学位論文要旨



No 124045
著者(漢字) 林,周一
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,シュウイチ
標題(和) ウニ精子鞭毛の振動運動の基礎となる微小管滑り運動切り替え機構における屈曲の役割
標題(洋) Roles of mechanical bending in the switching mechanism of microtubule sliding underlying the flagellar oscillation in sea urchin sperm
報告番号 124045
報告番号 甲24045
学位授与日 2008.07.31
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5260号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 真行寺,千佳子
 東京大学 教授 神谷,律
 東京大学 教授 豊島,陽子
 東京大学 教授 馳澤,盛一郎
 東京大学 准教授 奥野,誠
内容要旨 要旨を表示する

[ 序論 ]

真核生物の鞭毛運動の最大の特徴は周期的屈曲形成という「振動」にある.これは,鞭毛軸糸を構成する9 本のダブレット微小管上に並ぶダイニンがATP の加水分解エネルギーを使って起こす滑り運動が制御される結果起こるが,その制御の全容は解明されていない(図1A).ウニ精子鞭毛では,principal (P-)bend とreverse (R-) bend が,2 本の中心小管を含む面に垂直な平面内に形成される.中心小管は滑りの制御に重要であり,主に中心小管の両側の,7 番のダブレット上と3 番のダブレット上のダイニンによる滑りによってP-bend と R-bendとがそれぞれ形成されるらしい.ダイニンはマイナス端モーターであるので,この時,滑りの相対的な向きが切り替わると予想されるが,その切り換えの機構がこれまで謎であった(図1B).ところで,鞭毛に機械的変形等を外部から与えた場合,鞭毛の振動運動は大きく変化する.このことから,力学的情報が滑りの制御に関わると考えられる.滑りの切り換えに屈曲そのものが重要であることが,エラスターゼ処理軸糸で得られる2 本のダブレット束を用いた実験で示された(Morita and Shingyoji,2004).エラスターゼ処理軸糸は,屈曲の特性をある程度維持していることから,この滑りの切り換えは中心小管の両側で起こっている可能性が高い.

本研究では,振動運動の機構解明の基本となる,滑りの切り換えが屈曲により誘導されるという仮説を証明し,さらにその切り換えを誘導する屈曲条件,およびダイニンの活性化条件について知見を得ることを目指した.屈曲によってダイニン活性部位が中心小管の両側で実際に切り替わることを証明するためには,1)滑りの切り替えを確実に誘導できる屈曲条件を決定し,かつ2)軸糸内のダイニン活性部位を推測することができる実験系が必要である.そこで私は,高濃度Ca2+(10-4 M)存在下でウニ精子鞭毛が示す,基部に大きなP-bend のみを残した運動停止状態(quiescence)に着目した.この状態では3 番のダブレット上のダイニンの活性は抑制されている.このquiescence を示す鞭毛を用いることにより,与える屈曲方向を決定できただけでなく, 2)の問題も解決できた.さらに,実験の過程でこのP-bend の存在により,滑りの切り換え反応が変わることに気づいた.そこで,この屈曲を切り離した状態(type-1),屈曲存在状態(type-2),屈曲のまま滑りを誘導後に切り離した状態(type-3)の3 種類を用いた.また,最近の研究からダイニンの非加水分解ヌクレオチド結合部位へのADP 結合がダイニンの活性化に関与することが示されていることから(Ishikawa and Shingyoji,2007),屈曲による滑りの切り換えの制御にADP が関与している可能性についても検討を行った.本論文では,これらの結果について報告する.

