No | 124078 | |
著者(漢字) | 薩,日娜 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | サ,リナ | |
標題(和) | 清末中国と明治期の日本における西洋数学の受容 : 両国間の文化と教育における交流を中心に | |
標題(洋) | ||
報告番号 | 124078 | |
報告番号 | 甲24078 | |
学位授与日 | 2008.09.25 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(学術) | |
学位記番号 | 博総合第846号 | |
研究科 | 総合文化研究科 | |
専攻 | 広域科学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 本論文は、清末中国と明治期の日本において西洋数学が受容された過程を、両国の教育制度、数学の伝統、歴史背景から総合的に考察するとともに、両国の文化と教育における交流に目を向けながら、西洋文化の咀嚼という共通の課題に直面した両国が、それぞれ独自の方法で見いだそうとした答えの一端を明らかにしようとするものである。 19世紀半ばから20世紀初頭までの60年間の、中国と日本における西洋数学の受容を比較すると、顕著な違いが発見できる。西洋数学の受容にあたって、当初、時期的に先行していたのは中国であったが、その総体的普及は日本に大きく遅れた。本論文は、先行研究では見逃されていた資料を分析し、更に一部未公刊の史料を用いて、中国と日本の近代における西洋数学の受容の様相を比較することにより、その差違が生じた諸要因を探究し、近代の中日数学文化交流の歴史に新たな理解をもたらすことをめざした。 論文全体は4部10章から構成される。 第1部では、清末の中国における西洋数学の受容について概観し、洋務運動期の数学教育の状況を考察した。第1部は第1章、第2章から構成される。 第1章では、漢訳西洋数学書が成立した背景を考察し、主に、「墨海書館」や「江南製造局」の「訳書館」から刊行された漢訳西洋数学書に注目し、研究の焦点をワイリー、李善蘭、フライヤー、華衡芳の四人の仕事にあてた。 第2章では、洋務運動期の中国における数学の教育状況を紹介した。主に、「科挙」のための伝統教育の一部としての数学の教育、宣教師により設立された「教会学校」での数学の教育、洋務派の官僚により設立された新式学堂での数学の教育の状況を考察した。 第2部では、幕末・明治維新期の日本における西洋数学の受容を概観した。第2部は第3章、第4章から構成される。 第3章では、長崎海軍伝習所、開成所、横浜仏語伝習所と横須賀造船所、静岡学問所と沼津兵学校などの施設で行われた西洋数学の教育を、幕末から明治初期に西洋数学を受け入れる舞台となった機関の例として取り上げた。これらの事例を通じて、幕末・明治初期の日本では、西洋の軍事技術を学ぶため、あるいは西洋語の翻訳をする人材を育てるために設立された軍事教育施設や語学所において西洋数学の教育が行われたことを論じ、また個々の機関を通じて西洋の数学が日本に浸透した具体的な状況を分析した。 第4章では、漢訳西洋数学書が日本に伝わった経緯を分析し、漢訳西洋数学書が明治初期の日本でどのように利用され、西洋数学を受容する際にどんな役割を果たしたのかについて検討した。特に、先行研究で議論されてこなかった神保長致による『代数術』の訓点版に注目し、その内容を分析することによって、漢訳西洋数学を通して、西洋のどのような数学が清末中国や明治初期の日本に伝わったのかについて論じた。 第3部では、学制公布以降の日本における西洋数学の受容の過程を考察した。特に明治初期の教育制度の変遷と「東京数学会社」の創設、発展、転換の過程を考察し、さらに明治期の西洋化された数学界の状況を概観した。第3部は第5章、第6章、第7章から構成される。 第5章では、明治5(1872)年8月2日、当時の日本の行政府である太政官から公布され、近代日本の教育制度の出発点となった「学制」と、その前後の明治初期の教育改革の変遷を考察した。この章においては、西洋数学を基本とし、そこに珠算のような実用性を備えた伝統も加えて、日本の初等教育が作られていった過程や、「学制」が公布された後、小学校の教育に使われる教科書が数多く現れた一方で、中学校の教育では外国から輸入されたものを直接使っていた例が多かった実情などを具体的に指摘した。 第6章では、明治日本における数学教育の普及のために設立された東京数学会社について、その創設、発展、転換を総括的に論じた。明治10(1877)年の東京数学会社の創設は、幕末・明治時代に活躍した多くの数学者を会員として吸収した新たな数学の組織の誕生を意味しており、日本数学史上、画期的な出来事であった。