学位論文要旨



No 124035
著者(漢字) 益尾,知佐子
著者(英字)
著者(カナ) マスオ,チサコ
標題(和) 中国における「独立自主の対外政策」の形成 : 毛沢東時代から改革開放へ
標題(洋)
報告番号 124035
報告番号 甲24035
学位授与日 2008.07.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第836号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,明彦
 東京大学 教授 山影,進
 東京大学 名誉教授 石井,明
 東京大学 教授 高原,明生
 東京大学 准教授 川島,真
内容要旨 要旨を表示する

【問題設定】

1970 年代末、中国では「改革開放」が始まった。それまで長い間東アジアの政治的・軍事的対立の中心的アクターであった中国が、経済建設を国家の最大目標として掲げ、周辺環境の安定を追求し始めたことを転換点として、東アジアは冷戦の終焉に先立って比較的平和な経済的繁栄の時代を迎えることとなった。

1982 年9 月に正式に提起された「独立自主の対外政策」は中国の転身ぶりの象徴のひとつである。その柱として強調されたのが、「主権と領土の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存」の平和共存五原則をすべての国家との関係に適用し、各国との関係を発展させていくことだった。これは近代主権国家体制においては極めて一般的な国家間原則であり、「独立自主の対外政策」の提起――中国では単に「調整」と言われている――は海外では中国外交の「常識化」とも呼ばれている。本稿はなぜ中国があえてこの政策を掲げたのかという問題意識に基づき、「独立自主の対外政策」が改革開放の展開の中でいかに形成されていったかを検討した。

この改革開放については、中国の指導者には当初明確な改革への明確な青写真がなく、その始動は極めて政治的な決定であったとされる。1978 年末の中共11 期三中全会は一般に改革開放の始点とされるが、会議コミュニケに謳われたのは「対外開放」のみである。先行研究は改革開放の始動をめぐる国内政治の中で対外政策が果たした役割について充分な考察を行ってきたとは言えない。他方「独立自主の対外政策」の提起については、米中ソのパワー・ポリティクスの面から説明を行う先行研究は多いが、なぜ中国外交が1982 年にあえて「常識」的な新政策を提起したのかという問題に答えてはいない。

他方、「独立自主の対外政策」の成立に関する中国側の説明は、この政策転換がそれまでの中国の国際共産主義運動の取り組みへの総括を踏まえて実現したことを暗示している。本稿は毛沢東の晩年から改革開放初期にいたる中国の対外政策と国内政治との関連性について分析を行い、改革開放の始動をめぐる国内政治の展開について再検討し、さらに中国の指導者の対外認識の変容に着目しながら「独立自主の対外政策」が形成された過程を考察している。

【仮説と内容】

本稿は次のように仮説を設定する。1978 年末、小平は毛沢東の対外政策に理論的に依拠して対外開放を発動した。しかしその直後の中越戦争の衝撃を契機として中共内部で毛の対外政策への見直しが開始された。これは党全体の脱イデオロギー化を促進し、外交面では「独立自主の対外政策」の形成をもたらした。(序章)

本稿はまず、建国以降の中国の国際共産主義運動への取り組みを概観し、その上で文革後期における小平の復活の過程と対外活動について検討した。1969 年の国境紛争でソ連への警戒を高めた毛沢東は米国に接近し、米国を含めた世界各国を「一条線」(一本の線)のように団結させてソ連を牽制する「一条線」戦略を打ち出し、三つの世界論を提起してソ連を階級の「主要敵」と規定し、新戦略を理論的に正当化した。毛が新しい反ソ政策の担い手として起用したのが、かつて中ソ論争で功績のあった小平であった。小平は毛の意向に忠実に従って「一条線」の強化に尽力し、小平が国内政策で毛と意見を違えたときも、毛の小平への外交面での信頼は揺るがなかった。この作業を通して、小平は毛沢東の対外政策の正統な後継者として位置づけられる。(第1 章)

