学位論文要旨



No 124073
著者(漢字) 濱崎,加奈子
著者(英字)
著者(カナ) ハマサキ,カナコ
標題(和) 香道の成立をめぐる諸問題 : 香と連歌と王権
標題(洋)
報告番号 124073
報告番号 甲24073
学位授与日 2008.09.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第841号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松岡,心平
 立命館大学 特命教授 川嶋,将生
 同志社大学 教授 矢野,環
 東京大学 教授 小林,康史
 東京大学 准教授 田中,純
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、香道の成立時期と目される中世末期、とりわけ、文明年間(1469-86)から天正年間(1573-91)前半までの約百年間を対象とし、香道がいかにして成立したのかについて明らかにするものである。

香は、仏教とともに伝来したと言われる。当初、香は信仰の場における儀礼や供養として用いられたが、次第に衣服や室内を薫らせる薫物(たきもの)として生活の場に取り入れられ、平安時代末期には薫物の「方」(=調合法)を集大成した『薫集類抄』が生まれるに至る。伝存する「方」の記録からは、当時の人々が香に関する高度な知識と技術を蓄えていたことが判る。『源氏物語』では、薫物調合の些細な違いでも「人」が判別され、家の血筋をもあらわす秘伝の「方」が重視されるなど、香は王朝サロンにとってなくてはならない要素となっていた。香木は日本に産出しない貴重なものであったが、鎌倉末期には中国からの輸入品の流通が増え、様々な種類が出回るようになる。同時に、この頃、薫物ではなく、沈香の香木そのものが単独で鑑賞されるようになる。十四世紀には、よい香に名が付けられた「名香」の存在が確認され、十六世紀には名香を競わせる「名香合」などの香会が行われていた。天文年間(1532-54)には名香が格付け・選定されて「名香録」が成立し、永禄年間(1558-69)にはそれが伝授されるに至るのである。

香道の成立は、流儀において始祖とされる三条西実隆(1455-1537)や志野宗信の時代が漠然と草創期と捉えられてきたが、一方で江戸初期から中期の成立と言われるなど、一定しない。香道は、同じ室内芸能として中世に仏教荘厳から発展した茶の湯や花などと比べ、甚だしく研究が立ち後れており、その成立についても、ほとんど議論すらなされてこなかった。茶道および華道に比べ、基本テキストとなる伝書類の翻刻すら十分に行われておらず、未だに総合的な視点に立つ研究は行われていないのが現状である。

本研究は、香道研究にとって最も重要で、にもかかわらず最もあいまいにされてきた、香道の成立をめぐる問題について検討を行うものである。そのため、香道の成立にかかわる重要な局面をとりあげ、以下のような構成で検討した。

第I部で「香と連歌」の問題を扱い、第1章では、最初の香会の記録で足利義政に仮託された『五月雨日記』および、連歌師の牡丹花肖柏が判詞を著した『名香合』を対象とし、香道成立に連歌師が深く関わっていたこと、また、連歌的な発想が香道成立に大きく寄与したことを解明した。

第2章では、香に関する古代から中世への過渡期の思想を留める未公開史料『香之記』を対象とし、「香の起源神話」の発生について考察した。ここでは、「異国」から伝来した香が、花山院に見出され、源実朝の手を経て伝わったとされている。花山院は在位二年で天皇位を追われた悲劇の天皇として知られ、実朝は、右大臣に任ぜられた翌年、その拝賀のため鶴岡八幡宮を詣でた折に石階脇で暗殺される。このような悲劇性を帯びた伝承は、芸能の由来を語る言説として極めて特異なものである。ここでは、この伝承に登場する富士山に関わる信仰や物語、また、香りの視覚化としての「煙」を異界との通路と捉らえた古代中世の人々の意識について検討することで、「香」が、宗教的な背景を強く保持するがために、他の芸能とは異なる起源伝承を生み出したのではないかということを明らかにした。現在この起源伝承はほとんど忘れられているものの、宗教性が強く籠められたこのような伝承は、香道を成り立たせている重要なファクターなのである。

第3章では、引き続き『香之記』を対象とし、香道成立に欠かせない香会の形式や灰の形、香木の置き方などの規矩作法について検討した。すでに伝授すべき規矩が形作られ、「家」や流儀の意識が見られることを確認した。