この章で、東京数学会社の東京数学物理学会への転換は、菊池大麓を中心した大学関係の人々の努力によるものであり、その後日本においては、菊池のような大学関係者と長沢亀之助のような民間で活躍していた数学者の努力によって西洋数学の普及が果たされ、数学の専門的な研究も始まったことを考察し、「訳語会」の設立を中心に西洋数学の受容における数学用語の整備についても議論した。また、明治10年以降の日本人学者の漢訳西洋数学書に関する態度の変遷を具体的な例を通じて分析し、その変化の特徴について議論した。 第7章では、明治10年以降の日本における教育制度による西洋数学教育の普及と、西洋から直接翻訳された大量の数学の教科書の内容を概観した。そして、明治後期に現われた西洋数学の専門的な研究論文を紹介し、さらに、外国への留学生派遣事業や国際会議への参加により、西洋の数学者と直接的な交流を行い、日本の数学界が、西洋の数学界のネットワークに仲間入りすることが実現した時期の概要を紹介した。 第4部では、主に日本をモデルとした清末の教育改革の経緯と時代背景、および、清末の留学生が日本で受けた西洋数学の教育の実態を考察し、清末中国における日本を媒介とした西洋数学の受容を研究した。第4部は第8章、第9章、第10章から構成される。 第8章では、日本をモデルとして清末の教育改革が行われたという時代背景を視野に入れながら、留学生派遣政策や知識人の日本への視察について議論し、「日本型」教育制度の確立の経緯を究明しようとした。1894-95年の日清戦争で日本に敗れたことで、西洋の近代的な軍事・工業技術を導入し、新式の学堂を通じて富国強兵を目指そうとした洋務派の近代化政策は失敗に終わった。それに代わって、単なる機械技術の導入にとどまらず、政治、経済、社会、文化など、国家制度を抜本的に改革することが不可欠だとする変法自強運動が、科挙を経て官吏となることを目指していた知識人の間で盛んに展開されることになり、特に強く主張されたのは日本をモデルにした教育の近代化であった。この変法自強運動は保守派によるクー・デターにより挫折したが、その後、保守派が採った政策は、変法自強運動の提案を引き継ぐものだった。ここでは、開明派の官僚の代表的な人物である張之洞の教育改革に関する言行と著述などを考察し、清末の新教育制度と同時代の日本の教育制度との比較研究も行った。 第9章で、清末に日本へ派遣された留学生が受けた教育について、成城学校、東京大同学校(清華学校)、第一高等学校の三つの学校を例にとり、これらの学校で行われた留学生に対する数学教育の状況を論じて、留学生派遣事業と日本人教師による教育との関わりについても紹介した。清末の留学生が日本に来た後に受けた基礎的な教育は、日本語、英語、数学の三つの科目であった。筆者は研究の焦点を留学生の数学教育に当て、彼らが残したノートや入学試験のために書いた入学願書、履歴書などの資料を調査した。それによって当時の授業中に使われた数学教科書の具体的な内容を分析し、留学生が日本で受けた算術、代数学、幾何学、三角法の教育の具体的な状況を考察した。 第10章では、留学生による数学教科書の翻訳活動や帰国後の留学生たちの活動を考察し、清末の日本への留学生派遣事業により、日本に定着した西洋数学の知識が20世紀初頭の中国に輸入され、中国における数学教育の近代化を大いに推進させ、数学教育の変革および数学知識の伝播を促がしたことを明らかにしようとした。 以上の論点から、19世紀後半の中国と日本における西洋数学の受容の様相に差違が生じた要因を指摘すれば、以下の通りとなる。 まず、両国における教育制度の違いが挙げられる。 19世紀の60年代から90年代までの中国では、知識人たちは科挙の試験を通して出世する教育制度が継続されており、1905年に科挙制度を廃止する以前には、国民の中で西洋の数学や科学の知識を普及することは不可能であった。 同時期の日本では、国民教育を重視する政策がとられ、そこでは西洋数学の教育の普及が保障されており、さらに大学での数学科の設置や、国際数学界への進出などにより、西洋数学の普及から研究への段階にまで進むようになった。 次に、両国における西洋の数学の普及に差が現れた原因として、清末中国における伝統思想が西洋数学の受容に与えた影響が指摘できる。 19世紀の半ばから20世紀の初頭までの期間、多くの保守的な官僚や一般の知識人は、西洋の科学技術や数学の受容に猛烈に反対した。清末の開明派の官僚たちでさえ、「西学の起源は中国にある、機器の起源は中国にある」という説、即ち「西学中源」説のもとに「西学」を受容しようとした。 日本における西洋数学の受容を清末の中国より速めた原因の三つ目としては、明治期の日本には数学教育の普及を目的に、数学の研究を促した東京数学会社のような多くの会員を集めた数学者の組織的集団が創設されたが、清末の中国では、全国的な規模の組織的な学会は現れなかったことが指摘できる。 以上、本論文の各章に記述する内容と結論の概略である。 | |