次に本稿は小平による1978 年の権力奪回の過程を検証する。小平は1976 年春に再び失脚したが、毛の死後の1977 年夏に政治復活を遂げた。当時ソ連はアフリカ、中東、東南アジアなどに勢力を伸張し、中国は警戒を強めていた。これを踏まえ、小平はイデオロギー的な「理論」に基づいて内外政策を策定する党内の伝統的な政治手法を政権奪回に活用した。つまり毛晩年の「一条線」戦略の成果を強調し、現在ソ連の脅威が拡大しているからこそ、西側先進国が対ソ牽制力として中国の強大化を望んでおり、西側の助力を得てソ連の脅威を封じ込めながら迅速に国内の経済建設を進めるチャンスが訪れていると党内で主張した。中国とソ越両国との関係は小平の指導権の確立に並行して緊張し、小平は1979 年2月に中越戦争を発動した。(第2 章)

中越戦争は必ずしも中国が想定していたような成果を生まず、かつての「同志」ベトナムへの攻撃は中共党内に大きな衝撃を生んだ。本稿は次に、中越戦争後に党内で行われた国際共産主義運動への総括について分析する。運動が終焉したという認識の下、中国の指導者はまず兄弟党との党際関係のあり方への見直しに着手した。さらに毛沢東の功罪を評価した「歴史決議」をめぐる党内大規模討論と並行して、1981 年春までに毛沢東の対外政策の「理論」的な絶対性を否定した。それ以降、中国の全体的な政策策定においてイデオロギーの作用は大きく後退した。また中国の指導者はこの過程で、階級ではなく主権国家を国際関係の中心的なアクターに位置づけ、国益確保を国家の最大の課題として再設定し、国際秩序は国家間の勢力均衡によって維持できるとする対外認識へと転換した。ただし毛沢東の対外政策に小平が深く関与した経緯により、以上の見直しは小平の権威を擁護しながら極秘のうちに進められることになった。(第3 章)

続けて本稿は、このような対外認識の転換が中国の実際の対外行動を変化させ、「独立自主の対外政策」の提起を導いたことを分析する。国際関係における国家主権の重要性を再確認した中国の政策指導者にとって、対米関係の動揺は最初の試金石となった。ソ連を依然中国の安全保障にとっての最大の脅威と認識していた小平は、米国との戦略的協力関係の維持を強く望んだ。しかしレーガン政権が台湾への先進的兵器の売却の意向を示すと、小平はこれを重大な国家主権侵害と認識した。1981 年夏から1982 年前半にかけ、中国は米国との戦略的関係維持のため国家主権問題で米国の譲歩を求めたが、米国側は逆に対ソ戦略の重要性を強調して中国に譲歩を迫った。1982 年夏、小平は国家主権の擁護を対ソ戦略に優先させ、米国との協力を断念して対外関係を調整する決定を下した。直後に開かれた12大で、中国は近代主権国家体制に全面的に則った「独立自主の対外政策」を正式に提起し、ソ連とは緊張緩和を図り、第三世界に接近し、勢力均衡によって国際秩序の安定を目指す政策転換を行った。(第4 章)

最後に本稿は『人民日報』を用いた簡単な言及頻度分析を行って以上の分析との整合性を検証した。そして中国外交史の視点から「独立自主の対外政策」の形成過程を振り返り、毛沢東の晩年から改革開放初期にかけて、中国の対外政策がプロレタリア国際主義を前提としたものから近代主権国家体制に全面的に依拠したものへと性質転換を遂げたと指摘した。(終章)

【本研究の特徴】

これまで中国政治および中国外交の研究においては、毛沢東時代と改革開放時代の質的な差異が強調され、双方の関連性はほとんど検討されてこなかった。本稿は対外政策が毛の死後の国内政治の展開に果たした役割を取り上げ、当時の党内政治におけるマルクス・レーニン主義的な「理論」の作用や中国の対外政策の変容といった問題について再考した。これによって本稿は、外交を切り口として二つの時代の連続性や関連性を指摘し、静的なイメージで捉えられがちな中国外交の変化のダイナミズムを考察した。

