学位論文要旨



No 124068
著者(漢字) 横濱,竜也
著者(英字)
著者(カナ) ヨコハマ,タツヤ
標題(和) 遵法責務論序説 : 統治者に対する敬譲と法の内在的価値
標題(洋)
報告番号 124068
報告番号 甲24068
学位授与日 2008.09.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第218号
研究科 法学政治学研究科
専攻 基礎法学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長谷部,恭男
 東京大学 教授 井上,達夫
 東京大学 准教授 宇野,重規
 東京大学 教授 伊藤,洋一
 東京大学 准教授 水町勇,一郎
内容要旨 要旨を表示する

統治者の決定あるいは自らの属する政治社会全体としての意思決定が自らの信念と抵触する場合に、それでもなお被治者あるいは構成員がその決定に服従すべき理由、あるいはたとえ服従しないとしても、単に無視したり、制裁を被らない範囲で決定に違背したり、さらには国外に逃亡したりなどせず、自らの属する政治社会のために決定を是正すべく不服従に訴えて異議申し立てすべきであると考える理由、これらを明らかにする正統性原理が何であるかを明らかにすることこそ本稿の目的であり、この目的を実現するために、法の内在的価値(intrinsic value)としての「法の支配」こそ正統性原理の基底をなすことを、主にソウパーによる政治的責務を統治者に対する敬譲として根拠付ける議論と、N.シモンズ(Simmonds)のフラーの法内在道徳を法が法であるゆえにすべからく有する内在的価値として理解することにより遵法責務を正当化しようとする企てに依拠し、またそれに対抗する政治的責務の正当化および法の規範性の根拠付けの諸議論を批判的に検討することを通じて示すことこそ、本稿で行う作業である。

まず第1部で既存の政治的責務の正当化理論の批判的検討を網羅的に行う。具体的には、第1章では構成員個々人の政治社会への帰属に対する同意による政治的責務の引き受けこそ政治的責務の正当化根拠であるとする同意理論を扱う。シモンズなどによる同意理論の批判的検討と同様、本稿でもやはり同意理論では全ての人が全ての政府の決定に服従する責務としての政治的責務の正当化には成功し得ないという立場に与するが、他方そもそも同意が拘束力を有する根拠を考えると、第7章で扱う敬譲論を考慮することが必要で、主意主義(voluntarism)的立場からのみ政治的責務の正当化を考えることは片手落ちであることも指摘されねばならない。第2章では私達が特定の政治社会の構成員であることが、それを望んで引き受けたか否かに関わらず有する内在的価値に訴えて政治的責務を正当化しようとする連帯責務論が瞥見される。連帯責務論がメンバーシップの内在的価値を示そうとして持ち出すアナロジーが成功していないだけでなく、政治的責務がメンバーシップの持つ特定の価値に資する道具的価値においてのみ捉えられているため、その価値の実現に資するものでない政治的責務については正当化の射程から外れてしまう限界も有する。

第3章では「全員が不服従者と同じことをしたらどうなるか」という問い(批判)に端的にあらわされる、不服従の破壊的帰結に訴える帰結主義的正当化を検討する。しかし政治秩序が成り立つためにはほとんどの場合全員の遵守行動が必要でなく、むしろ不遵守によって当人また社会の幸福が増進されることも考え合わせれば、帰結主義的正当化は政治的責務に正当化には成功し得ない。しかし帰結主義的正当化は第4章の公平性論を導入する契機でもある。つまり公平性論は、一人一人が個々に服従しなくても政治秩序が破綻することはなくても、一定数以上の不服従は破壊的帰結をもたらすだろう。その上で他人の服従により維持されている政治秩序から恩恵を被っておいて、自分だけ服従しないのは「ただ乗り」であり不公平であるとして、全ての構成員が全ての政府の決定に服従する政治的責務を正当化しようとする。しかし公平性論が成功するためには、構成員相互の道徳的対称性が成り立つ必要があるところ、この成立条件である便益の自発的、意図的受領が全ての構成員によって実際になされていると考えることは困難である一方で、国家から便益を受動的に享受しているだけでも政治的責務が正当化されるとするクロスコらの議論は、第5章に述べる正義の自然的義務論と径庭がつかなくなる。第5章で扱う正義の自然的義務論は、正義原理そのものから引き出される、相互扶助義務や概して正義に見合っている政治体制に支持協力する義務に基づいて政治的責務を正当化しようとするが、多くの批判にあるように政治的責務の正当化の成功条件である特殊性の要請を充足する正当化を提供し得ない。

