学位論文要旨



No 124063
著者(漢字) 初田,香成
著者(英字)
著者(カナ) ハツダ,コウセイ
標題(和) 戦後日本における都市再開発の形成と展開に関する史的研究
標題(洋)
報告番号 124063
報告番号 甲24063
学位授与日 2008.09.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6858号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 西村,幸夫
 東京大学 教授 大方,潤一郎
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、戦後から一九六〇年代半ばまでの東京を中心とする商業地で行われた都市再開発を題材に、それらを規定している諸条件を含めた総体を社会的運動として把握するという観点から、「東京戦災復興計画」、「都市不燃化運動」、「揺籃期の『都市再開発』」という三つの主題を設定し、第一にそれらの理念と実態を明らかにし、第二に背景としての大都市内地域の社会構造の様相を明らかにし、以上を通じて、当該期の都市空間の形成と都市社会の持続的な営みの特質を論じることを目的とする。

本論は前述の三つの主題をそれぞれ取り上げた三部九章からなっている。基本的に一、四、七章でそれぞれの主題の導入として見取り図を示し、二、五、八章でそれらの背景となる大都市内地域の社会構造を明らかにし、三、六、終章で特定の人物・主体を取り上げ、その計画理念や職能の発展などを見ていく。ただ必ずしも以上の枠組みにはとらわれず、これらの視点は各章で必要に応じて用いられる。本論文は以上の三部を合わせて、都市再開発の全体像を把握するというより、特異点的な対象からその全体的な広がりを垣間見ようとするものである。

第一部「戦災復興の構想と実態」では、東京の戦災復興計画を実現した建築やソフトの視点から分析することで、プランを巨視的に見ていては現れてこない計画の意義と、地元住民や営業者によるその普遍的な受容のあり方を示し、これらがその後の都市空間に与えた影響を示す。

第一章ではその多くは実現しなかったとされてきた東京の戦災復興計画を取り上げる。石川栄耀の生活圏構想に基づいて策定された計画は、インフラ整備にとどまらない建築やソフトの要素までを含めた総合的な都市像があり、それが区画整理事業や街路計画にまで貫かれていた。この背景には土地改革の構想や、計画技術の向上、担い手の育成があった。これらは盛り場や商店街といった小さなスケールにおいて少なくない数が実現し、その遺産は現在まで受け継がれている。インフラ整備が大幅に縮小したのと対照的に、これらはその後の商業地としての発展の基礎となったのである。これは営業者や地元との協働の結果であり、それは都市計画の土地繁栄策としての読み替えという側面も有していた。

第二章では闇市の建築形態の一つでもあったマーケットを取り上げ、都市建築史の観点から通時的にその全体像を把握する。マーケットは終戦直後の都心に特有な非日常の空間として捉えられがちだったが、ここでは勧工場→私設小売市場→マーケット→テナントビルという現在まで続く普遍的な商店建築の系譜に位置づける。マーケットは大都市のニューカマーのインキュベーターとしての役割を果たすが、一九五〇年前後と一九六〇年代の再開発により整理されていく。とりわけ後者では都市空間の様々な質的変容が、駅前のマーケットの消滅という形で象徴的に立ち現れるが、その内容は形を変えて継続し、現在の都市空間を規定している。

第三章では石川栄耀という都市計画家を取り上げ、個人的資質に帰されがちだったその計画論の意義を考察する。インフラ整備中心の日本近代都市計画に疑問を感じていた石川は、日本の盛り場に独自のコミュニティ機能を見出し、それにアンウィンの設計技法を援用しながら、日本の実情に即した計画・設計技法を追究することで新たな日本型都市計画を目指した。東京の戦災復興計画はその集大成の試みだった。しかし実際の復興を経て自らの計画論に重大な疑問を抱くようになった石川は、地方都市をまわる中で生態都市計画、名都論といった新たな計画論の境地に行き当たっていた。

第二部「都市不燃化運動の生成と伝播の諸相」では、戦後間もなく開始され、一九五〇年代を通じて隆盛を誇った都市不燃化運動を取り上げ、戦災復興期と高度成長期を中心に語られがちだった都市再開発史の欠落を埋める。ここでは特に運動の担い手という観点から分析を行うことで、その背景にあった社会構造の変動と、運動が有していた意義と可能性を指摘する。