[材料と方法]

アカウニ(Pseudocentrotus depressus)とムラサキウニ(Anthocidaris crassispina)の精子を用いた.精子をTriton X-100 を含む溶液で除膜した後に,鞭毛をローダミンで染色した.ただし,重合微小管の滑りの解析(結果2)では,鞭毛をcy5, 重合微小管をローダミンで染色した.10-4 M Ca2+,1 mM ATP 存在下でquiescenceを示す鞭毛をチャンバーに潅流してガラス面に付着させた.鞭毛をエラスターゼで処理した後にチャンバーの上部を開放し,マイクロマニピュレータに取り付けたガラス微小針を挿入し,鞭毛に屈曲を与えた.UV照射による1 mM caged ATP の光分解によって軸糸の滑りを誘導した.放出されたATP は,溶液中のhexokinase によってADP に,またはapyrase(結果3のみ)によってAMP に分解されるため,軸糸は3-4秒(hexokinase)または5-6 秒(apyrase)滑って停止し,再度UV 照射することによって繰り返し滑りが誘導された.鞭毛の蛍光像はイメージ・インテンシファイアを付けたCCD カメラを用いてビデオテープまたはDVD に記録し,画像の解析にはNIH image とImageJを用いた.

[結果と考察]

1. 滑りの切り替え制御に対する屈曲方向の効果

Quiescence を示す鞭毛のP-bend の後方部分で軸糸を切断し,断片化した軸糸(type-1)を屈曲面内で両方向に曲げた時に,滑りの切り替えが起こるかどうかを検討した.1 mM caged ATP の光分解によって,軸糸は1組の細い束と太い束に分かれるような滑りを示し,中心小管を含まない細い束が切断部位から頭部方向へと滑り出した.屈曲を与えない場合には,UV 照射ごとに細い束が同じ方向へと滑った.次に,細い束と太い束の重なりの後方部分を基部のP-bend と同じ方向(P-bend 方向)または逆方向(R-bend 方向)に曲がりができるように変形させた時の滑りを観察したところ,P-bend 方向の屈曲によって56%の軸糸で滑り方向の逆転が誘導されたのに対し(図2A, D),R-bend 方向の屈曲では5%でしか逆転しなかった(図2B, D).重なりの前方部分をP-bend 方向に曲げても43%の軸糸で滑り方向の逆転が誘導され,その3 例中2 例では屈曲部位の前方のみで逆方向の滑りが観察された(図2C, D).これらの結果は,滑りの切り替えには屈曲方向が重要であることを示す.

基部で切断した鞭毛では屈曲による滑りの逆転の割合が約50%と低いことから,滑りの切り替えに必要な要素が欠けている可能性がある.その要素の一つとして,ダイニンと微小管の相互作用の状態が考えられる.そこで次に,基部の屈曲を残した鞭毛で滑りの切り替えを起こす条件を調べた.Quiescence を示す鞭毛(type-2)に滑りを誘導すると,軸糸の根元付近からループをつくるように細い束が滑り出し,屈曲を与えなければその滑り方向は変化しなかった.このような滑りを起こした鞭毛の後方をP-bend 方向に曲げた場合には,同一方向の滑りが起こったのに対し(図3A,C),R-bend 方向の屈曲を与えて一対の逆向きの屈曲をつくるように曲げた場合には,71%の軸糸で滑り方向の逆転が誘導され,ループが小さくなった(図3B, C).したがって,基部にP-bend がある鞭毛では,後方のR-bend 方向の屈曲によって滑りの切り替えが高頻度で誘導されることが分かった.また,細い束が滑り出した後に基部を切断した軸糸(type-3)において重なりの前方部分をR-bend 方向に曲げた場合にも滑り方向の逆転が誘導された(図3D).これらの結果は,最初の滑りを起こす時の基部のP-bend の屈曲情報が重要であることを示唆する.

以上の結果から,7 番側ダイニンによる滑り(Ps)はP-bend の屈曲情報がない時にはP-bend 方向の屈曲によって(図4-1),一方P-bend 存在下では後方のR-bend との一対の屈曲によって(図4-2, 3),逆方向の滑り(Rs)が誘導されることが明らかになった.

