学位論文要旨



No 124033
著者(漢字) 中島,朋子
著者(英字)
著者(カナ) ナカジマ,トモコ
標題(和) アメリカにおける「日本美術」観
標題(洋) Defining "Japanese Art" in America
報告番号 124033
報告番号 甲24033
学位授与日 2008.07.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第834号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 ホーンズ,シーラ
 東京大学 教授 遠藤,泰生
 東京大学 教授 菅原,克也
 東京芸術大学 教授 佐藤,道信
 東京大学 准教授 矢口,祐人
内容要旨 要旨を表示する

論文の内容の要旨:

本研究は、19世紀初頭から第二次世界大戦前までのアメリカにおいて、「日本美術」の真正さや正当性について、誰がどのように語ってきたのか、その主要な語り手の変遷が「日本美術」の言説やイメージにどのような変化をもたらせてきたのかということについて、民族学、消費文化、美術という3つの異なる学問分野から検討したものである。

これまでのアメリカ合衆国(以下アメリカと記す)における日本美術に関連する研究の多くは、「美術」という学問分野を前提とし、主に日本美術研究あるいはジャポニスム研究という視点から検討がおこなわれてきた。ところが近年においてアメリカの日本美術研究者たちにより、彼らの学問分野を取り巻くパラダイムの再検討がおこなわれ、その規範形成が、戦後とりわけ1960年代以降、日本の学界の影響を強く受けながら形成されてきたものであることが指摘されてきた。一方、日本の日本美術研究者たちも、「日本美術」という概念とそれをめぐる制度が、日本が近代国家を志向するなかでナショナルなイデオロギーを内包しながら明治時代以降に形成されたものであることを明らかにしてきた。つまり、ファイン・アートとしての日本美術は、明治時代以降に最初に日本で概念化され、それが戦後アメリカの日本美術観に大きな影響を与え、アメリカの日本美術研究者の間に所与の学問体系として浸透していったということが明らかになってくる。しかしながら、それ以前にもアメリカ社会には「日本美術」という言葉と、それに伴う概念が存在していた。本研究では、アメリカにおける「日本美術」という言葉と概念が、歴史的にどのように形成され概念化されたのかということを考えてゆく。第一部(第一章から第三章)では、19世紀初頭以降、アメリカで出版された地理書や旅行記に記述された「日本美術」の言説や、ジャポニスムの時代のアメリカの芸術家たちの日本美術論に注目し、これらのテキストが「日本美術」をエキゾチックな民族芸術として概念化していった過程を検討する。第二部(第四章から第八章)では、日本の開国後、とりわけ1870年代半ば以降、アメリカにおいて多くの「日本美術」品が流行の品として消費されるようになっていったが、その過程で「日本美術」のイメージは「商品」と結びつきながら、アメリカ人の間に浸透していったことを検証する。第三部(第九章から第十一章)では、近代国民国家を志向する日本が明治時代に、文化装置として国家美術=「日本美術」を構築していった過程を考察する。次に、その概念がアメリカにおいて、どのように提示され、やがてアカデミックな場を拠点として、ファイン・アートとしての概念を定着させる道筋を見いだしていったのかを考察した。

第一章では、アメリカで出版された「日本美術」について記述したテキストの分析を通じて、いかにその概念が「民族芸術」として構築されていったのかを考察してゆく。これまでの研究では、日本の開国以前に書かれた地理学者や旅行記作家が描いた「日本美術」論というものには、ほとんど関心が払われてこなかった。しかし1770年頃から1835年頃にかけては、西欧において「探検記の時代」と称される程、非西洋に関する情報が旅行記や探検記という形で次々と出版され、これらの情報を通じて、日本を含めた非西洋のステレオタイプが確立されていった。アメリカにおいても、多くの地理書や旅行記が出版され、それらの中で日本美術も詳細に記述された。そこで日本美術は、西洋美術の基準から逸脱した異質な「民族芸術」として「発見」される。ジェイムズ・クリフォードは、「部族芸術の『発見』という目的とその基底にある論理は、植民地および新植民地時代に根ざしたヘゲモニックな西洋的前提を再生産している」と述べているが、19世紀におけるアメリカの日本美術発見も、欧米諸国が西洋中心主義的世界観を作り上げるなかで、そのイデオロギーを反映しながら、おこなわれていった。第二章では、アメリカのペリー提督の日本遠征記が、どのように日本や日本美術を観察していたのかを考える。この時期に、アメリカも西欧の「日本」に関する「知」の構築に、旅行記の出版を通じて参加し始める。第三章では、ジャポニスムの時代に、「日本美術」の語り手が旅行記作家から芸術家へ移ってゆくと共に、その理解も珍品・民族標本から芸術品として認識されるようになってゆく。ただし、芸術品としての「日本美術」理解も、西洋のアカデミックな美術とは異質なものであり、モダンでエキゾチックな日本独自の美術と理解された。