第4章は、名香のリストである「名香録」についてとりあげた。名香は「名物」の香であるという基本事項の確認から、「名物」そのものの成立に立ち返り、楽器や茶器の名物との比較、宝物と権力のかかわりなどから、「名物」観の生成について検討した。名香そのものの成立は鎌倉時代には見られるものの、茶器における「名物記」の成立と時を同じくして「名香録」が編集され、その過程で、香の分類法なども生まれた。

第II部は「香と王権」の問題をとりあげ、第1章で、現在香道で最も重視される「名香」のうち、江戸中期まで第一とされた「太子」の成立について検討した。『日本書紀』には、推古三年(595)に淡路島に沈香木が流れつき、島の人々が焼いたところ常ならぬ芳香が漂ったため、朝廷へ献上したという、香木伝来の最初とされる神話が載るが、これが名香「太子」そのものであると語られてきた。しかし、実は、中世における太子信仰の高まりの中で、古来の樹木への信仰と相俟ち、香る仏像のかけらとして、名香「太子」は「誕生」したものであった。

第2章では、「太子」とともに名香の一、二を争う「蘭奢待」について、足利将軍家に始まる「截香」の記録を追った。その結果、最初に蘭奢待を截ったと考えられるのは至徳二年(1385)の足利義満であるが、この段階では、「蘭奢待」という名も付けられてなかったと考えられ、香木を截ることよりも、むしろ、宝蔵を開けることに重点が置かれていたことが確かめられた。次に截香したのは足利義教であり、「先規」に基づいて截香した記録が残る。その後、義政が截った折には「蘭奢待」の名がすでに付けられていた。これらの記録から、同朋衆による会所の芸能が発達した義教の頃に、蘭奢待という雅名が付けられ、香木としての価値も高められたのではないかとの推定を試みた。最後に、天正二年(1574)の信長による蘭奢待截香について詳細な検討を行うことで、蘭奢待が王権を象徴する神器にも比されるものとなっていたことを明らかにした。

以上、香道の成立にとって重要な局面をとりあげて検討を行い、いくつかの新知見を得ることもできた。

香道の成立は、「名香」の生成をめぐる連歌と王権の問題と言い換えてもよい。名物の香の意である「名香」には、香木のもつ香りの良さとともに、その「名」に大きな意味が込められていた。その名の多くは和歌や物語から採られる雅名であり、香会においては、香りよりも、むしろ「名」の優れているものが良しとされた(『五月雨日記』)。香道とは、嗅覚の芸能でありながら、その内実は、香りに付けられた名をもって遊ぶ、言葉の芸能だったといっても過言ではない。

本稿では、連歌こそが香道を支える最大の原理であることを、香書や香会の記録から明らかにした。実際、香会を主導したのは連歌師であった。連歌師は、連歌という言語世界から、匂い・香りという非言語世界へと遊びの域を拡げ、一つには和漢教養すなわち「雅び」の具現の場として、また一つには、連歌そのものに備わる変転する言語宇宙の新たな実践の場として、香会を開き、香道成立への大きな基盤を築いたのである。

言葉と香りとが連歌的原理による切り結び方によって常に新たな世界を開いていくのが、香会の最大の魅力であり、以後「香道」を成立させる、大きなエネルギー源となったと考えられる。

これらの、香のもつ権威性と宗教性、文化性のすべてが華開いたのが、中世末期の文明年間から天正年間に至る百年であった。言い換えれば、香りと名の誉れを合わせもつ「名香」を遊ぶ芸能が生まれたのが文明年間の頃であり、これが最高の権威を持ったのが、信長による蘭奢待截香が行われた天正年間である、と言えよう。すなわちこの百年が香道成立のための最も重要な期間であり、より具体的には、名香録が作成された天文から永禄年間の頃(1532-69 頃)、香道は成立したと言っていいのではないだろうか。

もっとも、現在の香道につながる家元制度の成立・確立のためには、江戸中期を待たなければならない。しかし、規矩作法と伝書が整い、道具、名香録、伝来神話が揃い、「香道」という芸能の範囲をあらわす呼称が確認される上は、「香道」が成立していたと考えてもよいと思われるのである。

香道は、連歌的原理によって切り結ばれた嗅覚と言語の芸能であり、宗教性と政治性(王権)とが深くかかわりながら、中世末期、十六世紀半ばに成立した。香木が日本に伝来してから千年の時を経て、ここに、世界にも稀な香りの芸能である「香道」が成立するのである。

