学位論文要旨



No 124036
著者(漢字) 鈴木,絢女
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,アヤメ
標題(和) マレーシア政治体制論の再構築 : 政治的自由の制限と協議的政治過程
標題(洋)
報告番号 124036
報告番号 甲24036
学位授与日 2008.07.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第837号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山影,進
 東京大学 教授 田中,明彦
 東京大学 教授 遠藤,貢
 明治大学 教授 鳥居,高
 政策研究大学院大学 教授 恒川,惠市
内容要旨 要旨を表示する

要約

本稿の目的は、野党も参加する包括的選挙を定期的に実施する一方で、議会という民主的枠組みによる政治的、市民的自由の制限によって特徴付けられるマレーシアの政治体制を説明、理解するための新たな理念型を示すことである。

第一章では、既存研究を批判的に検討したうえで、本稿の枠組みを提示する。

同国の政治体制は、これまで、(1)権威主義的志向を有する政府や議会多数派(与党)と、市民社会や議会少数派(野党)などの「対抗勢力」との権力バランスを強調する「民主化モデル」、(2)経済開発と政治的安定の実現を目的として労働者を抑圧する国家や資本家階級と労働者の間の権力不均衡に注目する「開発独裁モデル」、そして、(3)多数派民族の少数派民族に対する優位を強調する「コントロール・モデル」のいずれかによって説明、理解されてきた。以上のモデルは次の二つの共通点を有する。

第一に、議会少数派、少数派民族、労働者などの「劣位集団」を抑圧せんとする議会多数派、政府、多数派民族、資本家といった「優位集団」による一方的な制度形成から自由を制限する政治体制の成立を説明し、それによって抑圧される劣位集団の相対的権力の小ささによってそのような体制の持続を説明する。第二に、マレーシアの政治体制を自由民主主義の「欠如態」と位置づけるか、競争的選挙と法の支配を要素とする自由民主主義と、選挙も自由も存在しない「権威主義」とを両端とするスペクトルの中間に位置づけるにとどまり、制度的内容の検討を欠く。

これに対して、本稿は次の三つの事実を指摘し、既存研究に異議を唱える。第一に、自由を制限する政治制度は、優位集団により一方的に形成されるのではなく、少数派民族、多数派民族、議会外主体、議会少数派、議会多数派、政府など、異なる主体問での議論、交渉、取引という協議的過程を経て成立する。第二に、個人の言論、出版、結社の自由に対する政府の介入は、協議的過程を経て明文化される法と、そのような過程で醸成される法に関する共通了解によって制限されており、行政府が全く恣意的に市民の自由に介入できるというわけではない。第三に、議会少数派、少数派民族、議会外主体も含めた多様な主体が、協議的枠組みを通じて立法や政策などの集合的決定に影響を与える機会がある。

既存研究が上の事象を十分に説明できないのは、民主主義の理念型から同国の政治体制がどのくらい乖離しているかという問題に執心するあまり、乖離した制度の内容、成立過程、実施に関する実証を欠くためである。そこで本稿は、同国における自由の制限の中核をなす政治的権利を制限する法をめぐる政治過程と、その運用、すなわち、適用および立法の結果として現出した集合的決定のパターンの研究により、自由競争の欠如としてのみ理解されてきたマレーシアの政治体制の制度的内容と正当化原理を明らかにしたうえで、新たな理念型を提示する。

従来、同国の政治体制は、個人の権利の重視/「法の支配」による政府や多数派の制限/選挙を典型とする自由競争による集合的決定の三要素により特徴づけられる「自由主義」モデルの「欠如態」であり、個人の権利に対する共同体の利益の優越/政府や多数派を拘束する規範の不在/何らかの競争の結果として権力を得る政府や多数派による一方的な決定を要素とするとされてきた(本稿では「人民主権主義モデル」と名づける)。これに対して本稿は、上に指摘した三つの事実から、同国の政治体制は、個人の権利に対する共同体の利益の優越/協議にもとづく合意を基礎として成立する法による政府や多数派の拘束/協議にもとづく集合的決定の三要素を特徴とする「合議主義」モデルによって、最もよく説明、理解しうると主張する。

