに仏教復興運動が始まったビルマ民族主体の運動が政治化し、キリスト教徒によって標榜されていた「カレン」を、政庁協力民族として指弾していたことが背景にある。そして、そのような「カレン」に含まれて、仏教徒として貶められたと感じた僧侶や作家、公務員などの知識人層に属する人々が、カレンもまた正統な仏教世界の一員である、とビルマ語話者にむけて反駁したのが、これら2つのカレン史であった。したがって、この仏教徒としての正統性という主張は、カレンの仏教的王統の過去を証明してくれる王統記という形式をまといつつなされなければならなかった。

第2の点について、日本占領期冒頭にデルタ地方で起こったミャウンミャ事件を題材に、一方ではこの地域に進出したビルマ民族主体のBIA(ビルマ独立義勇軍)あるいはタキン(ビルマ民族主義者)、そしてこれに呼応して地元から合流したやはりビルマ民族主体の自称BIA/タキンの人々と、他方ではおなじ土地に住みながらも宗教宗派も言語もばらばらであった「カレン」という、2種類の人々の間で突如として民族衝突が起こった様を描いた。後世の記録はすべて、カレン対ビルマの構図が前提されている。しかし、「カレン」と一括された側には、宗教宗派と言語サブグループによって特徴付けられる多様な集団が内包されており、一方ではバプティスト・スゴーのようにその組織に内在する文化的な機能によって、日々に「カレン」が再生産され意識されるような共同体から、他方では言語の上でもビルマ化が進行し、宗教的には隣村のビルマ人と信仰の場を共有する、カレン意識に希薄な仏教徒ポーまで、多様な人々が含まれていた。そして彼らは、ミャウンミャ事件まで、その「カレン」という名以外には、その名を引き受けた人々の人的交流を促す民族的機構、祭礼や儀礼、経験も共有してこなかった。

ミャウンミャ事件は、このようなカレンらに宗教や言語の懸隔を横断して下ビルマの広範な範囲で、初めての共通する民族的経験を与えた。ここではデルタのもろもろのカレン集団のうち、バプティスト・スゴーと仏教徒ポーを主に検討し、加えてカトリックやアングリカンのスゴーとポー、それにビャマーゾウのスゴーなどのカレンについても言及した。この経験が事件の進展にあわせてこれらの人々のあいだに共有されていった過程は、シュウェトゥンチャというひとりの仏教徒ポーが、やがてカレンの英雄として多様なカレン人の意識のなかで立ち上がり、記憶されていったイメージの生成過程に如実に現われている。そしてミャウンミャ事件をとおして、カレンという民族意識はより凝集性の高いものになっていった。この事件はイラワディ・デルタの中央部で起きた限定的な出来事ではあったが、同様の事件は東部のパプン地方でも起こっており、そしてこの事件を伝え聞いたひとびとのあいだにも「カレン」という自覚を広めていったものと推測される。このような宗教・言語横断的なカレンの経験は、先立つ例がまったくなかった類のものであった。

第3部では、従来、分離主義の典型と評価されてきた独立交渉期のカレン民族運動を題材として、そこでカレン側によって設立を要求された「カレンの郷土」について、カレンを標榜するグループ毎にその主張を検討して、この郷土観に投影された多様なカレンのありようを炙り出した。総体として独立交渉期のカレン民族運動は、かように多様なカレンの民族統合を最大の関心事として、その郷土を独立ビルマという新国家の内側に設立しようとする運動であったことを論じた。

では、この運動に参加したカレンはどのような人々で、結果的にはいかなる選択をしたのか。第1に、バプティスト・スゴーを核とする主流派のKNU(カレン民族同盟)は、ビルマ東部により大きなカレン州設立を望んで、カレンニーやパオなども包摂しようとしていた。第2に、KNUから割れ出たKYO(カレン青年機構)は主にデルタを地盤とした、やはりバプティスト・スゴーが中心となっていた組織であったが、この人々はむしろビルマ民族との混住という現実を受け入れて、よりビルマ民族と親和的なかたちの政治制度をカレン民族の権利保障機構として選択し、独立ビルマに参加しようとしていた。第3に、平地のカレン民族運動が勢いをもった1947年半ばに「カレン」を名乗って参加したカレンニー諸派やパダウンは結局、他のカレンの運動とは一線を画して独自の協定をビルマ政府と結び、別個の自治州の地位を得て独立ビルマに参加した。これらに対して、仏教徒カレンについてはBKNA(ビルマ・カレン民族協会)が参加してある程度の活動をともにしていたことはわかるが、その背後にある仏教徒カレン全体がどのような動きをしたのか、詳細は資料上の制約があって現段階では明らかにすることが出来ず、今後の課題として残されている。

以上検討してきたカレンに関わる3つの事例は、カレンなる人々の広大な顕在領域からすればごく断片的であるが、それらはカレンの民族意識と民族運動の形成過程において枢要な時と場に関係していて、今まで記述されてこなかったものばかりである。そして、いずれの事例でも対ビルマ民族関係のうえでカレンの民族意識が深められ、民族運動が展開してきたことは特筆に値する。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、ビルマにおける、20世紀に入ってからの植民地後期(~1941年)から日本占領期(~1945年)を経て独立交渉期(~1947年)までの、カレンと呼ばれる人々の民族意識と民族運動の形成過程を分析したものである。

本論文は3部から構成されている。まず第1部「植民地期における仏教徒カレン-3つのカレン史」では、1929年から1939年までに出版された、仏教徒のウー・ピンニャとウー・ソオによる二点の仏教的カレン史と、ソオ・アウンフラによるキリスト教的カレン史という、三つのカレン史書を取り上げ、特に前二者に示された仏教徒のカレン意識を検討している。