第四章では、南北戦争後のアメリカ社会において、産業が急速に発達し、大量消費社会へ移行してゆくなかで、エステティック・ムーブメントと総称される美術の消費も芽生え、それが日本美術品流行の原動力となったことを見ていく。T・J・ジャクソン・リアーズが指摘するように、19世紀最後の四半世紀、アメリカにおける前近代の芸術やエキゾチックな芸術への一般的な興味、そして狭義には日本美術への興味は、社会の産業化とそれにともなう消費文化の萌芽と密接な関連があり、その文脈のなかで日本美術は主に商品として消費された。第五章では、アメリカに消費文化をもたらすのに重要な契機と考えられている1876年開催のフィラデルフィア万国博覧会において、イギリスの日本デザインの工芸品や日本の美術工芸品が好評を博したことを考察する。これらの商品は、万博会場において、本館と呼ばれた産業品の展示場に陳列され、日本館で土産品として販売されたことも、商品としての日本美術という概念に顕著な影響を与えた。第六章では、フィラデルフィア万博における日本の展示品が好評を博した背景にある日本政府の美術産業振興策について扱う。この時期、西欧諸国ではジャポニスムを背景に、日本美術が注目を浴びつつあったが、それは、1871-73年に欧米諸国に派遣された岩倉使節団や1873年に明治政府が初参加したウィーン万博の報告書によって、日本政府関係者も認知していた。当時の日本において、日本美術品は、日本の技術力と威信を欧米列強に誇示することが可能な数少ない輸出産業品であった。明治政府は、ウィーン万博などでの市場調査をもとに『温知図録』というデザイン帳を制作し、1875年から1881年にかけて、欧米市場が想像する「日本美術」品の制作振興をおこなった。第七章では、1870年代後半から1880年代にかけて日本美術ブームのなかで、当時のアメリカ社交界のリーダーや、インテリア関連書籍・雑誌などが、どのように日本美術を扱ったのかを考察する。さらにティファニー社とロックウッド・ポタリーを例にとり、これらの美術工芸品製造会社の日本デザインについても扱う。第八章では、1883年開催のボストン外国製造技術及工業博覧会における日本の展示品の売上不振が、アメリカにおける日本美術品の消費の担い手が、裕福で流行に敏感な層から、より幅広い大衆に移行してゆく契機となったことを考察する。さらに「日本人村」などの大衆娯楽的要素を伴った日本美術品即売会を通じて、エキゾチックで良品安価な商品へとイメージを変化させていったことも議論する。

第九章では、明治時代に「美術」という西洋の概念を移築し、近代国民国家としての体系を確立するなかで、国家のナラティブを内包した文化装置としての「日本美術」の概念・制度・歴史を構築してゆく過程を追う。第十章において、1880年代半ばから形成されつつあった国家美術としての「日本美術」を、日本政府が万国博覧会の場で、どのように展示したのか、それがアメリカにおいてどのように受容されたのかを分析する。日本が近代化を進めるなか、文化的にも文明化された国家であることをアピールするために、万博会場内の美術館で、国家美術の展示を願う日本政府は、1893年のシカゴ万博において、それを実現した。しかし、多くのアメリカ人が日本美術を民族芸術か商品と捉える状況のなかで、高尚なファイン・アートとして展示した作品は、日本が意図したようには受容されなかった。さらに20世紀に入り、日米双方において、「純粋な」日本美術は、江戸時代以前の古美術という理解で一致し、それ以降、欧米における日本美術の宣揚は、主に古美術展示を通じておこなわれるようになってゆく。第十章では、1920年代末から30年代にかけて、アメリカの「日本美術」という「知」の生産拠点が、アメリカの大学や美術館に移ってゆき、ファイン・アートとして概念化される過程を考察する。戦間期、アメリカでは、アメリカ主導の新たなアジア太平洋秩序を模索する時代を迎え、高等教育機関内に、アメリカがつくる「正確な」日本情報研究の場と研究者の育成が求められた。日本側でも、この時期、対外的に自国文化を「正しく」理解させることが対外政策の成否やその結果としての国際的地位向上を決するうえで重要であるという意識が生み出された。この日米間での「正しい」日本に関する知識への希求が、日米間の民間団体、高等教育機関、学界、資金援助財団のネットワークを構築し、日本地域研究という学問分野をアメリカの大学機関内に誕生させた。その過程で、アメリカの学者が日本に留学し、日本の学者がアメリカの大学機関に招聘される仕組みも生み出された。その図式のなかで、日本で近代に創られたファイン・アートとしての「日本美術」の概念が、アメリカのアカデミアを通じて、アメリカの「日本美術」観に戦後大きく影響を与えてゆく図式が作られた。