「合議主義モデル」の有効性は、以下の実証部各章により裏付けられる。

マレーシアの政治史を概観した第二章に続く第三章では、言語、市民権、多数派である先住民族(ブミプトラ)に対する経済的機会の優先的分配の根拠であったブミプトラの特別な地位など、民族的出自に由来する権利に関する言論の自由を禁止する1971年憲法(修正)法の成立と実施について論ずる。自身の経済的後進性に由来するブミプトラの不満や、彼らの特別の地位に対する非ブミプトラの不満を背景とした1969年の民族対立が、同法の直接的な契機であった。既存研究は、ブミプトラが自身の特別な地位を保護する目的で同法を成立させたとしてきたが、実際には同法は、(1)特別の地位についての議論を封じ、自身の経済的地位向上をめざしたブミプトラ与野党と、(2)多数決による自分たちの市民権、雇用機会、財産の侵害を避けようとした非ブミプトラ与野党と企業家という、異なる主体問での笹のはめあいとして成立した。この修正後、多数派・少数派各民族の与野党が大連合を形成し、言論の自由を禁止された事項の実施(政策)を協議する仕組みができた。

第四章は、1981年、1983年結社法(修正)法を検討する。1970年代末から、NGOなど多数の議会外主体が登場し、既存の政党政治の枠外で活動するようになった。これに対し、利益表明の唯一正当なチャネルたろうとする与党と政府は、1981年結社法(修正)法によって政治参加資格を制限しようとした。しかし、自身の利益表明機会の保障や多元的政治過程の創出をめざした議会少数派と議会外主体がこれに反対した結果、政府、議会多数派と議会外主体、議会少数派の間での議論、交渉、妥協の過程が生じ、結局、NGOに対する行政の監視、介入権限を定める一方で、政治参加資格を大幅に緩和した1983年結社法(修正)法が成立した。同法の運用としては、NGOの活動への政府介入が限定的であることや、政策や立法過程におけるNGOの参加が拡大したことが指摘できる。協議的過程を経て成立した1983年結社法は、新たな主体による政治参加のルールを明確にし、新旧主体問の摩擦を避けながら前者を政治過程に包摂した。

第五章は、開発の時代における出版の自由と知る権利に関する1986年国家機密法(修正)法を検討する。開発行政関連情報への市民のアクセスを制限しようとした政府は、開発プロジェクト関連文書も含む広範な文書を公務上の秘密とする上記法を下院に上程した。これに対し、自身の利益にとって死活的重要性を持つ情報へのアクセスの保障を目指した議会多数派が、公務上の秘密の範疇の限定を主張する一方で、議会外主体や議会少数派は、行政の透明化と恣意的な法の適用の回避とを目的として、情報公開法の制定を要求した。これらの反論の一部は法案に反映され、公務上の秘密の範疇を縮小した修正法が成立した。同法の運用は、野党支持者の制御のための限定的な適用と、情報公開の慣行化によって特長づけられる。同法は、あらゆる主体が知り、またそれにもとついて言論活動を行いうるような情報のレファレンス・ポイントとなっている。

第六章で論じた、出版の自由に関する1987年印刷機・出版物法(修正)法と、連邦の司法権の修正を意図した1988年憲法(修正)法は、(1)出版を通じた政府経済運営の批判、(2)コモン・ローや法の普遍的原則を重視する司法と、議会法の優越を主張する行政との対立、(3)経済政策をめぐる民族対立と、出版を通じた対立の熾烈化、それを契機とする国内治安法による大量逮捕を背景とする。同法は、虚偽報道や好ましからざる出版物を禁止する絶対的権限を大臣に与えるもので、経済運営の円滑な実施と出版を通じた論争の制限を目指した政府、自身の特別の地位にもとづく優先的分配に対する批判を制限しようとしたブミプトラ与党と、やはり出版を通じた自身への非難を回避しようとした非ブミプトラ与党と企業家という、それぞれ異なる意図を反映して成立した。野党や議会外主体は同法に反対したが、大量逮捕後の状況で反対運動は広がらず、十分な協議が行われなかった。その結果、同法は、野党や議会外主体の活動を制限するために頻繁かっ柔軟に解釈、適用された。また、1988年憲法(修正)法は、従来裁判所に付与されていた「連邦の司法権」という語を憲法から削除し、裁判所を連邦法の下に置くことを意図したもので、議会多数派によって制定される法の優位の確立と、裁判所を通じた異議申し立てによる行政行為の挫折の回避を目指した政府の意図が、排他的に実現したものであった。

以上の二つの法は、立法をめぐる政治過程の限定性により特徴付けられるが、(1)全体としてみれば、政治的権利を制限する法の濫用は印刷機・出版物法に限定されていること、(2)1988年憲法改正が実質的には政治体制の性格を変えなかったこと、(3)自由の制限と軌を一にして、少数派民族や議会少数派、議会外主体をも含む協議的枠組みが制度化したことから、本稿は、上の二つの法を「逸脱例」と位置づけ、合議主義モデルの有効性を擁護する。