審査要旨 要旨を表示する

濱崎加奈子氏が提出した論文『香道の成立をめぐる諸問題―香と連歌と王権―』は15世紀末から16世紀末までの百年間を中心にして、その間における香道形成のプロセスを多角的な視点から考察した論文である。

最初の香会の記録で足利義政に仮託される『五日雨日記』が成立する文明年間(1469~87)から、織田信長によって東大寺正倉院の名香「蘭奢待」が切り取られる天正二年(1574)までのほぼ百年間が考察の対象となっている。

濱崎氏が、香道成立の研究にあたって、従来にない視点として打ち出しているポイントは二つある。一つは、香と連歌との関わりであり、もう一つは、香の政治性、具体的には日本の王権のシンボルとしての香の問題である。これによって、氏の論文は、大きく、第I部「香と連歌」、第II部「香と王権」の二つに分かれている。

第I部「香と連歌」は、四つの章「香と連歌」「香の起源神話」「香道と規矩の成立」「名香と名香録」から構成される。

第一章「香と連歌」は、先に述べた『五日雨日記』と、連歌師牡丹花肖柏が判詞を書いた『名香合』の言説分析であり、そこでは、香道の成立に連歌師が決定的な関与をなしており、連歌的な発想が香道の成立に大きく働いていることが明らかにされている。

第二章「香の起源神話」では、この論文で初めて本文が公開される『香之記』(竹幽文庫蔵)を用いながら、古代的な香りの思想の問題や、花山院・源実朝といった通常ではありえない始祖伝承をもつ香道の起源神話のあり方が分析される。

第三章「香道と規矩の成立」では、同じく『香之記』によりながら、香の作法の成立や香の「家」や「流儀」の意識の生成が述べられる。

第四章「名香と名香録」では、芸道成立の重要な契機として「名づけ」が問題とされ、茶の「名物」に先駆けて「名香」が生まれていることや名香リストの編集が語られる。

第II部「香と王権」は、第一章「『太子』の誕生」と第二章「蘭奢待と王権」によって構成される。

第一章は、名香「太子」の生成についての考察である。「蘭奢待」と並んで、というよりも江戸中期までは名香のトップとされた「太子」について、中世の太子信仰の中でこの名香が成立してきたことが明らかにされる。

第二章は、足利将軍家の「蘭奢待」截香から、織田信長の截香までを歴史資料から綿密に追いかけたもので、『天正二年截香記』が詳しく分析され、香と権力が、日本の歴史上、最も激しく結びつく瞬間がヴィヴィドに描かれている。

本論文は、香に関しての、はじめての学術的、体系的記述であると言ってよく、その宗教的背景の記述や信長による蘭奢待截香についての本格的分析など、香道研究の新生面をひらくものである。

ことに、香が中世末期の文化界で浮上してくることに関して、連歌および連歌師が決定的な役割を果たしたことが具体的に記述されたことは、本論文の最も大きな成果と言えるだろう。

連歌の中には、他なるものとの新たな結合を求める欲求が潜在しており、そのターゲットとして香が選択され、香を媒介にして詩的言語が新しい関係の布置の中に入っていくことを連歌師が楽しみながら追求していった、そのことが香会の成立に結びついたことを明らかにした功績は大きい。

しかし、それは、審査委員から反問が出されたように、実際は、連歌師宗祇が香会の中心にいたにもかかわらず、なぜ貴族の、しかも鼻のきかない三条西実隆が香道の始祖として喧伝されるようになるのか、という問題を不問に付すことにもなる。

香が香道として成立することについては、やはり、匂いによる王朝の記憶の回復という側面が重要であり、和歌を中心とする王朝文化をもっと主題として追求すべきであり、その中で連歌を位置づけるという作業が必要であろう。

また、これも審査委員から出された疑問だが、『五日雨日記』を文明年間の資料として用いていいか、ということも問題として残る。『五日雨日記』が、16世紀末、安土桃山時代の、足利義政回帰の言説群の一つである可能性も強い。

こうした課題の指摘はなされたものの、それは本論文の価値自体を損なうものではなく、むしろ、この論文が開拓した新生面をこそ評価すべきである、というのが、審査委員全員の意見である。よって、本審査委員会は、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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