以上の政治的責務の正当化の失敗を受けて、第6章ではそれらが失敗した要因の所在を確認するために、国家に対する感謝からの議論、および被治者の政治的責務と統治者の政治的権威との相関を否定し、前者と独立に後者の正当化を考える支配権論を検討する。その作業を通じて明らかになるのは、政治的責務の正当化根拠となる正統性原理は、構成員相互の関係のみでなく、むしろ統治者に対する被治者の敬意の道徳的根拠を探究するところではじめて捉えられる、ということである。第7章ではこの統治者に対する被治者の敬意を「敬譲」の概念によって捉え、その道徳的根拠を明らかにしようとする、ソウパーの敬譲論を扱う。しかし統治者と被治者の立場交換の仮想の下に成り立つ相互的敬意による政治的責務の正当化では、基本的に特定の政治体制つまりは治者と被治者の同一性が成り立つ民主制を採るところのみに射程が限定されてしまう。この限界を克服するためには、統治者と被治者の人的関係のみでなく、それが法によって規制されることの価値を考える必要が生じる。それはつまり正統性原理の探究を政治的責務の正当化としてではなく遵法責務の正当化として行うべきであることを意味する。

そこで第2部では遵法責務の正当化を行う主だった法理論を順次検討する。第1章では法を私達に当てはまる理由のよりよき実現に奉仕する道具としての権威であると考えるラズについて簡単に整理する。その上で第2章でラズの権威の正当化では、法を二階の理由である排除理由が法の言うとおりにする行為理由を、法に背くことを支持する一階の理由との考量から保護する保護理由であると考えるべき根拠が失われる、とするムーアの批判を見る。その上で第3章ではハートの法の規範性の分析を継承して、法が法服従行為の道徳的善し悪しを自ら熟慮・推論することをやめて、それが法であることそのものを根拠にして行為することを要求する強行理由であると捉えるシャピロと、法を強行理由として扱うことが規範的に擁護されるとする規範的法実証主義の立場に立つキャンベルの議論を見る。しかし彼らは強行理由としての法による価値対立の調停に最も資すると考えるが、ポステマが述べるように、参与者相互で互いに他が法に従うことの予期が成り立たなければ法による調停が失敗に帰するのであり、参与者が法服従すべき理由を共有するための条件を考えねばならないこととなる。そのためには権威としての法が有する機能に基づいて一般的法服従が合理的である所以を明らかにしようとする方針は諦めねばならず、法あるいは遵法責務それ自体が有する内在的価値に注目して遵法責務の正当化を行う立場を検討せねばならない。

第4章では法の正当化を規制する原理である誠実性とそのような正当化実践を通じて育まれる原理の共同体の価値こそ、遵法責務の正当化根拠であるとするドゥオーキンの議論を見る。しかし誠実性が正義や制度的に定められる決定権の分配を規制する原理と独立の内在的価値を有する所以を示しえていない点において、ドゥオーキンの誠実性による遵法責務の正当化は失敗している。第5章ではソウパーの正義要求論を扱う。彼は法はすべからく正義要求を行うとするが、そのように考えるべき根拠が何であるか、さらに正義要求に何が含まれるのかが明確ではない。法が強制力を伴う以上、対人関係と同様、当然に自らの求めが正義であることを誠実に主張するのでなくてはならない、という根拠であれば、法の言うとおりにすることが概して正義の実現に資することの主張でも足りるだろう。しかし他方でソウパーの議論のなかには、正義要求が被治者からの異議申し立てに対して理由をもって応答する用意があることの誠実な主張をも含むと読み取れる部分も存在する。しかしこちらはやはり統治者に対する被治者の敬譲に基づく政治的責務の正当化に依拠する議論であり、この議論の射程が限定されている以上、法のなかに統治者が被治者からの異議申し立てに対して応答する責任を負うことを主張するものと考えることはできない。

