学位論文要旨



No 124056
著者(漢字) 藤澤,太郎
著者(英字)
著者(カナ) フジサワ,タロウ
標題(和) 一九三〇年代文壇史から見た中国左翼作家連盟
標題(洋)
報告番号 124056
報告番号 甲24056
学位授与日 2008.09.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第658号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤井,省三
 東洋文化研究所 教授 尾崎,文昭
 東京大学 准教授 伊藤,徳也
 慶應義塾大学 教授 長堀,祐造
 女子美術大学 教授 島村,輝
内容要旨 要旨を表示する

中国左翼作家連盟(左連)は、1930年3月2日中国共産党の影響下に結成され1936年初めに至るまで6年近くに渡って活動を続けた左翼的作家組織であり、1949年その共産党を中心として中華人民共和国が大陸に成立したこともあって、以降同時期の中国文壇を代表する組織として関連する研究が多くなされてきた。しかし、そのような中国共産党イデオロギー的価値基準のもとに行われる研究は、必然的にその基準と類似する強いイデオロギー性を帯びざるを得ず、学術的な意味で十分な総合的研究はなされることがなかった。また、近年はそのようなイデオロギー性を克服する条件こそ整ってはきたものの、世界的な共産主義勢力の退潮をうけて研究は必ずしも進んでいるとはいい難い状況にある。本論文は、特に左連の対文壇的位置づけに留意しながら、その理念・組織・活動について学術的・総合的に詳細に分析し、文学史的に再定義しようとした点に最大の特色を持つものである。

第一章では、1930年3月の左連結成までの流れを追うことで、結成当初の左連の性格・文壇的位置付けを分析している。

左連の形成過程をたどっていくと出発点の一つとしてたどり着くのが、1928年12月中国著作者協会(以下中著協と略称)であり、またその中著協の前身組織ともいえる上海著作人公会(以下上著会と略称)である。上著会は、1927年2月に鄭振鐸・朴社参加者を中心にして結成された文壇最初の職業作家権利擁護団体であったが、四・一二事件によって活動が頓挫したため、翌年再結成が目指されて中著協へと結実したのであった。

しかし、この中著協には上著会の関係者のみならず共産党の文化組織が強く関与していた。共産党は、太陽社・創造社同人の共産党員が所属していた共産党江蘇省委員会(江蘇省委)閘北区第三街道支部を1928年10月頃に江蘇省委直属の「文化支部」として改組・改称し、対文壇活動を活発化させて中著協設立に積極的に関わろうとしたのである。結果、中著協の「宣言」は共産党の主張が強く反映されたものとなり、成立大会当日も共産党勢力が会議を主導したため、上著会関係者の離脱と組織の瓦解を招いたのであった。

中著協の失敗を経験した共産党文化組織は、江蘇省委独立事件と政府の弾圧による活動中断を経て、1929年10月頃から党中央宣伝部のもとに設けられた文化工作委員会(文委)を中心に新しい左翼作家組織の設立準備を開始した。以降翌年初めにかけて文委を中心として準備を進め、1930年3月2日魯迅の参加を得て左連が成立したのであった。

この左連成立と同時期、上著会・中著協の流れを受けた大規模な作家集団、筆会(ペンクラブ)と民族主義文芸運動も文壇に誕生していた。筆会は徐志摩・胡適等新月派の作家を中心に設立が準備された組織で、国際ペンクラブ中国支部としての地位獲得を目指しながら、鄭振鐸等上著会関係者をはじめ多くの作家の参加を得ていた。民族主義文芸運動は、上著会に参加していた朱応鵬・傅彦長・張若谷の三人組を中心に、国民党中央組織部の陳果夫・陳立夫、潘公展等政府要人の強力な支持のもと立ち上げられた文芸運動であった。

左連は結成準備に際して構成員を文委が選択した「作家」に限定する方針をとったため、いささか閉鎖的な側面を持っていた。加えて、左連は上著会・中著協との関係において筆会・民族主義文芸運動と同様の位相にある組織でもあったことから、結成当初は両組織に比べて絶対的優位に立っていたわけではなかった。また、この時期左連が密接に連携していた共産党江蘇省委では、トロツキー派が少なからぬ影響力を持っていた。従って、左連は結成当初「作家」連合体としての優位性や「左翼」としての正統性をそれぞれ他勢力と争う必要があったのである。