本稿は改革開放時代の最高指導者となった小平に分析の焦点を置き、毛沢東の対外政策への小平の関与について詳述した。国内政策で両者が意見を違えたことを根拠として、通説は両者の考え方や政策の差異を強調してきた。しかし本稿の分析は、むしろ対外政策における両者の一致点を浮かび上がらせ、小平が毛の対外政策を用いてかつて毛に批判を受けた国内政策を理論武装し、党内権力の掌握に活用するとともに、中国を改革開放の新時代に導いたと指摘する。1978 年の時点では、イデオロギーはなお中国政治に大きな影響力を持っていたと考えられる。

本稿はさらに、毛の対外政策の延長として発動された中越戦争の衝撃によって、党内で対外政策への再検討が開始されたとし、この過程で毛の「理論」の絶対性が否定され、経済政策を含めた中共の全体的な政策策定が脱イデオロギー化したと指摘する。この再検討を踏まえ、対外政策においては階級よりも主権国家としての立場が全面に打ち出されるようになった。しかし改革開放時代の最高指導者となった小平が毛沢東外交の申し子であったため、中国はその後も毛の対外政策を公式に否定することができず、新政策を「独立自主の対外政策」と名づけて対外政策の毛沢東時代からの一貫性を強調し続けたと分析できる。

本稿のもうひとつの特色は、豊富な党史関連資料や内部資料と中国国外の情報を組み合わせ、先行研究でほとんど検討されてこなかった中共の対外関係(党際関係)の変容について分析を行っていることである。本稿は特に党際関係の実務機関である中共中央対外連絡部の活動に光を当てており、中越戦争後に中共がどのように党際関係を整理したかを検討し、国際共産主義運動をめぐる党内討論が中国外交の性質転換に結び付いたことを裏付けている。この作業によって本稿はまた、最高指導者の意向に必ずしもそぐわない対外政策の転換(「一条線」戦略の放棄)が、対外関係に従事する外交実務者たちの作用によって実現したことを指摘し、中越戦争後の対外政策をめぐる党内討論が対外政策決定における実務者の役割の拡大につながったと示唆している。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「中国における『独立自主の対外政策』の形成-毛沢東時代から改革開放へ」は、1982年9月に中国が正式に提起した「独立自主の対外政策」が、どのような要因によって、どのような過程を経て形成されたのかを、現時点で利用しうる資料・インタビュー・新聞の内容分析などによりながら、徹底的に解明することを試みた業績である。イデオロギー的側面と戦略的側面の複雑な交錯によって世界を翻弄した感のあった毛沢東時代の外交から、中国が、「常識的」ともいいうる外交に転換をとげたのが、1982年の「独立自主の対外政策」の提起であった。ここにこそ現代に連なる中国外交の起点があったともいいうる。しかしながら、この政策転換について、これまでアメリカのレーガン政権の台湾政策の変化などを強調し、米中ソ三国間のパワー・ポリティクスの変化として語られることは多かったが、歴史的にこの転換を資料をもとに詳細に位置づけた業績は少なかった。本論文は、このような戦略関係のみによる説明の不十分さを指摘しつつ、政策転換が起こった背景を歴史的により長期の視点からとらえるとともに、具体的な転換過程を詳細に明らかにし、現代中国外交研究に新たな一石を投じた論文である。

論文は、序章につづいて4章からなる本論そして終章が続くという構成になっている。序章では、中華人民共和国成立以後の中国外交に関する先行研究を検討し、その中で「独立自主の対外政策」の持つ意味を位置づけるとともに、これまでの研究の欠落部分を指摘する。そのうえで、「独立自主の対外政策」の成立を考える上で必要となる著者なりの仮説を提示する。著者の仮説は、「1978年末、小平は毛沢東の対外政策に理論的に依拠して対外開放を発動した。しかしその直後の中越戦争の衝撃を契機に、中共内部で毛の対外政策への見なおしが開始された。これは党全体の脱イデオロギー化を促進し、外交面では『独立自主の対外政策』の形成をもたらした」というものである。

