学位論文要旨



No 124072
著者(漢字) 金澤,忠信
著者(英字)
著者(カナ) カナザワ,タダノブ
標題(和) ソシュールと言語学
標題(洋)
報告番号 124072
報告番号 甲24072
学位授与日 2008.09.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第840号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 湯浅,博雄
 立教大学 教授 前田,英樹
 東京大学 教授 山田,広昭
 東京大学 教授 宮下,志朗
 東京大学 准教授 星埜,守之
内容要旨 要旨を表示する

スイス・ジュネーヴの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913)を20世紀の現代言語学の創始者とみなすことは定説となっており、彼の名は一般に死後出版された『一般言語学講義』に結びつけられている。また1960-1970年代には構造主義の先駆者と呼ばれ、それ以降は言語学者としてよりむしろ思想家として知られている。しかしソシュール自身は主に19世紀の印欧言語学の研究に従事した言語学者であり、また世紀転換期を生きた「知識人」でもあった。

今回の論文ではソシュールの一般言語学および記号学を扱っていないが、それはソシュールを20世紀の言語学からいったん引き離し、19世紀の文脈のなかに置き直すことで、彼自身の思考や感情に迫るためである。その際、たんに19世紀言語学の客観的な歴史のなかにソシュールを位置づけるのではなく、ソシュールが言語学の歴史のなかに自分自身を書き込む仕方について検討を試みた。これはいわばソシュールの主観的な言語学史の検証作業である。その意味で本論は「ソシュールの言語学」ではなく「ソシュールと言語学」を主題としている。

ソシュールは晩年に行った講義のなかで言語学の歴史について独自の解釈を提示している。彼によれば、言語学は1816年にフランツ・ボップによって創始されるが、ボップの偉業はそれ以前のサンスクリット語研究の蓄積があってこそであり、しかもサンスクリット語が印欧諸語の比較・分析に適切な言語だったのは偶然にすぎない。またボップの権威は「誤りの原因」ともなり、その後の言語学の発展にとってむしろ障害となった。ボップ以降、ヤーコプ・グリムが「グリムの法則」を発見し、「歴史文法」の領野を切り開いたが、そもそも音韻推移自体偶然によって起こるものであって、グリムはそうした言語の歴史的活動を理解していなかった。このようにソシュールが言語の歴史および言語学の歴史を偶然の積み重ねとして認識するのには必然的な理由があった。ソシュールは1873年頃にまったくの偶然によって「鳴鼻音」を発見したが、当初はそれが何であるかよく分からず、公表せずにいた。1876年、同郷の友人がいるという理由でライプツィヒに留学したとき、その数週間前にカール・ブルークマンが鳴鼻音についての論文を発表しており、到着早々3年半前に発見したものの重要性を思い知らされると同時に、発見の優先権を主張することができなくなった。ソシュールは19世紀の言語学においては1876年という日付に偶然遅れてやってきた者だった。

鳴鼻音をめぐる論争をきっかけに青年文法学派が形成され、1876-1877年にライプツィヒは印欧言語学の中心地となる。これはソシュールによる言語学史の区分上第二期の幕開けあたり、彼は自らそれに偶然立ち合ったわけだが、自分自身がこの刷新をなしえたかもしれないということを考えると心中穏やかではなかった。1878年にライプツィヒで『印欧諸語における母音の原初体系に関する覚え書』を出版するが、この日付と出版地をもってしては鳴鼻音発見の優先権はおろか著作自体の独創性を主張することさえ困難だった。ソシュールは1903年の回想録のなかでこの著作にたいする剽窃疑惑を払拭するために、同郷の師アドルフ・ピクテとの出会いを言語学者としての経歴の出発点に置き、ライプツィヒ学派からの影響を否定しようとする。またライプツィヒ学派が対象としていた「音声形」および「音法則」を徹底的に無根拠化しようとし、このことは言語学そのものを批判することにもつながった。ソシュールの最終的な結論は、言語学にはそれ自体で定義される事象がない、論証を基礎づけるのに他よりも適切な出発点がない、それどころかいかなる出発点もない、というものだった。

このような考え方はソシュールの政治観・歴史観にも反映されていた。1996年にジュネーヴのソシュール家で新たに発見された資料には、南アフリカのトランスヴァール共和国で起きたジェイムソン襲撃事件(1895年12月29日-1896年1月2日)、オスマン・トルコによるアルメニア人虐殺事件(1895-1896年)、ドレフュス事件(1894-1899年)に関する手稿が含まれており、このなかでソシュールは世紀末の殺伐・混沌とした時代状況について自らの意見を語っている。当時はヨーロッパ列強が世界規模で植民地獲得競争を展開し、軍事的圧力に基づく「粗暴の外交」を繰り広げていた。その一環で起こった虐殺や紛争などの事件にたいして、キリスト教や人道主義などの信条・原理はそのものとしては政治的に成功を収めていないようにソシュールには見えた。彼は虐殺が虐殺であるという理由だけで有罪とされる時代ではないという認識をもっており、まず政治的利害を考えなければ机上の空論であると考えていた。そのためアルメニア人虐殺事件に際してソシュールの批判の鉾先は虐殺を命じたトルコ皇帝や自国の利益しか考えないヨーロッパの外交官だけでなく、たんに情緒的な理由で救済活動をする親アルメニア派にも向けられた。またドレフュス事件に際しては、当初は反ユダヤ主義に同調し、のちに転向してドレフュス派を自認しながらも、反ドレフュス派に関してはほとんど言及せず、むしろ純真素朴で「間抜け」なドレフュス派知識人を痛烈に批判している。

ソシュールによれば、ローマ皇帝からトルコ皇帝に到るまで、歴史上虐殺は恣意的に行われてきた。大国の外交官の権謀術数によってその犠牲者は救済されないどころか認知されない場合もある。歴史はなんらかの原理や法則によってではなく、偶然、恣意、政治的利益によって展開するものであり、個々の出来事や事態はそのつど一回性のものである。だからこそ、「情緒的」になることなく、「時宜を失した怒り」を抑え、政治性の側面から冷徹に事態を考察しなければならない。これがソシュールが歴史から引き出した教訓だった。

ソシュールが当時の国際的・政治的な事件にたいして冷徹な現実主義者でいられたのはスイス人であることと無関係ではなかったように思われる。彼には祖国スイス連邦共和国にたいする思い入れがあり、イギリス、フランス、ドイツなど帝国主義・植民地主義によって領土拡大を目指していた国よりも「文明化された国」と考えていた。だが彼はたんに中立的な傍観者として当時の事件・出来事を観察していたわけではなく、当時主要なメディアだった新聞を通じて、しかもいくつかの新聞を読み比べながら、より正確な情報を得ようとし、さらに新聞の編集者・論説員宛に質問や意見を述べた手紙を送っていた。

ソシュールはビスマルクが「公正な仲裁人」として手腕を揮ったベルリン会議の年(1878年)にベルリンに滞在していた。この時期は言語学史にとっても世界史にとっても大きな転換期であり、このときのヨーロッパの外交政策が原因で引き起こされるトルコやクレタ島での虐殺事件について、ソシュールはそれから約18年後の1897年に手稿を書くことになる。これはライプツィヒでの著作の出版からも同じ年月が経過しているということを意味しており、ソシュールにとっては個人的な記憶とも結びついた重大な出来事だった。

1897年にドレフュス事件が新たな展開を見せた際、ソシュールはアルベール・レヴィルの『ある知識人の行程』に関する手稿のなかで「ドレフュス主義者」であることを告白している。この著作はレヴィルの友人である一人の「知識人」がエミール・ゾラの介入以前に独自の仕方でドレフュス派に転向していく行程を綴った日記だが、この友人は匿名であることを条件にレヴィルに出版を許可した。ソシュールは同じドレフュス派であるはずのレヴィルの著作の署名と日付を疑い、それを批判するための証拠を蒐集した。ソシュールは「真実を愛する者」としてドレフュスの勝訴を望んだが、そのために真実が犠牲になってはならないと考えていたのである。ソシュールは、ゾラがスローガンとして掲げた「真実」と「正義」のうち、前者のみを取る立場のドレフュス派知識人だったと言える。

しかしソシュールは1903年の回想録で「真実にしたがって書く」と宣言しながら、ピクテに関する出来事を2年早い日付に書き換えようとした形跡がある。従来ソシュールがピクテに処女論文を捧げたのは1872年、14歳のときとされていたが、1996年に発見された新資料によれば、実は1874年、16歳のときである。「印刷された日付の原理」によって鳴鼻音発見の優先権を主張できなかったソシュールは、自分の著作の剽窃疑惑を払拭するために、最低限独創性・独自性を確保しておかなければならなかった。そのため同郷の師ピクテとの交わりは、言語学的活動の心理的な出発点として、ドイツ人研究者たちの発見や著作に先行していなければならなかったのである。

この回想録をソシュールは友人であるシュトライトベルクに託そうとしたが、結局生前に自身では送らなかった。しかしライプツィヒの青年文法学派に属するこのドイツ人の友人に回想録の処遇を委ねるのは、レヴィルの友人同様、きわめて政治的な身振りではないだろうか。ソシュールは自分の著作が「可笑しな剽窃者の作品」として読まれないようにするために、エルネスト・ラヴィスに倣い、慎重に、自分の利害の観点から、自己弁護を試みたのである。

審査要旨 要旨を表示する

金澤忠信氏の課程博士論文は、二部構成となっており、第一部は「ソシュールの言語学史」という表題のもとに、ソシュールが1907年から1911年にかけて行った、三回の「一般言語学の講義」のなかで展開している独自の言語学史について考察すること、さらにソシュールが19世紀の印欧比較言語学からいかにして「一般言語学」という発想へと転換していったのかを検討するということを目指しています。

ソシュールのパーソナルな経験として、1873年ころにまったく好運によって「鳴鼻音(nasale sonante)」を発見したが、まだ若い学生として、公表せずにいたところ、1876年、ライプツィヒに留学したとき、その数週間前にブルークマンが鳴鼻音についての論文を発表しており、発見の優先権を主張することができなくなったという事態があります。

この鳴鼻音をめぐる論争をきっかけに青年文法学派が形成され、1876年から77年にかけて、ライプツィヒは印欧比較言語学の中心地となりますが、そこで、ソシュールは、1878年に『印欧諸語における母音の原初体系に関する覚え書』を出版します。しかしこの日付と出版地をもってしては、鳴鼻音発見の優先権や著作自体の独創性を主張することは困難だったので、ソシュールには、この著作のオリジナリティを擁護し、ライプツィヒ学派からの影響を否定しようとするモチーフがあった、と本論文は解釈します。

当時ライプツィヒ学派が研究対象としていたのは「音声形(figure vocale)」と呼ばれるもので、それは「音声法則(loi phonetique)」の理論的基盤をなす対象でした。ボップ、およびヤコブを継承する仕方で発展してきた近代言語学においてこの「音声形」が特権的な対象として持ち出された背景は二つあります。一方で、たとえばシュライヒャーの言語系統樹のような、自然科学を標榜しながらその実きわめてロマン主義的な学説から脱却するという学問的な要請です。他方で、青年文法学派の「音声法則」は、書かれた文献資料の研究からだけではなく、生きた言語の観察から導き出されたものであり、鳴鼻音のような「音声形」は、文献学的には実証不可能な存在であるが、理論上要請される対象で、「音声法則」の理論的枠組のなかで決定的な役割を担っていました。つまり「音声形」は、言語学を文献学的実証性というパラダイムから離脱させつつ、しかも言語学に厳密かつ客観的な学という装いを備えさせるのに十分な対象だったと言えます。それに対し、ソシュールは、ライプツィヒの青年文法学派が、「音声形」をあらかじめそれとして存在する事象であると暗黙のうちに前提にしていることを批判し、また、「音声形」を、初めから特権的な対象であるかのようにみなす視点や立場を否定しました。そこには、青年文法学派から自分自身を引き離すというモチーフもあったと思われる、というのが、本論文の主張です。

本論文の解釈によれば、1903年の「回想録」でソシュールはピクテに処女論文を捧げた日付を2年早い日付に書き換えようとした形跡があり、そして、この2年の差には重大な含意があります。従来の定説ではソシュールが「試論」を執筆したのは1872年、14歳のときですが、1996年に公表された新資料を参照すると、1874年、16歳のときであり、鳴鼻音発見よりも後になります。そうすると、ピクテに「試論」を送ったのと、ボップの文法書でサンスクリット語を学び始めたのと、クルティウスの著作を読んだのは、おそらくほぼ同時期であると推定できます。鳴鼻音発見の「印刷された日付」を持っておらず、発見の優先権を主張できないソシュールは、剽窃疑惑を払拭するために、最低限自らの独創性を確保しておかなければならなかったのであり、そのため同郷の師ピクテとの交わりは、言語学的活動の出発点として、青年文法学派(ドイツ人研究者たち)の発見や著作に先行していなければならなかったのであると、本論文は考えています。

こうしてソシュールは、ジュネーヴ大学教授就任以降に書かれた言語学に関する一連の手稿や「一般言語学の講義」のなかでも、一貫して「音声形」を特別視することを批判し、徹底的に無根拠化しようとしています。そしてそのことが、ライプツィヒ学派的な言語研究だけでなく、旧来の歴史的・通時的言語学そのものを批判することにもつながったと推測できます。ソシュールが1895年ころ書いた「言語学に関する書物」の草稿や、1907年度の「講義」で述べていることの根幹の一つは、言語学においてはそれ自体で定義される事象がない、言語事象と呼ばれるものは言語学者のなんらかの視点から作り出される、ということです。さらに進めて、しかもそうした視点のうち、特権的な視点、他よりも適切であると保証されている視点はない、また論証を基礎づけるのに特権的な出発点はない、いかなる出発点もあらかじめ保証されていない、というものです。こうした見方は、「音声形」をあらかじめそれとして存在する事象であると前提にする態度や、また、それを初めから特権的な対象であるかのようにみなす視点への批判から生じてきたというのが、本論文の主張です。

本論文の第二部は、1996年にジュネーヴのソシュール家で新たに発見され、ジュネーヴ公共大学図書館に寄贈された手稿群に含まれている政治および歴史的事件に関わるテクストを解読し、トランスクリプションし、整理して提示したものであり、さらにそこに見られるソシュールの政治的・歴史的ディスクールを読み取ろうとしたものです。この新資料には、日清戦争、ボーア戦争の一環で起こったジェイムソン襲撃事件、オスマン・トルコによるアルメニア人虐殺、そしてドレフュス事件などに関する手稿が含まれています。ソシュールは最終的には「ドレフュス擁護派の知識人」を自認するようになりますが、実際には反ドレフュス派について言及することはほとんどなく、むしろ「人道主義」を標榜する純真なドレフュス派知識人たちを厳しく批判しています。ソシュールの主張は、キリスト教の理想や人道主義の信条・原理などは、そのものとしては政治的に有効ではなく、歴史における偶然的要素や事件・出来事の一回性的な要素を考慮に入れた思想を構築しなければならない、というものであったと本論文と考えており、その点に、言語学研究におけるソシュールの態度と共通する部分があると論じています。

本論文の不十分な点は、まず第一部と第二部、さらに「アナグラム研究」に関する付論それぞれの相互の関連性が必ずしも明確になっていないこと、一つの論文として全体の有機的統一を十分に形成することができていない点です。この点は、本人も自覚しており、審査員から指摘されました。第二部では、第一部の議論を踏まえて、たとえば言語シーニュ(記号)の恣意性と必然性の問題、言語シーニュの不変性・不易性と可変性・可易性の問題などに踏み込んで論じたほうがよいと思われます。

またソシュールが、「音声形」を特別視することを批判し、徹底的に無根拠化しようとした理由の一つに、ライプツィヒの青年文法学派から距離を取りたいという動機づけがあったとする面を強調するのは、一つの仮説としてありうるものですが、本論文が主張するほど大きな理由であるかどうかは疑問です。さらにソシュールの政治的・歴史的ディスクールを読み取ろうとする解釈は、もっと総体的に考察し、説得力のある分析方法を確立することが求められるでしょう。

以上のような不備もありますが、本論文は、ソシュールが1907年から1911年にかけて行った、三回の「一般言語学の講義」のなかで展開している独自の言語学史についてよく考察することを通じて、19世紀の印欧比較言語学からいかにして「一般言語学」、共時言語学、という発想が出てきたのかを再検討するという点で、一つの貢献をなしていると思われます。ゆえに、博士(学術)を授与するに値すると審査員全員で評価いたしました。

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