学位論文要旨



No 124077
著者(漢字) 和田,健
著者(英字)
著者(カナ) ワダ,ケン
標題(和) ハロゲン化メタン気体中におけるオルソ・ポジトロニウムの消滅率
標題(洋)
報告番号 124077
報告番号 甲24077
学位授与日 2008.09.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第845号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 兵頭,俊夫
 東京大学 教授 山崎,泰規
 東京大学 教授 久我,隆弘
 東京大学 准教授 斎藤,晴雄
 東京理科大学 教授 長嶋,泰之
内容要旨 要旨を表示する

陽電子と電子が水素原子様に束縛状態を形成したポジトロニウム(Ps) のうち, スピン3 重項であるオルソポジトロニウム(o-Ps) の自己消滅率は1/142 ns(-1) で, スピン1 重項のパラポジトロニウム(p-Ps) の1/125 ps(-1) と比べて3 桁も小さい. そのため, 気体中での気体原子・分子との相互作用による消滅率の変化はo-Ps でより顕著にあらわれる.

気体中で観測されるo-Ps の消滅率λob は, 真空における3 光子自己消滅率λ3γ と, 気体原子・分子との衝突による消滅率λq の和となる. その消滅率を, ディラックによる電子-陽電子対のスピン1重項からの2 光子消滅率4πr02c および気体の数密度n で規格化したパラメータ1Z(eff) = λq/4πr02cnで整理すると便利である(r0 は古典電子半径, c は光速). このパラメータは, 元々は, Ps と原子・分子の衝突の際に, Ps 中の陽電子が, それとスピン1 重項となる電子と2 光子消滅するピックオフ消滅過程に対して導入されたものであるが, 本研究ではピックオフ消滅過程に限定せずにこれを用いる.

様々な気体原子・分子に対するo-Ps の消滅率の測定が過去50 年以上にわたって行なわれてきた. これまでに測定された1Z(eff) の値をグラフにまとめて図1(a) に示す.

NO2 とBr2 とI2 分子の値は桁違いに大きいが, これはPs が気体分子と共鳴状態になってから消滅する化学的消滅を起こすためであると考えられている. また, O2 とNO 分子は, 衝突の際にPs と分子の電子交換によるスピン転換消滅を起こす. それ以外の気体分子はピックオフ消滅が支配的である. Kr とXe に対しては, Ps はスピン軌道相互作用によるスピン転換消滅も起こすことが最近明かとなった. 原子番号の大きいXe に対して, その効果がより顕著である.

このように, 様々な気体原子・分子の1Z(eff) の測定が行なわれてきたが, 常温での蒸気圧が低い気体分子に対しては, 測定が困難であるために調べられていなかった. しかし, そのような気体分子は分子間相互作用が大きいため, 測定されたデータが図1(a) のどこに位置するか興味深い.

Ps と気体原子・分子の相互作用の研究には, 線源からの陽電子を気体中に放出してPs を生成する方法が盛んに用いられてきたが, この方法では試料気体が低圧になるほど測定が困難になる. 低圧気体中では, Ps の生成割合がへってしまい, 十分なo-Ps の寿命成分が得られにくいからである.また, 多くの気体で低圧になればなるほどPs を形成しない自由陽電子の寿命が長くなりo-Ps の寿命成分との分離が難しく, o-Ps の消滅率の解析が困難となる.

一方, Ps と気体原子・分子との相互作用の研究に, シリカ超微粒子が3 次元ネットワーク構造を構築したシリカエアロゲルをPs 生成媒質及びマイクロチャンバーとして用いる方法が, 1980 年代後半から行なわれたはじめた. これを用いれば, 気体の数密度によらず十分な量のPs を生成することができる. また, Ps にならない陽電子はシリカ微粒子中でいちはやく消滅してしまい, シリカ微粒子間の十分大きな空隙中に出て長寿命であるo-Ps 成分から分離できる.

ただし, Ps 生成にシリカエアロゲルを用いる手法では, 微粒子表面との衝突によるo-Ps の消滅はバックグラウンドになる. それが気体の数密度に依存しなければ容易に差し引くことができるが, 気体分子が微粒子表面へ吸着することでバックグラウンドの値が変化するとその見積は難しくなる.