2. 屈曲によるダイニン活性部位の切り替えの証明

高濃度 Ca2+存在下で太い束上の3 番のダイニンの活性は中心小管を介した制御によって抑制され,微小管の滑り速度は減少する(Nakano et al., 2003).したがって,もし屈曲による滑り方向の逆転が,ダイニン活性が細い束上から太い束上へと切り替わることによって起こるならば,屈曲後の逆方向の滑り速度は減少することが予想される.そこで,まずquiescence を示す鞭毛において細い束と太い束に重合微小管を作用させ,その滑り速度を調べた.その結果,太い束上の滑り速度(平均4.2 μm/s, n=59)は,細い束上の滑り速度(平均5.2 μm/s, n=44)よりも有意に小さいことが確認された.次に,結果1の鞭毛の後方を曲げた時にみられる滑りの速度を調べると,基部で切断した鞭毛でも基部の屈曲を残した鞭毛においても,逆方向の滑り速度(それぞれ平均3.7 μm/s と3.3μm/s)は順方向の速度(それぞれ平均6.1 μm/s と6.7μm/s)の1/2 程度であり,有意に減少していた(図5A).これらの結果は,滑りの逆転は太い束上のダイニンによって起こされた滑りであることを示しており,屈曲によって中心小管の両側でダイニン活性が切り替わることが証明された.また,屈曲後の逆方向の滑りの開始時にのみ約39%で遅延が観察されることから(図5B),このような遅延現象は屈曲によるダイニン活性の切り替え過程を反映していると考えられる.

3. 滑りの切り替え制御におけるADP の関与の検討

屈曲による滑りの切り替え制御における ADP の関与を検討するために,溶液中のADP 量を変化させた時に屈曲によって誘導される滑りの逆転の割合変化を調べた.高濃度Ca2+,apyrase 存在下で軸糸の安定した滑りを誘導することが難しいため,1)低濃度Ca2+,apyrase 存在下と2)高濃度Ca2+,hexokinase存在下で軸糸断片を用いて実験を行った.どちらの条件下でも屈曲を与えない場合は全ての軸糸で滑り方向は順方向のままであった.しかし,屈曲を与えた場合は逆方向が出現し,1)の条件では,滑りの逆転の割合は15%であったが,0.4 mM caged ADP 存在下では50%に増加した(図6A).2)の条件では,逆転の割合は26%であったが, 0.01 mM ADP 存在下では42%に,0.02 mM caged ADP 存在下では35%に増加した(図6B).これらの結果は,屈曲による滑りの切り替えがダイニンへのADP 結合を介して起こることを示唆する.

まとめ

ウニ精子鞭毛の振動運動における滑りの切り替えには,鞭毛の屈曲方向とダイニンと微小管の相互作用の情報が重要であることが示された.また,屈曲による滑りの切り替えは,中心小管の両側でダイニン活性部位が切り替わることによって引き起こされることが証明された.さらに,屈曲によるダイニン活性の切り替えはダイニンへのADP 結合を介して制御されることが示唆された.これらの結果から,鞭毛の振動運動の基本は,屈曲という力学シグナルによる協調的なダイニン活性制御にあることが明らかになった.

図1.ウニ精子の鞭毛運動と微小管間の滑り運動の切り替え

図2. 基部で切断した鞭毛の滑りに対する屈曲の効果

図3. 基部の屈曲を残した鞭毛の滑りに対する屈曲の効果

図4. Quiescence を示す鞭毛における滑り方向に対する屈曲の効果のまとめ

図 5. 滑り速度に対する屈曲の効果(A)と屈曲により滑り方向が逆転した時の滑り距離の時間変化 (B)

図 6. 屈曲による滑りの切り替えに対するADP の効果

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、目次(Contents)、謝辞(Acknowledgements)、要旨(Abstract)、序章(Introduction)、方法(Materials and Methods)、結果(Results)、考察(Discussion)、参考文献(References)、図の説明と図(Legends and Figures)から構成されている。

真核生物の鞭毛運動は、筋肉と並ぶ生物の持つ2大運動系の一つであり、その運動の最大の特徴は、周期的屈曲を形成し伝播するという振動運動にある。この振動を生み出す機構については古くから生物学の謎の一つとして研究されてきた。近年、生理学や1分子レベルの機能解析手法などの発展により、鞭毛内に規則的に配列し、その運動を生み出す原動力を与えるモータータンパク質ダイニンの特性解析が飛躍的に進んだ。この結果、屈曲形成の基本となる微小管滑り運動の機構が次第に明らかにされてきた。しかし、運動装置としての鞭毛全体がどのような機構で振動を起こせるのかという滑り運動の制御機構の全容は明らかにされていない。

本論文は、振動運動を生み出す基本的制御と考えられている、微小管滑り運動の切り換え制御機構を明らかにすることを目指し、切り換え制御を誘導する屈曲方向の検討、切り換えが起こっていることの直接的証明、切り換えを起こす際のダイニン活性のADPによる制御の検討、という3つの側面から実験を行った。ウニ精子鞭毛を用いて、屈曲が滑りの切り換えを誘導する可能性を示唆する研究が最近報告され、注目を集めている。しかし、この可能性を証明するためには、切り換えを確実に起こす実験条件の探索がまず必要であった。しかしこの探索は振動誘導条件の解明なくしては実現しない。本論文では手法上のいくつもの困難を克服し成果を得ている。結果は6つの節から構成され、第1節と第2節で条件の探索に成功している。この論文の独創的な点の一つは、この探索に精子鞭毛全体を用いたことにある。運動の機構を解析するために鞭毛装置全体を扱うことは、通常、解析を複雑にする。しかし、精子頭部側が微小管の遅い重合端にあたるという特性を生かし、光学顕微鏡レベルで微小操作を行いながら、電子顕微鏡レベルの解析を実現している。まず鞭毛の膜をとった後、エラスターゼ処理後にcaged ATPのUV照射による光分解で放出されるATPを短時間与え、鞭毛内に特定の滑りを誘導した。そこへ微小ガラス針を用いて外部から屈曲を与え、さらに滑りを誘導すると屈曲方向に応じて滑り方向が逆転することを見いだした。興味深いことに既存の屈曲を残したまま鞭毛に滑りを誘導した場合と、既存の屈曲の後方で切断後に滑りを誘導した場合とでは、滑り方向の逆転を誘導する屈曲方向が正反対となった。反応の詳細な分析から、この有効な屈曲方向の違いは鞭毛に組込まれた滑りの切り換え機構の本質を反映していることが示された。これらの発見は単なる条件探索を超えて、滑りの制御機構の理解に大きく貢献しており、高く評価できる。第3節、第4節では、滑りの逆転の前後で滑り速度が有意に低下することを示すことにより、最も注目されていた「滑りの切り換えが鞭毛内の中心小管の両側に位置する主に2カ所のダイニン間で起こること」を見事に証明した。さらに第5節では滑り速度の解析から、滑りの逆転が誘導される際に反応開始の遅延が起こることを見いだし、他の研究で示唆されてきた滑りの制御との対応を論じている。最後に、第6節では、ダイニンの滑り活性の制御に関わることが指摘されているADPに注目し、屈曲により誘導される滑りの逆転が起こる際に、ダイニンの活性制御にADPが必要なのかを検討する実験を行った。第1-5節では、pH 7.8、高濃度カルシウム条件で滑りを誘導しているがここではそれとは異なり、より低いpH 7.2、pH 7.5の条件を用いた。また、apyrase, hexokinaseのいずれかを用いて,与えたATPを分解した。その結果、ADPの存在量に応じて、屈曲により誘導される滑りの方向の逆転の頻度が増加することが示された。これらの結果は、屈曲という力学情報がダイニンの活性を誘導する機構の一端を明らかにしたものであり、鞭毛運動のみならずダイニンの機能解析という視点からも重要な情報を提供している。

以上のように、本論文の成果は、鞭毛運動の制御機構解明に向けて多くの示唆に富む知見を示したものである。

なお、本論文の一部については、真行寺千佳子と共同で行ったものであるが、論文提出者が主体となって実験・解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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