以下の四つの章は、この仮説のそれぞれの部分の検証にあてられる。第1章は、文革で失脚し、1974年に一度復活したが、1976年に再び失脚した小平が、外交面でいかに毛沢東と近かったかを論証した章である。毛沢東の外交路線であった「一条線」の戦略、さらには対外的に明らかにされた「三つの世界論」の形成に小平の果たした役割が論述される。この考察から、著者は、小平が毛沢東の対外政策理論の正当な後継者となり得たのだと主張する。

第2章は、毛沢東の死後、小平がいかにして政治的な再復活を遂げていったかが論述される。著者の主張は、「一条線」戦略という毛沢東理論の正統な後継者としての地位を利用して、小平は外交面を指導するとともに改革開放という国内政策をも推進したというものである。

第3章は、権力を奪還した小平が発動した中越戦争と、それが必ずしも成果をあげなかったことによってもたらされた動揺の影響を考察し、著者なりの解釈に基づいて以後の政治過程を分析した章である。動揺は、一方で毛沢東の功罪を評価する「歴史決議」作成の過程に影響をあたえ、中国政治を全体として脱イデオロギー化の方向に導いた。他方で毛沢東の戦略を利用して中越戦争を発動した小平の権威を維持する必要もあり、あくまで「調整」の結果としての「独立自主の対外政策」が生まれたとの公式見解がうまれる。しかし実際には、この動揺のなかから、国際社会の中で「主要敵」を見いだし、これをもとに対外戦略を形成するという毛沢東的な路線から決別する考え方が、外交実務者レベルの人々の間で形成されるようになったと著者は論述する。

第4章は、第3章で観察されたような対外認識の変化が起きているところに、アメリカのレーガン政権による台湾政策の変化が起き、これが小平をして、これまでの「一条線」の戦略を放棄し、実務者たちの提起した「独立自主の対外政策」の受容に動かせたと論証する。終章では、このような歴史資料に基づく解釈の妥当性をさらにチェックするために、人民日報に登場する重要概念についての言及頻度分析を行い、著者の解釈と整合的な変化が見られることを確認する。

本論文について評価すべき点は三つある。第1は、本論文が「独立自主の対外政策」の成立という重要テーマについて、中国の内外政のすべてに関連し、しかも小平という指導者のリーダーとしての役割についてまで包含する仮説を提示し、論述を試みたことである。本論文によって、「独立自主の対外政策」の形成について、はじめて包括的かつ詳細な説明が与えられたといっても過言でない。

第2に評価すべき点は、本論を構成する論述における実証面での貢献である。外交における文革期以前からの小平と毛沢東との関係、中越戦争前後の中国内部の動き、国際共産主義運動に対する中国の対応の変化、レーガン政権誕生以降のアメリカの政策に対する中国内部の反応などの部分は、新しい資料や、著者の中国におけるインタビューによる知見などを生かした研究で、実証研究として極めて高い価値を持っている。

第3に評価すべき点は、「改革開放」政策と小平の権力奪取という極めて国内政治的な問題に関して、「外交」が極めて重要であったという刺激的な仮説を提示したことである。「改革開放」政策の誕生は、現代中国研究にとって極めて重要であるにも関わらず、依然として十分な政治過程の分析は行われていない。この面で、重要な仮説を提示した意義は極めて大きい。

このように学問的価値の極めて高い論文であるが、さらに改善の余地が無いわけではない。第1に、「独立自主の対外政策」が外交として、どれだけそれ以前の外交と異なっているのかについての理論的整理は、さらに進める必要があると思われる。それ以前の外交が単純なイデオロギー外交とは言い切れないとすれば、政策転換の理論的意味をもう少し明らかにする必要があった。第2に、改革開放と外交との関係、小平の復権の過程の政治分析などは、依然として仮説提示の段階にとどまっており、実証面では十分展開されているとはいえない。しかし、このように改善を要する点はあるものの、そのことは、本論文の学問的価値を大きく損なうものではない。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク