学位論文要旨



No 124075
著者(漢字) 川口,恵子
著者(英字)
著者(カナ) カワグチ,ケイコ
標題(和) ジェンダーの比較映画史 : 「国家の物語」から「ディアスポラの物語」へ
標題(洋)
報告番号 124075
報告番号 甲24075
学位授与日 2008.09.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第843号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅原,克也
 東京大学 教授 ジョン,ボチャラリ
 東京大学 教授 松浦,寿輝
 東京大学 教授 吉見,俊哉
 明治学院大学 教授 斎藤,綾子
内容要旨 要旨を表示する

本論文の主たる目的は、映画における国家/国民ネイション(以下、ネイションと記す)とジェンダーの関係を、相反するベクトルから考察することである。すなわち、前半部のナショナル・シネマ論(第一部、第二部)は、複数の異なる国のナショナル・シネマ(以下、NCと略)の事例分析を通して、ネイションの危機に登場する映画が、いかにジェンダーを操作することでネイション神話を再構築するか、その過程を明らかにする方向性を持つ。逆に、後半部のインディペンデント・トランスナショナル・シネマ論(第三部、第四部)は、移動体験ゆえにトランスナショナルなアイデンティティを持ち、なおかつ映画、ネイション、ジェンダーの関係に意識的な女性映画作家が、いかに、新たな女性表象をとおして、ネイション神話を解体し、「もうひとつの場所」を映画的時空間に創造するかを探求する。

本論文の議論を通して、最終的に浮かび上がってくるのは、資本主義の産物であるがゆえに西欧先進諸国で誕生した映画が、その初期から領有してきた「第三世界の女」が、表象される側から、表象する側へと変化し、ネイションとジェンダーの関係を問題化してゆく世界映画史の地殻変動である。西洋中心的な世界映画史の内部に、こうしたダイナミックな動きを見出すことによって、本論文の企図するところは、高度資本主義と地球化グローバル化の時代に、肥大化した影響力を行使するハリウッド映画に代表される第一世界の主流映画の論理からも、地球化グローバル化の影で再び第三世界の国々に飛び火しつつあるナショナリズムの論理からも解放された、もう一つの対抗空間を作り出す想像/創造行為に参画することである。映画作品は、分析者が自らのアイデンティティをかけて作品世界の読解行為を行う時のみ、「意味とアイデンティティをめぐる、相互テクスト的、異文化間的クロスカルチュラル、かつ翻訳をめぐる闘いの場サイト」(アルジュン・アパデュライ)に変貌を遂げる。その意味で、本論文で行う映画の読解行為は、新たな「闘いの場サイト」となるだろう。

序論では、まず、先行研究に基づき、NCの概念と記述法を整理する。ネイションが神話であり、「不安定な概念」であるがゆえに、転覆可能性を孕むという前提を立脚点とし、NCが再構築したネイションが虚構にすぎないことを示すことが、NC論の究極の目標である。次に、先行研究に基づき、インディペンデント・トランスナショナル・シネマ (以下、ITCと略)の定義と現代世界における意義を示し、ジェンダーの観点を取り入れる必要性を提起する。最後に、分析対象、対象を選択した理由、分析手続きを提示する。

第一部では、1930年代フランス植民地映画を取り上げる。最初に、無声からトーキーに至る映画史を縦軸とし、ハリウッド映画との競合を横軸にすえた世界映画史の座標軸に、植民地映画を再配置し、植民地映画の系譜を辿る。次に、隣国ドイツからの資本・人の流入により、フランス映画のアイデンティティが一時的に危機に陥った1930年代の諸相に焦点をあて、植民地映画がNCとして成立する過程を辿る。その上で、1930年代フランス植民地映画の代表的作品『望郷』を、音(台詞・歌・音楽)、空間表象、ジェンダーの観点から分析し、それらの要因が相互に関連しつつ、危機に瀕した本国のナショナル・アイデンティティを再構築する過程を明らかにする。

第二部では、フランスの植民地支配下にあって、長く自国映画の製作手段を持ちえなかったベトナムのNC、革命映画を取り上げる。まず、フランス、アメリカの帝国主義的眼差しの対象としてのベトナムから記述を始め、仏領インドシナ時代の映画的植民地状態を概観し、国民国家創出(=革命)の手段として誕生したベトナム革命映画の成立過程と特質を探る。次に、ベトナム初の劇映画『分かち難き川の流れ』、ベトナム戦争の重要な転換期に製作された劇映画『トゥー・ハウ』、ベトナム戦争末期に製作された『十七度線 昼と夜』を取り上げ、空間表象、時間表象、ジェンダーの観点から分析する。映画内で国民国家創出の動きを作り出す重要な基盤となっているのは、南北分断という政治的状況をジェンダー化した空間表象である。国家の不可分性を、一組の夫妻(「北の夫」と「南の妻」)の比喩を用いて提示する力学には、ベトナム民主共和国(北ベトナム)を支える革命思想と父権主義の結びつきが窺われる。現実には未だ遂行されざる革命を未来完了形として提示する映画内で重要な機能を果たすのは、空間表象と連動した時間表象(「夜」から「昼」への移行)だが、そこにも、ジェンダーが重要な装置として関与する。ベトナム戦争当時、ベトナムでは民族解放と女性解放が同時に達成されつつあるというイメージが世界に流布したが、革命映画の分析をとおして、革命(=民族解放)という「国家の物語」のために、ジェンダーが装置として動員されたことが明らかとなった。