最終的に擁護されるのは、法の内在的価値に基づいて遵法責務が正当化されるとする立場である。この立場をフラーの「抱負としての道徳」の概念や、法内在道徳、人間行動を準則に服せしめる目的追求的企てなどの議論を下地にして展開するのがN.シモンズである。私はN.シモンズが見出した法の内在的価値とは、法がそれに服従する人々を正義を実現する主体として敬意を持って扱うことであると理解する。被治者が統治者に対する敬譲は、単に前者が自らの信念に背いても後者が誠実に正しいと信じているところに従うことではなく、法の地位を有する後者の判断に対して敬意を有することと考えなくてはならない。そして統治者に対する敬譲の根拠は、被治者が統治者の決定が法としてなされることによる「品質保証」にこそある。このような法の内在的価値やそれに基づく法の支配の理解が支持されるべき所以の一端を示すべく、最後にドゥオーキンの法の支配論および井上達夫の法の支配論を批判的に検討する。その中核的主張は、構成員の間の、あるいは統治者と被治者の間の相互的敬意によって裏づけられる敬譲を基盤にして法の支配を理解することは、法の支配を遵法責務の根拠にして正統性原理であると考える限り、適切ではない、ということである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、プラトンの対話篇『クリトン』において提示された問題、すなわち「不正な法に対しても、それが法であるがゆえに服従する責務なるものは存在するか、存在するとしてその根拠は何か」について、これを法の内在的性質に基づく遵法責務の正当化の問題として扱う視座を提示し、それを擁護するために政治的責務の正当化を行う政治理論、また法の規範性の解明を行う法理論の現在の研究蓄積を網羅的に検討するものである。政治理論においては、クリトン問題は特定の政治社会の政治的決定一般に対する包括的服従責務である政治的責務の正当化根拠の問題として扱われ、政治社会の構成員相互の関係性にその根拠を求める発想が支配し、法それ自体に内在する性質に基づく遵法責務の正当化として問題を扱う視角は抜け落ちていたが、他方また、法理論においても、法の価値中立的な記述に従事する法概念論と、在るべき法の構想を示す正義論に考察が両極分解し、遵法責務の根拠を解明する規範的法概念論への関心が希薄化した状況が続き、遵法責務論は政治理論、法理論双方から等閑視されてきたという問題意識に本論文は立脚している。本論文はこの空隙を埋めるべく、政治的責務の正当化に失敗している現在の政治理論の限界が、法に内在する規範性に依拠した遵法責務論によってこそ克服されることを明らかにするとともに、かかる遵法責務論の復権の方途を、法の規範性を解明する諸理論の比較検討を通じて示すことを企図している。

本論文は政治的責務・遵法責務の正当化の議論の前提を確認する序章と、7章からなる第1部、6章からなる第2部で構成される。第1部では政治的責務の主要な正当化理論が、第2部では遵法責務の根拠をめぐる主要理論がそれぞれ批判的検討に付されている。

第1部では、まず第1章「同意理論」で、ほとんどの構成員が実際に政治社会への帰属に対する明示的同意を行っていないという事実に対して、黙示的同意や仮想的同意など同意概念の拡大によって同意理論を救済する試みを批判し、第2章「連帯責務論」では、特定の政治社会の構成員相互の内的紐帯に訴える連帯責務論を、メンバーシップが内在的価値を持つ緊密な共同体と政治社会とのアナロジーが成功していないとして斥ける。第3章「帰結主義的正当化論」では、不服従の破壊的帰結に訴える議論は、政治秩序が成立するためにはほとんどの場合全員の遵守行動は必要でないことから、やはり政治的責務の正当化には成功していないことが指摘される。第4章「公平性論」では、一人一人の個々の不服従は政治秩序の破綻を招かないが、一定数以上の不服従は破壊的帰結をもたらす状況で、他人の服従により維持されている政治秩序から恩恵を被っておいて、自分だけ服従しないのは「ただ乗り」であり不公平であるとする公平性論に対して、公平性論が成功するためには構成員相互の道徳的対称性が成り立っていなくてはならないところ、政治秩序のもたらす便益を個々人が自発的、意図的に受領することは、道徳的対称性の成立条件たりうるが、実際に全ての構成員が便益の受領を行っていると考えることは困難であるゆえに、結局正当化は成功しないと批判する。第5章「正義の自然的義務論」では、正義原理そのものから引き出される相互扶助義務、正義に概ね適合している政治体制への支持協力義務に基づき政治的責務を正当化する議論が、政治的責務が、市民が自ら属する政治社会に対してのみ負う特別の責務であることを説明できていないとして斥けられる。