第四章ではこれまで公的主体を中心に描かれがちだった運動の、より多元的な担い手の存在を明らかにする。都市不燃化運動は田辺平学の提唱のもと、戦後という体制転換を受けて誕生した運動であり、住宅政策と一体化した復興を目指した。しかしドッジライン後の耐火建築促進法の成立と引き換えにもたらされた構想の変容が、主体の変化などの点で運動の転換点だったことを指摘する。運動の全国への展開は、当初、東京と大阪を中心としつつも多元的に発生した運動が、一九五〇年代後半から商工会議所を主体に収束・組織化されていく過程として捉えられ、そこでは運動の標語はもはや「不燃化」ではなく、より多様な意味を持つ「再開発」に変わっていった。

第五章では日本橋問屋街の都市不燃化運動を素材に、運動の地元での担い手の特質を明らかにする。運動は地方から上京してきた新興で借地人の中小商業者が基盤となり、その後の都市再開発につながる成果を得ていく。この背景には戦後の大都市への人口集中があり、大都市周縁の中小商業がその吸収装置となるとともに、借地人・借家人の権利拡大を目指す「所有から利用へ」という土地観の変化があった。だが地主や借家人営業者を取り込めない、東京意外の土地事情を反映していないなどの限界も抱えており、運動はむしろ耐火建築化という点で当時新興のディベロッパーと協働していく。その後問屋街自体の地盤低下や営業者の職住分離による郊外居住化により運動は衰退し、ディベロッパーが再開発の中心となっていく。しかしこれは個別の耐火建築が一般に普及していく過程でもあった。

第六章では一九五〇年代に特有の長屋型の商店街共同建築を取り上げ、当時こうした建築を最も多く手がけた今泉善一という建築家の実像に迫る。これらは再開発が本格的に展開する過程で忘れられていく。しかしそこには生粋のマルクス主義者であった今泉によるアーケードを通じた人間的都市生活の創出という思いがこめられており、営業者による様々な努力の下で、「線」から「面」への志向が見られるなど法制度が整備される前に実現した共同建築として意義づけられる。

第三部「『都市再開発』の誕生」では、揺籃期の都市再開発の様相を取り上げ、当時の都市計画の世界的な問題意識の共有と日本の位相、それに伴う新主体の登場を明らかにする。

第七章では昭和三〇年代の用語「再開発」の受容の過程と、あまり知られることのなかった建設省による三つの再開発法の構想を明らかにする。「再開発」という言葉は、世界的に流行していた「redevelopment」や「renewal」の訳語として戦後に誕生し、様々な主体がそれぞれの思惑で使用することで急速に普及する。それは人口集中を集約的な土地利用で受け止めようとするものであり、またアメリカの「urban renewal」の世界標準化に伴う、建物の修復や保全、再開発からなる既成市街地全体の総合的なマネジメントを意味した。しかしその後の都市再開発法も含め、実際に成立したのは概念を縮小した個別の事業法に過ぎず、修復や保存も再開発から分離していく。これは日本の土地事情に加え、「再開発」自体が当時の地方開発政策へのアンチテーゼとして大都市の集中問題に特化して捉えられたためであった。

第八章では一九六〇年代の新橋西口市街地改造事業を取り上げる。対象地では戦後直後の不法占有の闇市に起源を持つマーケットが合法化、ビル化していく。その過程では社会構造を反映した大規模な係争が勃発し、営業者が行政とのフィードバックを通じ、新ビルに自らの性格を内在させていった。駅前再開発に主要な動機を持つとされる日本の都市再開発はこうした場所に適用されたため、スラムクリアランスとも異なる独特の偏差を抱え、公権力が都市再開発から手を引く一因となった。