第二章では、左連結成以降、神州国光社との「自由人論争」を経た1932年末までの時期について、左連の活動と組織構築経過をたどりながらその文壇的位置付けを分析している。

左連は拙速に結成準備が進められたこともあり、結成当初独自組織は未構築で、旧来からの文学結社や共産党組織特に江蘇省委の下部組織を活動母体としていた。文学活動は一時文壇を席捲する勢いを見せたものの、取締り強化によって1930年6月以降ほぼ活動停止する中で、李立三路線下の江蘇省委と連動した実践活動への参加が左連の各構成員に要請されたため、左連の構成員が実質的には党の組織の中で活動する形となっていった。しかし、10月の共産党六期三中全会後からは党内の勢力争いが激化し、1931年1月六期四中全会で王明を中心とする留ソ派が党の実権を掌握すると、左連構成員を含む江蘇省委内の反留ソ派が密告され逮捕処刑へと追いやられる「左連五烈士虐殺事件」も引き起こされた。こうした党内の混乱の中で左連は活動を停止せざるを得ない情況に陥ったのであった。

「五烈士虐殺事件」後、左連は馮雪峰を中心とする体制に交替し、茅盾・魯迅・瞿秋白の協力を得て1931年夏前には活動を開始した。その中心にあったのは『前哨』(第2期から『文学導報』と改題)と『北斗』の二機関誌である。前者は馮雪峰を中心に編集が行われ、民族主義文芸運動批判に紙幅を割くとともに、活動の重点を文学に移すことを表明する決議「中国無産階級革命文学的新任務」を掲載するなど、前年からの課題の解決に重点をおく内容となっていた。一方、後者は丁玲を編集者とし、左連の機関誌たることを伏せて文芸誌として実績を上げるとともに、左連と若い作家志望者との接点ともなっていた。この両誌の働きにより、満洲事変後の抗日意識の高まりを受けて市民の間での活動の自由度が増す中で、左連は筆会・民族主義文芸運動に対する優位性の証明、実践活動絶対視の是正等前年からの課題克服に一定の結論を見いだし、組織構築段階へと入ったのであった。

1931年半ばから左連が体勢を立て直す一方、論壇では王礼錫を中心とする神州国光社の勢力が『読書雑誌』を創刊して急速に台頭していた。王礼錫は同年後半になると文壇での勢力拡大を目論むようになり、左連まで取り込んだ新作家組織、中国著作者協会の設立を準備して1932年1月に発起集会を開くと、上海事変を挟んだ翌2月には中国著作者抗日会を招集して左連まで含みこむ形で作家の大連合を現出させたのであった。

しかし、このような神州国光社の動きは左連として決して許容できるものではなかった。左連は1932年3月頃から相対的な情勢の緩和を受けて組織を整備するとともに、神州国光社勢力との間で「自由人論争」仕掛け、結果的に1932年末には神州国光社が文化活動から撤退する中で、最大の作家連盟としての地位を固めたのであった。

第三章では、1932年後半から左連解散に至るまでの時期について、「第三種人論争」を軸に、左連の組織・活動の変質とその文壇的位置付けの変化を分析している。

「自由人論争」が収束を迎えようとしていた1932年後半、同論争中で杜衡が用いた造語をきっかけに「第三種人」をめぐる問題が論争から派生し、論争は「第三種人論争」へと変質していった。政府の取締りが細密化し活動の幅が再度狭められていった1932年後半から翌年前半、左連は文芸誌『現代』と相互依存の関係を持つことで対応していたが、1933年7月に文芸誌『文学』が創刊されるのと同時に「第三種人」側の論客杜衡が『現代』の編集に参加したため、『文学』≒左連≒魯迅側対『現代』=「第三種人」側という対立構造が固まっていった。一方、この1932年後半から左連内部に党活動との連帯を重視する陽翰笙・周揚等指導部の党団派と、穏健的で文学重視の立場をとる魯迅派との二派への分化の兆しが見え始めていた。1933年末には党団派と魯迅派との間にいた馮雪峰・瞿秋白が相次いで上海を離れソビエト区入りしたため、両派の間の溝は深まっていったのであった。

