学位論文要旨



No 124069
著者(漢字) 小宮,京
著者(英字)
著者(カナ) コミヤ,ヒトシ
標題(和) 戦後保守党における党組織の形成
標題(洋)
報告番号 124069
報告番号 甲24069
学位授与日 2008.09.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第219号
研究科 法学政治学研究科
専攻 政治専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 谷口,将紀
 東京大学 教授 北岡,伸一
 東京大学 准教授 五百旗頭,薫
 東京大学 教授 川出,良枝
 東京大学 教授 中谷,和弘
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、戦後保守党における党組織の形成を扱った。その内容は、戦前から戦後へという政党の政治的役割の変容が政党組織にどのような変化をもたらしたのか、そして1955年に成立した自由民主党の党組織がどのようにして形成されたかを検討したものである。

1945年8月15日の敗戦を境に、戦前にその姿を消した政党が相次いで復活した。アメリカによる占領という状況下で、政党は戦後政治の中心的存在となった。1946年11月3日に公布、1947年5月3日に施行された日本国憲法は、政党政治に正統性を付与した。そして衆議院が多数派形成の闘争の舞台となった。とはいえ占領期はGHQとマッカーサーが存在し、戦前の大命降下に近い状態であったから、留意が必要である。講和独立後にはそのような制約もなくなり、多数派形成が決定的に重要になった。

以上に述べたような政党の政治的役割の変容は、政党にいかなる変容をもたらしたか。この問いに対する最も正統的な取り組みは、政党組織の変容を研究することで果たされると本稿は考えた。戦前・戦後の政党政治に関する先行研究は多いけれども、こと政党組織に関しては、連続や断絶、変化を論じた研究は少なく、既存研究の蓄積はまだ十分とは言い難い。戦後の政党復活から自由民主党の成立過程を通して、政党組織を論じたところに本論文の意義がある。

本論文が政党組織を特徴付けるものとして特に重視したのは総裁選出方法と党中央組織であった。この二つはリーダーシップの正統性と制度的基盤と言い換えることも可能である。

第一の課題、総裁選出方法に関して述べる。前述したように、多数派闘争の舞台は衆議院であった。そこで、衆議院における首班指名に立候補する政党総裁はいかにして選ばれるべきかという選出方法が必然的に問われた。もはや戦前に見られた大命降下は総裁選出の根拠たり得ない。戦後における政党総裁の正統性は何に求められるか。その答えが自由民主党において採用された総裁公選であった。

ところで、総裁公選は、戦前の保守党でも党則に明記されていた。しかし実施されたことはほぼなく、満場一致の形式で選ばれることが多かった。これは政党総裁の条件として、大命降下の可能性が戦前の政治家たちの念頭にあったがゆえに、定着しなかったと考えられる。戦後においても総裁公選はスムーズに定着したわけではない。

総裁公選に関連して、幹部公選論という主張も存在した。本稿で用いる役職公選論は総裁公選論と幹部公選論を包含する。前者は総裁を公選すべしとの議論であり、後者は総裁以外の党幹部を公選すべしとの議論である。

第二の課題、党中央組織に関して述べる。重要な論点として、総裁のリーダーシップとの関係と他政党との支持調達競争という二つの視点が挙げられよう。あらためて指摘するまでもなく、指導者のリーダーシップは、それを支える制度的基盤なくして存在し得ない。その意味からも、党中央組織と総裁の関係がいかなるものであったかは検討されねばならない。重要なのは、いわゆる党三役の機能と総裁の人事権である。なお、総裁の人事権は第一の課題で言及した役職公選論と緊張関係にあるのは言うまでもない。次に、他政党との支持調達競争、特に戦後その存在感を増した革新政党との競合において、保守政党側がいかなる構想を持って対応したかが重要である。