歴史的文脈として、仏教徒のビルマ語世界で、王権の崩壊と宗教の衰退ととらえられた植民地化の流れの中で、この世の主権者として民族(ルーミョウ)の観念が生まれ、20世紀初頭には、民族を単位とした社会的・政治的運動が立ち現れるという文脈の中に、仏教徒カレンの史書の出現も位置づけられる。二つの史書は、いずれも「王統記」という体裁をとりながら、カイン/クゥイン(ビルマ語のカレン)という民族を主権者として歴史を叙述している。

また、この二つの史書が書かれた、よりミクロな社会的背景として、ビルマ語の全国紙上で展開された「映画とカイン」論争を通じ、カレンが仏教世界の中で周辺化されている状況が上げられている。ビルマ人が「カレン」を指弾、軽蔑の対象とした時、この「カレン」に含まれ、仏教徒として貶められたと感じた僧侶など知識層に属する人々が、カレンもまた正統な仏教世界の一員である、とビルマ語読者に向けて反駁したのが、この二つの史書だった。

第2部「日本占領下のカレン-ミャウンミャ事件とシュウェトゥンチャ」は、こうしたキリスト教徒とは異なる自己意識の形成をしていた仏教徒カレンが、キリスト教徒と「民族的体験」を共有する契機となった、日本占領初期におきたミャウンミャ事件と、その指導者シュウェトゥンチャを分析している。ここでは、ビルマ独立義勇軍やタキンというビルマ民族が中心となった勢力から、仏教徒からキリスト教徒まで多様な人々が「政庁協力民族としてのカレン」として一括して攻撃される中で、はじめてカレンとして共有しうる民族的体験をした事件として、ミャウンミャ事件が取り上げられている。この経験が様々な立場の人々に共有されていった過程の分析では、シュウェトゥンチャという仏教徒カレン出身の指導者が、カレンの英雄としてキリスト教徒を含む多様なカレンの人々の意識の中に記憶されていったことが描かれている。

第3部「独立交渉期におけるカレン民族運動-"a separate state"をめぐる政治」では、広範なカレンを名乗る主体を糾合した独立交渉期のカレン民族運動が、一時は独立ビルマの枠内で、カレン民族としてのまとまりを保証される「カレンの郷土」="a separate state"を求める点で一致したことがあることなど、カレン民族運動=ビルマからの分離運動という後世のイメージとは異なる展開があったことを解明している。

その上で、バプティスト・スゴーを核とする主流派のカレン民族同盟が、ビルマ東部に大きなカレン州設立を望んだのに対して、同じくバプティスト・スゴーを中心とした勢力でありながら、よりビルマ民族との混住という事実を受け入れるべきと考えたカレン青年機構は、ビルマ民族と親和的な政治制度をカレン民族の権利保障機構として選択した。これに対して、こうした平地カレンとは一線を画してビルマ政府との関係を形成しようとしたカレンニー諸派の動きもあり、カレンの運動が分裂していくことが描かれている。

以上のような本論文は、カレンの民族意識の形成と民族運動の展開について、従来の研究にない、新しい認識を提起している。

まず、第1部では、二つの仏教的カレン史書を発掘し、植民地権力とキリスト教宣教師による名づけ作用によってカレンという範疇が形成されたという従来の定説に対し、1920年代以降、ビルマ社会から周辺化された仏教徒としてのカレンが、「野蛮」な民族(ルーミョウ)ではなく、仏教的王権の伝統を保持する歴史をもつという自己主張をしていたことを解明し、キリスト教カレンとは異なる民族意識形成の道筋があったという、新しい認識を提起している。

また、第2部は、ミャウンミャ事件という史上初めての大規模なカレン=ビルマ間の民族衝突事件を本格的に論じた点で、先駆的業績となっている。ここでは、それまで言説上のカレン=ビルマ間の対立関係とは無縁であった仏教徒カレンの多くが、この事件でビルマ民族主義者から「政庁協力民族としてのカレン」の一部として規定され攻撃されることで、自らを「ビルマ民族に対抗的なカレン」という範疇に接合させていったことが、説得的に解明されている。

さらに、第3部の独立交渉期のカレン民族運動の分析では、従来、一路ビルマからの分離独立という方向に歩んでいったとされることの多いカレン民族運動が、ビルマ独立の直前の時期においては、むしろ独立ビルマの枠内で、カレン民族としてのまとまりを保証される「カレンの郷土」を求めていたことを、イギリス側の資料を丹念に読解して実証した点で、独創的な業績となっている。

このように、本論文は、カレンの民族意識形成と民族運動展開に関する、貴重な実証的成果をもつ研究であり、確実にカレン研究の水準を高めるのに貢献した点で高く評価できるが、審査では、審査委員から共通して一つの大きな問題が指摘された。これは、筆者自身が本論の3つの部を「3つの断片」と呼んでいることにも示されているように、3部の相互関連が必ずしも明確ではない、特に、第1部、第2部の分析の中心にすえられている仏教徒カレンが、第3部の記述では姿を消してしまうという問題である。この点に関して筆者は、独立交渉期の仏教徒に関しては史料的制約があること、各部のつながりが悪いのはカレン民族運動が、それぞれの段階で直面した問題の構造の相違があるためであるとしたが、なお改善の余地のある問題であろう。

しかしながら審査委員会は、この問題点は、今後の研究の深化の過程で克服されるべきものであり、本論文の基本的意義を否定するものではないと判断した。したがって、本審査委員会はこの論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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