補章ではこうした「再開発」に伴って登場した新たな職能として民間ディベロッパーと都市再開発コンサルタントを取り上げ、彼らが「再開発」に乗り出す契機を描く。

以上を通して、三つの主題は戦後都市が自明かつ単線的な移行ではなく多様な選択肢を孕んでいたことを体現していたこと、いずれもインフラ施設整備を中心とする既存の都市計画へのオルタナティブとしての都市計画運動であり、人口減少期の現在こそ実現しなかった都市再開発の試みに学ぶ必要があること、またそれらは大都市に流入した営業者による都市空間形成を意味しており、それが実際の都市再開発に大きな影響を与えたことを示した。本研究で取り上げてきたマーケットや商店街は一見都市の周縁的な存在に見えるが、都市社会構造の先駆的、先鋭的な表れであり、大都市の普遍的な営みを象徴していたのである。

そして都市不燃化運動が終息し、揺籃期の「都市再開発」の概念が収束したことをもって、一九六〇年代を現行体制につながる都市形成の画期として位置づけた。ここではその後の都市形成の要素(主体・手法・建築類型・職能)が出揃い、テナントビル・耐火建築が都市の「図」から「地」へという形で一般化していく。これは特に近世以来の中心市街地である日本橋問屋街が自らの達成の結果として変容していったことに象徴されるものである。

最後に以上の過程では、都市空間の変容の一方で、既存の都市社会の営みが個々人としては入れ替わりながらも、色濃く持続しており、現代都市といっても必ずしもユニバーサルなものではなく、こうした固有性にも目を向けて行く必要性を示した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、第2次世界大戦後から1960年代半ばまでの東京を中心とする商業地で行われた都市再開発の歴史的展開を独自の観点から定位することを目的としている。ここでいう「都市再開発」とは、1969年に制定された都市再開発法にもとづく都市再開発をもちろん含むが、広義の都市における再開発的行為総体を指している。したがって本研究は従来の都市制度史や都市計画史の枠組みを継承しつつも、それとは一線を画した、まったく新しい方法と内容をもつ。

本論のユニークな点は端的にいって、戦後の都市再開発的事業を、「東京戦災復興計画」、「都市不燃化運動」、「揺籃期の『都市再開発』」という3つの主題から明らかにしようとする問題設定の仕方そのものによくあらわれている。つまり都市における再開発的行為は、それをさまざまな局面から規定している諸条件の総体といってよく、一面において、広義の社会的運動として把握できる。そうした観点からみた場合、第一にそれらの理念と実態を明らかにすることは当然のこととして、第二に背景としての大都市内地域の社会構造の様相を具体的に明らかにする必要があり、最終的に当該期の都市空間の形成と都市社会の持続的な営みの特質を論じることが要求される。本論の3つの主題はこのような明快な問題設定のなかから、長期にわたる検討を経て切り出されてきたものである。以下、各部ごとに内容を概観する。

第1部「戦災復興の構想と実態」は、東京の戦災復興計画を3つの視角(第1~3章)から検討する。第1章ではその多くは実現しなかったとされてきた東京の戦災復興計画を取り上げる。石川栄耀の生活圏構想に基づいて策定された計画は、インフラ整備にとどまらない建築やソフトの要素までを含めた総合的な都市像があり、それが区画整理事業や街路計画にまで貫かれていたとする。

第2章では闇市の建築形態の一つでもあったマーケットを取り上げる。マーケットは通常、終戦直後の都心にみられた特殊な現象をみられがちであったが、ここでは勧工場→私設小売市場→マーケット→テナントビルという現在まで続く普遍的な商店建築の系譜のなかに位置づけている。

第3章では石川栄耀という都市計画家を取り上げ、その計画論・計画思想の意義を再考する。インフラ整備中心の日本近代都市計画に疑問を感じていた石川は、日本の盛り場に独自のコミュニティ機能を見出し、それにアンウィンの設計技法を援用しながら、日本の実情に即した計画・設計技法を追究することで新たな日本型都市計画を目指した。そして東京の戦災復興計画はその集大成の試みだったという、注目すべき結論に達している。

第2部「都市不燃化運動の生成と伝播の諸相」では、戦後間もなく開始され、1950年代に全国的な盛り上がりをみせた都市不燃化運動に新たな光を当てる試みである。また従来、戦災復興期と高度成長期を中心に語られてきた都市再開発史の欠落を埋める試みでもある。第2部も前部と同様、3つの視角から都市不燃化運動の実態に肉迫する(第4~6章)。