第三部では、仏領インドシナに生まれ育ち、十八歳で本国フランスに移動したマルグリット・デュラスの映画『インディア・ソング』をITCの事例として取り上げる。この作品の製作動機について、従来の先行研究は、デュラスにとって重要な女性像、アンヌ=マリー・ストレッテル(以下、AMSと略)を破壊するために映画を製作したというデュラスの言葉を無批判に受容してきた。しかし、本稿は、そもそもなぜ、繰り返し書くことリエクリチュールの対象であり、書く事の源泉ですらあった女性像を破壊する必要があったのか、より根源的問いの下に、ベトナム戦争終結と同時期に製作された同作品を、デュラスの政治性とアイデンティティを視野に入れつつ分析する。鍵となるのは、映像と声に分裂したAMSと女乞食という二人の女性表象である。AMSを画面外から脅かしつつ、その死に際し、哀悼と慰謝の歌声を響かせる女乞食表象については、アジアを舞台とするデュラスの文学・演劇作品との相互テクスト性を参照しつつ、分析する。浮かび上がってくるのは、反植民地主義という政治的立場と、白人植民ブルジョワ社会への潜在的な欲望の狭間で引き裂かれたデュラスの深いアンヴィヴァレンツである。最後に、画面外から響く複数の「身体を持たぬ」女性の声が、観客をいかなる時空間に導くかを探求する。

第四部では、ベトナムに生まれ育ち、十七歳でサイゴンからアメリカに脱したトリン・T・ミンハの映画作品『姓はヴェト、名はナム』をITCの事例として取り上げる。従来の先行研究が指摘しなかったことだが、本稿は、同作品を、アンダーソンの国民国家論に対する、ディアスポラの女性映画作家からの応答として位置づける所から出発する。考察手順としては、まず、トリンの政治的映画製作における声の戦略的意義を確認し、『姓はヴェト、名はナム』の政治的意義を再考する。次に、作品内で最も革新的な「ベトナム女性の声」の構築過程を、原テクストに遡って考察する。ニューカレドニア生まれのベトナム系二世の女性が、ベトナム戦争直後のベトナムに渡り、女性たちの言葉を採取し、パリで出版したフランス語の原テクスト『ベトナム、一つの民、複数の声』は、従来の英語圏の先行研究が全く参照してないものである。本稿では同原テクストを読解することで、原テクストから映画化に至るプロセスを、ディアスポラの女性たちのネットワークが声を翻訳する過程として読み解く。その上で、『姓はヴェト、名はナム』を、反植民地主義闘争の中で「国家の物語」として称揚されたベトナムの国民的変事詩『金雲翹』を、国家の側から奪取し、「ディアスポラの物語」として語り直す映画的翻案として再解釈する。最後に、トリン作品を、亡命映画作家(ジョナス・メカス、アンドレイ・タルコフスキー)の作品と比較し、その特質を探る。その上で、国家と国家の狭間に生きるトリンが、声の中に織り込んだ故国表象を「声の中の〈ホームランド〉」として読み解く。折り重ねられた声の襞の中に表象されたそれは、同じ離散者の観客が映画を見る行為によってのみ見出される、映画という現実には存在しない時空間にのみ可能な、ディアスポラの〈ホームランド〉である。

結論部では、まず、前半部のNC分析を通して見出した、帝国及び帝国主義との関わりという新たな観点からNCを再考する。そして、「帝国主義のもつれあった遺産」(E.サイード)として、フランス植民地映画、ベトナム革命映画を見る視点を提起する。次に、序論で立てた問いの答えを、各NCについて記す。また、第一部、第二部で行った各NC成立過程の記述を反省的に振り返り、NCを本質化・自然化することなく、映画における「国家/国民的なるものザ・ナショナル」を問題化するものとして、NCを捉えるアプローチを提起する。さらに、後半部のITC論を振り返り、NCに対して対抗的な価値を作り出す映画として各ITCを再評価する。NCにおけるジェンダーを利用したネイション神話再構築のあり様をつき崩す作品として、デュラスとトリンの映画を再評価し、ジェンダーが、いかに、新たな映画とネイションの関係を示すことができるかを示す。最後に、ジェンダーの観点から本論文全体を振り返り、「ジェンダーの比較映画史」と名づける根拠を示す。

審査要旨 要旨を表示する

川口恵子氏の「ジェンダーの比較映画史―「国家の物語」から「ディアスポラの物語」へ」は、映画における国家/国民(nation)とジェンダーの関係を、フランスの植民地映画、ベトナムの革命映画、植民地解放後にフランスとアメリカで制作されたベトナムをめぐる映画を例にとりつつ、これを映画史の歴史的文脈のなかで描きだした労作である。国家/国民を表象するナショナル・シネマと、ハリウッド映画に代表されるいわゆる「主流映画」に対抗しつつ、国家/国民を越えるあり方を志向するものとして、やがて「インデペンデント・トランスナショナル・シネマ」と呼ばれる映画が開拓されてゆく道筋が、国家/国民、及びジェンダー、さらにはディアスポラ等の問題と絡めて描き出される。フランス、アメリカ、そしてベトナムを軸に展開される叙述は、「比較映画史」の名に違わぬ広い視野に立つものである。