第一と第二の課題を明らかにするため本論文が採用した方法と章立てを述べる。

本論文が取った方法は、1945年から自由民主党成立後の1957年までの保守党における権力闘争を、可能な限り正確に描くというものであった。党内の権力闘争は多くの場合、総裁のリーダーシップへの挑戦、もしくは党組織のあり方をめぐる対立として顕在化した。ある制度を説明するには、その外形や成立過程のみならず、その争奪・改廃をめぐる政治過程をも検討せねばならない。本稿が保守党の組織を規定したと考える要因、すなわち「民主化」への対応や、リーダーシップの確立や党勢拡張のための戦略は、権力闘争を媒介とすることではじめて政治過程に投入され得たのである。

そこで、第一に、政治家やその周辺、さらには新聞記者による自伝や回想録、伝記といった文献を網羅的に収集し、批判的に比較照合するとともに、新聞を活用し、また、政治家のみならず、周辺の政治記者へのインタビュー等、近年オーラル・ヒストリーとして知られる成果を用いることで解釈の精度を高めた。また、戦後史の一次資料に乏しいという状況に大きな変化はないが、可能な限り閲覧・収集した未公刊資料も活用した。第二に、保守党内の多元的なアクターに注目した。戦後政治は長きにわたって政権を担った吉田茂の視点で語られることが多かった。これに対し、本稿は非吉田勢力というアクターの動向・利害状況に配意した。非吉田勢力とは、自由党系では鳩山一郎、緒方竹虎、第二保守党系では、犬養健、芦田均、三木武夫、重光葵らである。こうして、より網羅的に戦後保守政党の全体的構図を描くことを試みた。何よりも第三に、政党組織の形成過程を詳細かつ網羅的に検討し、体系化をはかった。

第1章は、1945年8月の敗戦から1947年までを扱った。序説で戦前の保守党、なかでも二大政党とそれに準ずる政党において、総裁公選がいかなる扱いを受けたか、党則・会則や総裁公選の実態を明らかにした。そして戦前の政党組織を踏まえ、第1節では自由党、第2節では進歩党を中心に政党の復活を分析した。第3節は、成立はしなかったが政党の「民主化」を構想した1946年・47年の政党法案を扱った。

第2章は、吉田茂総裁時代の自由党系を対象とした。その際、吉田総裁による党中央組織の整備、特に、幹事長と総務会の権限と機能を論じた。同時に、吉田総裁の党内権力基盤である「吉田派」の形成と崩壊を非吉田勢力との権力闘争と絡めながら、1946年の吉田総裁就任から1954年に内閣総辞職するまでを分析した。

第3章は、第2章と同時期の、いわゆる第二保守党系を対象とした。第1章第2節で扱った進歩党の後身政党を中心に、国民民主党に合流した協同党系の政党をも扱った。具体的には、1947年の民主党と1945年の日本協同党から1954年の日本民主党までを分析した。特に、いわゆる革新派と彼らの唱えた役職公選論や政党組織論、引いては役職公選論の展開に注目した。

第4章は、自由民主党の結成とその党組織、及び、総裁公選の定着過程を考察した。党則の形成過程では総裁や党三役の権限と機能に着目した。そして党則に明記された総裁公選に関しては、1956年の第1回総裁公選、第2回総裁公選、1957年の第3回総裁公選までを扱った。

その結果、明らかにされたことをまとめる。

第一の課題に関して、総裁公選の定着過程を根底において支えていたのが「民主化」の風潮である。1945年10月11日、マッカーサーが幣原内閣に命じた「民主化に関する五大改革」にはじまり、総司令部の方針と相俟って「民主化」はそれ自体が独自の価値を持つ言葉として流通した。政党とてその例外ではあり得ず、1946年・47年に争点化した政党法の草案では、政党の「民主化」として役職公選や多数による意思決定の導入などが求められた。最終的に政党法は断念されたものの、議論の過程で提示された役職公選論は以後も政党側に強く認識された。だが、そのことは理念としての「民主化」が受け入れられたことを意味しない。役職公選論は執行部への対抗策として反主流派が唱えることが多かった。あくまでも権力闘争の手段として、それも非常に有効な手段と認識されたために唱えられたことは、第2章で扱った自由党系、及び第3章で扱った第二保守党系の歴史的経緯からも明らかである。付け加えれば、幹部公選論とは総裁が幹部の任命権を行使できないことを意味し、総裁のリーダーシップの弱体化を招くものであった。このように幹部公選論は「民主化」の風潮の中で登場したものの、総裁公選を通じて期待された民主的リーダーシップとの間に緊張を孕んでいたのである。