協議的枠組みについて論ずるのが第七章である。長期経済計画に関する提言機関として1989年に成立した国家経済諮問評議会(National Economic Consultative Council:NECC)は、(1)出版や裁判を通じた行政行為に対する異議申し立てや主体間の対 決につながる自由競争を制限しようとした政府、(2)自由にもとづく多数決が少数派民族たる自らの地位に不利に作用する可能性を避けようとした非ブミプトラ政党と企業家、(3)これまで限られた利益表明機会しか持たなかった議会外主体という三者の利害の一致の帰結として成立した。本稿は、NECCにおいて選好が反映されやすい主体とそうでない主体の差があるという限界を認めつつも、利益を異にする主体が対立を避けながら一つの決定に至ることを可能にする枠組みとして、同機関が有効であったと論じる。

終章は、「合議主義」の理念型により理解しうるマレーシアの政治体制について整理したうえで、今後の課題について述べる。

審査要旨 要旨を表示する

「マレーシア政治体制論の再構築――政治的自由の制限と協議的政治過程――」と題する論文は、詳細な実証分析を踏まえながら、マレーシアの政治体制を説明、理解するための新たな理念型を示すものである。マレーシアでは何十年にもわたって野党も参加する包括的選挙を定期的に実施する一方で、政治的・市民的自由の制限が行政命令ではなく議会という民主的枠組みによる立法として行われてきたが、このことはマレーシア研究者や比較政治学者にとって、マレーシアの政治体制をどのように理解すればよいのかという難問となっていた。そのために諸説が展開されてきたが、説明されるべきことはなぜ強権的、抑圧的な政治体制が持続しているのか、という点で共通していた。7章と終章(A4用紙viii+236枚)からなる本論文は、マレーシアの政治体制を抑圧的なものと捉える従来の見方に対して、具体的に政治的権利の制限をめぐる政治過程を詳細に分析することを通じ、第1に一方的な抑圧ではなく一定の合意形成であること、そして第2に合意に至る協議方式にマレーシアの政治体制の特徴があることを明らかにしたものである。

まず、第1章では、既存研究を批判的に検討したうえで、新しい理念型を提示する。すなわち、マレーシアの政治体制をめぐる先行研究を(1)権威主義的志向を有する政府や議会多数派(与党)と、市民社会や議会少数派(野党)などの「対抗勢力」との権力関係を強調する「民主化モデル」、(2)経済開発と政治的安定の実現を目的として労働者を抑圧する国家や資本家階級と労働者の間の権力不均衡に注目する「開発独裁モデル」、(3)多数派民族の少数派民族に対する優位を強調する「コントロール・モデル」の3タイプに整理する。そして、これらに共通する特徴を次のように批判する。第一に、議会少数派、少数派民族、労働者などの「劣位集団」対する議会多数派、政府、多数派民族、資本家といった「優位集団」による抑圧的政治制度の形成によって政治的自由を制限する政治体制の成立を説明し、劣位集団の相対的権力の小ささによってそのような体制の持続を説明しているが、実際には両者の協議と合意による制度形成であり、一方的抑圧ではなく両者とも拘束される制度である。第二に、マレーシアの政治体制を自由民主主義の「欠如態」と位置づけるか、自由民主主義と権威主義とを両端とするスペクトルの中間に位置づけるにとどまり、その制度的内容の検討を欠いている。

このような既存研究の短所を乗り越えるために、本論文では、マレーシアの政治体制を説明するために、政治体制の新たな理念型として(1)個人の権利に対する共同体の利益の優越、(2)協議にもとづく合意を基礎として成立する法による反対派・少数派のみならず政府・多数派に対する拘束、(3)協議にもとづく集合的決定、の三要素を特徴とする「合議主義」モデルを提唱する。

第2章以下は、この新たな理念型の妥当性を検証するために、マレーシアにおける自由の制限の中核をなす政治的権利を制限する法をめぐる政治過程と立法の結果として現出した集合的決定のパターンを実証的に分析する。

第2章ではマレーシアの政治史を独立以前にまで遡って概観し、マレー系、中国系、インド系という3つの民族的出自に基づく主要民族集団が共存する政治の枠組みの全体像が示される。その中で、1969年5月に起こった民族集団間対立を直接的契機とする暴動事件を受けて、1970年代、80年代に生じた政治的自由を制限する立法の諸事例が位置づけられる。第3章以降で、これら諸事例を詳細に分析する。