審査要旨 | 本論文は、1850年代から1910年代までの期間(日本では幕末から明治期全般、中国では清朝末期に相当する)、日本と中国において西洋の数学がどのように受容されたかを、教科書・解説書などの出版、教育体制・教育機関の設立や改革、研究団体等の動向に注目することで明らかにしようとした研究の成果である。同時期の日中両国における状況が検討されているのは、両国における西洋数学の受容の特質の比較が意図されているためでもあるが、本論文の特長は、単なる比較からさらに踏み込んで、同時期の日中間に存在した文化・教育における交流が、西洋数学の受容という局面においてどのような形態をとり、それが両国における西洋数学の教育・研究の展開にどのような影響を与えたかを解明している点にある。本論文が述べるところによれば、幕末から明治初期の日本における西洋数学の受容・普及にあたっては、それに先立つ時期から始まった清国における西洋数学書の漢訳本が大きな影響を与え、日清戦争以降の清国における西洋数学の受容・普及においては、日本に倣った教育体制の清国における確立と、日本に留学した中国人学生の活動が本質的な役割を果した。本論文が主として扱うのは、西洋数学の受容という、科学史・文化史の視点から言えばやや限定された一局面ではあるが、その視野には、同時期に存在した翻訳書・教育体制・留学等を通した日中間の文化交流の全般が収められている。本論文は、このような両国間の交流が、19世紀半ばから北東アジアに流入した西洋の文物全般の受容と普及に大きな影響を与えたことを示唆する野心的な著作であると評価できる。 本論文が取り扱った個別的な内容に関する評価は以下の通りである。 清末の中国における西洋数学書の漢訳本に関しては、中国に存在する資料が丹念に調査され、また原書を明らかにための努力も可能な限り払われている。従来原書とされていた文献と漢訳本を比較することにより、さらに新たな原書の存在を突き止めることにも成功している。清末の教育制度の転換についての分析は、先行研究に依存するところが大きいが、これが模範とした明治期の日本の教育制度について学位申請者が留学中に得た知識が生かされた記述がなされている。 幕末から明治期の日本における西洋数学の受容に関する記述は、主として日本で行われた先行研究に依存するところが大きいが、東京数学会社の活動についての分析には、修士課程以来、学位申請者が進めてきた研究の成果をみてとることができる。特に、西洋数学によって訓練を受けた人々と和算の伝統を受け継ぐ人々、および西洋数学・和算の両者に精通した人々の間に存在した、西洋数学と和算の位置や役割についての理解の相違に関しては、詳細な検討が行われている。 日清戦争後に盛んになる中国人学生の日本への留学に関しては、留学生受入の拠点となった第一高等学校の資料を用いた分析がなされており、この点は従来の研究にまったくない特徴である。学位申請者は、留学生の履歴書等を用いて、中国における数学教育、高等学校入学以前の日本における留学生向けの教育、高等学校における留学生向け教育、高等学校卒業後の進路、留学生の帰国後の活動等を明らかにした。日本留学経験者の中には、中国における西洋型の学問の受容・普及に尽力した人物が少なくなく、数学においてもこの事実が指摘できることが明確になった。 本論文では十分に扱われず、今後学位申請者のさらなる研究の進展に期待が寄せられる課題としては、以下のようなものがある。 日本に関しては、幕末における数学教育についての記述が、主として先行研究に依存したものであるために、深い分析を伴ったものとはいえないこと、明治期全般における教育理念・教育体制の変遷についての記述が十分とはいえないこと、教育から研究への展開について論じつくされてはいないことなどが指摘される。 中国に関しては、日本において存在した和算と西洋数学の間の地位や影響力をめぐる角逐と同様の過程が、中国においても存在したかどうかの検討が十分でない点などが指摘できる。また、中国における西洋型の学会の確立や西洋型学問の研究にまでいたる受容は、本論文が扱う時期より後になって起こるため、日中の比較という点からいえば読者にはやや不満が残る記述となっている。 全般的に言えば、日中間の比較史としては、先行研究が十分に進んでいない点もあって満足とはいえない記述がなされている箇所があるものの、日中間の文化交流史という観点から見れば、新しい資料を用いた詳細な分析がなされている点が高く評価できる。 したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。 | |
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