この時期になると、左連当初からの創造社・太陽社同人からの左連参加者の多くが左連の活動を離れ、より若い世代の構成員が加わっていた。特徴的なのは出身地・活動地に由来して東京・湖南・四川・南京・安徽・武漢・東北各グループ等地縁的に結びついた小グループが多く加わったことと、大衆文芸委員会の下部組織である大学や夜間学校の小組から党員的構成員が多数加わったことである。左連が党団組と魯迅組に割れようとする中で、これらの新規構成員のうち下部組織からの参加者の多くは党団組と結びつき、作家を志望者が多かった地縁的小グループの多くは魯迅と結びつくこととなった。こうして左連はいわば「左翼」の集団と「作家」の集団に割れていったのである。

このような左連の党団組と魯迅組との亀裂は「第三種人」グループの活動によって増幅され、何家塊「盗作」事件、田漢・廖沫沙の魯迅批判事件を経て、1934年10月の胡風「転向」事件で両者の分離は決定的なものになっていった。このうち党団組は、1934年以降取締りの徹底で漸次破壊を被ってきた共産党組織と密接に結びついて活動したが、1935年2月上海共産党勢力への第三次大破壊で陽翰笙・田漢が逮捕されると完全に機能停止に陥り、同年夏頃から文委・党組織の再編に取りかかると同時に、「八一宣言」を受けて左連を解散しより幅広い作家の連帯を求めるようになった。一方、魯迅組は左連の組織から離れ、黄源・黎烈文・巴金等左連の外側にいた作家群と連帯することで文学活動を活発化させていった。こうして1936年初頭の左連解散挟んで、両者の対立は「国防文学(二つのスローガン)論争」へと発展していったのであった。

審査要旨 要旨を表示する

中華民国期(1912-1949)における1930年代とは、軍閥の反乱、そして満州事変(1931)から日中戦争開戦(1937)に至る日本の侵略などさまざまな内憂外患を抱えながらも、経済・文化が繁栄した時代である。共産党は長征により革命根拠地を江西省瑞金地区から陝西省延安地区へと移転させ、この時期の国民党独裁体制下での延命を図るいっぽう、大都市では文化運動により影響力を維持し続け、やがて日中戦争と国共内戦を経て人民共和国を建国している。本論文は民国期1930年代の中心都市であった上海を舞台に、共産党主導で展開された中国左翼作家連盟(左連)消長の歴史を上海文壇史の視点から描き出したものである。

第一章「筆会・民族主義文芸運動と左連―結成前後の時期を中心に」は、1930年3月に結成され36年初めに至るまで活動を続けた左翼的作家組織である左連が、結成当初は職能的な作家連合としての性格を有していた点などを分析した。第二章「神州国光社と左連―「自由人論争」を中心に」は、従来の文学史的常識とは異なり、左連は結成から32年末まで、文壇他派と激しい主導権争いを闘わねばならなかった点などを考察した。第三章「党の左連と作家の左連―「第三種人論争」を中心に」は、33年以後の左連が共産党の代替組織と化したため、作家連合としての活動は組織外部へと押し出され,その結果左連の外に魯迅グループが形成された点などを立証した。

人民共和国期の中国内外における左連研究は、70年代までは中共史観の影響下で主に左連中心の30年代文学史として記述され、自由化が進んだ80年代以後は回想録など大量の資料が出現したものの、左翼文学研究自体の低迷化に伴い、新たな研究の展開は乏しかった。本論文は左連内側の資料を実証的に精査し体系化したうえで、左連外側を囲む文学空間としての文壇との関係をも重視することにより、左連運動史の分析において以下のような新しい成果を挙げた。

(1)1927年以来の上海著作人公会、中国著作者協会による作家連合の流れを継承して、左連が結成されたという人的・組織的関係を明らかにした。

(2)神州国光社と左連との対立は、従来は理論的対立と考えられていたが、真相は作家連合同士の文壇ジャーナリズムにおける主導権争いという性格が強いことを明らかにした。

(3)自由人論争、第三種人論争が(1)(2)の流れを汲む論争であり、それが左連を組織的分裂に導いたという文壇史を明確に描き出し,魯迅と左連中心幹部の間で行われた有名な「国防文学論争」の原因分析に新見解を提出した。

そのいっぽうで本論文には、世界プロレタリア文学運動とコミンテルン国際共産主義運動史の観点および現代中国文学史における30年代文学の位置づけという文学史的視点が不十分である。

しかし上記のごとく明快な左連史を描き出すという顕著な成果をあげており、本審査委員会はその内容が博士(文学)論文として十分な水準に達しているとの結論を得た。

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