第3章では、言語、市民権、多数派であるマレー人その他先住民族(ブミプトラ、土地の子の意)に対する優遇など、民族的出自に由来する権利をめぐる言論の自由を禁止した1971年憲法改正法の成立と実施について論ずる。自身の経済的後進性に由来するブミプトラの不満や、彼らの特別の地位に対する非ブミプトラの不満を背景とした1969年の民族対立が、憲法修正の直接的な契機であった。ブミプトラが自身の特別な地位を保護する目的で同法を成立させたとする既存研究の見方に反して、実際には同法は、(1)特別の地位についての議論を封じ、自身の経済的地位向上をめざしたブミプトラ与野党と、(2)自分たちの市民権、雇用機会、財産に対する多数決による侵害を避けようとした非ブミプトラ与野党と企業家という、異なる主体間でのタガのはめあいとして成立したことが示される。この修正後、多数派・少数派各民族の与野党が大連合を形成し、言論の自由を禁止された事項の実施(政策)を協議する仕組みができたことを指摘する。

第4章では、1981年と1983年の結社法改正法を検討する。1970年代末から、NGOなど多数の議会外主体が登場し、既存の政党政治の枠外で活動するようになった。これに対し、利益表明の唯一正当なチャンネルたろうとする与党と政府は、政治参加資格を制限しようとした1981年結社法改正法を成立させる。しかし、自身の利益表明機会の保証や多元的政治過程の創出をめざした議会少数派と議会外勢力が反対を続けた結果、政府、議会多数派と議会外勢力、議会少数派の間での議論、交渉、妥協の過程が生じ、結局、NGOに対する行政の監視、介入権限を定める一方で、政治参加資格を大幅に緩和した1983年結社法改正法が成立したことが明らかにされる。同法の運用としては、NGOの活動への政府介入が限定的であることや、政策や立法過程におけるNGOの参加が拡大したことが指摘される。要するに、協議的過程を経て成立した1983年結社法は、新たな主体による政治参加のルールを明確にし、新旧主体間の摩擦を避けながら前者を政治過程に包摂したことが示される。

第5章は、出版の自由と知る権利に関する1986年国家機密法改正法を検討する。開発行政関連情報への市民のアクセスを制限しようとした政府は、開発プロジェクト関連文書も含む広範な文書を公務上の秘密とする上記法を下院に上程した。これに対し、自身の利益にとって死活的重要性を持つ情報へのアクセスの保障を目指した議会多数派が、公務上の秘密の範疇の限定を主張する一方で、議会外勢力や議会少数派は、行政の透明化と恣意的な法の適用の回避とを目的として、情報公開法の制定を要求したために、これらの反論の一部は法案に反映され、公務上の秘密の範疇を縮小した修正法が成立した過程が明らかにされる。同法の運用は、野党支持者の制御のための限定的な適用と、情報公開の慣行化によって特徴づけられる。同法は、あらゆる主体が知り、またそれにもとづいて言論活動を行いうるような情報のレファレンス・ポイントとなっていることも示される。

第6章では、出版の自由に関する1987年印刷機・出版物法改正法と、連邦の司法権の修正を意図した1988年憲法改正法をめぐる政治過程を分析する。この2つの立法は、(1)出版を通じた政府経済運営の批判、(2)コモン・ローや法の普遍的原則を重視する司法と、議会法の優越を主張する行政との対立、(3)経済政策をめぐる民族集団間対立と、出版を通じた対立の熾烈化、それを契機とする国内治安法による大量逮捕を背景とする。1987年印刷機・出版物法改正法は、虚偽報道や好ましからざる出版物を禁止する絶対的権限を大臣に与えるもので、経済政策の円滑な実施と出版を通じた論争の制限を目指した政府、自身の特別の地位にもとづく優先的分配に対する批判を制限しようとしたブミプトラ与党と、やはり出版を通じた自身への非難を回避しようとした非ブミプトラ与党と企業家という、それぞれ異なる意図を反映して成立した。ここでは、野党や議会外勢力は同法に反対したが、大量逮捕後の状況で反対運動は広がらず、十分な協議が行われなかったが明らかにされる。その結果、同法は、野党や議会外勢力の活動を制限するために頻繁かつ柔軟に解釈、適用されたことも示される。また、1988年憲法改正法は、従来裁判所に付与されていた「連邦の司法権」という語を憲法から削除し、裁判所を連邦法の下に置くことを意図したもので、議会多数派によって制定される法の優位の確立と、裁判所を通じた異議申し立てによる行政行為の挫折の回避を目指した政府の意図が実現したものであることが指摘される。