以上の政治的責務の正当化理論の失敗を受けて、政治的責務を構成員相互の責務としてではなく、統治者に対する被治者の敬意として捉え直すアプローチの可能性の検討に進み、第6章「既存の政治的責務の正当化の失敗の意味」において、感謝論、および支配権論を批判的に検討した後、さらに第7章「統治者に対する敬譲の根拠」で、統治者に対する被治者の敬意を「敬譲」の概念によって捉えるフィリップ・ソウパーの議論を取り上げ、敬譲を統治者と被治者の間の立場交換の仮想の下で成り立つ相互的敬意によって正当化するソウパーの議論は、基本的に治者と被治者の同一性の成り立つ民主制に射程が限定されてしまう難点を有していると述べる。そして特定の政治体制に限らず政治的責務の正当化に成功する理論を見出すには、構成員相互の人的関係、あるいは統治者と被治者の人的関係ではなく、その関係が法によって規制されることの価値に目を向けるべきであること、つまり単に政治的決定に対する包括的服従責務である政治的責務ではなく、政治的決定が法としてなされた場合にそれが有する特別の性格に注目する遵法責務の正当化をこそ問題とすべきことが主張される。

そこで第2部では、遵法責務の正当化を行う主要な法理論の批判的検討が行われることになる。第1章「法による理由の調整」は、法は法服従主体に当てはまる行為理由(一階の理由)であるだけでなく、かかる理由を法服従主体よりもよく考慮して制定されているがゆえに、法服従主体が自己の行為をかかる一階の理由についての自己の判断に基づかせることを排除しうる二階の理由たる権威をももつという標榜を内包するとするジョゼフ・ラズの「法の権威要求」論を整理しており、その上で第2章「法は正しいがゆえに従われるべきである」で、マイケル・ムーアに依拠して、ラズが提示する法の権威要求の正当化条件に従うなら、法の権威は結局、競合する一階の理由の比較衡量を法が正しく行っているか否かに依存し、人々が法の比較衡量の正しさを否認する自己の理由判断に基づいて遵法を拒否することを排除する根拠がかえって失われることが指摘される。第3章「権力を制約する法」では、法が、法服従行為の道徳的善し悪しの判断の放棄を要求する強行理由であると考えるスコット・シャピロやトム・キャンベルの理論が俎上に載せられ、強行理由としての法に期待される価値対立の調停は、むしろ参与者相互が自律的判断の下で理由を共有してはじめて成功することをこの理論が看過していると批判されている。

以上の検討から、遵法責務の正当化は法の権威の果たす機能によってではなく、法そのものに内在する価値にこそ求められねばならないという見通しが示される。これを受けて第4章「ドゥオーキンの誠実性論とその克服」では、法の正当化を規制する原理である「誠実性(integrity)」とそのような正当化実践を通じて育まれる原理の共同体の価値こそ、遵法責務の根拠たる法の内在的価値であるとするロナルド・ドゥオーキンの議論が検討されるが、誠実性が正義と独立の内在的価値を有する所以を示しえていないため限界を有すると診断されている。第5章「ソウパーの正義要求論」では、法の内在的価値を、法が正義要求を有することに求めるソウパーの立場に対し、正義要求が遵法責務を根拠付けるに足るだけの実質的内容を持つことを裏付けるためには第1部第7章で扱った敬譲の概念に訴えねばならず、それゆえやはり議論の射程が限定されてしまうと批判される。第6章「法の内在的価値による法に対する忠誠の根拠付け」で最終的に擁護されるのは、ロン・フラーの「手続的自然法論」と、法と道徳の峻別自体の道徳的擁護可能性を主張する規範的法実証主義者ジェレミー・ウォルドロンの議論である。著者はナイジェル・シモンズの整理を踏まえつつ、独自の観点からウォルドロンとフラーの立場を統合し、正義構想が多元的に分裂競合する状況の下では、法内在道徳が実体道徳から分離され形式化されることが、法が人々に多様な正義構想を追求する自由を保障し、法服従主体を自己固有の正義構想を追求する主体として敬意を持って扱うことを可能にするとし、このように形式化された法内在道徳に、遵法責務を正当化する法の内在的価値を求める。そしてその立場から、ドゥオーキンの「誠実性としての法」の理論を、実定法の最善の正当化理論となる正義構想に法の固有の規範性を還元してしまうがゆえに正義構想の分裂を超えた遵法責務の根拠になりえないと批判し、井上達夫の「正義への企てとしての法」の概念に依拠した「法の支配の強い構造的解釈」とそれに基づく遵法義務論に対しても、対立競合する正義構想に対する普遍主義的正義理念の制約を強化して法に取り込むことにより、正義構想の多元性に対する法の包容力を減殺していると批判を加え、ウォルドロンらの法と道徳の分離を規範的に根拠付ける規範的法実証主義の擁護へ向けた地盤整備を行って、本論文は閉じられる。