自由党と民主党という二つの政党により行われた保守合同の過程において、元来は総裁公選よりも第二の課題で述べる党中央組織を軸とした総裁のリーダーシップ強化を優先した自由党が、鳩山総裁の既成事実化を阻むために戦略上総裁公選を唱えた。それが合同後の比較的スムースな総裁公選の制度化につながった。初期の自由民主党においては総裁公選に対する根強い反対論もあったが、他の調整方法がうまく行かず、最終的には実施に到り、定着したのである。

第二の課題に関して述べる。戦後に復活した政党は、戦前の党組織を継承していた。ところが新たな指導者の登場と権力闘争の結果、党組織は変容を遂げた。自由党系においては、リーダーシップを強化するために吉田茂総裁のもとで党組織が変容させられた。具体的には幹事長の権限強化と総務会の権限奪取は、吉田総裁のリーダーシップを確立するに際して、重要な役割を果たした。第二保守党系では、党大会を重視する流れが存在し、それは代議員の拡大や地方組織重視といった形で実現した。党組織拡大の際に、いわゆる革新派の主張する革新政党の組織論を強く意識した結果、改進党においては、従来の保守党組織とは異質の新組織が誕生した。いわゆる革新派の主張が影響力を持ち得たのは、野党期間の長い第二保守党系において、党勢拡大のためには政党組織に依らざるを得なかったからである。組織政党への志向は、第二保守党系の問題関心を浮き彫りにするものであると同時に、その党組織における著しい特徴となっている。

以上のような自由党系と第二保守党系が合同した自由民主党には、戦前型総務会の復活断念と組織政党志向の挫折という議員政党への分岐点を経ながら、総裁のリーダーシップを強化する制度的基盤と組織政党論の影響を受けた新組織とが継承され、組織形成がなされたのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、1945年の敗戦から1955年の自由民主党結成を経て57年の第三回総裁公選によって総裁公選制度が定着するまでの、いわゆる保守党の中央組織の形成を論じたものである。政党政治にとって当該期は激動の時代であった。戦後日本の政党政治は、敗戦によって復活し、日本国憲法の制定によって正統性を獲得し、講和独立でGHQの権威が消失したことによって政治過程における中心的な位置を確立した。この間の政党の変貌を、戦前の政党との比較を念頭に置きながら、中央組織に着目して分析している。

本論文の方法は、当該期の保守党における権力闘争を、可能な限り正確に描こうとするものである。ある制度を理解するには、その外形や成文規定のみならず、その創設・争奪・改廃をめぐる権力闘争をも検討せねばならない。戦後の保守党においても、党内の権力闘争は多くの場合、党組織のあり方をめぐる対立として顕在化した。また、権力闘争の中で制度の実質的な機能がかわったり失われたりする場合もあった。

この過程を跡付けるのは決して容易なことではない。当該期の政党は、決して一次資料に恵まれているとはいえないためである。

そこで本論文は第一に、政治家やその周辺の自伝・回想録・伝記、それに広く未刊行資料を収集し、また新聞記事や関係者のオーラル・ヒストリーを用い、これらを批判的に照合することによって、解釈の精度を高めている。

第二に、保守系の多元的なアクターに注目している。戦後政治は長期政権を担った吉田茂の視点で語られることが多いが、本論文では非吉田勢力(自由党系では鳩山一郎、緒方竹虎、第二保守党系では、犬養健、芦田均、三木武夫、重光葵ら)の動向・利害状況に配意して、戦後保守政党の全体構図を描くことを試みている。