川口氏の論文は、フランス植民地映画を扱う第一部、ベトナム革命映画を扱う第二部、植民地支配下のインドシナに生まれ、小説家としても活躍したマルグリット・デュラスの映画作品『インディア・ソング』を扱う第三部、ベトナム系アメリカ人監督トリン・T・ミンハの作品『姓はヴェト、名はナム』を扱う第四部と、序論及び結論部からなる。この構成により、植民地宗主国であるフランスの国家/国民表象、フランスによる植民地支配とアメリカによる軍事的介入に喘いだベトナムにおける革命表象、宗主国の人間としてインドシナに生まれたフランス人の故郷喪失感覚の表象、ベトナム系アメリカ人による国家/国民を越えた多層的なベトナムの表象等々が、歴史的経緯により過酷な結びつきを持った植民地宗主国と植民地、独立後の旧植民地、さらには世界帝国としてのアメリカにおける映画制作を通じて、重層的に描き出されることになった。これは、この三つの地域に着目することではじめて可能になる映画記述であり、その着眼点、発想は高く評価しうる。

以下、まずは論文の構成にしたがって、内容を要約する。

序論においては、まず「ナショナル・シネマ」いう用語と概念について、多くの先行研究が参照され、国家/国民という「不安定な概念」の故に、国家/国民の表象を目指すナショナル・シネマが、必然的に抱え込む虚構が確認される。その上で、いわゆる主流映画と袂を分かつ「インデペンデント・トランスナショナル・シネマ」の意義が述べられる。

第一部においては、1930年代のフランス映画が取り上げられ、ハリウッド映画への対抗意識を秘めた、フランス独自の植民地映画の成立が語られる。そのなかで『望郷』がフランス植民地映画の代表的な作品として分析され、植民地の表象を通じて宗主国本国のナショナル・アイデンティテイが再構築される過程が明らかにされる。

第二部においては、国民国家創出の一手段として誕生したベトナム革命映画の成立と特質が、ベトナム初の劇映画『分かち難き川の流れ』、ベトナム戦争転換期に製作された『トゥー・ハウ』、ベトナム戦争末期に製作された『十七度線 昼と夜』を例に論じられる。分析を通して浮かび上がるのは、南北分断という政治状況を、北の夫と南の妻の関係としてジェンダー化しつつ表象する革命思想と父権主義の結びつきであり、民族解放が同時に女性解放をも達成するとする、国家の物語のためのジェンダーの動員である。

第三部においては、マルグリット・デュラスの『インディア・ソング』が、インデペンデント・トランスナショナル・シネマの作例として取り上げられ、映画に登場するアンヌ=マリー・ストレッテルという女性と女乞食の表象を重要な手がかりに、反植民地主義という政治的立場と、白人ブルジョワ植民者社会への潜在的な欲望との間に引き裂かれる、デュラスの心理的葛藤があぶり出される。また、画面外から聞こえる身体を持たぬ声の記述は、第四部での論述につながる重要な指摘となっている。

第四部においては、アメリカで製作されたトリン・T・ミンハの作品『姓はヴェト、名はナム』が、ベネディクト・アンダーソンの国民国家論に対する、ディアスポラの女性映画作家による応答であるとの立場から分析される。映画内に響く複数の声が、ディアスポラのベトナム女性たちの表象としていかに機能しているか、ベトナムの国民的叙事詩『金雲翹』がディアスポラの側からいかに奪還されたかが分析され、映画中に、現実には存在しない「声のなかのホームランド」が現出するさまが描き出される。

結論部においては、論文全体の論述の流れが再確認された後、国家/国民と映画との関係を考察する上での、ジェンダーの観点の重要性が力説されるのである。

以上のように要約される川口氏の論文に対し、審査委員からは、国家/国民とジェンダーの関わりを中心に、具体的な映画史の流れを、フランス、ベトナム、アメリカという複数の地域にまたがりつつ記述した構想力と、明快な主張を秘めた論述を、一様に高く評価する声があった。一方で、ナショナル・シネマの概念規定においてなお考慮すべき要素、映画が本来持つナショナリティを越えようとする特性への配慮と、映画固有の文法の記述の重要性、「声」の持つ政治性を理論化することの必要性、等々が指摘された。また、映画史の記述として見落とされた点がいくつかあること、観客の反応の記述に裏付けが乏しいこと、なども問題とされた。個々の映画作品の解釈についても、異なる解釈の可能性が示唆される場合があった。ただしこれらは、本論文が映画史に関する興味深い議論を刺激するに足る内容を持つことを裏書きするものであって、本論文の持つ意義を本質的に損なうものではない。

したがって、本審査委員会は、川口恵子氏の学位請求論文が、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものであると認定することに、全員一致で合意した。

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