本論文の評価は以下の通りである。長所としては、次の点を挙げることができる。

第一に、本論文は政治的責務と遵法責務という法哲学と政治哲学を貫通する根本的な問題群について、従来なされてきた種々多様な議論をほぼ網羅的に渉猟して、政治的責務論と遵法責務論それぞれの内部における理論の配置と対立構造を明確化する類型化を行った上で、諸理論に包括的な批判的検討を加えるととともに、この二大分野の間の問題関心・視点の重なりとズレをも明らかにしている。その考察の包括性・体系性という点で、この分野の従来の研究の中では群を抜いており、先行諸理論の難点・限界に対する包括的な批判的検討により、今後の研究の発展のための里程標をも示したと言える。

第二に、本論文は従来の種々の政治的責務論を逐一批判するとともに、それらの失敗に通底する根本的理由を、従来の理論が同意、相互期待、友愛的連帯等々、政治社会の構成員同志の間の何らかの強い相互的コミットメントを政治的責務の根拠にしたために、責務の正当化に対する要求水準を充足不可能なほど高めてしまったことに求め、この政治的責務論の挫折を克服するために、遵法責務を政治社会の構成員相互間の政治的責務から派生するものとみなして遵法責務論を政治的責務論に還元するのではなく、悪法すら法である限りもつ独自の規範的価値の基礎となる法自体の内在的性質を解明する法概念論と結合した遵法義務論の構築が必要であることを指摘し、その観点から、近年台頭している規範的法実証主義の立場の重要性を評価するとともに、フラーの法内在道徳の理論の意義の再評価をも試みている。政治的責務論と遵法責務論の理論的な位置関係をこのような形で統合的に整理し、後者の再定位をめざす視角は独自であり、大きな問題提起力をもつ。

第三に、第二次大戦後の現代法哲学の問題関心は、ケルゼン=ハートに代表される記述的法実証主義の法概念論と、ロールズ以降復権した規範的正義論とに両極分解し、遵法責務問題の観点から法固有の規範性の解明を目指す規範的な法概念論は長く脇に追いやられてきたが、ロナルド・ドゥオーキン、フィリップ・ソウパーらの反法実証主義者だけでなく、トム・キャンベル、ジェレミー・ウォルドロンらの規範的法実証主義者らによって規範的法概念論の再興を図る試みがなされており、本論文はかかる理論動向を包括的に検討し、そのあるべき発展方向について提言することにより、現代法哲学の再活性化につながる問題設定枠組の転換・方法論的視座の転換に寄与している。これとの関連で、規範的法実証主義とフラーの手続的自然法論の共通モチーフを析出して、自然法論と法実証主義の対立図式を超える視点を提供していることも注目に値する。

ただし、本論文にも短所がないわけではない。

第一に、本論文は民主的政治体制に限定されない一般的妥当性をもつ遵法責務論の構築を目指しているが、民主政と切り離された「法の支配」を遵法責務の根拠にするなら、他の社会ではなく、まさに自己の属する政治社会に対して市民が負う責務というその特殊性を説明できないではないかという疑問、また、規範的法実証主義とフラーの法内在道徳論との結合は、民主的立法の尊厳回復への志向を前提としており、民主的体制に限定した遵法責務論として議論を展開した方が、その狙いと意義がより明確になるのではないかという疑問が生じる。しかし、これらの疑問に対して本論文は十分な解答を示してはいない。

第二に、政治的責務論と遵法責務論、さらに後者と関係する法の規範性についての法概念論的分析という広大な問題領域にまたがる多くの議論の包括的検討を試みているため、個々の議論の検討において、結論を急ぐあまり、論旨の骨格だけが示されて趣旨説明が不十分ないし懇切さを欠く箇所が散見される。また、網羅的検討をめざすゆえの性急さの現れとして、誤字・脱字等の表記ミスが少なくない。

もっとも、以上のような短所は本論文の長所と裏腹の関係にあるという面もあり、また本論文の意義と価値を致命的に損なうものではない。

以上の理由により、本論文はその筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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