第4章では、これまで公的主体を中心に語られてきた平板な運動像に対して、新たな資料を博捜し多元的な担い手の存在を明らかにする。都市不燃化運動は田辺平学の提唱のもと、戦後という体制転換を受けて誕生した運動であったが、ドッジライン後の耐火建築促進法の成立と引き換えにもたらされた構想の変容が、主体の変化などの点で運動の転換点であった。運動の全国的な展開は、1950年代後半から商工会議所を主体に収束・組織化されていく過程として捉えられ、運動の標語は「不燃化」から次第に「再開発」に変わってゆく。

第5章ではそのケーススタディとして、日本橋問屋街の都市不燃化運動が取り上げられている。運動は地方から上京してきた新興で借地人の中小商業者が基盤となり、その後の都市再開発につながる成果を得ていく。当地における運動はむしろ耐火建築化という点で当時新興のディベロッパーと協働していく側面をみせ、運動は次第に衰退しディベロッパーが再開発の中心となっていくことになる。これは個別の耐火建築が一般に普及していく過程でもあった。

第6章では1950年代に特有の長屋型の商店街共同建築を取り上げ、当時こうした建築を最も多く手がけた今泉善一という建築家の実像に迫っている。

本部の各章は新たな資料の発掘と事実の発見、論点の新規性と多様性など、本論全体のなかでも白眉ともいうべき高い水準と豊かな内容を有している。

第3部「『都市再開発』の誕生」では、揺籃期の都市再開発の様相を取り上げる(第7、8章)。第7章では昭和30年代の用語「再開発」の受容の過程と、知られることの少なかった建設省による3つの再開発法の構想が明らかにされる。「再開発」という言葉は、世界的に流行していた「redevelopment」や「renewal」の訳語として戦後に誕生したが、その後の都市再開発法も含め、実際に定着したのは概念を縮小した個別の事業法に過ぎず、修復や保存も再開発から分離していく。これは日本の土地事情に加え、再開発自体が当時の地方開発政策へのアンチテーゼとして大都市の集中問題に特化して捉えられたためであったとする。

第8章では1960年代の新橋西口市街地改造事業のケーススタディである。当地では戦後の不法占有の闇市に起源を持つマーケットが合法化、ビル化し、その過程で社会構造を反映した利害集団と行政側の複雑な対立を生んだ。駅前再開発に主要な動機をもつ日本の都市再開発は、主としてこうした場所に適用されたため、スラムクリアランスとも異なる独自の問題を抱え、公権力が都市再開発から手を引く一因となった。

以上3つの主題の分析から次の2つの結論が導かれる。すなわち第一に、日本の戦後の都市がそれぞれの局面において多様な選択肢を孕んでいたこと、そしてインフラ施設整備や制度・法規制を中心とする既存の都市計画へのオルタナティブとして捉え直すことができる。またそれらは大都市に流入した営業者による主体的な都市空間形成を意味しており、それが実際の都市再開発に大きな影響を与えたということ。

第二に、都市不燃化運動が下火になり、揺籃期の「都市再開発」の概念が定着したことをもって、1960年代を現行体制につながる都市形成の画期として位置づけることができるという時代区分上の問題である。

以上を要するに、本論文は日本の戦後から1960年代にかけての都市の歴史的展開過程を実証的に明らかにした、従来の都市計画史的方法・視点を大きく乗り越える意欲作であるといえる。当該期の都市再開発を「戦災復興」「都市不燃化運動」「用語『再開発』」という3つの切り口から捉える方法・視点は鮮やかであり、それぞれの舞台で一定の役割を演じた計画者・営業者・メディアの配役の巧妙なアレンジメントも本論の全体的な内容に厚みを与えている。一次資料を丁寧に収集・分析し、確かな根拠にもとづいた論理展開は、実証性という観点からみても高い水準にある。従来の都市計画史研究と都市史研究の間には無視できないギャップが存在していたが、本論はその断層を埋めるという試みを含んでおり、その点でも学問上多大な貢献をしたと評価できる。また現在のところほとんど未開拓の分野である戦後都市史への確かな足がかりを築いた点も見逃せない。

よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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