第6章で扱った2つの法は、筆者の提唱する「合議主義」モデルからの逸脱例のように見えるが、(1)全体としてみれば、政治的権利を制限する法の濫用は印刷機・出版物法に限定されていること、(2)1988年憲法改正は実質的には政治体制の性格を変えなかったこと、(3)自由の制限と軌を一にして、少数派民族や議会少数派、議会外勢力をも含む協議的枠組みが制度化したことから、本論文では、「合議主義」モデルの有効性を主張する。

第七章では、1989年に成立した協議的枠組みについて論ずる。すなわち、長期経済計画に関する提言機関として設置された国家経済諮問評議会(National Economic Consultative Council: NECC)は、(1)出版や裁判を通じた行政行為に対する異議申し立てや主体間の対決につながる自由競争を制限しようとした政府、(2)自由にもとづく多数決が少数派民族たる自らの地位に不利に作用する可能性を避けようとした非ブミプトラ政党と企業家、(3)これまで限られた利益表明機会しか持たなかった議会外勢力、という三者の利害の一致の帰結として成立した。この章では、NECCにおいて選好が反映されやすい政治主体とそうでない主体の差があるという限界を認めつつも、利益を異にする主体が対立を避けながら一つの決定に至ることを可能にする枠組みとして、同機関が有効に機能したことが示される。

終章は、政治的自由を制限するマレーシアの政治体制の特徴を整理する。まず、自由を制限する制度は、優位集団により一方的に形成されるのではなく、少数派民族、多数派民族、議会外勢力、議会少数派、議会多数派、政府など、利害の異なるさまざま主体間での議論、交渉、取引という協議的過程を経て成立する。第2に、個人の言論、出版、結社の自由に対する政府の介入は、協議的過程を経て明文化される法と、そのような過程で醸成される法に関する共通了解によって制限されており、行政府が全く恣意的に市民の自由に介入できるというわけではない。第3に、議会少数派、少数派民族、議会外勢力も含めた多様な主体が、協議的枠組みを通じて立法や政策などの集合的決定に影響を与える機会がある。このような特徴は「合議主義」モデルにより理解できるとまとめられる。

以上のような内容を持つ本論文は、マレーシアの政治体制についての理解を大きく進めるものである。何よりも本論文の学術的貢献は、1970年代初めから80年代末にわたる政治的自由を制限する立法の諸事例について、立法化の政治過程と立法後の運用を議会資料やその他の一次資料をもとにして詳細に分析した点にある。これは、今までのマレーシア政治研究が軽視してきた分野に初めて切り込んだことを意味している。このことと関連して第2に、先行研究が政治的自由を制限する法律が存在するという事実に基づいてマレーシアの政治体制が抑圧的性格を持ち自由民主主義から乖離していることを前提にして議論を展開してきたのに対し、本論文はその政治過程や運用を明らかにすることにより、先行研究が提供してきたステレオタイプ的な見方を修正した。すなわち、マレーシア政治体制に組み込まれた協議制度を明らかにし、政治的自由の制限は一方的抑圧ではなく政府、与党といえども制約下に置くものであることを指摘し、実際にそのように運用されていることを明らかにして、既存研究が見落としてきたマレーシアの政治体制の特徴を指摘した。第3に、マレーシアの政治体制を理解するために、民主主義と権威主義との一次元上に政治体制を類型化する従来の捉え方に対し、それとは次元の異なる「合意主義」モデルという理念型を提唱した。

以上のように、マレーシアの政治体制論として高く評価できる本論文にも問題点がある。第1に、第6章で分析した1980年代後半の2つの事例について、「合意主義」モデルでは十分に説明できない政治過程がなぜ生じたのか、その理由を深く追求していない点を指摘できる。第2に、本論文は「合意主義」モデルが比較政治学全般にとって有用な一般的モデルとあると主張しているが、マレーシアの政治体制(特に1969年以降のそれ)を説明するのに成功しているものの、果たして一般性があるかどうかについては実証分析が不足している。

もっとも、以上のような問題点は、マレーシアにおける政治的自由の制限という現象が、多くの場合、諸政治勢力が合意形成に向けて協議した結果であることを明らかにした本論文の学術的価値をいささかも損なうものではなく、なぜマレーシアでは「合議主義」モデルで理解可能な政治体制が形成・維持されたのかという問題の解明や、権威主義的であると評価されてきた多くの途上国の政治体制の本論文のような視点からの分析といった今後の課題に繋がるものである。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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