この問題については, 表面状態は同じだがシリカ超微粒子間の空隙の平均差し渡しが異なるシリカエアロゲルを用いて補正する新たな方法により解決した. これにより, シリカエアロゲルの利点をいかし, これまで行なわれていなかった常温における飽和蒸気圧の小さな気体に対するo-Ps の消滅率を測定することが可能となった.

この新しい手法で得られた1Zeff の値は, CH4 が0.44(3), CH3F が0.46(3), CH3Br が0.70(4) であった. CH3Cl については, 2 種類のシリカエアロゲルを用いて従来の方法で測定したが, 他の試料気体の結果を参考にして, 1Zeff の値を0.58(4) と見積った. CH3I については1 種類のシリカエアロゲルでしか測定していないが, 1Zeff は2.45(9) であった. それらの値を, 本研究以前に得られた他の気体に対する値とともにプロットして図1(b) に矢印で示す.

1Z(eff) の値と永久双極子モーメントの値には直接の関係は見られなかった. Ps と気体分子間にはたらく配向, 誘起, 分散力によるポテンシャルを計算すると, 配向力はゼロで, 誘起力は分散力より桁違いに小さい. 永久双極子モーメントの値は, 配向力と誘起力にのみ関係するので, 分子間力と1Zeffの値の大きさに関連があったとしても, 永久双極子モーメントの大きさは寄与しない.

CH3I の1Z(eff) の値が図1(b) の中で著しく大きいことの理由については, この実験結果のみからはまだはっきりしたことは言えない. 電子交換によるスピン転換消滅は, 標的分子中の電子の始状態と終状態のいずれかがスピン1 重項でないときに起こるが, 熱化したPs とCH3I 分子の間では起こらない. CH3 I の基底状態の電子はスピン1 重項であり, 最低励起エネルギーは6 eV より大きいからである. また, 化学的消滅にしては, 値が小さすぎる. このことから, 最も可能性が高いのは, Xe 等にも見られているスピン軌道相互作用によるスピン転換消滅である.

図1 (a) はこれまでに測定された様々な気体の1Zeff = λq/4πr02cn の値. 粘性率から求めた幾何学的断面積(πa02 で規格化した. a0: ボーア半径) に対してプロットした. 様々な論文から引用したが, その多くはM. Charlton, Rep. Prog. Phys, 48, 737 (1985) にまとめられている. (b) は(a) の一部を縦軸をリニアに直して拡大したもの. 矢印で示したCH4, CH3F, CH3Cl, CH3Br, CH3I のデータは本研究によって測定された値.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は4章からなる。第1章は序論であり,陽電子及びポジトロニウムの基本的性質およびそれらの消滅過程の特性が解説され、本研究の背景および動機について述べられている。第2 章には実験方法の詳細が述べられている。第3 章では測定結果と工夫した新しい方法によるデータ解析の詳細が述べられている。第4 章では得られた各試料気体中でのオルソ・ポジトロニウムの消滅率に対する考察が述べられ、最後に結論がまとめられている。また、付録として、実在気体に対して成り立つPVT関係の一般論と、一つ一つのデータに対する解析の詳細図が付けられている。

電子の反粒子である陽電子と電子の束縛状態であるポジトロニウム(Ps)は、レプトンのみからなる「原子」であり、それ自体が基礎的な物理学の研究の対象であると同時に、原子・分子相互作用のユニークなプローブである。

ポジトロニウムには、その構成要素である電子と陽電子のスピン状態により、一重項状態のパラ・ポジトロニウムと三重項状態のオルソ・ポジトロニウムがある。後者の固有の寿命は約0.142μs で、前者の寿命より1000 倍長いために、QED テストとしての固有の寿命の精密測定の対象となるだけでなく、気体分子などとの相互作用の研究も、オルソ・ポジトロニウムを対象とすることが多い。

気体中のオルソ・ポジトロニウムは、気体分子との相互作用のために寿命が真空中より短くなる。機構はいくつかあり、オルソ・ポジトロニウムが分子と衝突した際に陽電子が分子中の自分と反対向きのスピンを持った電子と消滅するピックオフ消滅、電子を交換してパラ・ポジトロニウムに転換して短寿命で消滅するオルソ・パラ転換消滅、スピン軌道相互作用によるオルソ・パラ転換消滅、ポジトロニウムと分子が共鳴状態を作ってから消滅する化学クエンチングの過程などが知られている。

これらに対する理論的研究は、ごく最近、本格的に整備されはじめたばかりで、まだ、希ガスに対するピックオフ消滅に対する結果も、実験との一致を見ていない。これは、陽電子やポジトロニウムの質量が軽いため、反跳の効果を無視できず、陽電子と電子の近距離相互作用を精度よく扱って陽電子の位置での電子密度を求めることが容易でないためである。

ポジトロニウムの消滅率に対する気体の効果は、気体の密度にほぼ比例するので、気体の密度で規格化し、ディラックの陽電子電子2 光子消滅でさらに規格化した 1Zeff というパラメタで整理するのが便利である。このパラメタは、ピックオフ消滅に対しては、陽電子に対してスピン1重項をなす有効電子数という意味をもつ。他の過程に対しては、相対的な消滅率の大小を表すパラメタとしての意味しかないのだが、その場合も、このパラメタで整理されることが多い。これまで多くの気体に対してオルソ・ポジトロニウムの消滅率が測定されており、1Zeff は、1 以下から105 台までの値の広がりをもつ。

和田氏は、常温での蒸気圧が低いために、測定が難しく、これまでポジトロニウムとの相互作用が研究されていなかったハロゲン化メタンを試料とする測定を行い、新たに、1Z(eff) の値を決定した。これらの気体の蒸気圧が低いのはファン・デル・ワールス力による分子同士の相互作用が大きいためであるが、そのことがポジトロニウムとの相互作用にどう影響するのか、興味深いところである。

和田氏は先ず、それぞれの気体がもつ特質に応じて異なる操作が可能な測定チャンバーを設計・作成した。さらに、蒸気圧が低い気体ではポジトロニウムの生成量に限界があるので、シリカ・エアロゲルというシリカ超微粒子の集合体を用いて、気体の圧力によらず入射陽電子の約5 割をポジトロニウムにできる方法でポジトロニウムを生成した。ただし、気体分子がシリカ超微粒子の表面に吸着することによる表面での消滅の不確定性がデータの値に影響するおそれがある。そこで、表面処理が同じで密度の異なるシリカ・エアロゲルを用いて測定を繰り返すという方法で、吸着の影響を取りのぞく新しい方法を開発した。

その結果、新しい方法でフッ化メタン、臭化メタン、および比較のために測定したメタンの1Z(eff) の決定に成功した。塩化メタンは2 種類のエアロゲルを用いて従来の方法で1Zeff を決定したが、両者の結果は不確かさの範囲で一致した。メタンの値は文献値と一致し、フッ化メタン、塩化メタン、臭化メタンも、幾何学的衝突断面積でスケールするとこれまでに測られている他の分子と同じ傾向を示した。ヨウ化メタンについては1 種類のシリカ・エアロゲルでしか測定していないが、1Z(eff) の値が、化学クエンチングや電子交換によるスピン転換が起こらない分子としては、異常に高い値を示した。

フッ化メタン、塩化メタン、臭化メタンの結果に対して、和田氏は、分子の双極子モーメント、分極、ファン・デル・ワールス力と1Z(eff) の関係について詳細に検討した。その結果、測定した分子(メタンを除く)のように永久双極子モーメントをもつ分子(極性分子)どうしの相互作用は、持たない分子(無極性分子)どうしに比べて配向力や誘起力の存在が大きく影響している。しかしポジトロニウムは双極子モーメントを持たないため、極性分子との相互作用でも配向力はゼロであり、誘起力も小さい。このことから、相互作用は、同程度のサイズの無極性分子との相互作用と余り違わないことになることを明らかにした。

また、ヨウ化メタンに対しては、すでにキセノンとポジトロニウムの間で確認されているスピン軌道相互作用によるオルソ・パラ転換による消滅率の増大が寄与している可能性が大であると指摘している。しかし、それを確定するのは今後の課題である。またヨウ素とキセノンは周期表で隣であるにもかかわらず1Z(eff) は数倍大きくなっていることも、今後に残された興味深い問題である。

審査委員会は、本研究において、工夫された実験装置での実験がされ、オリジナリティのある方法を用いた解析と、適切な考察がなされていると判断した。特に、この研究で開発されたシリカ表面への吸着の効果を補正する方法は、今後、シリカ・エアロゲルを用いるポジトロニウム研究において、吸着の影響を補正する標準的な手法となると考えられる。

なお、本研究は、指導教員他との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験計画の立案、実験、解析を行ったもので、論文提出者である和田氏の寄与が大であると判断される。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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