以下、本論文の成果を章立てに従って概観する。

第1章は、1945年8月の敗戦から1947年までを扱っている。序説は戦前の二大政党とそれに準ずる保守党における総裁公選のあり方について述べており、党則・会則に規定が設けられるようになりつつも、実態としては実施されていなかったことを確認している。第1節では自由党、第2節では進歩党を中心に政党の復活を分析している。第3節は、成立はしなかったが政党の「民主化」を構想した1946年・47年の政党法案を扱っている。以上の三節を通じて、権力闘争を有利に遂行するために援用され得る風潮として「民主化」が戦後には機能していたことが確認され、次章以降の分析の伏線となっている。

とはいえ、政党が政権を獲得することが自明となったことは、政党指導においては「民主化」以上に、総裁のリーダーシップの確立を喫緊の課題とした。第2章は、1946年に吉田が総裁に就任し、1954年に内閣総辞職するまでの自由党系を対象としている。吉田総裁の党内権力基盤である「吉田派」の形成と崩壊を描きつつ、党中央組織の形成過程を明らかにしている。戦前に総務会が党運営において卓越した地位を占めていたのに対し、幹事長が執行機関としての地位を確立して総裁のリーダーシップを支え、総務会は重要性を低下させつつ議決機関としての機能を保持したことが確認される。

一方、政権に恵まれなかったいわゆる第二保守党系においては、「民主化」の風潮に応えることで組織化・党勢拡張を図ろうとする構想が長く有力であった。第3章は、第2章と同時期の、いわゆる第二保守党系を対象とする。第1章第2節で扱った進歩党の後身政党を中心に、協同党系の政党にも論及しつつ、1954年の日本民主党結成までを分析している。特に1952年に結成された改進党の党則制定過程については一次資料に恵まれており、詳細に論じている。党勢拡張のために革新政党の党組織を摂取する必要があったことを踏まえて、いわゆる革新派の唱えた役職公選論を跡付け、このような組織化への志向が自由民主党への遺産となったことを示唆している。

吉田政権の崩壊と保守合同の後は、党中央組織に加えて総裁公選の定着によって、総裁のリーダーシップを支える態勢となる。すなわち第4章は、自由民主党の結成とその党中央組織および総裁公選の定着過程を考察した。保守合同にいたる錯綜した過程を、総裁や党三役にいかなる権限・機能が付与されるかに着目しつつ描いている。そして、総裁公選が党則に明記され、1956年の第1回公選、第2回公選、1957年の第3回公選を通じて定着したことを跡付けている。

本論文への評価は以下の通りである。

長所の第一は、党組織のあり方を、党規約の文言にとどまらず、その制定や運用をめぐる権力過程を通じて明らかにしたことである。これは、資料的にも難しく、根気のいる作業であるが、かなりの成果をあげている。吉田総裁のリーダーシップの盛衰を通じて、幹事長・総務会の重要度や役割の変化を浮き彫りにしたことはその好例であろう。

第二は、多様な資料を収集・照合することで、この権力過程を可能な限り正確に復元したことである。すでに相当の研究の蓄積があるが、本論文は、これに多くを付け加えたと言うことができる。改進党の党則制定過程の詳細な解明を試みた部分などがそうである。

第三は、以上の考察を通じて、自民党の組織的特徴の歴史的淵源を明らかにしたことである。戦前の政党組織がいかにして現在の自民党の組織となったかを、説得的に明らかにしている。このことで、本論文は歴史研究であるにとどまらず、現代日本政治論に寄与する業績となっている。

他方で、いくつかの短所も存在する。

第一は、党中央の組織だけを対象として、党大会や党員レベルまでを対象としておらず、その点について、十分な説明がないことである。

第二は、保守党が与党である場合と野党である場合で、党組織の持つ意味が大きく異なる点が、十分書き分けられていないことである。

第三に、権力過程への関心が強すぎるのと、雑多な資料を使用せざるを得なかった結果、時に叙述が粗くなる場合が見られることである。

とはいえ、以上の欠点、とくに第三点には、一次資料が不十分な中で権力過程を復元しようとする際には、免れることが難しいものも相当含まれている。本論文の価値を大きく損なうものではないと考える。

以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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