アメリカの「日本美術」観は、19世紀初頭からコロニアルな視線を内包した民族芸術として主にテキストの中に発見され、消費文化の台頭とともに商品として大量に流通したことによって決定付けられた。20世紀に入り、「日本美術」という知の生産拠点が大学や美術館に移行してゆくにつれて、日本で近代に創造された「日本美術」観を導入しながらファイン・アートとしての概念を確立していった。

審査要旨 要旨を表示する

中島朋子氏の論文審査は平成20年6月25日午後4時から6時まで、総合文化研究科18号館コラボレーションルーム2で行われた。審査委員はホーンズ・シーラ地域文化研究専攻教授、遠藤泰生地域文化研究専攻教授、菅原克也超域文化研究専攻教授、佐藤道信東京藝術大学教授、矢口祐人地域文化研究専攻准教授によって構成された。主査はホーンズが担当した。

本論文はアメリカにおける日本美術の定義に焦点をあて、さらに日本美術がいかに消費、研究されてきたかを論じたものである。日本美術史、アメリカ美術史、アメリカ消費文化論など多様な分野の先行研究をふまえて、アメリカにおける日本美術論の形成について分析をしている。「日本美術」という概念はときには日米それぞれで別箇に論じられながらも、過去一世紀の複雑な相互関係のなかで生み出されてきたものでもある。

本論文はアメリカにおける日本美術論を時系列的に三つのセクションに分けて論じている。第一セクションは、19世紀にアメリカで刊行された旅行記、地理本、(わずかな)専門書などをもとに、アメリカ人が日本美術をいかに発見し、概念化していったかを分析する。第二セクションはアメリカにおいて日本産の高級品が人気を博した19世紀末から、日本美術が安価な大衆品となっていった20世紀前半までを論じる。第三セクションでは日本において日本美術がいかに定義され、さらにその定義に基づいた日本美術品がアメリカに輸出されていった過程が説明されている。当時、アメリカでは「知の領域」が私的空間から公的空間、あるいはミュージアムのような大衆向けの「娯楽」施設から大学などの研究機関へ移りつつあった。アメリカにおける「知の生産」が変容するなかで、太平洋の両岸で日本美術を巡る言説が生み出されていった様子を分析している。

このように本論文は日本美術の概念とその定義を歴史学や文化地理学の視座から考察することで、その多様性と複雑性を明らかにしたものである。それにより、過去一世紀にわたりさまざまに変化をしてきた、アメリカにおける日本美術の意味を理解するものである。また本論文の意義は歴史分析にとどまらず、今日のアメリカにおける日本美術理解の手がかりをも提供している。たとえばこの研究は近年「日本美術」としてアニメや漫画がアメリカで注目されることについての歴史的文脈を与え、アメリカにおける今後の日本美術論の展望をも示唆している。

本論文の意義は多岐にわたるが、なかでも日英両方の言語の資料を駆使し、日米の美術論をきわめて学際的に考察した点を審査委員会は高く評価した。また一世紀以上にわたる日本美術をめぐる複雑な受容史・学術史について、わかりやすく、きわめて説得力のある分析が行われていることも評価された。さらに論文の後半で展開される、アメリカにおける戦間期の日本美術論はきわめて斬新な情報と分析であり、戦後の日米間で起こった美術論を理解するための重要な歴史的知見を提供するものである。英文で執筆されたこの論文は、日本国内で日本語によって刊行されている日本美術に関する優れた研究成果を、欧米の研究者に広く紹介する役割を担うことにもなるであろう。

むろん、本論文にもいくつかの問題点がないわけではない。論文の叙述は非常に読みやすく仕上がっているが、逆にそのために論旨がやや平板になっている部分がみられることが指摘された。また、本論文は日英の資料を非常によく使っているものの、欲を言えば日本国内の日本語資料をさらに用いる余地もあったと思われる。さらに1930年代から40年代のアメリカにおける日米美術論の紹介と分析はきわめて意義深いものであるものの、当時の日米間の外交的な緊張関係についてより注意を払うべきではないかという指摘もあった。論文の英文はわかりやすく、読みやすく書かれているが、いくつかの表現などに関してはさらに推敲すべき個所があることも指摘された。

ただし、これらの問題点はすべて本論文の優れた意義から派生して生じていることであり、審査委員一同はこの論文の学術性、学際性、独創性などを高く評価した。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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